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愛を読むひと [監督:スティーブン・ダルドリー]

2009-07-20 17:20:17 | 映評 2009 外国映画
個人的評価: ■■■■■□
[6段階評価 最高:■■■■■■(めったに出さない)、最悪:■□□□□□(わりとよく出す)]

---ストーリー 豪華客船沈没の生き残り女性と童貞高校生の一夏の性春体験---

「愛を読む人」という映画を観ました。
昔観た「豪華客船が沈む映画に出ていた女の人」が出てきました。
主人公の男の子に3度目に会って家に入れた時、石炭運びを手伝わせていました。石炭運びをした男の子の顔はススで真っ黒です。「沈没した豪華客船から生還した女の人」は「お風呂に入らなくちゃ」と言いました。僕は顔と手を洗えば済むのになぁ・・・と思いましたが、その男の子は言われるまま服を全部脱いでお風呂に入りました。
すると「沈没前の豪華客船で無名時代のピカソの絵を見て才能あるわと言っていた女の人」が、バスタオルを広げて持ってきてくれました。やさしいなあ、と思ったらタオルの向こう側で、女の人は「嫌な婚約者から逃げてイケメンに自分のヌードの絵を描かせた」時みたいに裸でした。ビックリしました。ドイツみたいだけど公用語が英語の架空の国の文化は進んでいるなあ、と思いました。
それからというもの男の子は毎日のように、「豪華客船で、傲慢・乱暴・あげく銃乱射の最低婚約者から逃げ回っていた女の人」の家に通うようになりました。
同級生の可愛い女の子が「もーしょん」をかけてきますが、オトナの体験真っ最中の彼から見ればただのガキです。
そのうち、「豪華客船で嫌な婚約者から逃げようとしてたらイケメンに出会ってツバを遠くまで吐き出す方法を教えてもらっていた女の人」と男の子は変な儀式を始めるようになりました。男の子が本を読んで聴かせてあげて、それからセックスをするという儀式です。男の子は色んな本を読んであげました。文学作品が主ですが、たまには漫画も読んで聴かせていたみたいです。
読んであげたのが『ドラ◯ンボール』でなくて幸いでした。

「いくぞ! ヒュッ、ビュッビュッ ガシッ ズガッ ドグッ ブオォォ カメハメ・・・波! ボッ むん バシュッ ドゴーン シュタッ ・・・やるな」

みたいに読まれても、「嫌な婚約者から逃げてイケメンとカーセックスを楽しんでいた女の人」はわけわからなかったでしょう。
漫画つながりで思い出しましたが、何を読んでも「北斗の拳」になる漫読家の人は今どうしているんでしょう。あの人主役で本作をリメイクしたらむちゃくちゃ面白くなるでしょうね。

ともかく、そんなこんなで読書と裸と年上オトナ女性との夏をすごした男の子ですが、ある時「イケメンといちゃついていたら船が氷山に当たり散々な目にあった女の人」が突然姿を消してしまい、他の同級生たちから見れば圧倒的に濃密な恋愛はあっけなく幕を閉じました。
彼女はバスの車掌から事務職への昇級を告げられたのに、嫌な顔をしていたことを男の子は知る由もありません。この昇級のシーンは上手い伏線の張り方ではあるんですが、前半でここだけが主人公不在のシーンなのでちょっと違和感ありました。

そして時は流れて、男の子は大学院生になっていました。彼は大学のゼミで法律を学んでいました。ちなみにゼミの教授はちょっと前に観た映画で「なちすどいつ」という国の総統を演じておられたブルーノなんとかという方が演じていました。ついでに男の子の大人時代を演じているのは、昔観た映画で収容所で気まぐれにユダヤ人を殺しまくる「なちす」の怖い軍人さん役でブレイクしたレイフなんとかという人です。どういう師弟だよと突っ込みたくなります。
そして彼はゼミの一環で傍聴することとなったある裁判で、再会してしまうのです。「豪華客船が沈みイケメンに氷の海に浮かぶ板きれを支えさせて自分一人生き残った女の人」と。
すっかり、「イケメンを捨て石にして生き残り、しかも逃げ出した婚約者の宝石だけはちゃっかり自分のものにしていた」罪を問われるのかと思ったら、彼女は「なちすどいつ」時代に「しんえいたい」に属していて、ユダヤの皆さんを移送中に拘置所がわりにしていた教会が火事になったのにドアを開けず何百人が焼け死ぬのを黙って観ていたというのです。
しかし彼女的にはそんな秘密は比較的どうでもよくて、もっとずっと誰にも知られたくない秘密があったのです。それは世間的にはその程度のことと笑われる程度のことかもしれません。また彼女がその秘密になぜそれほど執着するのかも描かれません。しかし世界でただ一人、その秘密がわかってしまった人がいました。それは別にジャックという名のディカプリオではなく、っていうかそいつは豪華客船と一緒に氷の海に沈んだからどのみち関係なくて、彼女の秘密を知ってしまったただ一人は、彼女と一夏の読書と下半身のロマンスを重ねた主人公の男の子だったのです。
もちろんその彼女の秘密とは、豪華客船で婚約者からもらった紺碧のなんとかという宝石を隠し持っていることではありません。


---所感---

映画監督としてはまだたったの三作しか撮っていないが、すでに巨匠の風格ただよう才人スティーブン・ダルドリー。「リトル・ダンサー」はそのころ流行りのイギリス映画の集大成のような作品であり、どストレートな物語で、文句なしに泣けるお薦め映画だったが、作家性というものは感じられなかった。だが「めぐりあう時間たち」と本作と、不思議で独自なワールドを展開中。大注目の監督だ。(ついでに、先日のトニー賞授賞式でも、舞台版リトル・ダンサーが圧勝で、ダルドリーも演出賞を獲っていた。)
映画三作に共通して言えるのは、傍役たちが多彩で魅力的で無駄がないこと。そして様々な人々とのかかわり合いで、主人公も周りも変わっていくというところだ。と言いたいところだが、本作では多くの人々の変化を描く一方で、「収容所から学ぶものは何もない」と断言するユダヤ人女性がいて、同じように「収監生活で成長などしない」と悪びれずに言うハンナがいる。シナリオの基本原則「キャラクターの成長こそが感動を与える」の逆計算として、「歴史の暗部に感動のドラマなどない」→「従って成長がない」→「歴史の重さが伝わる」という仕組みと考えると、やはり物語を大事にする監督なんだと思う。
主人公はやりたいだけのガキに、真っすぐな青臭い倫理観が備わることで、情と倫理の板挟みに悩み、やがて包容力をもった大人へと明らかに成長していく。だから成長を否定するハンナとの距離を痛烈に感じ、観るものは寂しさがつのる。人は成長するものと信じて疑わなかった彼の、ハンナに対する淡い期待はあっさりと否定され、彼女との決してうまらない距離を感じる。その距離は出会ったときから少しも変わっていなかったのかもしれない。

人の本質とか、背負う業とかが垣間見える中で、人ととしていかに人と付き合っていくか・・・そんなことを考えさせる、深い物語だったと思う。
物語としてはベタだったリトル・ダンサーが10年後も代表作として語り継がれていくのかも知れないが、「めぐりあう時間たち」や本作のような先の読めない複雑非予定調和ドラマこそが彼の真骨頂だろう。


---深読み 『ザ・レディ・ウィズ・ザ・ドッグ$ミリオネア』---

なぜハンナの読んでいた「犬をつれた奥さん」やハンナの書いた手紙は英語だったのか?
(A) 英語作品の方が売れるに決まってるから。
(B) レイフ・ファインズの声が「THE」といってるのに「DER」に◯つけたら観客が混乱するから。
(C) 実はハンナは英米系ユダヤ人の監視担当で英語に堪能だったという裏設定がある。
(D) ドイツ近代史を描く上での計算があった。

「D」
「ファイナルアンサー?」


----
本作はドイツを舞台に、主人公の人生と近代ドイツ史が交錯するドラマである。
にもかかわらず、主要な役はイギリス俳優が演じ、台詞は英語である。わざわざブルーノ・ガンツにまで英語を喋らす。
もちろんそんな映画は「シンドラーのなんとか」など、他にいくらでもあるし、個人的には「舞台となる国の言語を喋らない」という理由で映画の評価を下げる考えには賛同できない。
本作の場合もマーケットの需要を考えて英語作品とした・・・というのが正しいところだろう。
だがあえて、もう少し野心的な理由があったんではないかという前提で、その理由を推察してみる。ようするに深読みである。

本作で「そうはいってもさすがに違和感」だったのは、ハンナが「犬をつれた奥さん」で文字を覚えるくだりである。
言葉が英語であっても、劇中に写り込む文字はご当地の言語を使うのが普通であるが、ハンナが図書館から借りた「犬をつれた奥さん」の表題はドイツ語の「Die Dame mit dem Hündchen」でなく、英語の「THE LADY WITH THE DOG」であった。中の文章も英語で書かれている。
しかもハンナはマイケルから贈られたテープの「ザ」という音が文章中の「THE」に相当することに気付き、文中の「THE」に◯で印をつけていく。言うまでもなく「THE」は英語の定冠詞で、ドイツ語の場合「DER(男性系)」「DIE(女性系)」「DAS(中性系)」となり、しかもそれぞれが活用によって変化する。英語なら定冠詞をきっかけに文字を覚えるというのに説得力があるが、ドイツ語だと大変だろう。
さらにハンナがマイケルに書き贈った手紙も英語で書かれている。
映像では確認できなかったが、もしかすると裁判の証拠品だったナチの命令書も英語で書かれていたのかもしれない。

とはいえ、これだって珍しいことではない。「魔女の宅急便」のキキは堂々と日本語の看板を掲げていたじゃないか。遥か昔の宇宙の彼方で「R2D2」なんてローマ字名のロボットがいるはずないだろ。
だが、舞台がどこであろうとも成立可能な物語と、特定の国でなければ根本的に成立不可能な物語とでは、文字の重要度が違う。
まして本作はドイツ近代史を描くかのような物語である。

文字の扱いから考えるに、本作の舞台はドイツではなく、「ドイツと同じ歴史を持つが英語を公用語とするパラレルワールドの国」なのだ。そういえば主人公の名前「マイケル」も英語型で、ドイツ語だと「ミヒャエル」となるはずだ。

そこで仮説(1)として、そもそも本作ではドイツの近代史について真剣に取り組む気はなく、ただマイケルという男の人生を通じて人間の闇を描きたかった・・・という考えが浮かぶ。ドイツみたいだがドイツではない架空の国の物語なのだから、実際の歴史は二の次三の次という考えだ。
だが、そう考えるには扱う題材があまりに重すぎる。ただドラマのきっかけとして持ち出す歴史的事件としてホロコーストはあまりに重い。やはり作り手にはホロコーストとドイツ近代史を、登場人物たちのドラマと同じ比重で語りたかった意図があったと考えざるを得ない。

ではなぜに英語世界というパラレルワールドにしたのだろうか。
私が着目したいのは中盤でブルーノ・ガンツ演じる法科の教授が語る、法律家の理念である。
「裁きの基準は善悪でなく法に反していたかどうかである。しかも事件当時の法に。」という趣旨のことを教授は言う。
これはつまりは歴史を客観視せよ、ということであり、それが本作のもう一つのテーマだったのかもしれない。
そうはいっても当事者たち(ユダヤ人とドイツ人)にとっては感情的にならざるをえない題材である。が、あえて、中立的に客観視するため、そしてそのような史観を、特に当事者たるドイツ人やユダヤ人に語るため、「言語の英語化」というワンクッションをはさんだのではないだろうか。
つまり仮説(1)「ドイツ近代史に真剣に取り組む意図がない」は間違いで、仮説(2)「必要以上に真剣に考えさせて感情的にさせないため」と考えてみる。
だからこそ、映画の常套手段として数百のユダヤ人捕虜が焼死した教会の火事や、強制収容所の再現映像をさしはさむような、いたずらに感情を刺激させる演出は行っていない。
ハンナという人物を裁くに当たり、映画の観客と主人公マイケルを同じ条件に置いている。判断材料は、裁判での発言と、呈示された証拠品と、マイケルが自分で観て聴いたことのみだ(だからストーリー紹介でも書いたようにマイケルの全く介在しないハンナに昇進が告げられる場面が違和感なのである)。お前たちはこの人をどう裁く?と映画は英語で問いかけ、我々は冷静に考える。
冷静に、公正にに歴史を描くため、およびメインのドラマがかすれないよう歴史の重苦しさを緩和するために、作品舞台を「英語ドイツ」にしたのかもしれない。ドイツ人がドイツ語で撮ったら「開き直ってる」と思われかねない。

もちろん、あくまで深読み。ヒット狙いで英語作品にしたと考える方が無理がない。
原作はドイツ人によるドイツ語の本。制作総指揮は超大物のユダヤ系プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタイン。監督はイギリス人。加害者と被害者と第三者による歴史分析と考えてみるのも面白いと思ったのである。

というわけで答えは(A)でした。


[追記]
プロデューサとして、2008年に亡くなったお二方、アンソニー・ミンゲラとシドニー・ポラックが名を連ねている。この映画を見ることなく亡くなったのかと思うと悲しい。もしあの2人のどちらかが監督したら・・・もっとベタベタなメロドラマになって、それはそれで面白かっただろうなと思う。

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2 コメント

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コメントありがとうございます (しん)
2009-07-21 18:57:37
>きぐるまんさま
缶のなかに婚約者からくすねた宝石が入ってたらどうしようかとあせりましたが、すでに海に捨ててあったのでしょう
返信する
TBありがとうございます。 (きぐるまん)
2009-07-20 21:20:49
>「豪華客船が沈みイケメンに氷の海に浮かぶ板きれを支えさせて自分一人生き残った女の人」

そうでした(笑)。
この映画でひとり彼女だけが実刑に処されたのは、あながちそんな過去の経緯と無縁ではないのかもしれませんね。
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