玄徳道

道を語るブログです。

済仏訓、視聴と修道。

2021-09-05 11:17:00 | 道院
吾が道では、修めることを以て主となし、修める上で求めることは、静坐にある。

静坐は、視聴においても重大な関係がある。

故に収視返聴(視を収め聴を返す)を以て習坐の本となすのである。

おもうに、視ると言うことは精を用いる。

聴くと言うことは神を用いるのである。

吾人の視聴と言うのは、長年に渡って、みな後天の物質上において反復し、繰り返されてきた。

この後天の物質の色と相互の声は、真の色、真の声では無いのである。

そこで、仮の声、仮の色を以て好きだの嫌いだのと言い、好きであれば、これに執着して厭(あ)くことを知らず、嫌いと言っても正道を得ておらず、精を保つ事が出来ず、神を凝らす事が出来なくなる。

故に強いて視るものは、不明(明らかでなくなり)、聴き過ぎるものは、不聡(聡くなくなる)となる。

このように、不明不聡となると、多くの人は腎が虚弱になったと思い、視聴の上において、めったに功夫(くふう)を用いようとしないのである。

そこで、非礼視ること勿(なか)れ、非礼聴くこと勿れと言う聖賢の教えを迂遠なものと見なし、天から与えられた我が目をどうして視ないでいられようか、天から与えられた耳をどうして聞かないでいられようかと、想っているが、それは七情六欲、貪り怒り、愚痴妄念、愛欲など精と神を損(そこな)うところの害毒が、多くは視聴を媒介としていると言うことを悟らないのである。

たとえば神が動くと散り、精が竭(つ)きると涸(か)れることになり、これらは、全て視聴と関係があるのである。

試みに考えてみよう、吾人の後天における精と神には、それぞれ限界があるが、吾人の貪欲と言うものには、限度なく、止まるところを知らないのである。

このようにして欲望を追究して日々、月々、精と神を害(そこな)い、時々(つね)にこれらを消耗すれば、どうして永久に竭(つ)きる事が無いと言う事があり得るであろうか、それはありえないので、後天的に修めなければ自ら滅亡するのである。

いわゆる滅亡とは、炁霊神気がみな滅亡を告げるのである。


外において視るとは物質の上にあり、内において視るとは修養の上にある。

外において聴くとは神を損傷し、その聴を返して内に聴くのは、督任(督脈と任脈)に通じるのである。(身体、全身に流れる気を感じる。)

それは坐の時だけでなく、坐らない時もこのようにするのである。

何を収視返聴の収と言い、返と言うのであろうか。

それは、後天の全て一切のものに惑わされたり、動かされたり、することなく、後天の是非善悪の為に神が動かされたりすることが無いと言う事である。

たとえば、孔子さんは、天が認めた聖人である。

それでも怠けず、おこたらず、六十にして耳に順(した)がうと言う境地に到達したのである。

これは、是非善悪順逆の跡相が無くなったと言う事である。

仏でも神通力の中に天耳通と言うものがある。

荘子の物語の中にも耳目を以て視聴せず(耳で視て目で聴く)とある。

又、老子も、これを視れども見えずこれを夷(平ら)となす、これを聴けども聞かずこれを希(まれ)となすと。

これらには、皆後天の視聴の相が無く、均しく無声の声(声の無い声)、無色の色(色の無い色)と相感通するものがあるのである。

吾人の修道は後天の気体物質の身を練って先天に返ることが、その目標となるのである。


そこで後天の物質によって害されないようにするのは、全てが後天の物質と接触するところの視聴に関わってくるので、これによって修練し、省察するのである。

たとえば、某の視、某の聴はどうであろうか、一事一物に接触したときの視聴はどうであったか。

一日一時の視聴はどうであったか、静坐の時の収視返聴はどうであったか、不坐(坐っていないとき)の際の視聴はどうであったか。

家庭において、仕事と友人との交際における視聴はどうであったか、また、父母に対し、また道慈を拡(ひろ)め、社会福祉、及び日常一切の人倫の道の間における言行の際の視聴はどうであったか。

又自分の好き嫌いなものや、自分を誉め謗るもの、正道を破壊して、陰険奸悪を見分ける際の視聴はどうであっただろうか、吾の事に処し人を化し、己を化し、災劫を弭化する自覚や心構えにおける視聴はどうであったであろうか。

精と神を傷(そこ)なう者は、気、これが障りとなり、精と神が分散する者は、霊がこれが為に眛(くら)まされ、霊が眛まし、おおわれる者は先天の炁はこれが為に窒(ふさ)がってしまう。

このような一人から一胞に及び、その関係するところは一個人の修養だけに止まらないのである。

はたして、能(よ)く平易なところより、深遠なところに入っていくように、功夫(くふう)をしていけば、後天の物質を受け止める視聴の働きは、あたかも明月が清らかな池を照らし、明鏡が麗しい花を映すように、花は自ら花であり、鏡は自ら鏡であり、鏡は花を映して見てはいるが、それによって鏡は心を動かす事が無い。

正に花を移しておらず、見ていないのである。

また、鏡が無心にして、心を動かすことが無いとは、鏡に映った花や水に映った月のように、その物があらわれない前は、映さず、その物が去った後は跡を留めず、ただ、このように観て、このように練り、このように坐り、このように化すのである。

吾の説明は簡単なので、新修の指導や深遠な主旨については、太乙北極真経 辰集の声色空輪篇に参ずれば善いのである。

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