song1234です. こんにちは、お元気ですか?

日記です。Since 2007年11月~、神奈川県湘南在住、ハワイアン、ウクレレ、スチールギター演奏が趣味。

酷暑続いてます!→ブルコメ、三原綱木氏語る、、

2024年07月23日 16時14分03秒 | 有名人
梅雨明け後の夏は、一番暑い。。
体が慣れていないせいもあるでしょう。。
↓今日の我が町・神奈川・藤沢市の予報です。


規則正しく?、お昼は、ざるそば→アイスコーヒー、、
あ、手帳には、今日の日記として、何をしたか、、
ごく身近な個人情報の塊です。
これと、このブログ(個人情報はかけない)で、詳細な一日が分かります。


火曜日の平日ですが、コーヒーショップは、ほぼ満席。
暑いから、皆様、逃げ込んできます(笑)。

12時半近くなったので、ご帰宅です。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日は、ブルコメ(ジャッキー吉川とブルーコメッツ)の三原綱木氏の
Youtubeから、「ジャッキー吉川を語る」をご紹介します。
(投稿者の、三原綱木様、お借りします)
ジャッキーさんは、このブログ、2020年4月20日に、81歳で亡くなられましたが、
ブルコメで一番若かった、三原綱木氏(1945年生まれ)のYoutubeからです。


こうしてみると、若かった綱木さんも、今は、78歳、、

ギターの名手、綱木さんですが、元は、クラシックだったという。
知りませんでしたねえ。。
名前の由来は、「新潟県綱木村」で生まれた、、、

いつまでも、お元気でいて頂きたいです。。
 
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ありがとう!加山雄三氏!

2023年02月05日 18時06分14秒 | 有名人

先月1月28日、BSプレミアムで、「加山雄三 密着!最後のステージ」と題した番組が
ありました。


加山雄三さん、、御存じ、お父さんは上原謙さん、お母さんは、小桜葉子さん、
実家は、茅ケ崎市でした。
オイラの実家も茅ケ崎市だったので、勝手においらには、身近な存在の方でした。

茅ケ崎の駅の南口から海の方へ「雄三道路」を、まっすぐ歩けば、ほどなく実家がありました。



幼少の頃の雄三少年


若い頃は、茅ヶ崎海岸から見える「烏帽子岩」まで(約1.7Km)泳いでいた、という。
烏帽子岩は、オイラの実家のあったラチエン通りからまっすぐの方向にある。
ので、当然海の好きなオイラ、26歳位だったが、烏帽子岩へ泳いだことが、
あったが、近くになると、江の島方向(東南)の海流が強く、沖の方向なので
戻れなくなるのでは?、、危険を感じて断念した記憶があります。
(注:ラチエン通り近辺の海は、「遊泳禁止」でした!愚かな若輩者!スミマセン)


茅ケ崎海岸に彼がオーナーだった、「パシフイックホテル」がありました。
オイラの実家からも、ホテルは近かったので、結構な頻度で訪れていました。

夏には、ホテル前の海岸は、遊泳禁止なので、ホテルのプールにも
行ったことあります。確か2時間で、¥1200。

又、ここには、ボーリング場があって、朝7時前は、早朝割引がありました。
¥100/ゲームと、当時の相場の3分の1、、若者にとって見逃すはずありません。
ピンク色のスコアペーパーが早朝割引ペーパー、ここには、結構通いましたね。
ボーリング場から窓越しでプールがありました、そこでプールでの加山氏を
見たことがあります。真っ黒でしたが、テレビより、細くみえました。


ここでは、兄の結婚披露宴もやった記憶があります。
ともかく、オイラにとって身近な散在でした。。

沢山のエレキの若大将等で、人気だった雄三氏でしたが、突然悲劇がやって来ました。
オーナーだった、パシフイックホテルが、倒産!!


一気に天国から地獄のような事態になりました。
地方のキャバレー等での生活が、6年間続きました。
でも、彼は、頑張りました。。
見事に、負債の返済を完了したのです。。

その後、今度は、身体の不調、、脳閉塞、小脳出血!
特に、小脳出血の時は,危険で、身内さんには、覚悟を言われたようです。。


つらい事が重なりましたが、彼は、不死鳥の様に頑張りました!
「いいとこの坊ちゃんと言われたくない」、、加山氏は、そう言っています。
歩まれてきたこういう人生を知れば、
「そうですね、御苦労された!」と、言いたいです。

また、彼は素晴らしい絵画も書いています。
毎年藤沢駅前のさいか屋で展示会やってました。オイラは何回も見ていますが
とても繊細な、素晴らしい作品でした。

更に80歳過ぎても、野外ライブにも出演しています。

最近になって、指が動きにくい→得意のピアノ、ギターがうまく弾けない、、
更に、声も高い音が、出にくい。。
この辺が引き際かな?、、と、雄三さんは、そう思われたのだと思います。
最後の演奏は、海の男らしく、ASUKAⅡで、昨年12月7日~8日に行いました。
彼にふさわしく、庭みたいな、相模湾一周、、、


その日の船長という立場で、お客様に最後のお礼を発しています。


これで最後のつもりでしたが、NHKから、紅白出場のお願いがありました。
加山氏は、名誉な事と、快諾して、昨年2022年紅白に最後の出演をしました。
2022年12月31日NHK紅白歌合戦、
加山雄三氏最後のテレビ出演。。




永遠の若大将!ありがとう!


会場からは、割れんばかりの拍手、、でした。。


紅白終了後、お迎えの車には、めぐみ夫人が同乗されてました。
めぐみ夫人の献身的な支えがあったればこそ、、、だと思います。
そう思うと、めぐみ夫人は、偉大な存在だと思います。

注:(今は、卒婚して、めぐみ夫人は、アメリカに行っていますが、
夫婦不仲ではありません。お二人共、グリーンカード’(米永住権)お持ちですが
加山氏は、エンターテナー、、でも、めぐみ夫人は、そういう特権がないので年間に
半年?は米本国にいないといけませんから、アメリカに行っているのです。)


なんという素晴らしい夫婦、、
加山雄三さん!いつも元気をくれました!
ありがとうございます。。
めぐみ夫人といつまでもお元気で!

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故・ジェリー藤尾氏を思う。

2021年09月15日 17時25分27秒 | 有名人

今日は、昨日同様曇りです。
それ程、暑くもないので気持ちいいです。

今日は、先日亡くなられた、故ジエリー藤尾氏のことを書きたい。
芸能生活60年!、、結構、彼への世間の目は、厳しいが、そこには、誤解もあったようだ。
オイラも、彼のことは、少し誤解していたこともあったようだ。

今日は、先日2021年9月6日BS日テレで
「歌謡プレミアム追悼▽ジエリー藤尾」の番組と、ウイキペデイアから。。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ジエリー藤尾(1940年6月26日~2021年8月14日)81歳。
慢性閉塞性肺疾患(COPD)のため。。

彼は、父:藤尾薫宏氏(NHK,英語アナウンサー)と、母:英国国籍の
オリビア・ヒース・ゴンザレスさんの子供である。
戦後、母は、言葉で差別を受け、アルコール依存症になってしまい、
吐血して、台所で、28歳の若さで亡くなった。
中1だったジエリーが帰宅した時に、発見している。。。
可哀そう、、まだまだ甘えたい年齢のはず。。

厳しい家庭環境、、おいら的には、強く同情したい。。

素行は、結構乱暴だったが、東京で、ジャズ喫茶で飛び入りで歌を歌ったのがきっかげで、
シンガーの道が開かれる。。歌がうまかったんだね。

1958年、「ダニー飯田とパラダイスキング」バンドに入ったが、坂本九氏が入ってきて
たった15日間で首になり、「水原弘とブルーソックス」のメインシンガーとなる。

1962年「夢で逢いましょう」出演し、今月の歌で「遠くへ行きたい」が大ヒットしている。
彼は、この曲のレコーデングで、翌朝までかかって、大変だった、という。
間違えれば、全て最初から、、、バンドマン達の嫌な顔をみて、
「しょうがないだろう!歌えないんだから、、」と言ったら、みんなあきらめたとか(笑)。


(後に、ジエリーは、この歌は、中村八大氏が、アメリカで日本恋しい、、で曲ができ、
それに唄を永六輔氏が付けた、と言っている)

彼の人生の中で、大きな事件があった。
1985年に、夫婦不仲が生まれ、1986年に離婚した。
当初、まわりでは、ジエリーの素行が、問題視された、、
が、娘2人はジエリー側についた。。
子供達が、父親についた、、どういうこと?
大分時間が経ってからだが、母親の方の素行や、男性関係があることが分かった。
ジエリー藤尾は、ずっと、何も言わなかった!
男だねえ、、このあたり、オイラは、彼を見直した。




ジエリー藤尾は、自分のバンドとして「パップ・コーンズ」がある。
このメンバーには、高木智之(後の、高木ブー)、仲本興喜(後の仲本工事)がいた。






ここに来て、「ゆめあい」(夢で会いましょう)の出演仲間がなくなっていることは
当時を知る者として、とても寂しいです。

・中島弘子氏(司会)、1926年~2021年7月、95歳
・坂本スミ子氏(歌手)、1936年11月25日~2021年1月23日、84歳
・梓みちよ氏(歌手)、1943年6月4日~2020年1月29日、76歳
・ジエリー藤尾氏(歌手)、1940年6月26日~2021年8月14日、81歳

夢であいましょう、、すごい番組でした。
この番組の今月の唄から、以下の大ヒット曲がうまれていますね。


幼い時に、母を亡くし、家庭的には、苦労したと思うけど、自分の人生を
正直に、しっかり生き抜いた方だと思います。
改めて、ジエリー藤尾氏の、ご冥福をお祈り致します。。
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訃報・寺内タケシ

2021年07月29日 17時38分11秒 | 有名人

少し前のことですが、ギターリストの、寺内タケシ氏が、先月亡くなられた。

享年、81歳、死因は、誤嚥性から肺炎でした。
1939年1月17日生まれー2021年6月18日(82歳)


彼のギターは、まさに職人芸でしたね。
記憶に残る作品は、運命、津軽じょんがら等、、多数あります。

彼は、恵まれた家庭に育ち、素晴らしい人生をおくったと思います。
直接関係した人物には、著名人が多い。
ドリフターズ、加山雄三、内田裕也、、、、

自分は、若い時期、ハワイアンクラブに入っていたが、
ハワイアンブームが陰りを見せ始めてた頃に、エレキブームとなった。
はっきりって、そんな流れの中のせいか、エレキは、好きになれなかった。

しかしおいらは、元々ギター、ヴァイオリンに興味があった。
もしハワイアン等やっていなかったら、確実にギターかヴァイオリンだった!
でも、ギターなら、エレキでなく、フオークソング派ですけどね。

寺内タケシ氏、、年はオイラより、上だが、何か生意気そうで
とっつきにくかった感があります。
(直接会ったわけでもなく、失礼、、その時の勝手なオイラの印象です)
でも彼のギター演奏は、凄かった!

職人芸、、と言っていいのではないかな!
自分の好きなことを、亡くなるまで続けられた、、
そういう意味では、幸せな人生だったと思います。

恵まれた家庭だったからこそ、実現できたのだと思う。
そういう点では、お金持ちの親御さんに感謝ですね。
また一つ、昭和の大きな星が逝ってしまいました!
謹んで、哀悼の意を表します!


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録画の準備→女優「吉永小百合さん」を思う。。

2021年07月23日 17時11分04秒 | 有名人

今日も、朝から夏!です。

今日は、今年だけのスポーツの日で休日、、
記念すべき「東京オリンピック開会日です!」
夜8時から(ニューヨーク時間、朝7時、成程ね、、)
昔の子供の頃のオイラだったら、もう寝ている時間ですが。。
オリンピックの録画するのに、DVDが良かろう、、ということで
藤沢に出かけた。


駅前ビックカメラね。25G BD-RE、、20枚位かな?
オイラの場合、録画しても、見ない場合が結構多い。
録画して、満足してる男だから、、いよいよですね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
先日、徹子の部屋で、吉永小百合さんが、出ていた。
彼女は、生まれがオイラと同学年、、東京空襲3月10日のの3日後の13日だった。
お母さま、、大変だったでしようね。

因みに、おいらと同じ年齢の有名人は、小百合さんの他に、高橋英樹、園まり、舟木一夫、、
舟木の「高校三年生」の歌が流行った時、おいらは、丁度高校3年生でした。
わかりやすいね。

「徹子の部屋」で紹介された小百合さんのお母様:和枝さんとの写真↓
お母さまは、90歳で、亡くなられている。

 

小百合さん、1歳。


吉永と言えば、渡哲也との恋が有名だった。
ぞっこんだった吉永、、なのに、家族の反対、、可哀そうでしたね。

後に、小百合は、今の岡田氏との結婚で、家族から離れたかった!と言っている、、
オイラには、本音の様に思える、
もし、渡と結婚していたら、今頃は、小百合2世、3世も、いたかもしれない、、。
余計なお世話かもですが、お父様もお母様も、もう少し娘小百合さんの倖せを
考えてあげた方が良かったのでは、、つい思ってしまいます。。。

岡田太郎氏は、1930年生まれなので、現在91歳、
お元気のことと思いますが、情報はありません。

益々の小百合さんのご活躍を、願ってます。
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訃報・ジャッキー吉川氏→藤井7段王位戦・初戦勝利。

2020年07月02日 19時43分56秒 | 有名人

あまり大きく報道されてなかったようでしたが、
ジャッキー吉川とブルーコメッツのリーダー「ジャッキー吉川氏」が
4月20日に亡くなっていた。享年81歳。。


ジャッキーさんは、群馬県の自宅でお一人で生活されていたこともあってか
マネージャーさんが、訪ねた時は、既に亡くなっていた、という。
正式な死因は、まだ発表されていない。

ブルコメで通る、有名バンドのリーダーとして、いつまでも元気な
ジャッキーさんでしたが。。
オイラが、ギターを買って、一番最初に弾いた曲が、ブルー・シャトウでした。
沢山の代表ナンバーは、ここにあります。懐かしいですよね。

ブルコメと聞くと、どうしても、大きな存在だった故・井上大輔氏(旧名・井上忠夫氏)を思い出す。
彼は、バッキング専門だったブルコメを飛躍させた大きな存在だった。
作曲でも、ブルーシャトウはじめ、多々の曲を作っている。
又、美空ひばりは、井上氏の大フアンで、結婚する位だったが、
縁なく結ばれなかったが、ブルコメへのひばりの援護が多々あったことは、
幸運だったと思います。

在りし日の、井上忠夫氏在籍時のブルーコメッツ。。


その偉大なバンドのリーダー・ジャッキー吉川氏、、
彼は水泳が得意で、強靭な腕力の持ち主から、ジャッキ→ジャッキーの
名前になった。

ジャッキー吉川、本名:板岡公一
1938年8月1日生まれ

法大中退
特技:水泳
職業:ドラマー
大学2年の時、先輩で、ブルー・コメッツのリーダーだった
大橋道二に紹介されて、バンドボーイとなった。
下積みを積み、1961年に「ブルーコメッツ」の正式メンバー
に昇格した。
ジャッキのように強い腕をしていたので「ジャッキー吉川」という
芸名になった。
1963年ブルーコメッツの育ての親の鹿内タカシ氏が
アメリカに音楽留学したのを機に、バンドリーダーになり
「ジャッキー吉川とブルーコメッツ」が誕生した。
1966年、ビートルズの東京公演で、前座を務めた。
翌1967年発売の「ブルーシャトウ」が大ヒットし
日本レコード大賞に輝いた。

オイラにとっても、大きな存在だったジャッキー吉川氏、、、
ご冥福をお祈り致します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
将棋の王位戦第一回戦が昨日から、2日がかりで始まっている。
木村一基王位と、藤井7段だ。
アベマTVで見ていたが、二日目の今日の午後3時過ぎ、藤井7段の攻め、
木村王位の守り、期待通りの試合展開となったが、午後5時過ぎ
藤井7段が、95手で勝利した。

写真は、本日2日、午後5時24分、92手目、、終局直前の両者。
画面上のコンピューター判断では、左側の藤井7段が、99%優位となっています。

まだ、高校生17歳の藤井7段、、負けた木村王位は、47歳、年齢差30歳、
まさに親子と言っていいかもしれないが、底知れない聡太7段の強さが
印象に残った戦いでした。

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