めぐろウォーキング塾開催中ですが、11月3日のお鷹狩ウォークへの準備もこの時期に始まり、六月はウォーキング協会の作業で忙しい月となっています。お鷹狩ウォークは2003年江戸開府400年のイベントとして、目黒ウォーキング協会が企画し目黒区主催で始まりました。目黒六ヵ村の一つ上目黒村には徳川将軍家の鷹場があり、将軍がたびたび鷹狩りに訪れました。そんな江戸城から目黒への道を歩いて見ましょうという企画で、毎年欠かすことなく開催し今年は十五回目を迎えます。
写真:近所のタイザンボク?
下見を何度も出来るわけではないので、事務局が作成したルートを実行委員が歩き確認するという方法をとります。北部すこやか歩こう会のメンバーは中目黒に集まって出発です。花は近所に最近建った家の庭木。庭木としては珍しく、先日植えたばかりなのにもう花をつけているのも珍しいです。
写真:日比谷公園
写真:自由の鐘
ロングコースのスタート地点は初回から14回まで続けて桜田門広場をお借りしていましたが、お鷹狩ウォークが行われる11月3日に外桜田門を閉じて門を見てもらうというイベントが行われるため今年はお借りすることが出来ず、日比谷公園健康広場からのスタートとなります。
広場のすぐわきに自由の鐘があることに初めて気づきました。碑銘から引用しておきます。
自由の鐘は一七七六年米国の独立宣言に際し自由の喜びを天下に告げた歴史的記念物である。しかしこの鐘はその鐘銘の聖句にもある通り「すべての国とその住民に自由を告げる」自由の象徴である。米国民間の匿名有志はその複製を連合軍総司令官リッジウェイ大将に託し、これを広く日本国民に贈りたいと申出た。よつてリッジウェイ大将は自由の擁護者たる新聞を通じ広く日本国民に贈ることが最も寄付の趣旨に副うものとして昭和二十七年四月日本新聞協会に寄贈された。日本新聞協会は日比谷の一角に自由の鐘塔を建造してこれを東京都に寄贈し広く国民と共に自由の鐘の歴史的意義を銘記せんとするものである。
昭和二十七年十月
社団法人 日本新聞協会
写真:明治36年創業、松本楼
写真:宮崎県から贈られた埴輪
写真:市政会館
日比谷公園内にもいろいろ見どころがあり楽しいですね。埴輪について碑文を引用してみます。
昭和40年(1965)8月21日に、東京都立日比谷公園と宮崎県立平和台公園が、姉妹公園として結ばれたことを記念し、特別史跡西都原(さいとばる)古墳群をはじめ、多数の古墳のある宮崎県より「はにわ」像二体を東京都に贈られました。
宮崎県には特別史跡西都原古墳群をはじめたくさんの古墳がありますがその古い宮崎をしのぶため造られたのがはにわ園で第18回オリンピック東京大会の聖火リレー起点になった平和台公園のなかにあります。
昭和40年(1965)8月21日
宮崎県知事 黒木博
市政会館は1923年の関東大震災に耐えた建物と勘違いしていましたが、震災直後に地震を念頭に設計されたものでした。少し古い記事のようですが「ロングライフビル推進協会」のページから引用します。
この建物は、懸賞コンペによるもので、1925年に着工し、1929年に竣工している。関東大震災直後の設計で、十分な耐震性が求められた。松杭2,200本を用いた地盤改良が行なわれ、耐震壁を多用した鉄骨鉄筋コンクリート造で、75年後の現在でも、ひび割れが無く、不同沈下も見られない。
時代のニーズに合わせて追加されてきた各種設備の更新に伴い、外壁に設置されていた各種配管や屋外機などが撤去され、建設当時の外観に復元されている。
アクセントとなっているテラコッタタイルの補修と外装のスクラッチタイルの補修等は、特に苦労が感じられる。
経年劣化によりはく離・汚れを生じていた玄関周囲の砂岩も修復している。
竣工以来76年間時を告げてきた時計塔は、会館のシンボルで、このイメージを損なわないように最新型時計機械に更新している。
内部は、創建時の格調ある雰囲気を残すために、当時の仕上げをできるだけ残し、天井照明の改修により、最新オフィスビルのエントランスを設けている。
設備・維持管理を考えると、以前は時事通信社1社が大半のフロアーを賃借していたが、今は民間数社が賃借しており、管理面についての苦労があると思われるが、緊急対応から、修繕費用の積立まで将来を見据え良く考えている。
又テナントビルとして、競争に負けないように設備に関する大改修を行っている。空調負荷対応、事務所照度を750lxに上げ光ケーブルを引き込み他のビルとの差をなくした。
本建物は外壁が立派で保存を考えるに当たり内部との違和感がない様に設備機器等が目立たない様に上手く纏め、既存で残すべき物はうまく残し改修を行っている。
維持保全計画については、統括管理の立場で市政調査会が中心になり、それぞれの専門業者を抱え緊急時対応、保守業務の指示系統もしっかり考えられている。
近代ゴシック様式の重圧で優美な外観を誇り、歴史的建造物として、100年建築を目指して長期保全計画の基で管理運営されている建物である。
写真:銀座の柳
外堀通り、銀座中央通りを通過して新橋一丁目にある銀座の柳の碑を通過します。
写真:旧新橋駅
写真:日テレプラザ
汐留に再現された旧新橋駅舎を見て、日テレプラザのエスカレーターをお借りして汐留ペデストリアンデッキへ上がります。
写真:浜離宮恩賜庭園裏の水路
これまではペデストリアンデッキをイタリア公園まで歩いていたのですが、今回は趣向を変えて海岸通りを渡り、浜離宮の裏を通るルートを提案してみました。あまり評判が良くないようなので、実現できるかどうか。
写真:都立竹芝ふ頭公園
昨年は想定を超えて同時刻に休憩場所に人が集まってしまったためトイレに長い列ができ不評でした。今年はトイレの数では群を抜く、竹芝ふ頭公園を休憩場所にするつもりです。休憩場所としてはよいところなのですが、全体的に距離が長くなりこの後のルートが限られるので、コース設定に工夫がほしいところ。
写真:新芝公園
公園の名称はかろうじて分かったもの、この石像の由来については不明でした。今回のルートはここから古川沿いに遡ってゆきます。
写真:赤羽橋から見た東京タワー
写真:天現寺橋にある慶応幼稚舎
四谷三丁目に源を発する渋谷川は多くの支流から水を集め、天現寺で笄川と合流すると古川という名称に変わります。つまり今回のルートでは古川の河口から、基点まですべてを歩くことになるのです。その間には多くの橋があり、地名として記憶されていてもそれらが古川に架かる橋の名称であることは、あまり記憶されていないかもしれません。河口から並べてみましょう。
新浜崎橋→浜崎橋→新浜橋→金杉橋→将監橋→芝園橋→赤羽橋→中之橋→新堀橋→一之橋公園橋→一之橋→小山橋→二之橋→南麻布一丁目児童遊園橋→三之橋→古川橋→新古川橋→四之橋→白金公園橋→五之橋→養老橋→亀屋橋→狸橋→天現寺橋
おなじみの名前があったことと思います。
天現寺橋で古川と別れを告げると、お鷹狩ウォークでは常に最大の難所となる代官山山脈(勝手に呼んでいます)をどこで越えるかということになります。もともとは渋谷側の淀橋台と目黒台の台地が衝突している場所を目黒川と渋谷川が深い谷を刻んで山脈のようなものを形成しています。現代人には駒沢通りのような切通しがありますが、江戸時代目黒世田谷の百姓が江戸へ野菜を売りにゆくのに毎日苦労して通行していたのでしょう。それがゆえに、菅沼権之助の伝説のような話ができるのでしょうね。
わき道にそれましたが、今回は都道305号通称恵比寿通り付近で坂を上るルートを設定しました。ガーデンプレイス、アメリカ橋、茶屋坂を通り田道ふれあい広場がゴールとなります。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
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