2013年の2月のことだ。
僕らが日本橋から三条大橋に向けて旅立ったのは。
中仙道を歩き終え、意気揚々と東海道を西に向かった。
箱根駅伝でおなじみの横浜権太坂、大磯の海岸と何度かの遠征で順調に進んでいた。
ところが、翌年の春、我が家にとってはとても大変な出来事が持ち上がった。
東海道歩きは2年間凍結された。
ようやく、一昨年の秋、大磯から箱根湯本駅まで歩くことができた。
その後、箱根越えは後回しにして、三島から駿河、尾張、伊勢、近江と歩き継いできた。
昨年の夏、待望の箱根越えをした。
その時、芦ノ湖の箱根駅伝のゴール、スタート地点や、駅伝ミュージアムを見た。
箱根駅伝がぐっと身近になった。
この正月、残された水口~石部~草津宿を歩きに出かけた。
青春18切符を使う旅だ。往きに一日、帰りに一日かかる。
歩くのに一日、約三十キロの歩き旅。
早朝の駅はすっかり雪景色。
飯山線、篠ノ井線、中央線、東海道線と鈍行を乗り継ぎ、草津のホテルに着いたのは陽が落ちたころ。
翌日、JRと近鉄を乗り継いで、水口宿に着いた。
水口から石部、草津の街道は昔の面影が色濃く残っていた。
道幅も広くはなく、今は静かな住宅街と言った趣。
僕らの他には、一組の夫婦らしき男女が街道歩きをしていた。
色々な歩き方がある。
僕らはどちらかというと、史跡や名所を見物するというより、歩くことそのものが主目的だった。
山登りが冬の間は思う様にできない。
それなら、代わりに街道歩きをしようと始まった。
軽井沢の追分から出雲岬までの北国街道、約250キロ。
次に中山道、約500キロ。
そして東海道、約500キロ。それがこの旅で完歩する。
この辺りはひょうたんとか、かんぴょうの産地だという。
大きなミカンの実が、北国から来た身には珍しかった。黄色が馬鹿に鮮やかに見えた。
草津名物のうばがもちやに立ち寄ってお土産を買った。
このうばがもちやは、信長の頃から続いているという。
僕らの旅は、その土地の和菓子屋さんに立ち寄り、珍しい和菓子を買うという楽しみもあった。
試食に出された、柔らかい餅を餡に包んだうばがもちは、上品な甘さが疲れた体と心に沁みた。
もうゴールは近かった。
中仙道の時に、草津から三条大橋までは歩いているので、この中山道との合流点が今回のゴールとなる。
左 中仙道美のぢ
右 東海道いせみち
この道標を見て中山道を歩いたのはもうずいぶん昔のような気がした。
そして、かみさんと握手はしたけれど、前回のような感動は沸いてこなかった。
もう、歩けば、歩き続けさえすれば、たどり着けるということを、わかり切っていたからなのか、大きな達成感はなかった。
この夜、彦根のホテルに泊まり、外へ夕食を食べに出た。
そこで、ビールでささやかな乾杯をした。
終わってみれば、もう次の旅のことを考えている。
確かに違う風物を見て、違う場所へと旅していた。
だが、それだけでなく、違う時間へと、過去へと重層的な旅をしていたのだと、しみじみ思う。
そしてもうひとつ、自分の内面への旅もしていた。
時には目の前に、やじさんきたさんが前後して歩いていた。またある時には落語の抜け雀に出てくる無一文の絵かきが歩いていた。
浪人者や、腰元風の女連れや商人、飛脚、時には明治維新の薩摩や長州、土佐の坂本などが歩いていた。そんな空間の中を旅していた。
還暦を幾つか過ぎ、残された時間はそんなに多くはない。だが、多分短すぎることもない。
これから、何をなすべきなのだろう。そんな問いをいつも抱えながら生きてきた。
草津駅前で、ハンドマイクで憲法を守ろうと演説している一人の女性を見た。
思わず激励と握手をしにいった。
どちらかと言えば、ひっそりと好きなことをして片隅で生きることに志向が向く我が身には、とてもまねができない。
庶民が平和に、しあわせに暮らしていた時代への重層的な旅はしてみたいが、あの暗い戦争の時代への逆戻りはしたくないものだ。
今夜は七草がゆを食べた。
明日から、通常の暮らしに戻る。
さっそくどんど焼きの櫓作りの仕事がある。
夜にはひとつ会議が入っている。
実家の不動産処分の相談や手続きも進めなければならない。
年末に送れなかった、息子夫婦と孫ちゃんに、手打ちそばを打って送ってあげよう。
せっかくプールデビューしたのだから、少なくとも週に3。日くらいは通おう。
雪が消えていれば、千曲川の堤防に、ランニングに行こう。
図書館に本を探しに行こう。
隠れ家兼工房をもっと快適にするために、道具類を収納するための小屋を作ろう。
そろそろ、リンゴの選定が始まっている。枝をもらってきて、庭のリンゴの木に接ぎ木をしよう。
そして、この年末年始で増えた数キロの体重を落とそう。
こんな風にして僕の生活は日常に戻っていく。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます