修めるは、坐(瞑想)より始める。
今日に、至る所で、修を語り、坐を論じているが、しかし、能(よ)く坐の奥妙を得ている者は、実に暁天の星の如く稀である。
昧然(道理に暗く、わからない様。)として進み、少しもプラスを得る事が出来ない者が大多数を占めている。
これは修める者が、未だ道院に入門していないか、それとも、修坐の方法が違っているのかのどちらかであろう。
さもなければ、坐功が、どうして人身にとって無益であるということが、あろうか。
吾はその原因を知っている。
何となれば、それ、坐とは、人が修め、性を養い、気を固め、霊を充すところの根本であり、また、人として、身を立て世に処し、事に接し、物に応じる上での重要な務めであり、人々の片時も離れることが出来ないものである。
そこで、古より、以来能く、聖となり、賢となり、仏となり、祖となり、また、大事を成し、大業を立てた者は明らかに坐功とは言わないが、みな、坐の中より得たもので無いものは無いのである。
今日の修者を見てみるに、未だ道院の門に入って、いないのに、坐に心を用いる事を知っていても、坐の主旨がどこにあり、坐の奥義がどこに存しているかを知らず、昧然として坐り、坐とは仙となり仏となることが出来、坐とは寿命を伸ばすことが出来ると思って、未だ坐らない先に、仙となり、仏となるところの願望を抱き、未だ坐らない前に、長生きを、したいという妄想を持っている。
このような考えでは、必ず求めれば、求めるほど、それより遠ざかり、坐れば坐るほど、昧(くら)まされることになる。
老人(至聖先天老祖の自称。書画壇では、ggと署名される。ggとは、grand gottたぶん。)は、深くこれが為に嘆息するのである。
それは、坐の真の主旨が自然にあると言う事を知らないからである。
修者がもし、能くその当然を尽くし、その自然に任せ、急がず、躁(あせ)らず、因循することなく、これを長期に渡って続けていえば、念は至善の地に止まり、自ら坐功の大益を収めるのである。
しかし、念を止めるには、必ず先ずその雑念妄想をとり去るのである。
雑念をとり去る事が出来れば、心は自ら、その空洞を得る事が出来て、少しのカスも無くなる。
心に滓(かす)が無ければ、その清いことは水の如く、その明らかなことは、鏡の如く、人に対してと、己自身に対する事を論ぜず、均しくこれに、対応して、違うことなく、そのものズバリで、ツボに適中する。
その事がうまく適中するのは、坐功による大益ではなかろうか。
諸子の坐が能く、空であるべき事を知るのは、元より当然の理であるが、さらに、その空でないものを空とすれば、良いのである。
もし、ただ、空のみを語って、実際の中から、以って、その空を求める事を知らなければ、必ず枯寂に流れる。
枯寂の害は、あたかも、枯木死灰の如く、又、何の役に立つのであろうか。
この故に修者の修坐は、全て中を執(と)りて、以ってその究極を求めるべきである。
能く中を得る事が出来れば、頑空に流されることなく、また、枯寂に陥る事も無く、そして、活(大昔、活の意は、気質が薄弱で、欲望により、気が散っている状態。)の一害もまた、化除することが出来る。
坐境能く、ここに至る事が出来れば、仙となり、仏となることが、たとえ出来なくても、必ずしも病を退けて寿命を伸ばすところのプラスを得られることは、疑いが無いのである。
修者はこれを審(つまび)らかにすれば、自ら坐は静默の中から以って玄妙なる事を悟ると言う事がわかるのである。
玄とは玄では無く、静だけである。
妙とは、如何なる妙であろうか、黙だけである。
「一たび、静すれば、則ち霊となり、一たび動すれば即ち昧となる。」(太乙北極真経亥集。後天の人心が妄動すれば、其の霊を昧[くら]ます事になる。)
このように静霊動昧の妙諦は実に修坐の奥義である。
能(よ)く、その静黙を得れば霊明は自ら復し、精神は自ら聚(あつま)り、炁気は充ち固まる。
これが坐の真の上乗である。
修者は、どうして、詳細にこれを尋ね、悟りて、以ってその中の、奥妙を極めないでいられようか。