すこやか歩こう会も少し高齢化が進み、長いコースを敬遠する声が徐々に聞かれるようになりました。短いコースも歩行計画に加えるようにしているのですがあまり数がないので、従来船入場がスタートのコースをスタート地点を変えて短くしてみました。会員それぞれの事情に合わせて、スタート地点へはバスを使ったり歩いたり。
ユキヤナギ
レンギョウ
目黒川のソメイヨシノ
ウォーキング実施日は12日だったのでまだサクラは咲いていませんが、現在では咲きはじめて人もたくさん出てきています。
ふれあい橋から下流を望む
東日紙商
三条実美邸跡
今回初めて三条邸跡を加えてみました。淀橋台へ上る富士見坂の途中にあり、説明板はありません。Googleマップには「三条実美(梨号)記念碑」とありますが、口コミもありません。岩倉邸同様に富士を望むこの地に別邸があったのだと思います。
ホテルプリンセスガーデン
こちらも三条邸の跡だと思いますがそれを示すようなものは見当たりません。
日の丸自動車学校
田道住区センター三田分室
陸軍境界石
終戦までここに鉄路があり、製造した火薬を白金自然園まで運んでいました。
ソメイヨシノ
茶屋坂
茶屋坂と爺々が茶屋
茶屋坂は江戸時代に,江戸から目黒に入る道の一つで,大きな松の生えた芝原の中を くねくねと下るつづら折りの坂で 富士の眺めが良いところであった。
この坂上に 百姓彦四郎が開いた茶屋があって,三代将軍家光や八代将軍吉宗が鷹狩りに来た都度立ち寄って休んだ。家光は彦四郎の人柄を愛し,「爺,爺」と話しかけたので,「爺々が茶屋」と呼ばれ 広重の絵にも見えている。
以来 将軍が目黒筋へお成りのときは 立ち寄って銀一枚を与えるのが例であったという。また十代将軍家治が立ち寄った時には 団子と田楽を作って差し上げたりしている。
こんなことから「目黒のさんま」の話が生れたのではないだろうか。
平成三年三月 目黒区教育委員会
茶屋坂隧道
三田用水跡と茶屋坂隧道跡
三田用水は寛文4(1664)年、飲用の上水として作られ、玉川上水 から北沢で分水し、三田村を通り白金、芝へ流れていた。
享保7(1722)年この上水が廃止になった時、目黒の4か村をはじめ14か村はこれを農業用水として利用することを関東郡代に願い出て、享保10年に三田用水 となった。
農耕、製粉・精米の水車などに用いられた用水も、明治以降は工業用水やビール工場の用水など、用途を変更し利用されてきたが、やがてそれも不用となり、昭和50年にその流れを完全に止め、約300年にわたる歴史の幕を閉じた。
茶屋坂 隧道は、昭和5年に新茶屋坂 通りを開通させるため、三田用水の下を開削してできた全長10mほどのコンクリート造りのトンネルで、平成15年に道路拡幅に伴い撤去された。
恵比寿サザンクロスのサクラ
種類はわかりません。
道しるべ
恵比寿南三丁目11番17号
道しるべ
江戸時代中期の安永八年(1779)に建てられたこの道しるべは、中央に南無阿弥陀仏、その右側にゆうてん寺道、左側には不動尊みちと書いてあります。ゆうてん寺道とは、目黒方面から別所坂を上り麻布を経て江戸市中へ通じる最短距離の道、不動尊みちとは、目黒不動へと続く道のことです。そして台座には道講中と刻まれています。このことから、単に道路の指導標というだけではなく、交通安全ついても祈願し造られたものであると考えられます。この地域は江戸時代、渋谷広尾町と呼ばれた小規模な町並みが存在していただけでした。町並みから外への道は、人家も少ない寂しいところであったため、このような宗教的意味を持った道しるべが必要だったのでしょう。
渋谷区教育委員会
プリンススマートイン
ハクモクレン
アセビ
別所坂公園からアトラスタワー
坂を上ってきたので、こちらで少し休憩しました。
元富士
猿楽神社
元富士は岩倉邸の跡、猿楽神社は古墳に祀られた神社です。
デンマーク大使館
ウクライナの旗が目立ちませんでしたね。
西郷山公園
菅刈公園上の邸宅
濃いピンクはマメザクラかオカメザクラでしょう。
菅刈公園
コシノヒガン
タカトウコヒガンと同じ種類のようです。
この日かこちらでストレッチをして解散。春場所初日ということでONCEの大画面でお相撲を見せてもらいました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
ユキヤナギ
レンギョウ
目黒川のソメイヨシノ
ウォーキング実施日は12日だったのでまだサクラは咲いていませんが、現在では咲きはじめて人もたくさん出てきています。
ふれあい橋から下流を望む
東日紙商
三条実美邸跡
今回初めて三条邸跡を加えてみました。淀橋台へ上る富士見坂の途中にあり、説明板はありません。Googleマップには「三条実美(梨号)記念碑」とありますが、口コミもありません。岩倉邸同様に富士を望むこの地に別邸があったのだと思います。
ホテルプリンセスガーデン
こちらも三条邸の跡だと思いますがそれを示すようなものは見当たりません。
日の丸自動車学校
田道住区センター三田分室
陸軍境界石
終戦までここに鉄路があり、製造した火薬を白金自然園まで運んでいました。
ソメイヨシノ
茶屋坂
茶屋坂と爺々が茶屋
茶屋坂は江戸時代に,江戸から目黒に入る道の一つで,大きな松の生えた芝原の中を くねくねと下るつづら折りの坂で 富士の眺めが良いところであった。
この坂上に 百姓彦四郎が開いた茶屋があって,三代将軍家光や八代将軍吉宗が鷹狩りに来た都度立ち寄って休んだ。家光は彦四郎の人柄を愛し,「爺,爺」と話しかけたので,「爺々が茶屋」と呼ばれ 広重の絵にも見えている。
以来 将軍が目黒筋へお成りのときは 立ち寄って銀一枚を与えるのが例であったという。また十代将軍家治が立ち寄った時には 団子と田楽を作って差し上げたりしている。
こんなことから「目黒のさんま」の話が生れたのではないだろうか。
平成三年三月 目黒区教育委員会
茶屋坂隧道
三田用水跡と茶屋坂隧道跡
三田用水は寛文4(1664)年、飲用の上水として作られ、玉川上水 から北沢で分水し、三田村を通り白金、芝へ流れていた。
享保7(1722)年この上水が廃止になった時、目黒の4か村をはじめ14か村はこれを農業用水として利用することを関東郡代に願い出て、享保10年に三田用水 となった。
農耕、製粉・精米の水車などに用いられた用水も、明治以降は工業用水やビール工場の用水など、用途を変更し利用されてきたが、やがてそれも不用となり、昭和50年にその流れを完全に止め、約300年にわたる歴史の幕を閉じた。
茶屋坂 隧道は、昭和5年に新茶屋坂 通りを開通させるため、三田用水の下を開削してできた全長10mほどのコンクリート造りのトンネルで、平成15年に道路拡幅に伴い撤去された。
恵比寿サザンクロスのサクラ
種類はわかりません。
道しるべ
恵比寿南三丁目11番17号
道しるべ
江戸時代中期の安永八年(1779)に建てられたこの道しるべは、中央に南無阿弥陀仏、その右側にゆうてん寺道、左側には不動尊みちと書いてあります。ゆうてん寺道とは、目黒方面から別所坂を上り麻布を経て江戸市中へ通じる最短距離の道、不動尊みちとは、目黒不動へと続く道のことです。そして台座には道講中と刻まれています。このことから、単に道路の指導標というだけではなく、交通安全ついても祈願し造られたものであると考えられます。この地域は江戸時代、渋谷広尾町と呼ばれた小規模な町並みが存在していただけでした。町並みから外への道は、人家も少ない寂しいところであったため、このような宗教的意味を持った道しるべが必要だったのでしょう。
渋谷区教育委員会
プリンススマートイン
ハクモクレン
アセビ
別所坂公園からアトラスタワー
坂を上ってきたので、こちらで少し休憩しました。
元富士
猿楽神社
元富士は岩倉邸の跡、猿楽神社は古墳に祀られた神社です。
デンマーク大使館
ウクライナの旗が目立ちませんでしたね。
西郷山公園
菅刈公園上の邸宅
濃いピンクはマメザクラかオカメザクラでしょう。
菅刈公園
コシノヒガン
タカトウコヒガンと同じ種類のようです。
この日かこちらでストレッチをして解散。春場所初日ということでONCEの大画面でお相撲を見せてもらいました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール