玄徳道

道を語るブログです。

大道を伝える乩壇

2021-09-13 05:21:00 | 道院
至聖先天老祖が乩壇を用いて、大道を伝えられた目的は、人心を改めて、大災劫を救済するにある。

壇訓の千言万語もその重点はここにあるのである。

しかし、あるいは、こんな疑問を持つ人があるかも知れない。

老祖が大災劫を救済するのに、どうして、現在聖人を降誕させて、人心を改革しないのか。

聖人が出れば大道は伝えられ、世界は救済されるので、必ずしも壇を用いて大道を伝える必要は無いのではないかと。

だが、古来の歴史をひも解けば、知る事が出来るが、聖人は果たして在世当時、広く道を行い得たであろうか。

キリストはかつて、世を救う為に、伝導に力を尽くしたが、数年を経ずに罪なくして、十字架にかけられ、その、導いた弟子は僅か、十二人であった。

孔子も道を伝えて、世を救う事に努力したが、道の行われぬを嘆き、晩年は、畢生の力を尽くして三千人の弟子達を教えたが、道を成すものは、また僅か七十余人であった。

これを見ても明らかであるが、たとえ、この世に聖人が出現しても、その時代の人は必ず、その方が聖人であることを信ぜず、また世界を救済する為に努力したとしても、偉大なる効果を収める事を期待し得ない。

この、事実は東瀛(日本)に於いても同じで、これから考えても人心を改革して、大災劫を救済するには、壇を用いて大道を伝えるほかに良い方法は無い。

およそ、神の啓示を拝受する方法は、古来より、いろいろ各国に伝えられているが、中国では神人相接の神儀として、沙木(木筆と沙盤の意)を用い、その神聖な儀を行うを乩壇と称している。

神示によると、乩壇は約三千年前に周公旦により、創始され、周易の爻辞及び象辞はみな、周公旦が乩示によって得たものとされている。

乩の字は占と乙でつくられ、乙は一に通じ即ち、最初第一の占と云う意味である。

降って秦時代以後の諸子の学もみな、神仙の乩示で授けられたものが多いと示されている。

さらに乩は機であって、神と人との感応、神灵(しんれい)と人心との結合の表示でもある。

人が能(よ)く、その心を正して、壇に侍せば、感応の妙、玄奥の機は沙木によって宣示される。

程子の所謂、造化の跡、とはこの理を云ったもので、心灵(しんれい)現象の一種、自動書記の現象を現すのである。

普通、これを扶乩(フーチ)又は扶鸞(フルウァン)と称している。

漢字の靈という字は扶乩の象形文字と考えられる。

雨冠は天を表し、天は天帝を意味する。

その下の口三つは米、穀物の外皮をとったもの、と水と穀物と三種の神饌物を盛る器で、丁は木筆の形、その下の二人は人は目筆を支え持つ、纂者、更にその下の一は沙盤を側面から見た形である。

老祖訓 曰く、乩の動くは何に由るや、曰く灵(れい・靈・霊)なるのみ。

これ灵なるものは、至虚にして至清なり、至静にして至動なり。

その虚に因るが故に必ず実を以ってその体を現し、その清に因るが故に必ず色を以ってその化を示す。

その至静に因り必ずその象の動を求め、その至動により必ずその中の静に参ず。

然る後に、人の有々無々(炁灵)を以って、その清虚の炁灵に接し運び、その浮沈出入を運用して乩機の文字は沙盤に現れるのみ。各子(各弟子は)のこれを見て未だ、その理に明らかざる者は、これにて、その所以を悟るべきなり。各々つぶさに悟るを可とす・・・・。

老祖が乩壇によって大道を伝えんとするのは、やむを得ない理由があってのことで、奇異をてらって、人を惑わさんが為ではない。

修坐須知(先天坐の指南書)の中に示された、道旨簡言の一節に、どう院乩壇は純粋に大道を昌明(証明)する為に設(もう)けられる。

専ら灵異を云う者と意義なき、迷信者と比すべきに非ず。

故に奇をほこり、異をてらうを以って、相尚ばず。

また、福を迎え、助けを祈る考えを以って、ひそかに推測すべからざるなり。

将来大道を修めることを明らかにして、人類均しく道の法則のよき範疇を離れざるを得るに至れば、乩壇もまた、自ら設けざるべし。

今は、仮に以って導化の資と成すに過ぎざるのみ、と示されている。

道院の乩壇は、老祖が大道を宣佈し、諸聖仙仏が神意を伝達する神聖な壇であって、自分勝手に私壇を設けて仙仏に願い、福や長命を求め、みだりに不正の祈りをなしているものとは根本的に、その目的と本質を異にする。

さらに神明に対して、無知な徒は、神の道を利用して、世を惑わし、私壇を設けて愚かな人々を詐(いつわ)る。

その当初は少しの効果が無いわけでは無いが、その後、人がその術中に陥れば、詐り欺く心を生じ、愚かな人々を畏れさせ、その間にあって利を貪るようになる。

しかし公明正大の神を欺き得るものでは無く、その結果、軽き者は災禍を加えられ、重き者は肉体を亡ぼされるのである。

壇に降臨する神仙の正邪を見わけるには、壇に持する人々の信道の正邪、誠か偽か、堅実か否かと、その乩示の内容が経典に合致するや否や、また、示される道の理が大道にかなう、深遠なるものか否かを詳細に観察すれば、明らかに知る事が出来る。

老祖は下元の末期に来るべき大災劫に衆生が苦しみ、悩むを見るにしのみず、この濁世に降臨し、乩壇をかりて、大道を伝え、真理を明らかにして人心を正し、灵学(霊学)を興隆して感化を拡め、五教(仏、道、儒、基、回)を融合して、慈を興し、民衆を水火の苦しみの中より、救済せんとするに当たっては、五大宗教の聖賢仙仏と歴代の名臣、大学者に命を下して降壇せしめ、現実に化劫救世のために拡動させている。

この状況は、これらの神灵を、現代に復活して六千紀(七万二千年)以来、かつてなき、大難関を救済する聖業に尽粋せしめているのと、何ら異なるところが無い。

故にその感化力は偉大であり、五教聖賢の感化によって、宗教宗派の対立的先入観は、除去され、短期間に各修方の心を改革し得て、救世の力を増加しえるのである。



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