目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

代々木公園コース 約4.1km

2022-08-27 11:21:51 | 東京都目黒区、渋谷区
日なたは暑かったけれど、陰に入ると秋の風が少し感じられる中でのウォーキングでした。残暑という感じかな。


東大駒場正門
集合は駒場東大前駅西口改札。正門前まで移動してストレッチします。ヒマラヤ杉かな、大きな木が木陰を作ってくれています。


大学名物立て看板

中には警告を受けている看板も
ストレッチ後大学構内を通行させてもらい裏門へ。現在東大駒場構内を通行することは許可されているので、守衛さんに会釈をして正門を通過します。


ヒマラヤ杉

オリーブ
どちらも歴史がありそうです。


101号館
中国との交流の歴史があるようです。「一高中国人留学生と101号館の歴史展」のサイトから引用します。
2019年4月に発足した東京大学と北京大学の共同教育研究プロジェクト「東アジア藝文書院(EAA)」では、東京大学教養学部の前身である第一高等学校における中国人留学生受け入れに関する歴史を紐解く「一高中国人留学生と101号館の歴史展」を開催することになりました。

明治32年(1899)、第一高等学校は、初めて清国より留学生8名を聴講生として受け入れました。これを嚆矢とし、明治36年(1903)には、文部省より京師大学堂からの留学生30余人の教養教育に関する一切の事務を委嘱され、翌年には留学生を入寮させ、授業も開始しました。さらに明治40年(1907)には、清国政府の要請により、文部省は毎年数十名の清国留学生を第一高等学校に入学させ、卒業後は帝国大学に進学させることと定め、その翌年に一高の予備教育を担う「特設予科」が設置されるに至ります。その後、昭和7年(1932)に「予科」が廃止されるまで、中国からの留学生延べ800名以上が卒業しました。同年「特設高等科」が設置され、ここで三年間学んだ留学生が各大学へと進学する途を開きました。

昭和10年(1935)に第一高等学校が駒場へ移転するにあたって、「特設高等科」の留学生たちの学舎となったのが、101号館です。EAAは、このような歴史的背景をもつ101号館に駒場オフィスを構え、本年度より東京大学と北京大学が手を携えあって、人類共通の未来を描くためのプロジェクトとして始動しました。これを記念し、本展覧会を企画いたしました。




ボタンクサギ

イチョウ並木

三田用水遺構

ヤマザキ学園
裏門から出て山手通りを歩きます。「動物看護専門職短期大学」なんてぇのがあるのですね。国家資格?ではないのでしょうね。


鍋島松涛公園
松涛の歴史を見ると廃藩置県や鉄道がもたらした影響など、歴史を身近に感じることが出来ます。Wikipediaから引用します。
この一帯は江戸時代に中渋谷村、中豊沢村などといい、小字名として大山、大向、神山などがあった。大山には紀州徳川家の下屋敷があった。1876年(明治9年)、旧佐賀藩主の鍋島家がこれを譲渡された。11代当主の鍋島直大は広大な土地に狭山茶を移植して茶園を開き、士族授産の元武士に運営を依頼し、「松濤園」と命名した。茶の銘柄も「松濤」とされ、一時は東京市中に高級茶として知られた。地領近くに直大の四女・信子の嫁ぎ先の松平恆雄が居住している(後に秩父宮雍仁親王妃の勢津子が出ている。後に現在の旧東京都知事公館)。
1890年(明治23年)に東海道線が開通すると静岡茶などが流入、松濤園の茶業は振るわなくなった。このため茶園は廃止され、1904年(明治37年)には鍋島家が経営する畑果樹園種蓄牧場「鍋島農場」 と、農務省が運営する種畜牧場渋谷支所に分かれた。
関東大震災を契機として鍋島家は屋敷地を移住者向けに分譲し、高級住宅地となる。忠犬ハチ公で知られる帝大教授の上野英三郎もここに住んでいた。1924年(大正13年)、鍋島家は涌水池のあった種畜牧場の一角を児童遊園として開放し、さらに1932年(昭和7年)10月にはこれを東京市に寄付。1934年(昭和9年)4月からは渋谷区によって管理されることになった。
この間、「松濤」は1928年(昭和3年)に住所町名として採用された。湧水池のある広大な鍋島侯爵邸は太平洋戦争後の華族制度廃止により公園として整備され、現在では鍋島松濤公園となっている。



松涛中学校
区立中学校に学校説明会があるんだ。


戸栗美術館
こちらも鍋島家に関係する美術館かと思いきや、直接関係はないようです。Wikipediaから引用します。
山梨県の土木建築業の家に育った戸栗は、第二次世界大戦後の日本における欧米文化の普及を目にし、伝統的な日本文化を保存し後世に伝える必要があると考えた。1952年(昭和27年)に上京すると、殖産住宅相互の指定建築業者である「富士工務店」の代表として、同郷の小佐野賢治を補佐する傍ら、将来の展示公開を見据えて10年余り古民具や古道具の蒐集を行なった。1965年(昭和40年)頃からは、古美術に通じた友人たちの助言を得て、観賞用陶磁器を国内外で蒐集した。
戸栗が戸栗美術館を設立するにあたり、1500点の美術工芸品、土地(松濤の旧鍋島藩屋敷跡)、建物、運営資金の寄付が行なわれた。戸栗美術館は1987年(昭和62年)に財団法人の認可を得、日本でも数少ない陶磁器専門の美術館として同年11月21日に開館した。
収蔵品は2000年時点で5000点、2008年時点で7000点を数える。主な収蔵品は伊万里・鍋島などの肥前磁器、および中国・朝鮮の陶磁器である。



奥渋

光子館

丸木屋商店

宇田川遊歩道

ナナカマド?
奥渋の商店街を横断し、宇田川遊歩道を歩きます。宇田川は渋谷川の支流で渋谷西武あたりで穏田川と合流し、下流を渋谷川と呼びました。近年では穏田川の部分も渋谷川と呼ばれています。1964年東京オリンピックを契機に暗渠となってトイレの水洗化に大きく貢献しています。光子館はテレビ番組用に着ぐるみなどを製作しており、志村けんさんのスワンもこちらの作品です。丸木屋商店は立ち飲みで有名なお店。ある意味敷居が高すぎて訪れたことはありません。


河骨川合流点

河骨川跡

春の小川の看板
井の頭通りを横断しさらに上流へ向かってゆくと宇田川に河骨川が合流する地点が現れますが、何も書いていないので知らなければ通り過ぎてしまいます。唱歌「春の小川」は河骨川がモデルであると言われていますが、いくつか説があるようです。


ヘクソカズラ

春の小川歌碑
 「春の小川」歌碑
 ここはかつて清らかな小川が流れ、黄色のかわいらしい”こうほね”が咲いていたので、河骨(こうほね)川と呼ばれていました。春になると、岸辺にはれんげやすみれが咲く、のどかな所でした。
 明治42年(1909)から代々木山谷(現代々木3丁目3号)に住んでいた国文学者の高野辰之氏は、このたりの風景を愛して、しばしばこのほとりを散策したといわれてます。そして、今も歌い続けられている『春の小川』を作詩して、大正元年(1912)に発表しました。この詩は、小学唱歌となり、現在に至るまで広く愛唱されています。
 現在、河骨川は暗渠となり、もはや当時のおもかげはありませんが、この詩から明治末ごろの付近の様子を知ることができます。ここにある歌碑は、このことを永く後世に伝えるために、地元の篤志家が建設し、渋谷区に寄贈されたものであります。
 渋谷区教育委員会



透けてるトイレ使用前

透けてるトイレ使用中

透けてるトイレ
うちの会のメンバーがチャレンジしにゆきました。このトイレが設置された時にインタビューに答えていた近所の方が「中に誰もいないことが確認できるので安心です」と語っていました。目立つので破壊や落書きの対象になるかと思いきや、そうでもないようです。


代々木公園から都庁方面

バラ園

昭憲皇太后大喪儀葬場殿趾碑
戦前代々木公園の場所は練兵場でした。


オリンピック記念の宿舎
戦後ワシントンハイツと呼ばれるアメリカ軍将校の住宅が建設され、1964年8月12日に東京オリンピックのために日本へ返還されています。選手村の宿舎はアメリカ軍将校の住宅がそのまま使用されました。



国土緑化運動
 大戦は国土の荒廃と森林緑地の喪失を招き、災害を続発し水源を枯渇せしめ生活の潤いを奪った。有志はその参状の一刻も放置できないことを見、相はかって国土緑化推進委員会を結成してここに20年、幣原喜重郎氏以来歴代の衆議院議員を委員長に、故村上竜太郎氏を始めとする多数関係者は、国民の繁栄は緑とともにあるという理念のもとに、全国土の緑化を提唱して献身的努力を重ねてきた。
 山に木を植え都市を緑で包むこの国民運動は全国にわたって着々と成果をあげ、現に明治百年記念事業として国が明治の森国民の森の造成を進めているほか、郷土の森県民の森等が各地に育ちつつある。いま東京都が代々木の地に森林公園を開設するのを機とし、その一角を得てこの碑を建てるのは、顧みて国土緑化運動の由来を記念し、その力強い発展をさらに将来に期するためである。
 昭和43年(1968)11月 国土緑化推進委員会


ストレッチをしてこちらで解散となりました。

以前はみんなで渋谷へ歩いてゆきましたが、食事をしなくなったせいかほとんどの会員が原宿方面に帰ります。副都心線に乗れば一本ですからね。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原宿とその界隈コース 約4.8km

2022-08-21 14:25:00 | 東京都渋谷区
猛暑日にはならない予報でしたが湿度が高く汗だくのウォーキングとなりました。


代々木公園原宿門
昨年この時期は熱中症の危険で中止となり、11月に再挑戦しました。11月からは午後のウォークになることを失念して設定し、混雑した原宿の街を歩いて失敗だったと反省したことを覚えています。この場所もロックンローラーなどで騒がしかったのですが、朝10時の時点では穏やかな様子でした。


原宿駅前交差点
ちょっとわかりにくいですが表参道の入口に「ハリネズミカフェ」なるものが。


ごりんばし

原宿駅

竹下通り
竹下通りも谷筋にありますが、もともとは清正の井戸を水源とする川が流れていて穏田川(渋谷川)に合流していました。


東郷神社

寅年の絵馬

砲弾
まずは神社について東郷神社のサイトから引用しておきます。英語もあるのでそちらも
東郷神社とは
 東郷神社は東郷平八郎命をおまつりする神社です。「至誠」「勝利」「強運「縁結び」の神様として多様な世代から崇敬を集めています。
 東郷平八郎命の「至誠(まごころ)は神に通じる」とその一生を貫かれた御徳を後世に顕彰するため、神社におまつりしてほしいと国民からの要望と浄財によって創建された神社です。日本はもとより、世界中の方々からの崇敬を集め、数多く参拝者が訪れています。

Togo jinja worships Togo Heihachiro Mikoto. He is revered by various generations as the god of “Sincerity”, “Victory”, “Fortune”, and “Relationship”.
This jinja was built by the wishes and property of the people to leave his honor and virtue “Sincerity reaches the god” to posterity. Many people visit our Jinja from all over the world as well as Japan.


境内に展示されている椎の実型の砲弾を日本人が初めて見たのは薩英戦争の不発弾で、従来の砲弾と比べ飛距離が三~四倍になったとか。銃弾にもこの形が導入され、長州奇兵隊を起源とする官軍が使用するエミー銃は幕府軍が使用する火縄銃とは比較にならないほど命中精度が高かったようです。




東郷記念館
昨年は改修工事で池まで行けませんでしたが、工事は終了していました。


明治通りの竹下口
表参道には一流ブランド、明治通りやキャットストリートにはスポーツブランドや山用品のブランドが目立ちます。


旧渋谷川遊歩道路の空地
結構な段差があることが分かります。水車があったくらいだから穏田川にはそこそこの水量があったようです。


ライフガードスクエア超生命体広場
中学生の頃によく飲んだチェリオという飲料メーカー運営しているようです。


交番の後ろのラルフローレン

表参道

キャットストリート商店会
バナーは水車と富士山が描かれ穏田推しですね。




穏田神社
絵馬は一人の人が書いているようで、ラブライブ!という漫画だかアニメに関連して穏田神社と神津島が聖地になっているようです。内容については全くわからないのですがこの組み合わせに興味を惹かれて。高校生の時英語で赤点を連発していた私が通うことになった塾で神津島旅行に連れて行ってもらったこと。その塾の先生がかつて穏田のお嬢様だったこと。こんな偶然の組み合わせがあるんだ。


ノウゼンカズラ

蘇民将来子孫
このお札の意味は知らなかったのでWikipediaから引用します。
蘇民将来(そみんしょうらい)は、備後国風土記に記された人物であり、日本各地に伝わる説話、およびそれを起源とする民間信仰となっている。こんにちでも「蘇民将来」と記した護符は、日本各地の国津神系の神(おもにスサノオ)を祀る神社で授与されており、災厄を払い、疫病を除いて、福を招く神として信仰される。また、除災のため、住居の門口に「蘇民将来子孫」と書いた札を貼っている家も少なくない。なお、岩手県県南では、例年、この説話をもとにした盛大な蘇民祭がおこなわれる。陰陽道では天徳神と同一視された。


ザクロの実

大山巌邸跡

とんかつのまい泉
表参道を横断し、伊藤病院の脇の道を北へ向かいます。かつてまい泉の隣が銭湯だったという話をノルディックウォーキングでお世話になっているJOJOから何度か聞きました。



妙圓寺
切り株は欅でしょうか。


明治通り

ボーネルンド 本店

神宮橋

明治神宮
明治通りの千駄ヶ谷小学校交差点を左折して原宿駅に戻ってきます。質素倹約を旨とする明治天皇を祀る明治神宮の鳥居は倹約のため白木となっています。

代々木公園原宿門へ戻りストレッチをして解散しました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

等々力渓谷自由が丘コース 約3.1km

2022-08-08 13:09:38 | 東京都目黒区、世田谷区
予想最高気温30度程と、この時期には珍しいウォーキング日和となりました。


自由が丘駅前
この日は自由が丘集合です。ここが集合場所になるのは一年に一回このコースだけです。


九品仏川緑道
緑道を九品仏方面へ。左側にあった小さな広場でストレッチをしていたのですが、何か建設中で広場も取り込まれたようです。


民家にある祠
世田谷の方が目黒よりこんな祠が多いように思います。





九品仏浄真寺



サギソウ
九品仏は青紅葉で癒されます。サギソウもいつもより大きく撮ろうと、望遠レンズを持ってゆきました。


下品上生阿弥陀様はご不在


上品上生

上品中生

上品下生

御本堂

中品上生
九品仏はその名の通り九体の阿弥陀如来座像が安置されています。順次修復が行われ一体ご不在なので八品仏でしょうか。上品→中品→下品の順に上生の阿弥陀様から行われているようで、上品中品とも真ん中の阿弥陀様はピカピカ。上品中生、上品下生の阿弥陀様はまだこれからといった感じです。修復は京都で行われているとのこと。
江戸時代は人気の観光地だったのでしょう。目黒区内の道しるべに「九品仏」の名を見ることが出来ます。



白鷺像

上品のお堂

境内のイチョウ

山門

仁王像「阿」形

仁王像「吽」形

庚申塔
ここまで場所がなかったので、山門脇をお借りしてストレッチをして再出発です。




ノウゼンカズラのトンネル

パンパスかな

ねこじゃらし公園
九品仏墓地裏にある公園。かつて池があって烏森小学校から遠足で歩いて来たと言っていました。


かつての農業用水路?

世田谷の農家
等々力五丁目あたりは農地が広がっています。昔ながらの雰囲気を残す農家さんは四丁目。


玉川神社

テッポウユリ

セミの抜け殻

セミの穴

おみくじ掛けのセミの抜け殻
目黒通りを横断して玉川神社へ。テッポウユリが見頃です。おみくじ掛けの抜け殻は何んともピントが合わなかったのですが、これもまた面白いかな。



等々力渓谷

等々力不動

不動の滝
等々力渓谷を散策しストレッチをして解散です。その後は皆さん、お不動様にお参りをして帰られたようです。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

目黒健康ウォーキングマップA(駒場コース) 約5.4km

2022-08-01 11:04:20 | 東京都目黒区、世田谷区
距離が短いので夏のこの時期に採用していますが、日陰の無い道は結構つらい。来年は考え直さないといけないなぁと思って歩いていると、後半の東大構内、駒場公園などは木陰が多くほっとするコースでした。


セミの抜け殻

駒場野公園
駒場東大前駅で集合。駒場野公園に移動してストレッチをして出発します。蚊に刺されないよう虫よけ対策。


〆切地蔵

駒場野公園
目黒区と世田谷区の区境、かつては上目黒村と池尻村の村境でした。西から疫病が入り込まないよう、上目黒村側に立派な〆切地蔵があります。


御用屋敷跡
 江戸時代、この周辺は約5万5千坪(約18万㎡)におよぶ御用屋敷の敷地です。この辺りに建っていたと推定される建物は、徳川将軍がこの近くの駒場野へ鷹狩に来た際には食事や休息場所となり、また平素は狩場の管理や準備にあたる鳥見役が詰めていました。
 御用屋敷を含むこの地域は元々、上目黒村の加藤家が拓いた土地でした。寛永3年(1626)に御用屋敷になる土地が加藤家より伊予宇和島藩伊達家へ献上され、同家の下屋敷となりました。そして、幕府によって江戸周辺の鷹狩場が整えられるに従い、享保3年(1718)に伊達家より下屋敷は建物を含めて幕府に差し出されて、御用屋敷になりました。御用屋敷には、将軍家のための「御薬園」も設けられ、薬用の植物が栽培されていました。
  平成22年12月
    目黒区教育委員会



栃木県東京学生寮
最近建て替えが行われ、大谷石が象徴的に使われています。飾り壁のように使われるようになったのはフランク・ロイド・ライトが帝国ホテルの内装に使ったのが始まりでしょうか。


警視庁大橋庁舎

三軒茶屋キャロットタワー
騎兵山の台地から西の景色がよく見えて時々富士山も見られるのですが、この日は山がうっすら見えているものの富士山は見えませんでした。


馬神碑

騎兵山の崖
駒場には将軍家の広大な鷹場がありました。明治になりその広大な土地は駒場農学校になったり帝国陸軍の施設となったり。秋山好古のフランス式騎兵隊が開設当初この地を演習地としていたので、騎兵山と呼ばれています。演習で命を落としたり日露戦争でコサック騎兵との戦いで犠牲となった馬を供養するため馬神碑が立てられています。



サルスベリ

キバナコスモス

カンナ



赤トンボ

シュウメイギク

カラフル
騎兵山と言っても山ではなく目黒川が削った台地の縁です。騎兵山を下り目黒川の緑道を下流へ向かいます。この緑道が終わるまでは日陰がないので、ピーカンではちょっと辛いウォーキングとなります。



目黒富士登山口

ギンナン

手水

形式はいとわず

大国主命?

浅間神社
富士登山口から上目黒氷川神社を訪れます。


淡島通りのボラーチョ

立派なミニトマト
淡島通りに出て松見坂交差点から駒場バラ園方向へ進んでゆきます。こんなに立派なミニトマトが出来たらうれしいですね。


東大構内のヤブミョウガ

駒場博物館

矢内原門跡
Wikipediaから引用します。
矢内原門(やないはらもん)とは、東京都目黒区駒場の東京大学駒場Iキャンパスにあった「門」。正規の門ではなく、大学を囲む柵の、駒場商店街方面へ行くのに至便な位置に開けられた幅1メートルほどの通用口の名であった。

概説
矢内原忠雄が東京大学教養学部長の時代に、学生の試験ボイコットの際に正門がピケットにより通行できなくなったおり、学部長が自ら生垣を押し分けて通り、以後公認の通路となったと伝えられた。また、以前よりの抜け道であったが、矢内原学部長がピケ対策として「特別に門以外の場所を通行してよい」旨の告知を行ったことから学生が公然と通行するに至ったものだとも言われる。東京大学教養学部の前身である旧制第一高等学校では正規の門以外は絶対に通らないという「正門主義」があったこと、矢内原がその後も学生のストライキ等には厳しい態度を貫き、ストライキを指導した学生を退学とする「矢内原三原則」を打ち出した人物であることなどもこのエピソードの背景となっている。
近年の駒場キャンパスの整備事業で、柵の位置が大きく移動し、矢内原門は消滅した。
現在、跡地付近は「矢内原公園」と呼ばれる小公園となり、「矢内原門跡」という石碑が設置されている。



駒場野公園
東大を北門から出て駒場公園を経由し駒場野公園へ戻ってきました。稲穂とスズメがレリーフになっているこの門は、かつての東京教育大学の門です。門扉は公園になった時に代えられたものでしょう。

BA.5が猛威を振るい、ストレッチ後は会食なく解散となりました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする