映画が始まると、非西洋的で、非東洋的(中国や日本では無さそうくらいの意味)な響きの少女の歌声がかかります。
物語的にはリディア・ターとフランチェスカ(リディアの秘書)とクリスタ(後に重要な役割を果たす女性指揮者)らが民俗音楽の研究をしていたころ、南米奥地の部族の歌を収録したものだと言うことですが、そんなことよりオープニングシーンで気になって仕方ないことがありました。
オープニングクレジットが、明らかにエンドクレジットなのです。
普通はオープニングクレジットは、主要なスタッフとキャストだけを紹介するものですが、本作ではオープニングからその他大勢的な細々としたスタッフ名を流します。エンドクレジットなみの長さなので、結構な尺です。体感10分、実際には多分5〜6分の長ーいクレジットで映画が開幕します。
これが昔のフィルム上映の映画館だったら「おやおや、セットするリールを間違えていませんか?」などとドヤ顔で映画館スタッフに文句言って恥をかくところでした。デジタル上映の昨今ではそんな間違いは起こらないのです。多分。
映画を観ている時は変わったことするんだなぁ…くらいにしか思わなかったのですが、今思い返すとあれも作品の本質を示唆する演出の一つだったのだと思うようになりました。
と言うのも、本作の主人公リディア・ターは映画が始まった時点で音楽家として持てる地位と名声のほとんど全てを手にしている状態にあります。
本作のストーリーをめちゃくちゃざっくり語ると、「全てを持っていたリディアがほとんど全てを失い原点に帰る」ではないかと思います。
何も持っていない人が成功する、という普通のサクセスストーリーの逆を行っているのです。だから映画もエンドクレジットを最初に持ってきて、そのエンドクレジットも見せる順番が逆だったように思います。
さて、ここでもう二つ、私たちは序盤のトークショーでリディアが語っていた二つの事柄に注目しなくてはなりません。
一つは「指揮者は時間を支配する」の件
もう一つはマーラー5番の解釈で「私は愛を選ぶ」の件
時間の件は、リディアが指揮者として音楽の中で時間を速めたり遅めたり、時には止めたり、出来ることを指しています。ただ彼女がコントロールできる時間は、止めるか進めるかであり一方向の向きだけでした。
エンドクレジットが逆に進んでいくというオープニングは、この物語の時間が逆方向に進んでいる、つまりリディアにはコントロールできない向きであることを示唆しています。そして彼女は過去の行いによって未来を奪われるわけです。あるいは時を刻むメトロノームの音が気になって眠れなくなる中盤の些細なシーンは、時間をコントロールしているはずのリディアが時間に支配されていることの現れと言えるのかもしれません。
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さて、マーラー5番のことです。
マーラー5番は第一楽章は葬送行進曲で幕を開けます。そして第4楽章と第5楽章は対になっていると言われておりどちらも愛についての曲です。第4楽章は有名なアダージェットで、リディアのトークにもありましたがマーラーが新妻アルマへの愛を描出したもので、第5楽章はもっと軽やかで華やかな愛の讃歌のような楽章です。
つまり、マーラー5番は死で始まり愛で終わる曲ではないかと思うわけです。
人間の一生を愛の証としての誕生で始まり死で終わると考えた場合(残念ながら愛のない誕生もあるのですが、あくまで理想論として)、マーラー5番は人生を逆回ししているような印象を抱きます。
それこそ本作がエンドクレジットで始まることはマーラー5番の構成と重ねているように思えます。
さて死で始まり愛で終わるマーラー5番は、つまり、人間としての余計なものを削ぎ落としていき最終的には愛だけが残る曲なのだとします。
それに対してリディアのマーラー5番を愛の曲として振るという発言は、それだけ聞くと特別変わった解釈というわけでもありません。
しかしながらリディアの言う「愛」とはなんなのでしょうか?
本作には彼女が愛を向ける対象となる人間がたくさん現れます。
しかしそうした人間たちに対するリディアの愛はどれもこれもどこかしら歪んでいるように思えます。
パートナーのシャロンには嘘や隠し事をたくさんするし、シャロンの娘ペトラのことも愛してはいるのでしょうがペトラをいじめるクラスメイトへの強圧的な態度は見ていて恐ろしくなるくらいであり、もしかしてリディアはあんな感じで日常的に権力でマウント取るタイプなのかな?と思わせるものがあります。
チェリストのオルガには露骨な下心が見えて、作曲用の別荘(シャロンはいないリディアのプライベートスペース)に呼び出しての個人レッスンなども様々なハラスメントが問題となる昨今においてリディアのような地位にある人がやるべきではありません…が…やってしまうという彼女の人としての問題点が現れています。
秘書のフランチェスカももしかして昔「可愛がった」のかもと思うし、だからクリスタのことでもリディアはクロなんじゃないかとつい思ってしまいます。
トータルでリディアの他人に対する愛はどこか独善的で、強圧的で、相手を愛する思いよりも自分のステータスを誇示するためではないかと思うのです。
じゃあ彼女は何に愛を注いでいたのかと言えば、それは「音楽」なのではないでしょうか?
作曲にしても指揮にしても音楽に対しての真剣さは伝わってきます。ジュリアードのシーンも音楽への真剣な思いゆえに学生を傷つけるような言葉も使ってしまうのです。このシーンにも「音楽>人間」という彼女の基本姿勢が表れています。
「全てを持っていたリディアがほとんど全てを失い原点に帰る」ストーリーと言いましたが、リディアの原点とは音楽への想いに他なりません。
「モンスターハンター」のコンサートをやっつけ的に片付けるのではなく、バッハやマーラーに対しての姿勢と同じように作曲家の意図を重視し真剣に取り組む姿勢に表れています。
指揮法を聞き出そうと(パクろうと?)必死なカプランに対して模倣などやめとけと軽蔑の目を向けるリディアですが、その割にはアルバムのジャケット写真でアバドをパクったりしています。指揮法でなくジャケ写だから音楽への裏切りではないのかもしれませんし、パクリってよりパロディのつもりかもしれませんが、微妙な矛盾を感じます。
そして彼女の実家に大事に保管されていたのはバーンスタインの番組を録画したビデオテープでした。きっと音楽に関してはかなりオタクっぽいところがあったんだろうなと思います。バーンスタインのビデオを何度も何度も観て真似したりもしたんでしょうか?
そういえばマーラー5番のリハのシーンの指揮棒の振り方がどことなくバーンスタインっぽかった気もします。なんだかんだ影響は受けていたんでしょう。
ただただ音楽が好きで好きでたまらなかったあの頃に、音楽に対するピュアな愛に、色々な事件の末に回帰できたと私は思うのです。
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…と、そんなあたりが私の本作の所感になります。
この映画は3回も4回もリピートするヘビーなファンが多く、見返すたびに新しい発見があったり、作品に対する自分の解釈の間違いに気付いたり、新たな解釈が芽生えたりする…らしいです。
だから私のように一回観ただけの人間の解釈など当てにならないと思ってください。
ただ、それでも思うのは本作にとって、答え合わせ的な見方をするのは違うんじゃないかと思います。
クリスタに関してリディアはシロ?クロ?
隠し撮りしてたのは誰?
動画を編集してリディアを嵌めたのは誰?
リディアのスコアを盗んだの誰?
オルガのアパートで起こったのは本当のこと?
などなどあちこちにミステリーが散りばめられています。監督はもちろん真相を知っているのでしょうけど、どの件もヒントは散りばめつつ明確にこうだと言えるものは描いていません。せいぜい状況証拠でしょう。
だからもっともらしい告発だけで業界追放が起こるキャンセルカルチャー的な風潮への批判かもしれないし、そうは言ってもそれで干される人にも問題はあるもので権力に溺れず初心を忘れるな、という戒めもあるのかもしれません。
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ストーリーが難解なのは間違いないですが、それでもケイト・ブランシェットの間違いなくキャリア最高の演技はストーリーの難解さに関係なく観るものを映画に釘付けにします。架空の人物リディア・ターに本物以上の存在感を与えています。トークイベントのシーンも、ジュリアードのシーンも、あれが演技だなんて(書かれたセリフを読んでいるだなんて)信じられないくらい、大物指揮者が身体に、魂に宿っているように感じます。だからと言って魂をすり減らしながら演じるギラギラ系演技でもなく、そこはいつものケイブラ様っぽい余裕が見えています。
なんとなくケイト・ブランシェットベスト5
TAR/ター
ブルージャスミン
エリザベス ゴールデンエイジ
コーヒー・アンド・シガレッツ
ドント・ルック・アップ
…ってところですか
キャストで言いますと、ケイブラ様のキックを喰らいまくったパクり指揮者?のカプランを演じたのはマーク・ストロングと言いまして、私の中では『キック・アス』のラスボス印象の強い方です。キックアスではクロエ・グレース・モレッツちゃんに蹴られまくり、今回はケイブラキックを喰らいまくり、女にボコボコにされる男っぷりが凄くいい奴です。
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写真1枚目はサントラアルバムです
サントラ買う気なかったのですが、ジャケ写にウケまくってついポチッとしてしまいました。本編でも描写されていたアバドのパロディジャケ写です。そういえばジャケに写っているスコアが重要な小道具ですよね。
本作で劇伴音楽や、リディアが作曲していたピアノ曲などを作曲したのは、ヒドゥル・グドナドッティルというアイスランドのチェリストで作曲家の女性です。まだ40歳の才能溢れる女性です。『ジョーカー』でアカデミー賞を受賞しています。
『TAR/ター』の冒頭のトークショーのシーンでリディアが「4大エンタメ賞を全て受賞」と紹介されておりましたが、4大賞とは、エミー賞、グラミー賞、アカデミー賞(オスカー)、トニー賞の四つでその頭文字をとってEGOTなどと呼ばれています。
そんな人実際いるの?と思いました。多分ジョン・ウィリアムズはトニー賞は取ってないでしょう(演劇の賞だから)
バーンスタインはアカデミー賞は取っていません。
アラン・メンケンはエミー賞は取ってないっぽいです
そんなとんでも経歴の人そうそういないでしょうと思ってましたが、ヒドゥルさんはエミー、グラミー、アカデミーまではとっていました。惜しい!
ターの経歴紹介でも、「ヒドゥル・グドナドッティルなどの現代音楽家たちを取り上げてきました」みたいなセリフありましたよね。
もしかして、ターのモデルの1人かもしれません。
それでは今回はこんなところで!
また素晴らしい映画と音楽でお会いしましょう!
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