先月7月6日のテレビ番組「歴史探訪」NHKを見ました。
誰でも知っている、鎌倉時代に起きた大事件「元寇」、、、
分かりますよね、モンゴル大帝国が、日本に攻めてくる!
二回ありました。
一回目が、1274年(文永の役)
2回目が、1281年(弘安の役)
何しろアジアのほとんどを制圧している大帝国です。
モンゴル帝国は、当初は、日本制圧は、考えていなかったようですが、
いろんな噂から、手を伸ばしてきました。。
最初の文永の役では、軍艦300隻の、元の大群が来攻してきた。
対馬・壱岐を通って、博多付近に上陸した。
モンゴル帝国:皇帝:クビライ
兵力:27,000~39,000人
日本 :執権:北条時宗
兵力:不明
ここからは、オイラ達は、学校で、暴風雨「神風」が防いでくれた!
と教えられた。
しかし、どうやらそれ以外の大きな原因が、あったようだ。
それが、今日の課題です。
その一つが、馬、、モンゴル帝国の最大の強さは、迅速な騎馬隊、、、
だが、日本は、島国、、船で馬を乗せてくることになるが、馬は、動くもの、
船や、車(当時は勿論なかったけど)に乗るのを、極端に嫌う。。
まず、馬を車に乗せることは、今でも大変らしい。。
北海道の平原で育った馬を本州に運ぶ時は、車だが、その苦労は、大変らしい。
馬の普通の心拍数は、40位だが、車に乗せると
興奮してか、↓倍位の80近くに上昇する。
想像してください、自分の脈拍が、2倍になったら、、、瀕死です。。
更に長時間、24時間位乗せると、発熱が起こり、中には肺炎になって
死亡する馬も出てくるそうだ。。
更に、使用した船は、底が、V字底でなく、平字底だったらしく
船の揺れが、大きかったと思われる。
日本海を、10日以上かけてやってくるのだから、上記を思うと
当然、馬は、まさに瀕死の状態、、とても戦いに臨める状態ではない、、
更に、乗っている兵士たちも、船酔いに苦しむ、、
日本に着いた頃は、兵士は船酔い、馬は、瀕死の状態、、
確かに、当時の絵巻図等見ると、モンゴルの騎馬隊は、描かれていない。
更に陸に上陸する時、モンゴル軍は、一か所に集中して攻めてきた。
これは、守る日本にとって、有利、分散しないで、集中できます。
日本は、更に川からの上陸を阻むため、海から川の入り口に、大きな木の杭を
打ち付けて、入れない様にしている。さすが日本人だ!
更に夜からは、学校で習ったように、暴風雨が、やってきて
モンゴル軍は、敗退した。
ですから、神風は、ありましたが、モンゴル軍敗退の主因ではなかった、、
ということです。
モンゴル軍は、第二次世界大戦の「ノルマンジー上陸」のように
分散して攻める↓ のが、正解でしたね。。
執権:北条時宗は、再三にわたるモンゴル帝国からの国書は無視、
使節団は処刑した。
二回目の弘安の役(1281年)では、農機具まで持参しての
今度は、10万人を超える大群で、本気で、攻めてきた。。
これも、同じように、うまくいかず、2か月近くの戦闘の後、
学校で教えられたように暴風雨もあって、、
上陸すらできずに、モンゴル軍は、敗退した。
一回目の敗退原因からの教訓なかったのかなあ??
ということで、日本が負けなかったのは、神風は、あったけど、
それが主因ではなく、船→揺れる→馬の体調不良、兵隊の船酔いだった!
ということでした。。
日本の総司令官、北条時宗は、鎌倉幕府8代執権、、
弘安の役1281年の3年後の1284年に、32歳という若さで
亡くなっている。。
3回目の元寇の備えも考えていたという。
もし、元寇で、日本が侵略されていたら、、
今の日本は、変っていたかもしれない。。
日本国の大ピンチを救ってくれた、北条時宗、、
そう思うと、感謝!ですね。。
せめて、もう少し、長生きしてほしかった!
今は、鎌倉・円覚寺に眠っている。。。