人は天地の気を受け生まれ、本来その霊性を賦与されている。
そこで、人の心と言うものは、天地に通じ、宇宙に達する事が出来る。
これによって観ると、人は天地と殆ど隔たりがないのである。
そこで各人が修養して、己自身を充実させる事が出来れば、天地に参じて万物の化育を助ける事が出来るのである。
さもなければ、天理に反し虚しい人生を過ごすだけでなく、且つ固有の人としての地位すら失って堕落し、その止まるところを知らないのである。
孔子が言うには、君子の道徳に志して修養するのでだんだんと向上して、最高の境地に達するが、小人は利欲に走って安逸を貪るので、日に日に堕落して止まるところは知らないと言っている。
これによってわかるように、人は天地の間において、向上しなければ、即ち堕落するのである。
故に人倫の道を明らかにし、天の心を体に容れ、人として恥ずかしくないようにすべきである。
そもそも、人が禽獣と異なっているものは、その先天的に賦与されたものが異なっており、それは、ただ精 気 神の三宝を備えているか、否かにかかっているのである。
そこで三宝を備えている以上、修道は比較的容易である。
その修養するところの所以はただ、後天の欠陥を改めて、本来の先天に返るのである。(人心より道心、人欲を捨てて天理に復(かえ)り、私心を捨てて公心に復ることである。)
古今東西を見渡して観ると、人は多種多様にわたっているが、これを要約して言えば、聖・賢・知・愚の区分があるだけである。
そこで、聖人に至る者が上であり、賢人に至る者がそれに次ぎ、また智者になる者がこれに次ぎ、愚者に至っては最低である。
しかしながら、愚者と言えども過ちを改めて身を修めれば、智者になることが出来る。
智者と言えども心を明らかにして、品格を高めることが出来れば、賢人となることが出来る。
賢人と言えども本性を尽くして世を化(すく)う功があれば、また、聖人になる事が出来るのである。
いやしくも、愚者がその愚とするところに甘んじて、身を修めなければ、どうして智者になることが出来ようか。
智者にして、その明通を求めなければ、どうして賢人となることが出来ようか。
賢人にして、その本性(天命)を尽くさなければ、またどうして聖人になることが出来ようか。
中世以来、人心は私欲に溺れ、貪り、またそれが悪い性となって、これにより、人の寿命も短く(戦乱に因る)なり、また世の中は乱れて平和を維持することが難しくなってくる。
世の中を救うのは、中庸の道だけである。
修道の上での悟りは全て坐になる。
その坐の本は外になく、唯(ただ)その内に放心を求めるだけである。(財貨、欲望、名誉、地位などに執着している心を内に取り戻す事である。)
心が一に集中して専一になれば、精・気・神の三宝が充実してきて、それにしたがって、私欲が滅びてくるのである。
精が結び、気が充ちて、神が凝り、先天の三宝(炁・霊・性)の働きは、これを修復させることも難しくないのである。
今の人は、常に華やかで混沌としたところを好み、これを追求して、その最も大事な三宝を失っても、これを惜しむ事は知らないのである。
それはまことに悲しい事ではなかろうか。