太乙北極真経に、「渾厚の気少なく、真誠の学衰う、道滅びたるかな、道未だ亡(ほろ)びざるなり、人、自ら道を亡ぼすなり。」(丑の集第三節)とある。
何を渾厚の気と言うのであろうか。
それは、妄心を頼みとせず、道心を以って天命に順応することである。
何を真誠の学と言うのであろうか、大学、中庸(大学中庸共に儒教の四書五経にある、2つ。)の学問がこれである。
道が亡びるのは、渾厚の気が少ないからであって、どうして渾厚の気が少なくなるのであろうか。
それは、人が真誠の学を学ばず、これを失ってしまったからである。
そこで、妄心を以って巧みに立ち回り、要領よく人に接し、世間を渡ることをもって得意とし、新奇を競って争奪し、日に日に道より遠ざかり、自ら道を亡ぼしているのである。
人心が道を亡ぼすことによって、どうして道が亡びるのであろうか。
たとえ、一時的に亡びたとしても、暫時おおわれるだけで、道そのものは、亡びないのである。
昔から治乱興亡を繰り返しているが、渾厚の気が盛んになれば、世の中は治まり、真誠の学が衰えれば、世の中は乱れる。
その間には因果の関係が、あるようだ。
かつて、周の王朝が盛んで教化が行われていたが、それも、その末期となると、朝廷は徳を失って人を心服させる事も出来ず、教化も無形の内に変質してしまい、教化を司っている者も、聖賢の本を読みはするが、それは口先だけのものとなり、日常の人倫の道に於いても、皆聖賢の道を行わず、多くの者は物欲を追求し、争奪する様になって、列国の混乱を招くようになったのである。
そこで、秦の始皇帝は、武力を以って列国を平定し、天下を統一し、厳しい刑法を用いて、混乱していた人心を鎮圧したのである。
これは因果の総決算である。
修道について、これを言えば、先天的に厚く恵まれている者がおり、又、後天の修養によってこれを得る者がおる。
それは一体何によって、これを得られるのであろうか。
それは、真誠の学によって、これを得られるのである。
真誠の学とは、修道する人が後天の物欲を化して、先天に返るところの階段である。
一般の人について言えば、渾厚の気と言うものは、多くの福が厚いのであり、それは、気が厚く充実し、霊が堅く凝り、神が固く結ばれているからであって、神霊が特別に加護しているからでは、ないのである。
全ては自ら、これを得て、自らこれを成し、自らこれを修め、自らこれを養い、自らこれを悟ることである。
「地獄万劫不生の苦海、皆吾が先天の固有なり。」
この一節について、多くない人で、この道理を明らかに知っている者は非常に少ない。
思うに、先天とは、本来虚の至極、清の至極、例の至極、純の至極の一胞である。
それが、どうして、万劫不生の苦海は、みな先天固有なのであろうか。
人の生成化育と言うものは、先天の一胞を離れる事は出来ない。
地獄の現象は皆、人心によって造り出されたものであり、例えば、刀山剣獄を金獄と言い、火山獄を火獄と言い、黒水獄を水獄と言い、これらは、皆人が生前に造った劫と罪によって、死後、心霊が造り出したもので、善人はたとえ、その場所を通り過ぎても少しも見ることは出来ないのである。
仏の経典では、極めて詳細に解いて、この道理を明らかにしている。
私(尚真人)の見るところでは、世俗の万劫不全の苦海は死後において、心霊を作り出しただけでなく、すでに生前に於いて色々な現象がある。
世間の人は世俗を苦海のようであると思っている。
それは富貴貧賤、士農工商を問わず、みな人に言えない苦悩を抱えており、しかも、それは人生に於いて免れることの出来ない事であると思っているからである。
その実、地獄万劫の苦海は、また人の世や、人の心の中にあり、その苦海にも、深浅の状態や、その程度もそれぞれ同じではないが、その万劫の苦海を超越することが出来ないと言う点では同じようである。
人が自ら道を亡ぼすので、自ら苦海に沈むことになるのである。