1932年スターリンが「国際コミンテルテーゼ」なるモノを世界に発表します。しかし、日本版はスターリン自らが手を加えたそうです。なぜって、それは日露戦争にロシアが負けたからです。日露戦争終結が1905年です。「白人世界」が世界だと考えられていた時代に白人の大国ロシアが日本という黄色い人種に負けたのです。この屈辱は大きかったと想像できます。その後「黄禍論(こうかろん)」なる思想がロシア経由でヨーロッパに蔓延します。ゆえにスターリンが手を加えたと言われる「国際コミンテルテーゼ」(和訳は日教組運動の基本指針とほぼ同じ内容と言われています)は、かなりの計画性に富んだ思想だったと思われます。
その「国際コミンテルテーゼ」の中に、国家と国民を切り離すことを謳った文章があり、具体的には「国旗」を拒否するように教育することです。
このような教育を受けてきた国民が国旗に対し敬意を持つことは薄いようです。ある意味「国際コミンテルテーゼ」の成果が現れはじめました。しかし、この成果の綻びがスポーツの国際Aマッチ等で現れはじめます。
1998年の長野オリンピックでモーグルの金メダリスト里谷選手が表彰台で国旗掲揚の時、脱帽しなかったことに世界中から非難の声があがりました。オリンピックでは3位までの国の国旗が掲揚されます。これに驚いた「国旗」「国家」反対の急先鋒だった朝日新聞が翌日の天声人語で「国際的なマナーを知らなかったのは仕方がない、これから覚えれば良いのだから」と書きました。それまでの朝日新聞の論調と比べれば、いかにいい加減な新聞社か自ら示した形となりました。
「日の丸」はダサイと言っている進歩的文化人なる方は、パリモードファッションをたしなむ資格は無いようです。幕末にパリモードの開祖ナポレン3世が徳川幕府に当時の幕府の融資金額と同等の5000万フランで「日の丸」のデザイン(意匠)権の購入を持ちかけた話は有名です。日の丸はそれまで紺地に金の丸でしたが船上からよく見えないので、白地に赤となったそうです。
現在、バングラディシュとパラオが日本の援助に感謝の意を表し「日の丸」と同じデザインで色違いの旗を国旗としています。(1980年代以降)朝日新聞の言うように日本が世界中から嫌われているなら「国旗」をまねる国は出てこないでしょう。
また、「君が代」は国歌制定以来、国歌にふさわしいかの疑問が絶えません。明治時代政府のアドバイザー(民法の編纂に尽力のあったボアソナード?)の外国人から「国歌」が近代国家には必要と指摘され明治政府は大騒ぎとなります。大山巖を中心に「国歌」探しが始まります。海外でのイベントがあるので締め切りがある作業です。そこで江戸時代大奥の年賀に「歌会始」で謡われていた古今和歌集で、尚且つ、「よみ人知らず」の「君が代」を選定します。「よみ人知らず」ですから政府内での派閥の主張も無いわけです(公家が多いのでヘタに祖先の謡を選ぶと問題が多々発生する)。この時から「君が代」の受難の歴史がはじまります。「なぜ、明治政府の敵である徳川将軍家の安泰をたたえるために永年歌われた謡を、歌わねばならないのか」と現在とは全く正反対の意味で「君が代」批判は展開されました。さしずめ現在の「君が代」反対者は江戸幕府が良かったのでしょうか?(笑い)。
サッカーの国際Aマッチは試合開始の前に国旗に向かい国家を斉唱します。またユニフォームに日の丸を付けることが許されます。この姿をみて多くの国民が無意識に「日本国民」を意識します。これは思想信条から来る物ではなく団体への「帰属意識」から来るものです。
国旗・国歌を否定することは国民の憲法で保証された自由ですが、公立学校の教諭がコレを主張することは許されないと考えます。もし主張したければ私立学校に移り主張すべきです。給与をもらっている国に対しその国旗・国歌を否定するということは、民間会社で社旗等を否定することであり、民間会社では「クビ」が普通です。これは日教組のアガキであり甘えでもあると思います。労働運動は必要ですが政治運動とは別ではないでしょうか。
国旗・国歌に敬意を払うことは、自由の国アメリカでは市民権獲得時の絶対条件であり、共産国の国では国旗・国歌に敬意を払わねば国歌反逆罪で死刑が普通です。国旗・国歌反対の方の大半は、共産主義や社会主義バンザイの方々です。その理想の国家では、現在あなたのなされている主張は国歌反逆罪で死刑が普通です。
自由主義の国である日本ですから主義主張は自由です。「国旗・国歌反対」も結構です。しかし、給与をもらう団体には、国・民間の違いは無く給与分の忠誠は誓うのが当然ではないでしょうか。