玄徳道

道を語るブログです。

白衣観音 蓮台聖訓、人生道。

2021-09-02 02:25:00 | 道院
およそ、人として生まれた以上は、まず心身を修めるべきで、もし修めなければ、ただイタズラに無駄に生きているのに等しく、やがては草木と共に朽ち果ててしまうのでございます。

この世に万物の霊長として、生まれて来たのに、道を修めなければ、人としての霊を損ない、天命に負(そむ)くことになります。

心身を修めることは、どこから始めるかと言えば、坐から始めるべきであります。

坐が堅まり、性が定まり、命が固まって、自ずから最高の境地に達するのです。

ただし修坐は、今日、只今との時期を逸することなく、坐(すわ)らなければ、なりません。

それを日、一日と延ばして、自分は未だ若く先が長いので、修坐するにしても、いくらでも時間の余裕があるので、慌てて急ぐ必要は無いと思っていますが、これは大きな誤りでございます。

人生はわずか、百年にしか過ぎず、たちまちの間に光陰は過ぎ去ってしまうのです。

もし、時期を逸することなく、修坐しなければ、恐らく想像出来ないような悲惨な境遇に遭遇する事になるでしょう。

近世の人は新しい知識にかぶれてしまい、人生は、ただ、物質だけが貴重であって、その他一切の物は、全て虚偽であると思っています。

そこで無常の風に誘われて、生命が一たび終われば、それはあたかも、燈火が消えて気が散じるように、少しも自分の所有とするところはなく、またこれを留めて置くことは、出来ないのです。

謂わゆる、霊魂が死後天国に昇り、また地獄に堕ちると言っても、信じないのであり、これは、誠に大きな誤りでございます。

これらの仏祖の言葉は、みな、真実であって、虚偽が無いのです。

また、三世(前世、今生、来世)の報い、三生(前世、今世、来世に生まれかわる)の因などは、明白であり、確かめ実証する事ができるのです。

かの仏祖の言を否定して、妄りにこのような発言をする者は、皆、壮年の時に於いて、自分の智慧は、ずば抜けて優れており、天下の人は皆、自分に及ばないので、自分の知識の範囲以外のことは、皆、空虚にして迷信であると思っています。

そこで、これを言葉に発し、文章に表して、その神仏を、否定するような論調を大いに広めているのでございます。

二十一世紀の現在、科学文明が盛んな時に於いて、もし、さらに神仏の教えを以て、後進の者を導けば、余りにも旧態依然として、見識がなさ過ぎるのではなかろうかと言う人もいますが、この発言は、突然聞くと、現在の風潮に合し、筋が通っているようでありますが、これを詳細に探求してみれば、大いに問題があります。

それは正しき心身性命の学や、人心の欲望を節制する教えに、相反することが多いのであり、そうなれば人欲が横行して、天下は乱れるのでございます。

この邪説が横行すれば、人類は人欲をほしいままにして、少しもはばかることがなく、大きな禍(わざわい)は、日に日に激しくなり、地震や火山、水害、戦乱などの災害は、世界中に蔓延してくるので、これらの災害はみな、神仏を信ぜず、物質に偏重した論調が皆その発端をつくり出したのです。

上智の人(最高の賢人)には、本性の道理を語り、中智(普通の人)には因果を語り、下愚(愚かな人)の人には、悪の報いを説くのであり、これは各教の聖人や哲人が、教えを施して世を救う上に於いて、やむを得ない苦渋から出たものであって、決してこれらは荒唐無稽の話を仮定して、愚かな者を惑わすものではないのでございます。

ましてや、報いの最も顕著に現れているものは、最近数年間にわたっての世相にこしたものはないのであります。

周囲を顧みて見れば、何処として、苦境でないところはなく、何処としての報いの現れない所はないのです。

さもなければ、どうしてこのように人力では、これを挽回することも、想像することも出来ないほど、激しく莫大なる大災劫が、自前に迫ってくることがありえましょうか。

そこで早く目覚めて改心することでございます。

火焔の烈(はげ)しさは、すぐ間近に迫っています。

そこで激しく己自身を反省して、時々刻々に怠ることがないように、するのでございます。

さもなければ、おそらく大災劫から、免れることは、難しいでしょう。

そこで厳しく慎むようにするのであり、老尼(蓮台聖)のこの言を、陳腐な、とりとめのない言葉と見なしてはなりません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする