目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

下馬太子堂三宿コース 約6.8km

2018-01-30 13:46:47 | ウォーキング
低い雲が垂れ込め、ときどき小雪がぱらつく寒い日のウォーキングにもかかわらず13名の参加がありました。


写真:祐天寺駅南改札
現在駅ビル建て替えのためこちらに集合していますが、改修が終われば元の改札集合となるでしょう。新しくできたこちらは改札前が東急ストアなので、こちらの改札がメインに運用されるのかもしれません。


写真:五本木児童遊園
こちらの公園をお借りしてウォーキング前のストレッチをします。私がこの公園を知るようになってから半世紀がたちますが、ずっと「上目黒五丁目公園」だと思っていました。この記事を書くにあたって、「あそこは上目黒五丁目ではないんじゃないか」と思って調べてみて、長年の勘違いに気が付きました。


写真:謡坂

写真:五本木一丁目

写真:公開歩道
改めて地図を見ると蛇崩川の南は上目黒二丁目と四丁目で、上目黒五丁目と五本木一丁目が一部川を隔てて隣接しています。五本木には親戚がいて、その家が五本木小学校の近くだったので、このあたりが五本木という認識があまりなかったのです。


写真:目黒・世田谷区境


写真:芦毛塚
区界は写真でいうと左側の道から出てきて、この名もなき道で隔てられるのですが芦毛塚はかろうじて目黒区に属しています。この名もなき道は鎌倉街道で渋谷村を通った街道は目切坂を下り、目黒川を宿山橋で渡り、小川坂を上りきり宿山にたどり着きます。現在野沢通りと呼ばれる道を三宿病院入り口で左に折れたところから上目黒と下馬曳沢の村境となり、現在の環七あたりまで南下していたものと思いますが、その先のルートはわかりません。
葦毛塚

源頼朝が、葦毛の馬にのって、この地を通ったとき、その馬が何かに驚いて沢に落ちこんで死んだという。
また、一説に鎌倉将軍の世、この地の領主北条左近太郎が仏経を持って出かけたが、その葦毛の乗馬が突然たおれたのでここに、埋めたともいう。
いずれにせよ、遠い昔から葦毛塚と呼ばれていたらしい。このあたりは古くから馬の放牧場であり、馬に関した地名や伝説が多い。

昭和五十三年三月

世田谷区教育委員会

芦毛塚は目黒区に属しているように見えるけど、世田谷区教育委員会が看板を立てた?よく見てみると、地域の歴史は面白いです。



写真:蛇崩川緑道

写真:冬バラ

写真:水槽も結氷

写真:駒繋公園
積雪はだいぶ溶けたもののところどころ残っており慎重に歩きました。このあたりでばらばらと雪が降り始め、ちょっと物悲しいウォーキングの予感が。。。
水槽の渡した板のねじくぎは、猫除けでしょうか?駒繋公園は蛇崩川が削った自然の傾斜を生かした造りがいいですね。





写真:駒繋神社
神社のページから引用します。
駒繋神社は、ご祭神 大国主命 をおまつりし、前九年の役に源義家公、頼義公が戦勝祈願をし、奥州藤原氏の征伐に際しては、源頼朝公が戦勝祈願をしたと伝えられる源氏ゆかりの神社です。
駒繋神社では、安産祈願、初宮詣、七五三詣、家内安全、厄除祈願をはじめ地鎮祭、結婚式等各種ご祈願祭を執り行っております。
特に、もともとの神社の名前が「子の神」であることから、多くの方が安産祈願や初宮詣(お宮参り)のご祈願で、お越しになっております。



写真:自動車修理工場

写真:駒留小学校
蛇崩川緑道を西へ向かいます。







写真:西澄寺
東京都指定有形文化財(建造物)
武家屋敷門
  所在地 世田谷区下馬2-11-16
  指 定 昭和39年4月28日
 大正末期、現在の港区芝5丁目にあった阿波徳島藩主蜂須賀家の中屋敷門を、西澄寺に移築し、山門として転用されている門です。切妻造の門の桁行は6間で、中央に2間の両開きの門扉があり、その左右脇に1間の片開きの潜戸を設け、門の内側方向に2間の袖壁が取り付けられています。門扉の両側には、1間突出した切妻造の桁行2間、梁間3間の出番所が配され、6畳の番所内の門内に面した側に式台が構えられています。
 この門は江戸時代末期に建築されたと推定されており、いわゆる両番所附石垣出屋根庇造と呼ばれる構造の門です。大名屋敷の表門については、幕府は貞享年間(1684-88)に、大名の家禄高を基準に家格を加味して、その形式・構造を定めています。この門は、蜂須賀家の中屋敷門ですが、25万石の大々名の家禄と家格に応じた門として建築されたものと考えられます。東京に残る数少ない武家屋敷門の一つとして、貴重なものです。
 平成22年3月 建設
    東京都教育委員会



写真:三軒茶屋栄通り商店街


写真:三軒茶屋交差点の道標

写真:キャロットタワー

写真:田中屋陶苑

写真:コブシ?
三軒茶屋の由来をピクシブ百科事典のページから引用します。
江戸時代には「太子堂村」だったが、神社・仏閣への参詣ブームで賑わった大山道(246号)と、登戸道(世田谷通り)の追分(分岐)付近に「信楽(後に石橋楼)」、「角屋」、「田中屋(「田中陶苑」として現存)」という三軒の茶屋が並び、「三軒茶屋」と呼ばれるようになった。




写真:教学院(目青不動)
門柱には教学院の方が大きく書いてありますが、通称だそうです。Wikipediaから引用します。
最勝寺(さいしょうじ)は東京都世田谷区太子堂にある天台宗の寺院。寛永寺の末寺の一つである。通称「教学院(きょうがくいん)」、正式名称は「竹園山最勝寺教学院」。「目青不動」の通称でも知られる。
五色不動についてもWikipediaから引用します。
五色不動は江戸五色不動とも呼ばれており、江戸幕府3代将軍・徳川家光が大僧正・天海の建言により江戸府内から5箇所の不動尊を選び、天下太平を祈願したことに由来するなどの伝説が存在する。史跡案内など多くの文献ではこのような説話に倣った由来が記述されているが、資料によっては伝説の内容にばらつきも見られる。
一方で五色不動を歴史的に研究したいくつかの報告によると、実際に「五色不動」という名称が登場するのは明治末または大正始めであり、江戸時代の史実とは考えにくいとしているが、伝説自体は江戸時代から伝わる噂話に原型が見られるという。
また名称を別とすれば個々の寺院や不動像自体は江戸時代(以前)からの歴史を持つとされる。特に目黒不動・目白不動・目赤不動については江戸時代の資料からもその名称が確認でき、江戸の名所として「三不動」の名で知られる。
このうち、目黒と目白は山手線の駅名ともなり、特に目黒は区名となっているため有名である。
なお五色不動は基本的に天台宗や真言宗の系統の寺院にあり、密教という点で共通しているが、不動明王に限らず明王は元来密教の仏像である。



写真:キャロットタワー
教学院の墓地越しの眺めです。


写真:弁天社


写真:出羽三山神社・鹽竈神社




写真:太子堂八幡宮

写真:ご神木の楠木
鹽竈神社と蛸の関係はわかりませんでした。それと並んで、八幡神社と蛙の関係もわかりません。いつもより一週間遅く訪れているので、梅の花の付き具合もいいのかな?神社のページから引用します。
八幡さまは、大分県宇佐の地に「私は、この国と皇室、国民全てを守るために現れた、誉田(ほんだ)天皇(応神天皇)広幡(ひろはた)・八幡麻呂(やはたまろ)である」(古墳時代)と告げられた神さまです。そこに鎮座したのが八幡神社の総本宮=宇佐神宮です。
応神天皇の時代、朝鮮半島との交流を盛んに行いました。そのため、多くの渡来人より、養蚕・機織・稲作の灌漑技術や、漢字などの進んだ文化が取り入られ、国力が発展・増大しました。
その応神天皇の御霊とされる八幡さまは、東大寺の大仏建立に「日本のすべての神様を率いてその大事業を成功させましょう」(奈良時代)と、大きな工業力(鋳造技術)を発揮しました。
そして仏教を信仰する人々よりは八幡大菩薩と仰がれ、民衆救済の神さまとしても信仰されました。平安時代には、新しい都の守護神(石清水八幡宮)となり、やがて源氏が氏神(先祖神)として、鎌倉時代には鶴岡八幡宮が建立され、幕府政治の要となりました。その後、産業・文化・武門の神として武家、庶民にますます篤く崇敬されてきました。
現在も、特に厄除、家内安全、交通安全、安産、商売繁盛、学業成就、五穀豊穣、殖産興業など、人々の苦難を救い、あらゆる願いに応える多くの御神徳を備えた神さまとして仰がれ、全国で最も広く八幡宮・八幡神社としておまつりされています。
八幡さまのお使いは、白鳩です。平和を守る武門の神の使いとしても、平和の象徴とされる鳩は誠にふさわしいものといえます。
平安時代後期にまつられたと伝えられる「太子堂八幡神社」は、世田谷の要所・三軒茶屋の緑豊かな杜の中に位置し、皆様に親しまれています。



写真:茶沢通りの歩行者天国

写真:茶沢通りにある石柱

写真:林芙美子旧居の看板
林芙美子旧居 太子堂三丁目29
 此の路地奥の二軒長屋は、林芙美子の不遇な時代の寓居です。その一軒には壺井繁治、栄夫婦が住み、若い頃の平林たい子も度々訪れました。芙美子の処女作「放浪記」にはこの頃の太子堂での生活の一こまが描かれています。壺井栄の「はたちの芙美子」にも当時の生活が記されています。芙美子のすぐれた文学性が磨かれた場所として文学史上、記念されるべき場所と言っていいでしょう。
 昭和四十七年三月 世田谷区教育委員会







写真:円泉寺


写真:太子堂


写真:庚申塔
円泉寺
聖王山法明院とよび、真言宗である。文禄五年(1597)に建てられ、開山は賢恵僧都である。本尊は不動明王立像及び二童子像である。また境内の太子堂には聖徳太子像がまつられ、太子堂の地名は、これにもとづいている。
世田谷教育界の恩人宮野芟平先生の碑がある。
先生は、明治3年郷学所がつくられてから、太子堂幼童学所、荏原学校となまえは変っても、引きつづき校長として郷土の教育につくした。この荏原学校は区内最初の小学校である。
昭和49年3月
世田谷区教育委員会

「荏原学校」が気になったので調べてみると、現在の世田谷区立若林小学校のようです。学校の沿革を抜粋します。
学校名 世田谷区立若林小学校

明治  4年4月 太子堂郷学所開校
    6年12月 第二中学校四番小学校荏原学校と名称変更
    7年1月 開校式(児童数90名)
    14年5月 東京府荏原尋常小学校と名称変更
    33年12月 校舎3棟焼失(円泉寺で授業)
大正  元年9月 第7代 上田 徳蔵 校長着任
昭和  7年10月 東京市荏原尋常小学校と名称変更
    16年4月 東京府東京市若林国民学校と名称変更
    18年6月 第12代 青木 林之助 校長着任
      7月 東京都若林国民学校と名称変更
    19年9月 新潟県柏崎市に集団疎開
    22年4月 東京都世田谷区立若林小学校と名称変更






写真:三宿の森公園
「三宿の森を育てる会」のページからこの場所の沿革を一部抜粋します。
【緑地の由来】
2004年4月1日に開園した三宿の森緑地は、緑の少ないこの地において8,000㎡という面積を持ち、樹齢百年に及ぶ大きな樹木と自然を大切に残すように設計された世田谷区立公園です。
1.屋敷の成立――敷根氏の時代    
 昭和の初年、雑木林と畑が広がるこの地を屋敷にしたのは敷根氏であるとされている。今の敷地よりずっと広く土地を求めて造園に着手し、二階建ての日本家屋を着工した。家屋は出来上がって昭和51年に5階建ての研修所宿舎建設のために取り壊されるまで、戦前の典型的日本家屋の優美な姿をとどめていた。事情はつまびらかでないが、敷根氏はここに住むことなく、中村氏が後を継いで屋敷としての完成を見る。
2.屋敷の完成――中村氏の時代
 敷根氏から屋敷を引き継いだ中村氏は大陸方面で、日産コンツェルンを作った有名な鮎川義介氏と共同で事業を営んでいたという。当主は事業の地である朝鮮に在って、子息夫妻が三宿に居住し、今に残る樹林や十三重の塔、石灯籠、石像や、日本家屋と共に取り壊された泉水など、屋敷を作り上げた。今は2棟のマンションが建つ一段下がった土地には使用人の住む家があったから、敷地は1倍半くらいはあったであろう。同夫妻はこの地で3人の令嬢に恵まれ、テニスコートを邸内に持ち、揃って乗馬を楽しむという優雅な生活であったという。戦争はこの一家にも過酷な運命をもたらす。朝鮮の事業は烏有に帰し、子息は戦地から帰ることはなかったのである。
3.法務省施設の時代――昭和50年まで
 終戦後はおそらく財産税物納のため国有地となり、法務省の施設となった。日本家屋は寮として使い、住宅不足時代のため職員の官舎が数棟建てられ、後には研修に召集される全国職員のための2階建て寄宿舎が設けられたが、いずれも木造であった。
  樹木は年を経て成長し、隣接の三宿神社と併せて高速道路からも目立つ三宿の森となっていった。なおこの時代のエピソードがある。昭和29年のいわゆる造船疑獄のとき、時の与党幹事長佐藤栄作氏が、約400米の距離にある北沢の自宅から着流し下駄履きで散歩と称して出かけ、張り込む記者の目をくらまし、ここで検察の取り調べを受けた。犬養法務大臣の指揮権発動で難を逃れた佐藤氏は、後に総理大臣となる。その後も重大事件があるたびに記者の張り込みが見られた。




写真:三宿神社
郷土の歴史が面白いと思っていろいろ調べるのですが、隣の世田谷区の情報はなかなか接する機会が無く、「多聞」という小学校があることは知っていても、その名の寺があったことは知りませんでした。ウォーキングの最終盤で訪れる三宿神社についてこれまであまり調べてきませんでしたが、なかなか興味深い歴史がありました。Wikipediaから三宿神社の歴史を引用します。
「多聞寺」の存在
かつてこの地には「多聞寺」という寺院が存在していた。多聞寺は、当地にあった「多聞寺城」(世田谷城の東の砦)の中核部であったといわれる。多聞寺城はまたの名を「三宿城」といい、文明年間(1469年-1486年)の頃に吉良氏が築いたもので、三宿村もこの時期に開かれたという説がある。
三宿村は北宿、本宿、南宿の3つの字に分かれていた。多聞寺の付近は「字北宿」に属していて、南北を北沢川と烏山川(烏山用水)によって刻まれた台地であり、台地の東の端で両河川は合流して目黒川となっている。
往古の本尊である毘沙門天は村人たちに深く尊崇されていた。『新編武蔵国風土記稿 巻之五十一 荏原郡之十三』では、「村ノ北ニアリ。曹洞宗。郡中世田ケ谷村勝国寺ノ末、清水山天王院ト号ス」と記されていて、勝国寺(世田谷四丁目27番4号に現存)の末寺であった。同じ『新編武蔵国風土記稿 巻之五十一 荏原郡之十三』に「イヅレノ頃カ火災ニ遭ヒ、開山・開基ナドモ詳ナラズト云」とあって、創建年などは不明である。

三宿神社の建立
多聞寺は江戸末期から明治期に廃寺となり、その跡地の一部を使って1885年(明治18年)に三宿神社が建立された。これは村の鎮守が必要になったための措置で、本殿の前に拝殿を新築して「三宿神社」と名付けたものであった。東京府に祭神を毘沙門天として申告したところ許可が下りず、改めて大物主命を祭神として申告しなおしたという。結局祭神は毘沙門天と倉稲魂命を祀ることになったという。当時の申告によれば、社務所は400坪余り、東京府までの距離2里15町(約10キロメートル)、総代4軒で所在地は三宿村字北宿379番地であった。
村の中心部は大山街道が通る字本宿と南宿付近であり、三宿神社が建てられた時期の字北宿付近に民家は1軒もなかった。神社前を流れる烏山用水沿いは田んぼが広がり、多聞寺橋付近には堰が設けられていた。近在の農民たちは、この堰に毎月1日と15日に餅を供えていたという。社殿は第2次世界大戦の戦災に遭って焼失したが、1949年(昭和24年)にある企業から社殿を譲り受けて再建した。その後社殿は再度1967年(昭和42年)に建築された。



写真:多聞寺橋
とは、読めませんねぇ!


写真:狸のレリーフ
Wikipediaの三宿神社のページにヒントがありました。引用します。
9月の例大祭で奉納される神楽の中に「たぬき囃子」がある。これは近在に住む父親思いの少年がある日けがをしたたぬきを助けたところ、そのたぬきの恩返しとして、境内裏手の丘から流れる湧水が少年の父親が患っていた病気を治す水に変じたという伝説にちなんだものといわれる。





写真:騎兵第一連隊の碑
池尻の騎兵山と言われた一角にあり、鉄製階段の入り口は閉まっていますが世田谷区に問い合わせをしたところ「入り口を開けて入ってください」とのことでした。
征清之役戦死者哀悼碑建設工ヂ竣ル 慈ニ其姓名ヲ勒シ 永ク後世ニ傳フ
明治二十九年六月三十日 騎兵第一聯隊長 秋山好古謹記



写真:騎兵山からの風景
ウォーキングの始めはどんよりとした曇り空で、途中バラバラと雪まで降ってきたのですが、終盤は暖かくなり青空を見ることも出来ました。


写真:目黒川緑道のカワヅザクラ

写真:目黒川緑道のロウバイ

写真:東邦大学大橋病院

写真:小鷺

写真:東京燃料林産
目黒川緑道を下り、東邦大学の新しい大橋病院の建物がいつの間にか出来上がっていました。燃料屋さんは年々薪の量が増えているように思います。ピザ釜用のまきは樹皮をはいだものを使うようです。こちらの前でストレッチをして解散となりました。

この後有志は中目黒まで行き、サイゼリヤでリーズナブル反省会でした。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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