GWの鎌倉は混雑が予想されますが、最終日はそうでもないかなという企画です。
湘南モノレール
すこやか歩こう会の鎌倉は通常のアプローチとは違い大船駅に集合して湘南モノレールで向かいます。
湘南深沢駅
天気は曇り空でしたが、モノレールからうっすらと富士山も見えていました。以前はなかったこちらの施設の通路をお借りしストレッチを行います。
深沢交差点
深沢といってもそれほど深い沢ではありません。世田谷は呑川が作った沢ですが、深沢という感じはしません。本当に深い沢だったら人が住まず地名もないということかな。人の生活に支障がない程度に深い沢ということでしょうか?
アヤメ?
ウツギ
ハルジオン
深沢から南へ向かって歩道があって車の通行がそこそこある道を歩いて行きます。周辺は田んぼや畑、奥に鎌倉を囲む山が迫っており鶯の声はひっきりなしに聞こえてきます。このコースを初めて訪れた時、鶯の声に対し当会の会員が私に「この鳥何?」と聞くので「すずめ」と言うとほかの会員さんが爆笑していました。爆笑のおかげで質問した会員も雀ではないことは認識したようです。
夫婦池
鎌倉山の碑
夫婦池公園
夫婦池公園でトイレ休憩にします。公園内の階段を上ると鎌倉山。鎌倉山は山ではなく字名です。Wikipediaから引用します。
鎌倉山(かまくらやま)は、神奈川県鎌倉市深沢地域にある大字。現行行政地名は鎌倉山一丁目から鎌倉山四丁目。住居表示実施済み区域。
地理
鎌倉市西部に位置する。北は笛田、西は手広・腰越・津、南は七里ヶ浜・稲村ヶ崎、東は極楽寺と接する。山という地名がつけられているが、標高100m程度の丘陵である。ほぼ全域が山林となっているが、道路沿いを中心に住宅が点在している。鎌倉山内の主要な道路には多数の桜(ソメイヨシノ)が植えられている。桜の開花シーズンともなると、桜を見に来るハイキング客でにぎわうようになる。
また鎌倉山神社がある山頂付近からは、七里ヶ浜の海、江の島、富士山、逗子マリーナや三浦アルプスなどを見渡すこともできる。このあたりからは、極楽寺方面と稲村ガ崎へ抜ける山道も存在し、以前は鎌倉から手広方面へ抜ける近道としても重用されていたが、昭和30年代頃に周辺の交通路が整備された事によって使われなくなり、現在は廃れている(通行は可能)。
鎌倉山には国道・県道は通っておらず、市道大船西鎌倉線(旧京浜急行自動車専用道)と、神奈川県道32号藤沢鎌倉線常磐口交差点より笛田を経由して市道大船・西鎌倉線へ合流する約3kmほどの市道(さくら道)が主要な道路となっている。市道大船・西鎌倉線とさくら道との交点北緯35度19分23.8秒 東経139度30分48.2秒には「鎌倉山ロータリー」と呼ばれるロータリー交差点が設置されている。
鎌倉山の竹林
うっすらと富士山
民家に掘られた謎のトンネル
鎌倉山神社
鎌倉山神社まで登りで、竹林が多くみられ一部は手入れが十分でないものも見られます。地震の時は竹林に行けと言われるくらい根を張っていて、斜面を維持するのに竹林が向いているのかな。
扇湖山荘?
山道
山道からの景色
山道を月影地蔵まで歩いて行きます。月影地蔵で会員に話した元ネタを
https://www2s.biglobe.ne.jp/~matu-emk/yomichi.html
から引用しておきます。
夜の山道を帰った二人=田中絹代と服部之総
鎌倉山に通じる山道はいくつかあるが、江ノ電の極楽寺の駅を下車して桜橋を渡り、月影の地蔵の横から墓地を抜けて、一人やっと通れる程の小径もその一つ。かってこの獣道は、極楽寺から鎌倉山、笛田を経て、手広、藤沢に行くには最も近道であった。
土地の者だけが利用していた山道である。鎌倉山の一部の住所は極楽寺であるところからも、その隣接していることが判る。車が普及したことと七里ガ浜の分譲地の奥から、鎌倉山に通じる道路が出来ているので、この昔からの山道の利用価値がなくなってしまった。
日中でももの淋しい山道であるが、何年も前に、月影地蔵から鎌倉山に行こうとしたが、道の両脇から繁茂している草木に阻まれて、やむなく引き返してきた。去年、反対に鎌倉山の方から下山する方法で、月影地蔵まで歩いたが、その間一人としてハイカ-に出会わなかった。
鎌倉山からは江ノ島を中心に、伊豆半島、箱根、富士の景色ばかり見慣れているので、東南の由比ガ浜、逗子方面の遠景が如何にも新鮮に眼に映り、これまで見落としていた鎌倉山の素晴らしい展望の一角を発見した思いだった。
だが、距離にして1キロ余りであるが、夜間となるとどんなに不気味な山道に変貌するか想像もつかない。
終戦直後のことである。鎌倉山に住んでいた歴史学者の服部之総が、ある夜8時頃、極楽寺で下車して山道に向かっていくと、田圃のあぜに和装の若い女のひとが、一人月光を浴びて立っていた。一見して、美人と見てとれただけに不気味さを感じた。黙ってやりすごした背後から、声を掛けられた。
「山へお帰りでございますか?」「そうです」「恐れ入りますが、おともさせて下さい」
おんなのひとは、服部之総の返事の仕方に一種の安心感を直感したのであろう。又彼女の問いかけかたやそれに続く動作応答の中に山の住民を確認して、さあどうぞと言って連れ立った。
道中の会話から、その女性が聡明であることが判ったが、そのひとの見当がつかなかった。見当がつかないとみて女性は「田中でございます」と名乗り出たのであるが、「ああそうですか」と聞いて礼儀を欠かさないために「ぼくはテニスコ-トのすぐ上の、、、、」と言ったあたりで、やっと気がついて「ああ、松竹の田中さんでしたか」と言った。
交通不便なあの時代だからこそ、こうした光景が繰り広げられたのである。我家があれば、その途中どんなに暗い道でも恐怖はないものである。だがスクリ-ンの華やかな映画女優が、運良く同じ鎌倉山に住んでいた歴史学者の服部之総と言う道連れがあったからいいようなもの、もしなかったら一人トボトボ夜の山道を辿ったのであろうか。
田中絹代は、女優にしては珍しく本名である。田中絹代の長兄が、徴兵検査の当日時間に遅れたため、そのまま失踪してしまった。そして二度と家族の前に姿を見せることはなかった。
田中絹代は、もし長兄がこの世に生きていたなら、本名で映画に出演していれば、どこかの映画館の片隅で自分を見ていてくれるであろうと思ったと言う。だが、鎌倉山に造った通称「田中御殿」で母親が死去した時も長兄は終に姿をみせることはなかった。
服部之総は東大在学中に志賀義雄、大宅壮一らと新人会で活躍した。マルクス主義に傾倒し、プロレタリア科学研究所所員になり、コム アカデミ-事件で検挙された後、戦時中は花王石鹸の嘱託になり、社史などの編纂に携った。中でも、花王石鹸の創業者、「長瀬富郎伝」は満を持して執筆した。
この間に歴史随筆「黒船前後」を上梓し、その関心事が多岐に亙っていることを示す若き日の代表作である。終戦を期に退社し学界に復帰し、鎌倉アカデミ-の教授や学監になり、廃校後は合併した法政大学の教壇に立ったが、独特の風格と組織力、鋭い問題意識を持ち、後進の育成指導にあたり、近代史の研究に果たした役割は大きい。
戦前、戦中弾圧を受けたマルクス社会主義者も戦後は、自由に自己の主張を発表し得る時期が到来した。夜の山道を偶々田中絹代と同行したのは、服部之総の精神的、物質的に安定していたころの椿事である。しかしその後胃潰瘍になり、ノイロ-ゼ現象に悩み、一時は箱根山中で苦痛と苦悩に苛まれたのも、酒好きがもとで自律神経症から来るものであったとされる。極度の神経衰弱に度々襲われ、死を早めた。ジャ-ナリステックなセンスに富んだ学者であるが、その余りにも早すぎた死は学界のみならず各方面から哀惜された。享年55歳。
古き良き時代かな。
月影地蔵
極楽寺駅と江ノ電
江ノ電
星の井
月影地蔵まで下りてきて稲村ケ崎小学校の前を通り江ノ電の極楽寺駅へ。極楽寺坂切通を通過して星の井へ。
力餅家
御霊神社
江ノ電の線路
ゴールは長谷寺なのですが混んでいてストレッチができません。和菓子を買いたいという会員もいるので御霊神社にお参りした後境内をお借りしてストレッチをして解散。力餅へ行くグループ、長谷寺へ行くグループ。
私は反省会グループ。長谷駅に直行し鎌倉駅で乗り換え横浜駅へ。ジョイナスのライオンでたっぷり反省会をしてきました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
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