扶乩(フーチ)を習う道は、専一になるのは、難しく無いが、疑い(疑問)を去る事は難しい。(注 鬼雷述べる。神を受ける者は素朴で素直で純粋で無ければ、神靈を受託出来ない。神に好奇心を出し、神に依存心を出し、神に不信感を出し、神に己の幸福や願望を述べる者は、決して、神の灵化(れいか)を受灵(じゅれい)される事は決して無い。)
そして、多くの書物を広く見る事は、とりわけ容易な事では無いのである。(鬼雷また述べる。神が降臨し、人と合化する。神はその人の智靈を扱い、託宣する。故に愚人に懸かれば、その内容は愚となり、簡単となる。賢や聖人に懸かればその内容も遠大となり深い真理となる。故に、神霊を受ける者は、古今東西の幅広い見識と真誠の学問が必要となり、またそれは、審神の道も同様でもある。)
灵(靈)の用たるや、天灵と人灵が相感応して、然るのちに、神と心が相接触するのである。
己自身の固有の灵(れい)を修めなければ、則ち灵は至高にして、且つ遠く、至妙にして、且つ玄である。
そこでどうして、感応する事が出来ようか。
そもそも、乩(けい、啓)とは、機であり、機とは灵である。
乩とは何をいうかと言えば、正しき者は正しくして、邪なる者は邪であり、深き者は深く、玄なる者は玄である。
近世の人灵は、欲の為に蔽われ、惑わされて、上天の正灵(聖霊)に接触する事は容易ではない。
そこで、接触するのは、殆どが閑散なる鬼仙の灵(霊)に過ぎないのである。
もし、上天の正灵と接触しようと思えば、必ず、先ず、身を修める事から始めなければならない。
その身を修めんと欲する者は、必ずその心を正し、その心を正さんと欲する者は、必ずその意を誠にする。
その意を誠にせんと欲する者は、必ず能(よ)く止まる事(全集中)を知る。
止まる事を知ってのち、能く定まり、能く静にして、能く安んじ、能く慮って、能く得るのである。
天灵(天の機)に接触しようと欲すれば、その由来を知らなければならない。
もし、その終始を知り、その未来を察しなければ、則ち一貫の真理は、どうして人灵(人霊)に随って相、回転することが出来ようか。
一貫とは不識不知(識らず、知らず)の意であり、不知と云うのは知らざるは無く、不識の云うのは識らざるは無しである。
この可無く、不可無しの妙境に至って、知らずして知らざるは無きの真灵(真靈)は、然るのちに初めて能く再び、他の灵(悪霊)の為に擾(みだ)される事はないのである。
灵と灵が接して、のちに天と人のニ灵が相結び、神がそこに降臨し、感じまた応じるのである。
上に応じ下に感じると、下に応じ上に感じるなど、この上下は乃ち一だけ(無欲)であり、一を守れば則ち明らかである。
故に孔子は明徳を明らかにするに在りと言い、釈迦は無無明尽(般若心経に、無無明、また無無明尽)、無明も無く、また無明の尽きる事も無し、と言うのである。
灵がすでに修まれば、性は善なのである。
性が善にして灵が充つれば、則ち道は離れないのである。
道理を明らかにして、徳行が備わって、初めて神灵(神靈)の拠り所となる事が出来、初めて他の灵(悪霊)によって惑わされ擾(みだ)されることは無いのである。
人としての、真心を尽くせば、即ち神であり、接触するなど、どちらでもよく、感応するなどどちらでもよく、さらに灵など、どちらでもよいし、また、機などどちらでもよいのである。
人と天が相合すれば、人即神である。
正(扶乩)を習う者は、もし万欲をことごとく除き、三宝(精・気・神)を保全しなければ、即ち壇に侍る事が出来ると言えども、将来、灵が竭(つ)き神が消耗され、身は衰え気は弱まり、その清魂の真体を守る事が出来なくなるという結果になるのである。
めいめい詳細に悟れ。
玄妙の理を悟れば、先天の大道もまた、かくの如きものである。