大道は無為にして自然に任せる。
そこで、どうして特別の秘伝など、その必要があろうか。
もし、各部分に分けて説明すれば、何千何万となるが、一たび執着すれば、その妙用を失うのである。
道は先天に本づき、修は自然に属する。
自然の修を以って先天の道を悟るのである。
先天の炁に順(した)がって輪(めぐ)り、以って後天の気に合すれば、気は貫通して滞ることは無いのである。
それなのに、どうして特別の妙法などを用いる必要があろうか。
どうして、特殊の秘伝など用いる必要があろうか。
たとえ、法があると思えば、即ちその法に迷わされ、また秘伝があると思えば、その秘伝に昧(くら)まされるのである。
どうして、そうなるかと言えば、炁霊貫通の原竅の在るところには、そこに昧(くら)ます惑わすところのものが存在するのである。
何を以って昧まし惑わすかと言えば、そこに執着するところがあるからである。
一たび執着するところがあれば、即ち心が滞(とどこお)り、心が滞れば、即ち気が滞り、気がって滞れば、即ち霊が滞り、霊が滞れば、先天の炁が滞るのである。
もし、先天の炁と後天の気が合化出来なければ、気の働き、心の働き、霊の働きも一理一説に偏り、これに執われることになるのである。
一つの道に趨(おもむ)けば、一つの道に執われることになり、一つの見解を持てば、その一つの見解に執われるだけであり、また一つの正しいことと言えども、これに執われれば、みな心が昧まされてしまうのである。
それは、どうしてだろう。
先天の無為自然の法則が、後天においては、これが、否定され参与する事が出来ないからである。
先天の法則が少しでも後天において参与する事が出来れば、それは金剛経にある「住すること無くして心を生じる」(後天の全て一切のものに執われることがないようになってこそ、先天の心が自然に生じてくる)ことが出来ないのである。
先に述べた一理一説とは、本来の一理一説だけではなく、一つの途(みち)とは、即ち本来の途ではなく、一つの見識とは、即ち本来の見識ではなく、一つの正しい事とは、本来の正しい事ではないのである。
そこで、先天無為の妙用は、後天有為の世界において、断じて、この先天無為の微妙なところを体得する、ことはできないのである。
風(気)が東から吹いて来るのは、春がこれを主(つかさど)っているのである。
そこで誰がこの東の風をふかせ、また誰がこれを主っているのであろうか。
自然がこれを吹かせ、自然がこれを主っているのである。
風が南から来るのは、夏がこれを主っている。
そこで誰がこれを吹かせ、だれが主っているか、それは自然が、全てを主っているのである。
風が西より来るのは、秋が主となり、風が北より来るのは、冬が主となり、これら全て自然がこれを主っているのである。
それで、そこには後天的に、どこから吹いて来るのか、何が主となっているのかと疑問を抱くが、そこには特別な秘伝などなく、全ては先天無為の自然の賜物である。
この自然は春夏秋冬の働きによって現れてくるのであり、鳥は春に鳴き、雷は夏に鳴り、虫は秋に鳴き、風は冬に鳴るのである。
それでは、一体誰がそうさせているのであろうか。
そうさせるところには、その方法も無く、その特殊の秘伝も無いのである。
そのしかる所以は、先天無為自然の道がそうさせるのであり、その間に後天において、些かでも有為の意志を加えたり、有為の造作を加えたりする事は出来ないのである。