神が内に凝らなければ、外に放たれる。(鬼雷述べる。内在する神は、人の心や徳、言行に呼応し、魂が掠(かす)れたり、大きくなったりする。もし悪業を行えば内鳴る神は、ナリヒソメる。善業を行えば、内鳴る神は、広く響く。人間は内在神とは、泰然としていると思っているかも、知れないが、生きて来た証しが御魂であり、内在神であり、良く凝り集まり固い純度の魂もあり、欲望と悪行により、神が散り、輝きが無くなり、魄と同化し、内在神を失う者もいるのであります。神が外に放たれるとは、その根源に帰還しているのであり、それにより、内在神は薄くなるのです。人は神の生宮であり、神主が愚であれば、神は御元に帰るのであります。)
気を内に養わなければ、外に散ずる。
神が放たれて、気が散ずれば、元気が必ず衰退し、精・気・神の三宝が損なわれる。
これらが損なわれれば、一身の砦は必ず破れる。
この身体の砦が一たび、破られれば、外からの病が侵して来るのを防ぐことは出来ず、内には多くの病の萌(きざ)しを根絶やしにすることも出来なくなり、六尺の体は常に危険な状態に陥るのである。
たとえ、智慧があっても、これを防ぐことは、出来なくなるのである。
これによっても、精・気・神の三宝を養い守るところの重要性が分かるのである。
これには、一体どうしたら良いのであろうか。
何を以って養い、これを守るのであろうか。
その唯一の方法は、静坐にある。
ただ、静にも内と外と区別があり、更に、真と仮の区別もある。
内と外がみな静にして、はじめて能(よ)く、これを真静という。
能く真静にして、然るのちに初めて、能く養い、守る事が、出来るのである。
各人は坐のはじめに当たって、もとより全力を尽くして、雑念を取り除いて、静を求めるだけであるが、しかし、終始能く神が外に放たれる事なく、心が動揺しないのは、百回の坐の中で何回あるだろうか。
また、その何回かの、坐の中で、どれだけの時間が、よく坐れたのであろうか。
そこで静(心中に妄念を生じない)を求める事の難しさと養い守るところの容易でない事が分かるのである。
世間の耳目に触れる、様々な事は、人の心を動かし、また、その雑念によって心が乱されるのである。
そこで動かされず、乱されないようにするには、先ず先に夢幻のような、はかない世俗を抜け出す事であるということを認識すべきである。
これをよく看破する者にして、はじめてよく解脱する事が出来る。
よく解脱する者にして、全ての物事に対し、はじめて、その影響を受けず、みな自然に任せれば、神が放たれることを禁じようとしなくても、自ら放たれる事も無く、心が動く事を止めようとしなくても、自ずから動く事無く、このように放たれる事無く、動く事が無ければ、静の一字は、如意となり、全ては自然に任せるのである。
そこで、坐しても静に入る事が出来ない者は、ここにおいて、努めて見分け、詳細にこれを悟るようにすれば、ほどなく身心を徒(いたずら)に労する事無く、光陰を無駄に費やす事無くして、自分自身に対しても実益があるのである。