道の道たる所以のものは、人が自ら修める事に在るだけで、道を修める主旨は、その至誠に在る。
この至誠にして、息(や)むことない修練は、必ず言行を慎む事を以て基本とするのである。
慎むとは、この言行に於いて、公明正大にして、心にはじる愧(はじ)ることがないと言うことである。
常に日常生活の中に於いて、言行を顧みて言行が、一致するように努めるのである。
この言行こそが身を修めるところの大本である。
そこで君子の修めるや、この言行に於いて軽挙妄動しないのである。
小人が修めるや、不正の言を弄(ろう)し奇異なことを行うのである。
ことごとに、自分の事を吹聴して、憚(はばか)るところなく、また、むやみやたらに、人を批判し、いわゆる、己の長所を宣伝して、人の短所を批判するのがそれである。
道を修める人でさえも、このような状態である。
世間の風習はだんだんと荒み、人心が悪化して行くので、災劫が到来するのは至極、当然の事である。
故に劫を無くすところの本は、必ず身を修めることより始め、身を修めるところの要点は、とりわけ言行一致であることを重んじるのである。
常に君子が道を修めるのを手本とすれば、軽々しく承諾せず、信義を重んじ、その人の過失に於いてはこれを隠し、人の善行に於いてはこれを称賛する。
己自身の過失については、早く自覚してこれを改め、己自身の善行については、これを語らず、至る所で謙虚である。
小人の言行に於いては、これに反して、常に信義を重んじることなく、軽々しく承諾する者は余り信用出来ない。
更に自分の不善に於いては覆い隠し、また、人の不善に対しては、これをあばき攻撃して、己自身の善行をひけらかし、そこで君子と小人の道を修める事を、比較してみると天と地の隔たりがある。
修めるとは自分自身を修めるのであって、言行とは、己自身の言行を慎むのである。
ただし、言行を慎めば、人はこれを重視するようになり、言行を慎まなければ、人はこれを軽視するようになる。
敬重するとは、われ自身の品格を敬重するのである。
軽視するとは、われ自身の品格のないことを、軽視するのであり、品格を重んじるには、必ず自ら修めるので、どうして他人の長所をあげつらって、己自身の能力をひけらかす事があろうか。
これが小人の小人たるゆえんである。
真の君子であれば、もとより、問題はないが、偽の君子に対しては、実に防ぐ事が難しい。
従って交友関係は、必ずその人の普段の真実によって、はじめて、その君子であるか、小人であるかを区別する事が出来るのである。
己自身の修道に至っては、君子を以て自ら任ずる必要はない。
小人の言行を遠ざけて、これを戒めにすれば、よいのである。
このようにして、はじめて修道の基を立てる事が出来るのである。