日なたは暑かったけれど、陰に入ると秋の風が少し感じられる中でのウォーキングでした。残暑という感じかな。
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東大駒場正門
集合は駒場東大前駅西口改札。正門前まで移動してストレッチします。ヒマラヤ杉かな、大きな木が木陰を作ってくれています。
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大学名物立て看板
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中には警告を受けている看板も
ストレッチ後大学構内を通行させてもらい裏門へ。現在東大駒場構内を通行することは許可されているので、守衛さんに会釈をして正門を通過します。
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ヒマラヤ杉
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オリーブ
どちらも歴史がありそうです。
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101号館
中国との交流の歴史があるようです。「一高中国人留学生と101号館の歴史展」のサイトから引用します。
2019年4月に発足した東京大学と北京大学の共同教育研究プロジェクト「東アジア藝文書院(EAA)」では、東京大学教養学部の前身である第一高等学校における中国人留学生受け入れに関する歴史を紐解く「一高中国人留学生と101号館の歴史展」を開催することになりました。
明治32年(1899)、第一高等学校は、初めて清国より留学生8名を聴講生として受け入れました。これを嚆矢とし、明治36年(1903)には、文部省より京師大学堂からの留学生30余人の教養教育に関する一切の事務を委嘱され、翌年には留学生を入寮させ、授業も開始しました。さらに明治40年(1907)には、清国政府の要請により、文部省は毎年数十名の清国留学生を第一高等学校に入学させ、卒業後は帝国大学に進学させることと定め、その翌年に一高の予備教育を担う「特設予科」が設置されるに至ります。その後、昭和7年(1932)に「予科」が廃止されるまで、中国からの留学生延べ800名以上が卒業しました。同年「特設高等科」が設置され、ここで三年間学んだ留学生が各大学へと進学する途を開きました。
昭和10年(1935)に第一高等学校が駒場へ移転するにあたって、「特設高等科」の留学生たちの学舎となったのが、101号館です。EAAは、このような歴史的背景をもつ101号館に駒場オフィスを構え、本年度より東京大学と北京大学が手を携えあって、人類共通の未来を描くためのプロジェクトとして始動しました。これを記念し、本展覧会を企画いたしました。
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ボタンクサギ
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イチョウ並木
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三田用水遺構
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ヤマザキ学園
裏門から出て山手通りを歩きます。「動物看護専門職短期大学」なんてぇのがあるのですね。国家資格?ではないのでしょうね。
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鍋島松涛公園
松涛の歴史を見ると廃藩置県や鉄道がもたらした影響など、歴史を身近に感じることが出来ます。Wikipediaから引用します。
この一帯は江戸時代に中渋谷村、中豊沢村などといい、小字名として大山、大向、神山などがあった。大山には紀州徳川家の下屋敷があった。1876年(明治9年)、旧佐賀藩主の鍋島家がこれを譲渡された。11代当主の鍋島直大は広大な土地に狭山茶を移植して茶園を開き、士族授産の元武士に運営を依頼し、「松濤園」と命名した。茶の銘柄も「松濤」とされ、一時は東京市中に高級茶として知られた。地領近くに直大の四女・信子の嫁ぎ先の松平恆雄が居住している(後に秩父宮雍仁親王妃の勢津子が出ている。後に現在の旧東京都知事公館)。
1890年(明治23年)に東海道線が開通すると静岡茶などが流入、松濤園の茶業は振るわなくなった。このため茶園は廃止され、1904年(明治37年)には鍋島家が経営する畑果樹園種蓄牧場「鍋島農場」 と、農務省が運営する種畜牧場渋谷支所に分かれた。
関東大震災を契機として鍋島家は屋敷地を移住者向けに分譲し、高級住宅地となる。忠犬ハチ公で知られる帝大教授の上野英三郎もここに住んでいた。1924年(大正13年)、鍋島家は涌水池のあった種畜牧場の一角を児童遊園として開放し、さらに1932年(昭和7年)10月にはこれを東京市に寄付。1934年(昭和9年)4月からは渋谷区によって管理されることになった。
この間、「松濤」は1928年(昭和3年)に住所町名として採用された。湧水池のある広大な鍋島侯爵邸は太平洋戦争後の華族制度廃止により公園として整備され、現在では鍋島松濤公園となっている。
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松涛中学校
区立中学校に学校説明会があるんだ。
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戸栗美術館
こちらも鍋島家に関係する美術館かと思いきや、直接関係はないようです。Wikipediaから引用します。
山梨県の土木建築業の家に育った戸栗は、第二次世界大戦後の日本における欧米文化の普及を目にし、伝統的な日本文化を保存し後世に伝える必要があると考えた。1952年(昭和27年)に上京すると、殖産住宅相互の指定建築業者である「富士工務店」の代表として、同郷の小佐野賢治を補佐する傍ら、将来の展示公開を見据えて10年余り古民具や古道具の蒐集を行なった。1965年(昭和40年)頃からは、古美術に通じた友人たちの助言を得て、観賞用陶磁器を国内外で蒐集した。
戸栗が戸栗美術館を設立するにあたり、1500点の美術工芸品、土地(松濤の旧鍋島藩屋敷跡)、建物、運営資金の寄付が行なわれた。戸栗美術館は1987年(昭和62年)に財団法人の認可を得、日本でも数少ない陶磁器専門の美術館として同年11月21日に開館した。
収蔵品は2000年時点で5000点、2008年時点で7000点を数える。主な収蔵品は伊万里・鍋島などの肥前磁器、および中国・朝鮮の陶磁器である。
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奥渋
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光子館
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丸木屋商店
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宇田川遊歩道
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ナナカマド?
奥渋の商店街を横断し、宇田川遊歩道を歩きます。宇田川は渋谷川の支流で渋谷西武あたりで穏田川と合流し、下流を渋谷川と呼びました。近年では穏田川の部分も渋谷川と呼ばれています。1964年東京オリンピックを契機に暗渠となってトイレの水洗化に大きく貢献しています。光子館はテレビ番組用に着ぐるみなどを製作しており、志村けんさんのスワンもこちらの作品です。丸木屋商店は立ち飲みで有名なお店。ある意味敷居が高すぎて訪れたことはありません。
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河骨川合流点
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河骨川跡
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春の小川の看板
井の頭通りを横断しさらに上流へ向かってゆくと宇田川に河骨川が合流する地点が現れますが、何も書いていないので知らなければ通り過ぎてしまいます。唱歌「春の小川」は河骨川がモデルであると言われていますが、いくつか説があるようです。
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ヘクソカズラ
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春の小川歌碑
「春の小川」歌碑
ここはかつて清らかな小川が流れ、黄色のかわいらしい”こうほね”が咲いていたので、河骨(こうほね)川と呼ばれていました。春になると、岸辺にはれんげやすみれが咲く、のどかな所でした。
明治42年(1909)から代々木山谷(現代々木3丁目3号)に住んでいた国文学者の高野辰之氏は、このたりの風景を愛して、しばしばこのほとりを散策したといわれてます。そして、今も歌い続けられている『春の小川』を作詩して、大正元年(1912)に発表しました。この詩は、小学唱歌となり、現在に至るまで広く愛唱されています。
現在、河骨川は暗渠となり、もはや当時のおもかげはありませんが、この詩から明治末ごろの付近の様子を知ることができます。ここにある歌碑は、このことを永く後世に伝えるために、地元の篤志家が建設し、渋谷区に寄贈されたものであります。
渋谷区教育委員会
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透けてるトイレ使用前
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透けてるトイレ使用中
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透けてるトイレ
うちの会のメンバーがチャレンジしにゆきました。このトイレが設置された時にインタビューに答えていた近所の方が「中に誰もいないことが確認できるので安心です」と語っていました。目立つので破壊や落書きの対象になるかと思いきや、そうでもないようです。
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代々木公園から都庁方面
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バラ園
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昭憲皇太后大喪儀葬場殿趾碑
戦前代々木公園の場所は練兵場でした。
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オリンピック記念の宿舎
戦後ワシントンハイツと呼ばれるアメリカ軍将校の住宅が建設され、1964年8月12日に東京オリンピックのために日本へ返還されています。選手村の宿舎はアメリカ軍将校の住宅がそのまま使用されました。
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国土緑化運動
大戦は国土の荒廃と森林緑地の喪失を招き、災害を続発し水源を枯渇せしめ生活の潤いを奪った。有志はその参状の一刻も放置できないことを見、相はかって国土緑化推進委員会を結成してここに20年、幣原喜重郎氏以来歴代の衆議院議員を委員長に、故村上竜太郎氏を始めとする多数関係者は、国民の繁栄は緑とともにあるという理念のもとに、全国土の緑化を提唱して献身的努力を重ねてきた。
山に木を植え都市を緑で包むこの国民運動は全国にわたって着々と成果をあげ、現に明治百年記念事業として国が明治の森国民の森の造成を進めているほか、郷土の森県民の森等が各地に育ちつつある。いま東京都が代々木の地に森林公園を開設するのを機とし、その一角を得てこの碑を建てるのは、顧みて国土緑化運動の由来を記念し、その力強い発展をさらに将来に期するためである。
昭和43年(1968)11月 国土緑化推進委員会
ストレッチをしてこちらで解散となりました。
以前はみんなで渋谷へ歩いてゆきましたが、食事をしなくなったせいかほとんどの会員が原宿方面に帰ります。副都心線に乗れば一本ですからね。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
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東大駒場正門
集合は駒場東大前駅西口改札。正門前まで移動してストレッチします。ヒマラヤ杉かな、大きな木が木陰を作ってくれています。
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大学名物立て看板
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中には警告を受けている看板も
ストレッチ後大学構内を通行させてもらい裏門へ。現在東大駒場構内を通行することは許可されているので、守衛さんに会釈をして正門を通過します。
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ヒマラヤ杉
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オリーブ
どちらも歴史がありそうです。
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101号館
中国との交流の歴史があるようです。「一高中国人留学生と101号館の歴史展」のサイトから引用します。
2019年4月に発足した東京大学と北京大学の共同教育研究プロジェクト「東アジア藝文書院(EAA)」では、東京大学教養学部の前身である第一高等学校における中国人留学生受け入れに関する歴史を紐解く「一高中国人留学生と101号館の歴史展」を開催することになりました。
明治32年(1899)、第一高等学校は、初めて清国より留学生8名を聴講生として受け入れました。これを嚆矢とし、明治36年(1903)には、文部省より京師大学堂からの留学生30余人の教養教育に関する一切の事務を委嘱され、翌年には留学生を入寮させ、授業も開始しました。さらに明治40年(1907)には、清国政府の要請により、文部省は毎年数十名の清国留学生を第一高等学校に入学させ、卒業後は帝国大学に進学させることと定め、その翌年に一高の予備教育を担う「特設予科」が設置されるに至ります。その後、昭和7年(1932)に「予科」が廃止されるまで、中国からの留学生延べ800名以上が卒業しました。同年「特設高等科」が設置され、ここで三年間学んだ留学生が各大学へと進学する途を開きました。
昭和10年(1935)に第一高等学校が駒場へ移転するにあたって、「特設高等科」の留学生たちの学舎となったのが、101号館です。EAAは、このような歴史的背景をもつ101号館に駒場オフィスを構え、本年度より東京大学と北京大学が手を携えあって、人類共通の未来を描くためのプロジェクトとして始動しました。これを記念し、本展覧会を企画いたしました。
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ボタンクサギ
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イチョウ並木
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三田用水遺構
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ヤマザキ学園
裏門から出て山手通りを歩きます。「動物看護専門職短期大学」なんてぇのがあるのですね。国家資格?ではないのでしょうね。
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鍋島松涛公園
松涛の歴史を見ると廃藩置県や鉄道がもたらした影響など、歴史を身近に感じることが出来ます。Wikipediaから引用します。
この一帯は江戸時代に中渋谷村、中豊沢村などといい、小字名として大山、大向、神山などがあった。大山には紀州徳川家の下屋敷があった。1876年(明治9年)、旧佐賀藩主の鍋島家がこれを譲渡された。11代当主の鍋島直大は広大な土地に狭山茶を移植して茶園を開き、士族授産の元武士に運営を依頼し、「松濤園」と命名した。茶の銘柄も「松濤」とされ、一時は東京市中に高級茶として知られた。地領近くに直大の四女・信子の嫁ぎ先の松平恆雄が居住している(後に秩父宮雍仁親王妃の勢津子が出ている。後に現在の旧東京都知事公館)。
1890年(明治23年)に東海道線が開通すると静岡茶などが流入、松濤園の茶業は振るわなくなった。このため茶園は廃止され、1904年(明治37年)には鍋島家が経営する畑果樹園種蓄牧場「鍋島農場」 と、農務省が運営する種畜牧場渋谷支所に分かれた。
関東大震災を契機として鍋島家は屋敷地を移住者向けに分譲し、高級住宅地となる。忠犬ハチ公で知られる帝大教授の上野英三郎もここに住んでいた。1924年(大正13年)、鍋島家は涌水池のあった種畜牧場の一角を児童遊園として開放し、さらに1932年(昭和7年)10月にはこれを東京市に寄付。1934年(昭和9年)4月からは渋谷区によって管理されることになった。
この間、「松濤」は1928年(昭和3年)に住所町名として採用された。湧水池のある広大な鍋島侯爵邸は太平洋戦争後の華族制度廃止により公園として整備され、現在では鍋島松濤公園となっている。
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松涛中学校
区立中学校に学校説明会があるんだ。
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戸栗美術館
こちらも鍋島家に関係する美術館かと思いきや、直接関係はないようです。Wikipediaから引用します。
山梨県の土木建築業の家に育った戸栗は、第二次世界大戦後の日本における欧米文化の普及を目にし、伝統的な日本文化を保存し後世に伝える必要があると考えた。1952年(昭和27年)に上京すると、殖産住宅相互の指定建築業者である「富士工務店」の代表として、同郷の小佐野賢治を補佐する傍ら、将来の展示公開を見据えて10年余り古民具や古道具の蒐集を行なった。1965年(昭和40年)頃からは、古美術に通じた友人たちの助言を得て、観賞用陶磁器を国内外で蒐集した。
戸栗が戸栗美術館を設立するにあたり、1500点の美術工芸品、土地(松濤の旧鍋島藩屋敷跡)、建物、運営資金の寄付が行なわれた。戸栗美術館は1987年(昭和62年)に財団法人の認可を得、日本でも数少ない陶磁器専門の美術館として同年11月21日に開館した。
収蔵品は2000年時点で5000点、2008年時点で7000点を数える。主な収蔵品は伊万里・鍋島などの肥前磁器、および中国・朝鮮の陶磁器である。
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奥渋
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光子館
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丸木屋商店
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宇田川遊歩道
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ナナカマド?
奥渋の商店街を横断し、宇田川遊歩道を歩きます。宇田川は渋谷川の支流で渋谷西武あたりで穏田川と合流し、下流を渋谷川と呼びました。近年では穏田川の部分も渋谷川と呼ばれています。1964年東京オリンピックを契機に暗渠となってトイレの水洗化に大きく貢献しています。光子館はテレビ番組用に着ぐるみなどを製作しており、志村けんさんのスワンもこちらの作品です。丸木屋商店は立ち飲みで有名なお店。ある意味敷居が高すぎて訪れたことはありません。
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河骨川合流点
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河骨川跡
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春の小川の看板
井の頭通りを横断しさらに上流へ向かってゆくと宇田川に河骨川が合流する地点が現れますが、何も書いていないので知らなければ通り過ぎてしまいます。唱歌「春の小川」は河骨川がモデルであると言われていますが、いくつか説があるようです。
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ヘクソカズラ
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春の小川歌碑
「春の小川」歌碑
ここはかつて清らかな小川が流れ、黄色のかわいらしい”こうほね”が咲いていたので、河骨(こうほね)川と呼ばれていました。春になると、岸辺にはれんげやすみれが咲く、のどかな所でした。
明治42年(1909)から代々木山谷(現代々木3丁目3号)に住んでいた国文学者の高野辰之氏は、このたりの風景を愛して、しばしばこのほとりを散策したといわれてます。そして、今も歌い続けられている『春の小川』を作詩して、大正元年(1912)に発表しました。この詩は、小学唱歌となり、現在に至るまで広く愛唱されています。
現在、河骨川は暗渠となり、もはや当時のおもかげはありませんが、この詩から明治末ごろの付近の様子を知ることができます。ここにある歌碑は、このことを永く後世に伝えるために、地元の篤志家が建設し、渋谷区に寄贈されたものであります。
渋谷区教育委員会
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透けてるトイレ使用前
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透けてるトイレ使用中
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透けてるトイレ
うちの会のメンバーがチャレンジしにゆきました。このトイレが設置された時にインタビューに答えていた近所の方が「中に誰もいないことが確認できるので安心です」と語っていました。目立つので破壊や落書きの対象になるかと思いきや、そうでもないようです。
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代々木公園から都庁方面
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バラ園
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昭憲皇太后大喪儀葬場殿趾碑
戦前代々木公園の場所は練兵場でした。
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オリンピック記念の宿舎
戦後ワシントンハイツと呼ばれるアメリカ軍将校の住宅が建設され、1964年8月12日に東京オリンピックのために日本へ返還されています。選手村の宿舎はアメリカ軍将校の住宅がそのまま使用されました。
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国土緑化運動
大戦は国土の荒廃と森林緑地の喪失を招き、災害を続発し水源を枯渇せしめ生活の潤いを奪った。有志はその参状の一刻も放置できないことを見、相はかって国土緑化推進委員会を結成してここに20年、幣原喜重郎氏以来歴代の衆議院議員を委員長に、故村上竜太郎氏を始めとする多数関係者は、国民の繁栄は緑とともにあるという理念のもとに、全国土の緑化を提唱して献身的努力を重ねてきた。
山に木を植え都市を緑で包むこの国民運動は全国にわたって着々と成果をあげ、現に明治百年記念事業として国が明治の森国民の森の造成を進めているほか、郷土の森県民の森等が各地に育ちつつある。いま東京都が代々木の地に森林公園を開設するのを機とし、その一角を得てこの碑を建てるのは、顧みて国土緑化運動の由来を記念し、その力強い発展をさらに将来に期するためである。
昭和43年(1968)11月 国土緑化推進委員会
ストレッチをしてこちらで解散となりました。
以前はみんなで渋谷へ歩いてゆきましたが、食事をしなくなったせいかほとんどの会員が原宿方面に帰ります。副都心線に乗れば一本ですからね。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
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