2021年の春先まで東京板橋区の蓮根にあった植村冒険館が、昨年度の12月にリニューアルオープンしました。
移転した場所は植村が結婚してから住んでいた場所であり、当人ゆかりの地でもあります。
近年の博物館らしくプロジェクターマッピングを駆使するなど、かなりバージョンアップしていました
最寄り駅は板橋区役所前駅です
加賀スポーツセンターという中に入っています
駅から真っ直ぐ進んだ先にあるのが加賀スポーツセンター
3階にあります
さっそく壁一面に写真のパネル。これらは建物全体のいたるところに飾られてありました
3階に到着すると、ここが入り口です。
中に入ると検温、アルコール消毒をして記念スタンプの紙が渡されます。
写真を撮って大丈夫か尋ねると、動画や写真(植村直己が撮影したもの)、手紙などの接写はダメですが、全体の構図であれば問題ないとのことでした。
最初にあるのがプロジェクターマッピングの動画です。地球儀に手をかざすと始まるもので、三本の動画がありました。
植村の足跡を簡単に紹介したものだったのですが、よくできた内容でつい見入ってしまいました
植村はすごく物を大切にする人で、気に入ったものはいつまでも使い続けていたようです。飾ってあるセーターはいろんな写真で見ることができます。いまはセーターで登山することはありえないので、時代を感じさせます
本棚と右にあるのは各地で集めたお土産。終生の宝物だったようです
植村は23歳のときに船で片道切符を握りしめて単身アメリカに渡り、現地の農場で勤務して旅費を稼いでいました。
ただ就労ビザのない不法労働者だったので、途中で逮捕されてしまいます。
熱意の説得でどうにか強制送還は免れますが、アメリカからは出て行かないといけないのでフランスに渡ります。
そこで運良くオリンピック選手だった人のスキー場で働かせてもらえることになり、フランスを拠点に各地の山をのぼることができました。
とにかく人から好かれる才能の持ち主だったようで、どんな国でも現地の人から援助の手をさしのべてもらっています。彼の人徳なくして数々の成果はなかったでしょう
冒険家になるキッカケは明治大学の登山部に入ったことでした。当時は先輩のしごきに音をあげますが、見下す部員たちを見返したい一心で鍛錬を重ね、やがて山に魅了されるようになります。
4年生のときは実力が認められて副部長に任命されます
アマゾンのイカダ下りのときを再現したものです。60日間ものあいだ手作りのイカダだけでアマゾンを下ります。当然ながら食料は現地調達。魚を釣ったりしていました。ここでも初めて知り合った人たちにバナナなどを譲ってもらっていたようです
これはエベレストで使った道具。カメラはそのときに使用したもので、キャノン製です。植村は、日本人で初めてエベレストに登頂した人ですが、世界で初めて頂上からカラー写真を撮影した人物でもあります
エベレスト国際隊のときに使用したザックや手袋と目出帽。当時はこれで登ってたことが衝撃的でした。
アマゾンのイカダ下りのときを再現したものです。60日間ものあいだ手作りのイカダだけでアマゾンを下ります。当然ながら食料は現地調達。魚を釣ったりしていました。ここでも初めて知り合った人たちにバナナなどを譲ってもらっていたようです
これはエベレストで使った道具。カメラはそのときに使用したもので、キャノン製です。植村は、日本人で初めてエベレストに登頂した人ですが、世界で初めて頂上からカラー写真を撮影した人物でもあります
エベレスト国際隊のときに使用したザックや手袋と目出帽。当時はこれで登ってたことが衝撃的でした。
いまだとユニクロやワークマンで売ってるものの方が遙かに優れています
イカダ下りをしたときのパネル。いまだとYouTubeとかで配信していたかもしれません。ただ現代で同じことをしたら相当なバッシングを受けただろうと思います。それぐらい命知らずの無謀な冒険でした
アマゾン川とイカダ下り。イカダは現地の人に作ってもらいました。見知らぬ土地に単身で乗り込んで、現地の知り合いになった村人たちから作ってもらえるなんてスゴいことです。
イカダ下りをしたときのパネル。いまだとYouTubeとかで配信していたかもしれません。ただ現代で同じことをしたら相当なバッシングを受けただろうと思います。それぐらい命知らずの無謀な冒険でした
アマゾン川とイカダ下り。イカダは現地の人に作ってもらいました。見知らぬ土地に単身で乗り込んで、現地の知り合いになった村人たちから作ってもらえるなんてスゴいことです。
グリーンランドでは彼の切手が販売されましたし、エスキモーの地では彼の名にちなんだ山まであります
とくに植村を有名にしたのが犬ぞり北極点到達の冒険です。これは文字通り命がけの冒険でした。
とくに植村を有名にしたのが犬ぞり北極点到達の冒険です。これは文字通り命がけの冒険でした。
というのも南極は大陸がありますが、北極にはありません。なので巨大な氷の上を走り続けるために、時には亀裂があったり、氷山があったり、シロクマにおそわれたり、氷が溶け始めて水浸しの中で走ったりと(犬がですが)、とてつもない旅路でした。
食べ物は凍った馬の足を削って食べるなどして、文字通り原始人と変わらない食生活でした。ただ、唯一文明らしかったのはmaximのインスタントコーヒーを持ち込んで飲んでいたことでしょうか
アザラシの毛皮で作った手袋と犬をコントロールするための鞭です
こちらはニコン製のウエムラスペシャルと呼ばれるもの。寒さに強く、リモコンを使ってシャッターを切ることができる優れ物です。今の時代でも遜色ない出来映えと思いました
最後は43歳の誕生日をむかえたばかりの厳冬期マッキンリー(現在はデナリと呼ばれています)を登頂した直後に行方不明となりました
マッキンリーはかなり危険な挑戦だったようで、伝説となる悲劇でした
足跡をたどった年表です
19歳で登山の世界に足を踏み入れて、ゴロゴロ転がっていたため、あだ名はドングリと呼ばれました
アザラシの毛皮で作った手袋と犬をコントロールするための鞭です
こちらはニコン製のウエムラスペシャルと呼ばれるもの。寒さに強く、リモコンを使ってシャッターを切ることができる優れ物です。今の時代でも遜色ない出来映えと思いました
最後は43歳の誕生日をむかえたばかりの厳冬期マッキンリー(現在はデナリと呼ばれています)を登頂した直後に行方不明となりました
マッキンリーはかなり危険な挑戦だったようで、伝説となる悲劇でした
足跡をたどった年表です
19歳で登山の世界に足を踏み入れて、ゴロゴロ転がっていたため、あだ名はドングリと呼ばれました
たった9年後には28歳で日本人としてはじめてエベレストに登頂
43歳でマッキンリーに消えました
数々の功績で国民栄誉賞に輝きました。ただし、行方不明になった後でもらったものです
最後は過去の映像を編集した番組が放映されてました。
命を掛けてまで挑戦することが正しいのかどうかはわかりませんが、挑戦なくして歴史に足跡は残せないことを体現した人物だったのではないかと思います