65年の映画、市川崑監督の『東京オリンピック』を今更ながら鑑賞。実は初見。あまりの面白さにリアルタイムのオリンピック中継観ずに3時間の作品一気見。
公開当時から批評家筋からは記録か芸術かで議論されていたそうで、それでも映画は大大大ヒットし観客には熱く支持されたという。
なるほど、これは確かに芸術性の追求をあちこちから感じる
ほぼ前情報なしで見始めたのだけど、時々ものすごく美しいキメキメの画があって(ど真ん中に富士山あって画面の左から右に聖火ランナーが駆け抜ける画とか、聖火台に登る最終ランナーを望遠でワンカットでしかし縦の動きだけで追うカメラワークとか、女子体操を真横から撮るスローの画とか、走るアベベを望遠でクローズアップのまま追いかける画とか)、なんとなく宮川一夫のカメラではないのか?と調べてみたらやっぱり宮川一夫が撮影でクレジットされていた。もちろん大勢のカメラマンの一人ではあるけど、演出上(編集の上で)重要なショットは宮川一夫と市川崑で話し合って撮っているのでは?と想像。
レスリングや重量挙げでの選手の腕の筋肉へのクローズアップも美しい。
全体的にいい場面のダイジェストにしようという意図よりは、テレビ中継では絶対抜けないような画、ニュースではオミットされそうな瞬間などを意識的に多くして構成している。
芸術性の追求に関しては、スローモーションの多様にも見られ、100m決勝などスタートからゴールまでのワンカット映像を全部スローで撮っている。そのくせ実況の声はスタートからゴールまで途切れることなく喋り続けている。映画によると100mの優勝タイムは10秒00とのことだが、全部スローモーションだから映像では20秒くらい。その間ずっと実況が喋り続けているのだから、ここは明らかに実況はアフレコなんであろう。
その他、全般的に効果音は後付けと思われ、もしかすると一部の映像も後から別撮りしたのもあるのかもしれない。
が、しかし、そうした全ての作為はラストの一文に見られるように「オリンピック=夢。しかし夢で終わらせてはいけない」を表現するための演出であって、ただの記録ならNHKあたりのまとめ映像で十分であって、やはり市川崑としてはオリンピックという特別なイベントに自身の想いをたっぷり乗せて、映像詩として作りたかったのだと思う。
それにもかかわらず、本作からは当時のオリンピックの熱気と興奮が蒸せ返っていて、記録性ももちろんある。
10000メートル決勝で最下位の選手が周回遅れでゴールを目指す姿を大観衆が拍手と歓声で讃える。そうだよ、これこそオリンピックの良さであり、本当の意味での「オモテナシ」ではないか。一年もの期間がありながら無観客でコロナに打ち負けた証のオリンピックしか出来なかったバカで無能な政府はまず世界のアスリートに謝れ!
当時のドイツは東西合同チームとして参加し、金メダルを取った選手を称えて流したのは国歌ではなくベートーベンの歓喜の歌だったとか、マラソン沿道の街並み(多分当時の新宿あたりかな?オレンジ一色の中央線が走っている)や、疲れて立ち止まってドリンクをごくごく飲む選手たちとか、立ち止まった選手たちにがんばれ諦めるなと声をかける沿道の人たちとか(あるいはアフレコかもしれんけど)
そして閉会式の楽しそうな、国境の垣根を越えて、いろんな国の選手が入り乱れて、満席の喝采を浴びて…2021年には見ることがかなわないであろう、この光景こそ、オリンピックの夢と希望
オープニングで第一回からの歴史を伝えて、戦争による中止が過去に3回あったことを伝える。戦争がなければ世界は、一つになれる夢を見れるし、それを夢で終わらせてはいけないと、強いメッセージが伝えられる。
いつのまにかオリンピックは経済効果でしか語られなくなり、その経済効果すら絶望的に望めない二度目の東京オリンピックのこの時期に、オリンピックに夢と希望を重ねられた時代の作品を見るのは色々な意味でつらい
ラストのカットは、夕日の太陽のクローズアップ。赤く染まった空に、白い太陽が浮かぶ。これは日の丸の赤と白を逆転させた画。
オリンピックは日本で行われ、日本人が楽しんだかもしれないけど、本当は日本だけのためのイベントではない。ニッポンニッポン言うためのイベントじゃない…とそんなことを訴えていると赤白逆の日の丸みたいな画を観て強く思った