D.W.グリフィス監督「國民の創生」映評 3回目
【後編部分について】
[物語]
リンカーンの暗殺で権力を思いのままに操れるようになったストーンマンは、混血の政治家サイラス・リンチを手先に南部の支配を進める。だがそのリンチはストーンマンの権力を利用してやがては自分が権力の座に就こうと画策していた。
ストーンマンとリンチは、北部から黒人たちを送り込む。南部の白人からは選挙権を奪い、黒人に選挙権を与え、結果として州議会は黒人が大半を占める。権力を持った黒人たちは横柄に振舞い、白人たちは窮屈な生活を余儀なくされる。このままで伝統ある南部の文化が滅んでしまうと危惧したベン・キャメロンはあるとき、白いシーツをかぶって遊んでいた白人の子供達が、黒人の子供を脅かしているのを見て、「インスピレーション」を刺激され、白装束に身をつつんだ「クー・クラックス・クラン」を結成し、黒人の排斥運動に乗り出す。
ストーンマンはベンがKKKの指導的立場にいることを突き止め、エルシーにベンと別れるよう諭す。エルシーはベンと会い彼がKKKの指導者であると確信し彼と別れる。そのエルシーにサイラス・リンチは「邪な愛情」を抱いていた。
そんな時、ベンの妹フローラが黒人男性に暴行されそうになる。誇り高き南部女性のフローラは体を奪われるぐらいならと、崖から身を投げ命を絶つ。
怒りに燃えたベンはKKKの仲間と暴行犯を匿う酒場を襲撃する。報復としてリンチの一派はベンの父親を逮捕しようとキャメロン家に乗り込むが、キャメロン家は逃走し森の中の小屋に立て篭る。
エルシーは事態を収拾すべくリンチを説得しようと彼のオフィスを訪ねるが、リンチはこれ幸いとエルシーを閉じ込め強引に彼女と結婚式をあげようとする。彼はリンチのオフィスに来たストーンマンにもついにその本性を現す。
その時ベンが率いるKKKの一団がリンチのオフィスを襲撃し、エルシーを救い出す。
一方、黒人暴徒たちはキャメロン一家が立て篭る小屋を襲撃。暴徒の大群に必死で抵抗するキャメロン一家の面々だが、ここにもKKKが救援に駆けつけ黒人暴徒は鎮圧される。
こうして南部の混乱は収束に向かい、ベン・キャメロンとエルシー・ストーンマンは晴れて結ばれる。そして二人はいつの日か戦争の無い平和な時代が来る事を願うのだった。
[概要]
なるべく自分の考えは入れず客観的に物語を書いてみたつもりだが、結局は突っ込みどころ満載の物語であることがわかってしまうのであった。
今日に至るまで物議をかもす問題の後編部分であるが、困ったことに後編の方が前編よりはるかに面白い。
前編で多少使われている程度だったモンタージュは、後編ではバシバシ使われ、クライマックスにおけるKKK VS 黒人暴徒の戦いは今日ではクロスカッティングと呼ばれる編集や、スピード感溢れる移動撮影等が駆使され、現代の感覚で見ても興奮を誘う。当時、どれほど多くの活動屋たちがこの後編部分に痺れまくったことだろうか。前編の退屈な南北戦争シーンを撮った監督と同一人物とは思えないほどに。
しかし、演出がノリノリになっていくのに合わせて、差別的表現もボルテージを増していった印象がある。
ただ、本作のラストにおいて、戦争さえなければこのような悲劇は起こらずに済んだはずだ、と反戦平和への祈りが込められているのは事実だ(それが非常に歪んだ思想に根ざしているとはいえ)。民主主義自体がまだまだ未熟だった時代の作品であることを差し引いて鑑賞してあげる器量の大きさが、現代の映画人に求められる。また一方で、だからといって差別表現に触れないで本作を語るのも良くない。そこを指摘するのも現代人の務めではないかと思う。
[差別的な描写から思うこと]
物語解説でも述べた妹の自殺シーンであるが、何も知らずにその場面だけを観ると、自殺しようとする女性を黒人男性が必死で思いとどまらせようとしているように見える。彼女は死ぬ必要があったのだろうかと疑問にも思うが、当時の南部のご令嬢には当然の感情かもしれない。
また帰郷したキャメロンが家を出ると黒人部隊が闊歩していて通り道をふさいでいるという場面。つづけてサイラス・リンチが「ここは彼らの道路でもあるのです」と、気を悪くしたベンに説明し、握手を求めるがベンは握手を拒否する。ここなどもベンが単なる「黒人嫌い」にしか映らず、彼の態度に映画上の説得力がない。
また議会が黒人勢力に牛耳られ、ガラの悪い黒人議員たちの様子も描かれるのだが、南北戦争前は当然、黒人たちは選挙権を持っていなかったと思われ、「黒人に選挙権を与えた」など現代では美談として扱われそうな話だが、本作では「民主主義の危機」のごとく描かれている。
その一方で前半部においてプランテーションを見回りに来た白人地主の前で、黒人農奴たちが陽気に踊る場面を見せることで、戦争前は黒人と白人はうまくやっていたかのように描いている。
どうも、この辺の歴史事情を映像によらずストーリーだけで説明しているので、作者にとって物語上不都合な部分を切り、都合のいいところだけを抜き出していることがありありと判ってしまうようだ。
しかもいくら黒人の横暴が目に余るとはいえ、白布をかぶって黒人を脅す行為に正当性は見出せないし、それを映画内で納得させる努力も無い。
「白人は黒人より優越である」という思想を持っていることを前提として物語は進む。
ただし技術面で評価できる差別描写もある。
「サイラス・リンチがエルシーに邪な愛情を抱く」ことを示す場面。
作者の有色人種への憎しみが溢れてくるようで嫌悪すら抱く。しかし、この場面でそこまで(負の方向とはいえ)観客の心をゆすぶるのは、このシーンに見事なモンタージュが施されているからに他ならない。
エルシーが部屋の片付けをしている⇒薄ら笑いを浮かべてそれを見つめるリンチ・・・という切り替えしが何度か続く。リンチがエルシーに性的欲望を抱いていることが強調される。
さらに、この切り替えしでは、いわゆるイマジナリーラインの法則もしっかりと守られて、エルシーとリンチの室内での位置関係を観客が把握できるように計算されている。
[スペクタクル]
しかしクライマックスシーン、KKKがエルシー救出のため出動してからのシーンは(良心的映画人には申し訳ないが)どこを切っても、映画的興奮に満ち溢れている。
小屋に立て篭もるキャメロン一家に、黒人暴徒の群れが襲い掛かる場面は、悪夢のような恐怖感にあふれている。ドアを打ち壊し、窓から侵入を計る暴徒たち。撃って叩いて一人を追っ払っても、次から次へと侵入してくる暴徒たち。「エイリアン2」などを思い出してしまった。キャメロン家の召使と家政婦はご主人様を守って窓から入ろうとする暴徒を撃退する活躍を見せるが、そのアクションはドタバタコメディのようで、緊迫感溢れるシーンをいくらか緩和させてくれる。
次第に追い詰められていくキャメロン一家と、追い詰める暴徒、そして救援に駆けつけるKKKの騎馬隊をとらえるスピーディな移動撮影のショット、これらがクロスカッティングでつながれ、しかもキャメロン一家のピンチに応じて、カットのテンポが上がっていく。
ついに一家の命運が尽きたかと思わせたその瞬間、映像は一気に小屋の周辺全体を写すロングショットとなり、KKKの大部隊が暴徒の群れを鎮圧する様が写される。
移動撮影によるショット内でのスピード、ショットとショットのテンポによるスピード感、引きと寄りの使い分けによる視界の広がりのスピード感。これらが渾然一体となって、映画的興奮を作り出した。誕生から20年、日本なら成人と認められる年に、映画はついにただの「映像記録」から人々を熱狂させる「エンターテインメント」へと進化したのである。
【終わりに・・・アメリカの原罪、アメリカ映画の原罪】
どうせ誰も読まない昔の映画の映評をしかも興味はあるが見たこと無い人に不親切なネタバレ全開で書きに書きまくってしまった。最後に、昔勉強した世界史とからめて思ったことをブツクサと書いてみる。
思うにアメリカという国は、その成立過程から矛盾を抱え込んでいた。
「アメリカ独立宣言」は人類史にさん然と輝く世紀の名文だ。全ての人間は平等であると高らかに宣言したそれは、歴史の転換点を示す偉大な碑のようなものだ。
しかしそのアメリカ独立宣言を起草したジェファーソン(後の第三代大統領)は黒人を差別していた。彼は生涯、奴隷を手放すことは無かった。彼の宣言した「人間」とは「中産階級以上の白人」のみを指していたといっていい。ジェファーソンに独立宣言を起草させた時点でアメリカは原罪を背負ったのだ。
彼は、奴隷制反対論者のアダムス(後の第二代大統領)の政治的ライバルとなった。この時すでに南北戦争の遠因が生まれていたと言えないか。
その南北戦争を扱う映画で、人種差別が問題視され、しかもその映画がアメリカ映画界に歴史的転換点を迎えさせるのは歴史の皮肉というべきか。
今日に続く基本的映画技法のほぼ全てを生み出した映画でありながら、それが抱える人種問題ゆえにアメリカ人はこの映画を語ることを敬遠する。アメリカ映画が発展と引き換えに背負い込んだ原罪が「國民の創生」であり、それはジェファーソンのアメリカ独立宣言に始まるアメリカの原罪を反映しているかのようだ。
※アメリカ独立とジェファーソンについては、うろ覚えの知識で書いているので、間違いなどあるかもしれません
[追記]
本作のDVDには故・淀川長治氏の解説が収録されている。
「コクミンノソウセイ、どういう意味でしょう? バース・オブ・ア・ネイション、國民の創生ですね」と意図不明の解説をする淀川先生。それでも目を輝かせて喋る氏の姿は印象深い。
「國民の創生」映評 第1回
「國民の創生」映評 第2回
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[物語]
リンカーンの暗殺で権力を思いのままに操れるようになったストーンマンは、混血の政治家サイラス・リンチを手先に南部の支配を進める。だがそのリンチはストーンマンの権力を利用してやがては自分が権力の座に就こうと画策していた。
ストーンマンとリンチは、北部から黒人たちを送り込む。南部の白人からは選挙権を奪い、黒人に選挙権を与え、結果として州議会は黒人が大半を占める。権力を持った黒人たちは横柄に振舞い、白人たちは窮屈な生活を余儀なくされる。このままで伝統ある南部の文化が滅んでしまうと危惧したベン・キャメロンはあるとき、白いシーツをかぶって遊んでいた白人の子供達が、黒人の子供を脅かしているのを見て、「インスピレーション」を刺激され、白装束に身をつつんだ「クー・クラックス・クラン」を結成し、黒人の排斥運動に乗り出す。
ストーンマンはベンがKKKの指導的立場にいることを突き止め、エルシーにベンと別れるよう諭す。エルシーはベンと会い彼がKKKの指導者であると確信し彼と別れる。そのエルシーにサイラス・リンチは「邪な愛情」を抱いていた。
そんな時、ベンの妹フローラが黒人男性に暴行されそうになる。誇り高き南部女性のフローラは体を奪われるぐらいならと、崖から身を投げ命を絶つ。
怒りに燃えたベンはKKKの仲間と暴行犯を匿う酒場を襲撃する。報復としてリンチの一派はベンの父親を逮捕しようとキャメロン家に乗り込むが、キャメロン家は逃走し森の中の小屋に立て篭る。
エルシーは事態を収拾すべくリンチを説得しようと彼のオフィスを訪ねるが、リンチはこれ幸いとエルシーを閉じ込め強引に彼女と結婚式をあげようとする。彼はリンチのオフィスに来たストーンマンにもついにその本性を現す。
その時ベンが率いるKKKの一団がリンチのオフィスを襲撃し、エルシーを救い出す。
一方、黒人暴徒たちはキャメロン一家が立て篭る小屋を襲撃。暴徒の大群に必死で抵抗するキャメロン一家の面々だが、ここにもKKKが救援に駆けつけ黒人暴徒は鎮圧される。
こうして南部の混乱は収束に向かい、ベン・キャメロンとエルシー・ストーンマンは晴れて結ばれる。そして二人はいつの日か戦争の無い平和な時代が来る事を願うのだった。
[概要]
なるべく自分の考えは入れず客観的に物語を書いてみたつもりだが、結局は突っ込みどころ満載の物語であることがわかってしまうのであった。
今日に至るまで物議をかもす問題の後編部分であるが、困ったことに後編の方が前編よりはるかに面白い。
前編で多少使われている程度だったモンタージュは、後編ではバシバシ使われ、クライマックスにおけるKKK VS 黒人暴徒の戦いは今日ではクロスカッティングと呼ばれる編集や、スピード感溢れる移動撮影等が駆使され、現代の感覚で見ても興奮を誘う。当時、どれほど多くの活動屋たちがこの後編部分に痺れまくったことだろうか。前編の退屈な南北戦争シーンを撮った監督と同一人物とは思えないほどに。
しかし、演出がノリノリになっていくのに合わせて、差別的表現もボルテージを増していった印象がある。
ただ、本作のラストにおいて、戦争さえなければこのような悲劇は起こらずに済んだはずだ、と反戦平和への祈りが込められているのは事実だ(それが非常に歪んだ思想に根ざしているとはいえ)。民主主義自体がまだまだ未熟だった時代の作品であることを差し引いて鑑賞してあげる器量の大きさが、現代の映画人に求められる。また一方で、だからといって差別表現に触れないで本作を語るのも良くない。そこを指摘するのも現代人の務めではないかと思う。
[差別的な描写から思うこと]
物語解説でも述べた妹の自殺シーンであるが、何も知らずにその場面だけを観ると、自殺しようとする女性を黒人男性が必死で思いとどまらせようとしているように見える。彼女は死ぬ必要があったのだろうかと疑問にも思うが、当時の南部のご令嬢には当然の感情かもしれない。
また帰郷したキャメロンが家を出ると黒人部隊が闊歩していて通り道をふさいでいるという場面。つづけてサイラス・リンチが「ここは彼らの道路でもあるのです」と、気を悪くしたベンに説明し、握手を求めるがベンは握手を拒否する。ここなどもベンが単なる「黒人嫌い」にしか映らず、彼の態度に映画上の説得力がない。
また議会が黒人勢力に牛耳られ、ガラの悪い黒人議員たちの様子も描かれるのだが、南北戦争前は当然、黒人たちは選挙権を持っていなかったと思われ、「黒人に選挙権を与えた」など現代では美談として扱われそうな話だが、本作では「民主主義の危機」のごとく描かれている。
その一方で前半部においてプランテーションを見回りに来た白人地主の前で、黒人農奴たちが陽気に踊る場面を見せることで、戦争前は黒人と白人はうまくやっていたかのように描いている。
どうも、この辺の歴史事情を映像によらずストーリーだけで説明しているので、作者にとって物語上不都合な部分を切り、都合のいいところだけを抜き出していることがありありと判ってしまうようだ。
しかもいくら黒人の横暴が目に余るとはいえ、白布をかぶって黒人を脅す行為に正当性は見出せないし、それを映画内で納得させる努力も無い。
「白人は黒人より優越である」という思想を持っていることを前提として物語は進む。
ただし技術面で評価できる差別描写もある。
「サイラス・リンチがエルシーに邪な愛情を抱く」ことを示す場面。
作者の有色人種への憎しみが溢れてくるようで嫌悪すら抱く。しかし、この場面でそこまで(負の方向とはいえ)観客の心をゆすぶるのは、このシーンに見事なモンタージュが施されているからに他ならない。
エルシーが部屋の片付けをしている⇒薄ら笑いを浮かべてそれを見つめるリンチ・・・という切り替えしが何度か続く。リンチがエルシーに性的欲望を抱いていることが強調される。
さらに、この切り替えしでは、いわゆるイマジナリーラインの法則もしっかりと守られて、エルシーとリンチの室内での位置関係を観客が把握できるように計算されている。
[スペクタクル]
しかしクライマックスシーン、KKKがエルシー救出のため出動してからのシーンは(良心的映画人には申し訳ないが)どこを切っても、映画的興奮に満ち溢れている。
小屋に立て篭もるキャメロン一家に、黒人暴徒の群れが襲い掛かる場面は、悪夢のような恐怖感にあふれている。ドアを打ち壊し、窓から侵入を計る暴徒たち。撃って叩いて一人を追っ払っても、次から次へと侵入してくる暴徒たち。「エイリアン2」などを思い出してしまった。キャメロン家の召使と家政婦はご主人様を守って窓から入ろうとする暴徒を撃退する活躍を見せるが、そのアクションはドタバタコメディのようで、緊迫感溢れるシーンをいくらか緩和させてくれる。
次第に追い詰められていくキャメロン一家と、追い詰める暴徒、そして救援に駆けつけるKKKの騎馬隊をとらえるスピーディな移動撮影のショット、これらがクロスカッティングでつながれ、しかもキャメロン一家のピンチに応じて、カットのテンポが上がっていく。
ついに一家の命運が尽きたかと思わせたその瞬間、映像は一気に小屋の周辺全体を写すロングショットとなり、KKKの大部隊が暴徒の群れを鎮圧する様が写される。
移動撮影によるショット内でのスピード、ショットとショットのテンポによるスピード感、引きと寄りの使い分けによる視界の広がりのスピード感。これらが渾然一体となって、映画的興奮を作り出した。誕生から20年、日本なら成人と認められる年に、映画はついにただの「映像記録」から人々を熱狂させる「エンターテインメント」へと進化したのである。
【終わりに・・・アメリカの原罪、アメリカ映画の原罪】
どうせ誰も読まない昔の映画の映評をしかも興味はあるが見たこと無い人に不親切なネタバレ全開で書きに書きまくってしまった。最後に、昔勉強した世界史とからめて思ったことをブツクサと書いてみる。
思うにアメリカという国は、その成立過程から矛盾を抱え込んでいた。
「アメリカ独立宣言」は人類史にさん然と輝く世紀の名文だ。全ての人間は平等であると高らかに宣言したそれは、歴史の転換点を示す偉大な碑のようなものだ。
しかしそのアメリカ独立宣言を起草したジェファーソン(後の第三代大統領)は黒人を差別していた。彼は生涯、奴隷を手放すことは無かった。彼の宣言した「人間」とは「中産階級以上の白人」のみを指していたといっていい。ジェファーソンに独立宣言を起草させた時点でアメリカは原罪を背負ったのだ。
彼は、奴隷制反対論者のアダムス(後の第二代大統領)の政治的ライバルとなった。この時すでに南北戦争の遠因が生まれていたと言えないか。
その南北戦争を扱う映画で、人種差別が問題視され、しかもその映画がアメリカ映画界に歴史的転換点を迎えさせるのは歴史の皮肉というべきか。
今日に続く基本的映画技法のほぼ全てを生み出した映画でありながら、それが抱える人種問題ゆえにアメリカ人はこの映画を語ることを敬遠する。アメリカ映画が発展と引き換えに背負い込んだ原罪が「國民の創生」であり、それはジェファーソンのアメリカ独立宣言に始まるアメリカの原罪を反映しているかのようだ。
※アメリカ独立とジェファーソンについては、うろ覚えの知識で書いているので、間違いなどあるかもしれません
[追記]
本作のDVDには故・淀川長治氏の解説が収録されている。
「コクミンノソウセイ、どういう意味でしょう? バース・オブ・ア・ネイション、國民の創生ですね」と意図不明の解説をする淀川先生。それでも目を輝かせて喋る氏の姿は印象深い。
「國民の創生」映評 第1回
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