そもそも、炁 霊 性とは先天の三宝であり、精 気 神とは後天の三宝である。
この先後天の三宝とは皆、修人が注意して深く求めるべき事であって、片時もこれをおろそかにしては、ならないのである。
そこで後天より先天に返ろうとすれば、先ずこの気から修養しなければ先天の炁に返る事は出来ないのである。
ただ、先天の炁は無形なるものであり、至清なるものである。
ところが後天の気は有形なるものであり、至濁なるものである。
いやしくも有形至濁の気を以って、にわかに至清の炁に返ろうとしても、それはなんと難しい事ではなかろうか。
ところが難しくないのである。
そもそも人は未だ生まれてくる前には胎児の一胞の中にありて、本来□勿侖□(漢字は□に、勿と侖が入っている。翻訳不可。こつりん)の一胞で、先天の炁を本来自ら具(そな)えていた。
それが生まれてからは、オギャアの一声で後天の気に落ちて先天の炁と別れて二つとなった。
ただ、幼少の時にはその性は渾穆(渾然静黙)で、その霊は活発であり、知らず知らずの間に後天に落ちて来たとはいえ、いぜん先天を離れていないのである。
それがだんだん成長するようになって智識が徐々に開け、その心は常に色声香味触法の為に引きずられ、その念は常に眼耳鼻舌身意の為に障(さえ)ぎられるようになれば、則ち気が分散してしまう。
気が分散すれば、精は必ず聚(あつ)まらず、精が散ずれば神は必ず凝ることがなく、精神がちりぢりばらばらになってしまえば、本然の性は日に日に必ず昧(くら)まし蔽(おお)われて、至清の霊もまた、必ず余すところなく消耗して、先天一点の真炁も自ら消滅して無に帰して、少しも顕現することが出来なくなるのである。
したがって修人が先天の真炁に返ろうと、すれば、必ず気を養うことを以て主と為すのである。
気は何を以て養うのであろうか。
それは先ず精神の上から体悟しなければならない。
精が能(よ)く気を化せば神は必ず虚に還る。
これが当然の工夫である。
この工夫があれば、精が聚り、神が凝り、氣が固まることになり、そこで自ら妙転の妙用があるのである。
その妙転を得ることが出来れば、性は自ら明朗となり、霊は自ら充ちて、先天至清の炁は、その返ることを期待しなくても自ら返るのである。
ただし、妙転の工夫は必ずその自然に順(したが)うのである。
何を自然と言うのであろうか、即ち人為の矯正を加えず、あれこれと造作を加えず気炁自然の化合に任せるのである。
今の世で気を養うと言う者のたぐいは、薬石を以って補助したり、導引(道家の呼吸法)を以って工夫をなし、更にこれよりはなはだしい者がいろいろな名目を用いているが、この種の異端の工夫は、みなその自然を失って強制を加えようとするものである。
それが一度、強制を加えると、必ず気が滞り、精が散じ、神も又、これが為に寧(やす)らかではなくなり、精気神の三宝はその、快適を得る事が出来なくなる。
これは、自ら養おうとして、かえって自らを害(そこ)なう事になるので、それで、どうしてそれで済まされるであろうか。
全て長年にわたって修坐をしてきた者は、この後天の気を、先天の炁に返す工夫において、必ず悟る事があったと思うが、しかし、実を練りて、虚に還り、有より無に返るには、必ずこの後天の気において、注意をするのである。
それは、何となれば、気とは呼吸である。
そこで、その息々綿々になろうとすれば、必ずこの呼吸に従う以外ない。
さらに、これを体認すれば、息の息たる事は、自らの呼吸に於いて、その適綿の妙を見ることが出来る。
気が自らこの真境を得れば、至善の性、至活の霊は、自然に身心の中に顕現し、浩大渺々たる、虚無の一点の真炁は、自然に知らず、識らずの中において、返還(かえ)るのである。
これが返還(かえ)るところの真の主旨であり、又、坐功に於いても研究しなければならない点である。
すべて、修養の工夫をする者はつとめて、自ら審らかに悟れば邪説によって誤る事が無いであろう。