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映評『コーダ あいのうた』 〜プログラムピクチャーでいいじゃない

2022-03-28 01:43:00 | 映評 2013~
『コーダ あいのうた』をアカデミー賞授賞式の前日に映画館で駆け込み鑑賞
いつもだと何日か寝かしてから映評を書くのですが、
もし、アカデミー賞とってしまうと、自分の中の評価が変わるかもしれないので(おいおい笑)、緊急リリース。

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原題は「Coda」
私はこれは音楽用語で「終曲部」を表すあれかと思っていた。音楽の映画だし。
でも「Coda」にはもう一つの意味がある。
Childlen Of Deaf Adults
聴覚障害の親を持つ子供

なるほど、素晴らしいダブルミーニングのタイトル。

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耳の聞こえない両親と兄を持つ「聞こえる」娘が本作の主人公。
早朝、漁師の父と兄の漁船に乗り込み、漁を手伝う高校生の娘の姿から映画は始まる。後のシーンでわかるが沿岸警備隊からの無線連絡に対応できるように、漁船には聞こえる者が最低1人乗っていなくてはならない。
娘はなかなかの美声で歌を歌いながら網の巻き上げ作業などを大人の男たちとともに慣れた感じで手伝っている。
こうして思い返すと映画の基本設定の全てを語る秀逸なオープニングシーンだ。

ティーンで可愛い盛りの娘、ルビーは、オシャレとも可愛いとも縁のない姿で生臭さがスクリーンから漂ってきそうな漁船で働き、しかも彼女のステキな歌声はそばにいる父と兄には聴こえていない。ルビーはあるいは聴こえないとわかるから伸び伸びと歌えるのかもしれない。下手くそとかうるせーとか言われないから。逆に絶対そう言うことを言われない環境でしか歌ったことがないから、自分の歌がうまいのか下手なのかわからない。
そして可愛いとか楽しいとかヤバいとかマジうけるんだけどとかそういうのと全く縁のない世界で、家族のために魚臭いところで汗まみれになって働いている。それは仕方がないことだと思っている。

そしてルビーはちょっと気になるイケメン同級生に近づきたくて、彼と同じ部活に入ったらそれは合唱部だった。
「巻き舌を使うベルッルルルナルドだ。発音できない奴はV先生と呼べ」などと言うような相当めんどくさい感じの顧問のベルナルド先生の合唱部。はじめて他の同年代のしかもまあまあ歌のうまい子たちの前で、歌わなくてはならなくなる。それも「ハッピーバースデイ」というどんなアホでも知ってるあの歌を。人前で歌うのが怖くて部活初日は部室から脱走。
しかし歌の好きなルビーは他の生徒のいない時間を狙ってベルナルド先生のいる音楽室にやってくる。
先生の即席発声特訓の結果、おや、この子は見込みあるぞと「メガネにかない」、個人レッスンを受けることになる。
先生は彼女の才能と歌を愛する気持ちを見抜き、バークレー音楽大学の推薦入学枠へのチャレンジを奨める。
しかし、唯一の健聴者であるルビーがいないと魚のセリもままならない家族。しかも政府の理不尽な政策のために家業の売上は落ちる一方。ある日度重なるピンハネにキレた父と兄は、漁協の寄り合いで漁協から独立し起業をするとぶち上げる(手話で、娘ルビーの手話通訳で)。しかし起業っていっても常時一緒にいてくれる手話通訳がどうしても必要なわけで…
自分の夢と家族の二者択一を迫られた10代の女の子の成長と青春の物語。

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Codaとは最初にも書いたように音楽の終曲部のことをさす音楽用語としての意味もある。ベートーベンの第九の第四楽章で言えば最後の1分半くらいのところ。
楽曲を終わらせるための主旋律とは違う部分。
これをルビーの一家の「娘が産まれて4人家族になった一家が4人でなくなるまでの18年間」を描いた交響曲第1番とするなら、この映画の物語はまさに終曲部「コーダ」にあたる。
映画の中で歌われる歌は、そんなクラシックでなく、ポップソングだけど。
クライマックスで歌われるのは、アメリカンポップスは詳しくないけど、ジョニ・ミッチェル作詞作曲の「青春の光と影」。原題"Both Sides, Now"→今、二つの立場から→青春真っ只中の立場から見た場合と、過ぎ去りし日々として振り返った立場で見た場合の両方から今を見つめ直す、そんな意味。
青春の只中のルビーが、自分だけでなく親の立場にも立って今を語ってみる。そんな、あの場にふさわしい心温まる詩ではないか。

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本作はアカデミー賞で作品賞、脚色賞、助演男優賞(お父さん役のトロイ・コッツァー)の三部門にノミネート。
と言っても上記以外の部門には一切ノミネートされず、とくに監督賞と編集賞にノミネートされていないことから、当初はアカデミー賞作品賞候補作の中では泡沫候補のように見られていた。配給権を手に入れたAppleが、全然キャンペーンをしなかったからとも言われている。
しかし、アカデミー賞授賞式が近づくにつれ様々な賞をとり始め、観客評価も非常に高く、作品賞本命とされる「パワーオブザドッグ」をもっとも脅かす存在とも言われるようになった。

アカデミー賞は作品賞だけ選考方法が他の部門と異なる。(投票方法と選考方法の違いは当ブログの以下記事に書いてあります。)



それによって「大大大好きなファン」と「大大大嫌いなアンチ」を生み出すような作品よりも、大大大好きなファンは少なくても大好きな人が多くて大嫌いな人の少ない作品が、作品賞を受賞しやすくなっていると言われる。
「コーダ」はまさにそんな感じの映画で、これを「最高の一本」とする人は多くはないかもしれないが、「嫌いだ」という人は少ないと思う。
いや、うるせえ批評家や「シネフィル」やクセの強い映画監督は、「コーダ」なんてただのプログラムピクチャーじゃねーかと批判するのかもしれない。
でも私はこの映画は、その通りプログラムピクチャーだ。だからいい。…と言えると思う。

「コーダ」にはこれまでの価値観をひっくり返されるような危なさはないし、この作品を契機に映画が変わってしまうような表現としての斬新さは何もない。
物語はテンプレートに乗せて作られたようでもある。
夢がある主人公がいて、彼or彼女の才能を見出して指導する先生がいて、しかし主人公は夢を諦めなくてはいけない状況がのしかかり、でも家族や仲間の支えで夢をかなえる…という話。
「リトルダンサー」とか「フラガール」とか似たような話はいくつも思いつく。類型的と言ってもいいけど、同じような物語であってもやっぱりまた感動できてしまうというのは、こうした作品が鉄板ジャンルだから…で済ませてはいけない独自の魅力があるに違いない。
「コーダ」に関して言えば、見た人の多くがどこかに共感できるところがあるからかもしれない。
障害をもった家族がいる、という経験はなくても、家族に理解されないとか、同級生に馬鹿にされて恥ずかしいとか、夢を諦めざるを得なかったこととか、そういう誰しも少しは経験した思い出をくすぐるからではないか。
そして主人公だけでなく、家族も社会と闘っている。障害者差別もあるけどむしろ、働いても働いても楽にならない社会の歪みとの闘いもある。
主人公以外の誰かに共感対象を移すのも容易そうだ。
そういえば貧困層を扱うという点では「パラサイト」「ノマドランド」に通じるし、プアーホワイトを扱う点では「ノマドランド」に通じている。
時代設定も「リトルダンサー」や「フラガール」のように過去のいつかでなく、現在のアメリカでの物語だし、そういうところでも「パワーオブザドッグ」よりアメリカ人の、共感を得やすいのかもしれない。

少し話はそれたかな。そうそうプログラムピクチャーで何が悪いという話だった。
コロナでろくに映画館にもいけず、観たことないようなすごい映画もいいのだけど、素朴な普通に笑って泣ける家族の物語だってやっぱり時々は観たくなる。過去の自分や今の自分と重ねて想いにひたり、しかも現代社会へのうっすらした問題提起にもなっている「コーダ」は観るものの心の糧になってくれるような気がする。
もともとプログラムピクチャーってやつは定期的にお馴染みの物語に浸りたい客のために作っていたのではないか。表現が多様化して皆が変わったことをやり始めて、むしろプログラムピクチャーとしてのハートウォーミングコメディがあまり観られなくなってきたからこそ、こういう映画はすっと心に沁みる。

おそらくAppleがオスカーキャンペーンをろくに行わなかったのも、いい映画だがそんな大した映画じゃない、と思っていたからではないか。有名スターも出ていないし。(お母さん役のマーリー・マトリンはオスカー女優ではあるものの、大人気スターというわけではない)
この有名俳優がいないというのはむしろ制作での狙いらしく、特にルビーの家族の面々は聴覚障害の当事者の俳優を使いたかったのだと言う。この辺にも現代社会と地続きな映画を作ろうという製作陣の熱い想いを感じる。
スターを見るための観客よりも、自分ごととして考えてくれる観客を求めていたのだ。
結果キャスティングは大成功というか、私も先入観なく、演技論とかそんな事を何も考えずに自然にルビーの家族たちの物語に入っていけた。

無名俳優だった人たちは本作で人気がでた。特にシモネタ大好きエロクソオヤジを演じたトロイ・コッツァーさんが最高で、本作でアカデミー助演男優賞にノミネートされたし、多分受賞するだろうと思われるし、とってほしい、とるべきだと思う。
シモネタで笑わせて笑わせて、世界中から愛されるが自分の娘にだけは嫌われるようなアホな親父を好演。笑わせるだけでなく、学内コンサートでのお父さん目線での静寂シーンで、ああ、お父さんがいつも過ごしているのはこういう世界なのか、と聴覚障害者の世界に誘い考えさせてくれた。また、目の前で俺のために歌ってくれとルビーに頼む姿は単純に泣けた。この映画をがっちり支えてくれた。そして役者は当事者が演じるべき…というのは、そういう方々への配慮とか政治的な理由とかでなく、作品のクオリティを上げるために必要だから、ということではないかと思える。
そうした映画におけるキャスティングのあり方を考えさせてくれたという意味でもトロイ・コッツァーの功績は大きい。


----以下ネタバレ注意----
ネタバレになるが、終盤の音楽大学のオーディションシーンは、それまでの物語の全てが結実した素晴らしいシーンだった。
その前の学内コンサートシーンで、家族が来ている事がわかっているならルビーは手話を交えながら歌えば良いのに、いや恥ずかしかったのかもしれないけど…と少しもやもやっとしたのである。
だが、そのモヤモヤを一度作ったからこそのクライマックスでの手話付き歌唱の感動。
ついでに2階席に座ってくれたおかげで姿勢も良くなり声も大きくなったことだろう。ベルナルド先生のナイスフォローもあり、みんなに支えられてこの場に立てているルビーの気持ちを思ってこっちもジーンとくる。
そうだよ、脚色も上手いんですね。きっと脚色賞も取るんではないか。
いやもしかしたら作品賞も?わずか三部門ノミネートからの作品賞受賞となれば前代未聞だが、とてもありそうな気がする。
やっぱりこれはただのプログラムピクチャーではなく、絶妙なタイミングでリリースされたある意味時代が味方したプログラムピクチャーなのかもしれない。時代を味方につけつつ時代を変えるようなポテンシャルもある。10年後20年後には忘れられるようなライトな映画かと観終わった直後くらいは思ったけれど、以外と10年後20年後に振り返った時に、時代を象徴するような重要作になっているかもしれない…まあ、そこまでいかなくても、家族映画の傑作と呼んでよいのは間違いない。

監督のシアン・ヘダーさん、初めて知りましたが女性の監督ですね。
もしパワーオブザドッグが作品賞を逃してコーダが取ったとしても、女性監督の作品が作品賞をとることには変わりなく、映画の時代の変化を象徴する作品になるかもしれません。なんて言って結局「デューン」や「ウェストサイドストーリー」が取ったりしちゃったらどうしよ!?

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コーダ あいのうた
監督・脚色 シアン・ヘダー
撮影 パウラ・ウイドブロ
出演 エミリア・ジョーンズ、トロイ・コッツァー、マーリー・マトリン、ダニエル・デュラント、フェルディア・ウォルシュ=ピーロ
2022/3/27 東宝シネマ日比谷にて鑑賞


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