堅、誠、恒の三つの文字を初歩の静坐に、あてはめて言えば、揺るがすこと無く、奪うこと無くと言う事であり、この意味するところは、この習坐の道を歩いている時に、ある人が、前方の道はとても歩きにくい、更に、身体を損なう危険性があると言ったら、君はこの道を歩く事を中止するのであろうか。
ある者が不注意の為につまづいて転んだとしたら、君はそれを聞いて前進する事を止めるであろうか。
誠とは、無為である。
しかし、それでは初心者が、全て一切の事を為すことが出来ないものと誤解して、自分の家業や、家庭があるのに、どうしたら良いであろうかと。
この誠が無為であると、言う事は、上乗の者にして、はじめてコレを理解し語る事が出来るのである。
古人の言うところの無為にして、天下が治まるという事と、ただ、事業や家庭などと、これを同日に語ることが出来るのであろうか。
それは出来ないのである。
そこで、初歩に於いて坐を学ぶ者は、この誠の一字を信じて実行することが、最も大事である。
恒とは、恒心(一定不変の心であり、これを長く続けて堅持する心)であり、たとえば古人の言葉にあるように、一日太陽にあたり暖めて十日冷やす。
また十日暖めて一日冷やす。
このように暖めたり、冷やしたりしていると、何時までたっても暖かくならないのである。
このように、同じように、やったりやらなかったりしていると、いつ迄たっても物事は成就しないのである。
常日頃、恒心を失わないようにして、時間のある時は、きまっている坐功の練習をし、時間の無い時は坐功はこれ、心坐(心の中で坐の感覚を為す。空観)で為し、一心の上に於いて練磨工夫するのである。
何をやる時でも、坐功の方法(平静の心、不動の心)を以て、練磨するのである。
この堅 誠 恒の三字を、修練する上に於いて必要な事は、君は中年になって道に入り、求修習坐するのに、夙根(前世に於ける修行の基礎)の深いと浅いの言うことは、しばらく論じない。
そこでどうして論じないのであろうか。
夙根の深い者も恒心が無ければ、これを堅持して練磨することが出来ず、夙根の浅い者も恒心があって、これを練磨して、長く続けて行けば、また夙根の深い者と同じである。
そこですべての問題点は、恒心を堅持して永く続けて行くことが最も大切な事である。