マーラー交響曲1番〜4番の感想
第1番「巨人」
まだ20代のマーラーが初めて書いた交響曲。その後のマーラー作品と比べるとその青臭さが異質すぎてこわい。しかし結局一番楽しく聴けるのがこの1番だ。
「巨人」というタイトルに似合わず、巨人がのっしのっし歩いてる感があるのは第3楽章くらいで(別にウルトラマン的な意味での巨人てわけじゃないんだろうけど)、他は楽しいフェスティバルっぽい
第1楽章のカッコーの鳴き声のような、森のざわざわ感
バーンスタインの演奏ノリノリ
第2楽章のついに踊りがはじまったぜ~な感じ
第3楽章のうってかわって重い足取りの行進(どっかで聞いたことのあるヨーロッパ民謡のマイナー転調)
第4楽章でなんかよくわからんけど、壮大に盛り上がって終わる
なんでも巨人が生まれて最後に死ぬという曲なんだとか。
うーん、そんな風には聞こえん
CDはバーンスタイン×ニューヨークフィルハーモニックの1966年版を購入
ノリノリなバーンスタイン演奏のおかげでマーラーもバーンスタインも大好きになれました。
第2番「復活」
第1番の巨人が復活するという曲らしい。ますますよくわからん。そんなすぐに復活するって、ミスタースポックか?
第1番の青臭さはどこへやら、突然巨匠風ふかし始めた感のあるマーラー
よく第7番が一番難解とか言われるけど、僕には2番の方が難解だ。長いしな~
何がしたいのかよくわからん。とはいうものの、それでも結構聞けちゃうのだからマーラーって天才なんだなあ
やたら重々しい1楽章、モーツァルトっぽい2楽章、3楽章、歌なんか入れちゃう4楽章(終楽章へのつなぎみたいな)んでもってやっぱりどっかーん盛り上げる第5楽章
CDはブルーノ・ワルター指揮で彼の晩年に近い1958年録音のニューヨークフィルハーモニック版
5楽章でブラスがブビビって鳴り出すとこで、おおなんかやばいこと始まるぜって不安と期待を抱かせ、一気にラストへ
ニューヨークフィルのブラスの音ってなんともいえず味のある軽さだ。アニメのBGMみたいな。これはワルターの特長なのか、NYフィルの味なのか、そもそものマーラーの指示なのか、よくわからんが
ブルーノ・ワルターはマーラー本人に可愛がられた指揮者。マーラーと同じユダヤ人として気心通じるところがあったのかもしれないが、マーラーは新曲書くたびにワルターに指揮をさせたという(ショスタコーヴィチとムラビンスキーの関係に似て)。
だからワルターの演奏するマーラーが一番マーラー本人の想定した演奏に近いはずである
マーラーは1911年に亡くなったが、ワルター(1867-1962)はマーラーが亡くなった頃はまだ30代。その後ワルターのドイツでは反ユダヤ主義が吹き荒れ1933年にはナチスが政権を取る。ユダヤ人ワルターは迫害を逃れてアメリカへと渡る
第3番
演奏時間トータルで100分近くになる大作。マーラー全曲中一番長い。ある時期まで最も長い交響曲としてギネスブックにものっていたらしい。ぶっちゃけ全曲ぶっ通しで聞いたことは無い
けれども自然描写的な響きのなかに、色んな音楽がおもちゃ箱ひっくり返したようにちりばめられていて、長いけど聞いていて疲れない。ふしぎとマーラーのキーワードたる「苦悩」はあまり感じられず楽しく聴ける。
CDはクラウディオ・アバド とウィーンフィルの1980年録音を購入。
のちにカラヤンの死後にベルリンフィルの首席指揮者になるアバド だけど、ベルリンフィル時代は評価があまりよろしくないが、カラヤン色の強いガチガチなベルリンフィルにいい意味でのユルさを与えたのは良かったと思う。
このマラ3にしても、聞き比べてないから断言できないけど、クラウディオ・アバドという熱血(フルトヴェングラーやバーンスタイン型)でも冷血(カラヤンやムラビンスキー型)でもどちらでもない、力抜いて気楽にやろうぜな脱力型指揮者と、ウィーンフィルの美音がいい感じでハマったのだと思う
第4番
マーラーという人はベートーベンやチャイコフスキーのようなキャッチ―なメロディを書く人ではない。そういう性分なんだろう。ところが1番と4番に関しては例外的にメロディがキャッチ―だ。
1番は初めての交響曲だし若気の至りで大体説明可能に思えるが、4番のころはすでに巨匠といえる存在だったはず。なにがあったマーラー
マーラーの交響曲は、躁と鬱を繰り返し、悩み疲れ喜び悲しみ踊り恐れ最後に「解脱する」曲が多い。
もちろん解脱という表現はカトリックのマーラーにも、ユダヤ人のマーラーにもふさわしくないのだけど、なにか一番それが近い表現の気がするのだ
ところがこの4番は終始「躁」というか、ずっとお花畑、イキっ放しな感じが、他の交響曲と比較した時にあまりに異様だ。
でも・・・マーラーによると1番から4番で一つの長大な交響曲を構成するのだという。
(あの長い3番でさえ、長大曲の一部に過ぎんとは・・・)
そう思うと長大曲の終楽章としてなら、全編HEAVENなこの第4番はマーラーとしての一貫性が保たれているのかもしれない
ぼく個人は1番から4番を初期マーラーと位置付けたい、この辺までは、わりと聴きやすいマーラー
だが一方でマーラーらしさは2番にその片鱗はあるが、まだ薄い
4番だけはCDを2枚買った。
ゲオルグ・ショルティ×シカゴ交響楽団版(1983年)と、ベルナルト・ハイティンク×ロイヤルコンセルトヘボウ版(これも1983年)だ。
後者は望んで買ったというよりは欲しかった7番のカップリング扱い
そんな収録時間の隙間埋めに使えるくらい、どれも基本長いマーラー交響曲の中では4番は短くてよい(といっても55分くらいはあってベートーベンなんかより全然長いのだが)。
ショルティ版に慣れてからハイティンク版聴くと、あちこちのため方が木村拓哉の歌い方みたい…などと思ってしまったり
ハイティンクのクセの強さは、調味料で言えば、ガーリックかなあ
対してショルティは、自分の色など出さないで、必要なことは楽譜に全部書いてあると言わんばかりに、個性を排した演奏をする。それにより作曲者の意思を、作品それ自体の魅力を引き出す。料理の腕より素材の味を活かすショルティは調味料で言えば「塩」だと思う。
もちろん、ショルティのスペルがSOLTIだからというダジャレでもありますが。
じゃあ、バーンスタインは?オレオレ感の強いあの人はチリソースかな
カラヤンは?セレブ感かつ濃厚なあの人は、乾燥アワビとか(調味料か?)
この例えでいうと小澤征爾さんってやっぱ醤油だろうなあ
アバド は?決まってんでしょ。砂糖ですよ。
などとしょうもないことで一人で盛り上がりつつ、この駄文を終えます
第1番「巨人」
まだ20代のマーラーが初めて書いた交響曲。その後のマーラー作品と比べるとその青臭さが異質すぎてこわい。しかし結局一番楽しく聴けるのがこの1番だ。
「巨人」というタイトルに似合わず、巨人がのっしのっし歩いてる感があるのは第3楽章くらいで(別にウルトラマン的な意味での巨人てわけじゃないんだろうけど)、他は楽しいフェスティバルっぽい
第1楽章のカッコーの鳴き声のような、森のざわざわ感
バーンスタインの演奏ノリノリ
第2楽章のついに踊りがはじまったぜ~な感じ
第3楽章のうってかわって重い足取りの行進(どっかで聞いたことのあるヨーロッパ民謡のマイナー転調)
第4楽章でなんかよくわからんけど、壮大に盛り上がって終わる
なんでも巨人が生まれて最後に死ぬという曲なんだとか。
うーん、そんな風には聞こえん
CDはバーンスタイン×ニューヨークフィルハーモニックの1966年版を購入
ノリノリなバーンスタイン演奏のおかげでマーラーもバーンスタインも大好きになれました。
第2番「復活」
第1番の巨人が復活するという曲らしい。ますますよくわからん。そんなすぐに復活するって、ミスタースポックか?
第1番の青臭さはどこへやら、突然巨匠風ふかし始めた感のあるマーラー
よく第7番が一番難解とか言われるけど、僕には2番の方が難解だ。長いしな~
何がしたいのかよくわからん。とはいうものの、それでも結構聞けちゃうのだからマーラーって天才なんだなあ
やたら重々しい1楽章、モーツァルトっぽい2楽章、3楽章、歌なんか入れちゃう4楽章(終楽章へのつなぎみたいな)んでもってやっぱりどっかーん盛り上げる第5楽章
CDはブルーノ・ワルター指揮で彼の晩年に近い1958年録音のニューヨークフィルハーモニック版
5楽章でブラスがブビビって鳴り出すとこで、おおなんかやばいこと始まるぜって不安と期待を抱かせ、一気にラストへ
ニューヨークフィルのブラスの音ってなんともいえず味のある軽さだ。アニメのBGMみたいな。これはワルターの特長なのか、NYフィルの味なのか、そもそものマーラーの指示なのか、よくわからんが
ブルーノ・ワルターはマーラー本人に可愛がられた指揮者。マーラーと同じユダヤ人として気心通じるところがあったのかもしれないが、マーラーは新曲書くたびにワルターに指揮をさせたという(ショスタコーヴィチとムラビンスキーの関係に似て)。
だからワルターの演奏するマーラーが一番マーラー本人の想定した演奏に近いはずである
マーラーは1911年に亡くなったが、ワルター(1867-1962)はマーラーが亡くなった頃はまだ30代。その後ワルターのドイツでは反ユダヤ主義が吹き荒れ1933年にはナチスが政権を取る。ユダヤ人ワルターは迫害を逃れてアメリカへと渡る
第3番
演奏時間トータルで100分近くになる大作。マーラー全曲中一番長い。ある時期まで最も長い交響曲としてギネスブックにものっていたらしい。ぶっちゃけ全曲ぶっ通しで聞いたことは無い
けれども自然描写的な響きのなかに、色んな音楽がおもちゃ箱ひっくり返したようにちりばめられていて、長いけど聞いていて疲れない。ふしぎとマーラーのキーワードたる「苦悩」はあまり感じられず楽しく聴ける。
CDはクラウディオ・アバド とウィーンフィルの1980年録音を購入。
のちにカラヤンの死後にベルリンフィルの首席指揮者になるアバド だけど、ベルリンフィル時代は評価があまりよろしくないが、カラヤン色の強いガチガチなベルリンフィルにいい意味でのユルさを与えたのは良かったと思う。
このマラ3にしても、聞き比べてないから断言できないけど、クラウディオ・アバドという熱血(フルトヴェングラーやバーンスタイン型)でも冷血(カラヤンやムラビンスキー型)でもどちらでもない、力抜いて気楽にやろうぜな脱力型指揮者と、ウィーンフィルの美音がいい感じでハマったのだと思う
第4番
マーラーという人はベートーベンやチャイコフスキーのようなキャッチ―なメロディを書く人ではない。そういう性分なんだろう。ところが1番と4番に関しては例外的にメロディがキャッチ―だ。
1番は初めての交響曲だし若気の至りで大体説明可能に思えるが、4番のころはすでに巨匠といえる存在だったはず。なにがあったマーラー
マーラーの交響曲は、躁と鬱を繰り返し、悩み疲れ喜び悲しみ踊り恐れ最後に「解脱する」曲が多い。
もちろん解脱という表現はカトリックのマーラーにも、ユダヤ人のマーラーにもふさわしくないのだけど、なにか一番それが近い表現の気がするのだ
ところがこの4番は終始「躁」というか、ずっとお花畑、イキっ放しな感じが、他の交響曲と比較した時にあまりに異様だ。
でも・・・マーラーによると1番から4番で一つの長大な交響曲を構成するのだという。
(あの長い3番でさえ、長大曲の一部に過ぎんとは・・・)
そう思うと長大曲の終楽章としてなら、全編HEAVENなこの第4番はマーラーとしての一貫性が保たれているのかもしれない
ぼく個人は1番から4番を初期マーラーと位置付けたい、この辺までは、わりと聴きやすいマーラー
だが一方でマーラーらしさは2番にその片鱗はあるが、まだ薄い
4番だけはCDを2枚買った。
ゲオルグ・ショルティ×シカゴ交響楽団版(1983年)と、ベルナルト・ハイティンク×ロイヤルコンセルトヘボウ版(これも1983年)だ。
後者は望んで買ったというよりは欲しかった7番のカップリング扱い
そんな収録時間の隙間埋めに使えるくらい、どれも基本長いマーラー交響曲の中では4番は短くてよい(といっても55分くらいはあってベートーベンなんかより全然長いのだが)。
ショルティ版に慣れてからハイティンク版聴くと、あちこちのため方が木村拓哉の歌い方みたい…などと思ってしまったり
ハイティンクのクセの強さは、調味料で言えば、ガーリックかなあ
対してショルティは、自分の色など出さないで、必要なことは楽譜に全部書いてあると言わんばかりに、個性を排した演奏をする。それにより作曲者の意思を、作品それ自体の魅力を引き出す。料理の腕より素材の味を活かすショルティは調味料で言えば「塩」だと思う。
もちろん、ショルティのスペルがSOLTIだからというダジャレでもありますが。
じゃあ、バーンスタインは?オレオレ感の強いあの人はチリソースかな
カラヤンは?セレブ感かつ濃厚なあの人は、乾燥アワビとか(調味料か?)
この例えでいうと小澤征爾さんってやっぱ醤油だろうなあ
アバド は?決まってんでしょ。砂糖ですよ。
などとしょうもないことで一人で盛り上がりつつ、この駄文を終えます