玄徳道

道を語るブログです。

黙真人訓、誠は天の道。

2021-09-16 20:20:00 | 道院
「誠は天の道なり。これを誠にするが人の道なり。」

天の道とは、ただ、誠の一字だけである。

この誠とは、純粋にして、真実なものであり、いささかも、不純にして、虚偽なものは、一切混入しておらず、無心にして、全く自然を主とするのである。

これを誠にするの、一字に含んでいる意味は広大である。

誠の一字について、修道の面から工夫しようと思えば、必ず純粋に努力して修めなければならない。

それを具体的言うならば、この、人心の全て一切の不誠不義にして、道に合わないところを取り除いてこれを修めるのである。

これら、不誠不義不純なものは、決して先天から携(たずさ)えて来たものでは無くて、生まれて来てから、後天的に染まったものである。

この人の道と天の道には、有心と無心の区別があると言うけれども、人々の心がそれぞれ違っていることは、あたかも、その顔が違っているようである。

そこで修養するにも、多種多様の方法があって、それぞれ異なっているのである。

これをおおざっぱに言うと、後天的に有心(人為的に事をなす習慣や心)によって染まったもので、例えば私情にかたよって執着したり、道理を明らかにする事が出来ず、己自身の欲望に打ち克って、独りを慎む事が出来ず、四相(我相・人相・衆生相・寿者相)、三毒(貪り、怒り、愚痴)や四勿、四害などを取り除く事が出来ない。

従って人々が求修(老祖の弟子となる)するのは、みな不正の良くない気質を正しい良い気質に変えようとし、また人々が、欲望を少なくして、心を清めようと思うからである。

坐功の効果を体得する事が出来れば、最小限病気を退けて寿命を、延ばす事が出来るのである。

しかし修行をすると、我の一字について、たとえ、これを生涯にわたって功夫(くふう)しても、いつこれを除去することが出来るのか、わからないのである。

この我の一字があれば、いたるところで私利私欲の為に事をはかり、ことごとに自分に服従させ、自分を尊敬させることが当然だと思い込み、これらは、全てが自分の我によって形成され、この我が修行上での大障害となっていることに、気が付かないのである。

我の強い人は、如何に人が忠告しても、受け入れないのである。

これは本来の先天の良知良能が後天的の我相によって十重二十重にとり囲まれて、身動きが出来なくなっており、そこで、本来の良知良能が内に閉ざされて、是非善悪を明らかにする事が出来ず、真理の所在に対しても不明である。

そこで、真理とは正しく、身を修め、心を修めるのであれば、真理を明らかにする事は出来ないのであり、また、心を修めるところの功夫を、用いて努めるので無ければ、悟る事は出来ないのである。

人の表情を以って喩えてみると、偽りの怒りは、怒ると言っても威厳がなく、偽りの笑いは、笑うと言っても和する事が出来ず、偽りの哀しみは、たとえ泣いていても、心から哀しむ事は無いのである。

真に怒っている者は怒らなくても、そこに威厳があり、真に笑うと者は、笑わなくてもそこに和があり、真に哀しむ者は、たとえ泣かなくても、哀しみが滲み出てくるのである。

そこで、一個人が泣いたり、笑ったり、怒ったりするのにも、真(まこと)と仮(いつわり)の区分があり、そこで他人の喜怒哀楽に対しても、それが真であるか、仮(にせ)であるか、知る事が出来るのである。

真のある者は人を能(よ)く感動させるのであり、仮の者は人はみな、心中これを知っているが、言葉に出さないだけである。

したがって功徳を修める者は、心中に誠を存している者は、それが自然に外の言行に表れて来るのである。

それは人が己自身を視る事は、あたかも心中の腹の底まで全てお見通しであり、したがって昔から堅・誠・恒(長く続ける)、この三字を以って修めている者は必ず成就するところがあるのである。

陰険にして悪賢い者は、早かれ遅かれ、自らが災劫の網にかかって苦しむことになるのである。

これらは、天が人に対して禍福を与えるのでは無くて、ただ人は自らが、禍福を招くのである。

ただ人は日常生活の上に於いて、自らが真か仮(いつわり)か、正か邪かの道を選ぶだけである。

また、ある者が言うには、現在の社会の風潮に少しも正しく、真実なるものが無いと、自分はただ、この世俗の不真不正の風潮に適合させているだけであると言っている。

これは、われわれ、修道をする人にとって絶対に許されないのである。

そこで求修の時に誠の一字を署名したのであり、必ず誠の一字を功夫して、良心を欺き、天を欺くような事があってはならない。

ことわざにも、「瓜を植えれば、瓜の収穫が得られ、豆を植えれば、豆の収穫を得られる」と言っている。

瓜を植えた者が、決して豆の収穫を得る事はあり得ないのである。

この言葉は平凡であるが、不変の真理を伝えている。

そこで、各人が自らの善根功徳の種を、より多く植えるように勤めなければならないのである。






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