11月25日(日)第三回目黒シティランが行われました。10kmマラソンに3,000名、ミニマラソンやウォーキングに1,000人。ボランティアを含めると5,000人規模の区内最大のスポーツイベントです。駒沢通り、自由通りは一定時間全面通行止め、目黒通りと山手通りは車線規制が行われました。
以前10kmマラソン大会に出場した友人からの話では、「アップダウンがあって結構つらい」とのこと。目黒区役所をスタートするとけこぼ坂の上り、環七を過ぎて呑川柿の木坂支流の谷、駒沢公園の角で自由通りに入り呑川駒沢支流の谷につづいて、呑川本流の谷、中根の角で目黒通りに入り再び呑川本流の谷、元競馬あたりから目黒川の谷を下り、山手通りは目黒川の谷筋で、正覚寺の角で駒沢通りに入り、最後は区役所までけこぼ坂の上りと、なるほどつらそうです。
朝の中目黒小学校会場
目黒ウォーキング協会では10名のボランティアがこの大会に協力しています。担当するのは1kmウォーキングの同行で、スタートは9時過ぎなのですが7時半に集合し、日向ぼっこをしながら待機です。この日は今シーズン一番の冷え込みで風もあり、日陰では凍えてしまいそう。長い影が出来る朝日のパワーはいまいちで、積極的に日向を探しにゆかないと寒いです。
10kmマラソンの会場が目黒区役所で、ミニマラソン(2.5km)と1kmウォーキングの会場は区役所の前にある中目黒小学校となっています。ミニマラソンの折り返しが五本木交差点で、ウォーキングより早くスタートしてゆき、ウォーキングスタートの頃にはミニマラソンの先頭が到着してきます。
9時前にようやくスタート準備が始まり、校庭にウォーキング参加者約100名が集合します。本当は地域の歴史などを知りながら歩くイベントとしたいのですが、声が通らず説明することができないので、このブログに書いてゆくことにします。
江戸時代の現在の目黒区には六つの村がありました。明治時代になり小学校が設立されるようになると、1874年衾村に八雲小学校が設立されるのを皮切りに、四か村に一校ずつ小学校が設立されてゆきます。1875年、上目黒村に菅刈小学校。1878年、下目黒村に下目黒小学校。1879年、碑文谷村に碑小学校と五年間で四校が開校しています。旧中目黒村に中目黒小学校が設立されるのは1901年と他の四校と比べると遅いですね。旧中目黒村の人たちにとっては待望の小学校だったのでしょう。ここで「旧中目黒村」となるのは1889年に合併して目黒村の一部となっているからです。中目黒小学校は1901年に目黒高等小学校として正覚寺に開設され、翌年現在の地に移っています。1908年に目黒尋常高等小学校に改名し、1928年に中目黒尋常高等小学校に改名しました。正覚寺も現在の中目黒小学校がある場所も開設当時は目黒村大字中目黒字八幡という住所でした。尋常小学校についてWikipediaから引用します。
歴史
・1886年(明治19年)4月10日 - 文部大臣森有礼により小学校令(第1次)が公布される。
・小学校が尋常小学校(修業年限:4年)と高等小学校の2段階となる。
・尋常小学校の修業年限が義務教育期間となる。
・1890年(明治23年)10月7日 - 小学校令(第2次)の公布により修業年限が3年または4年となる。
・1900年(明治33年)8月20日 - 小学校令(第3次)の公布により修業年限が4年に統一。
・小学校令で奨励されたこともあり、全国的に高等科(2年)を併置し、尋常高等小学校となる学校が増加する(将来的に義務教育期間を6年に延長するため)。
・1907年(明治40年)3月21日 - 小学校令の一部改正により、澤柳政太郎文部次官の下、修業年限が6年に延長。
・高等小学校の旧1・2年を尋常小学校5・6年とし、高等小学校の旧3・4年を高等小学校の新1・2年とした。
さて目黒六か村の中で一村だけ小学校が作られませんでした。それは三田村。旧三田村の地区には現在でも小学校はありません。田道小学校校区と考えられ目黒区最東端の三田一丁目二番地から田道小学校までは1.2kmの道のりです。一山超えなければならず大変な通学ですね。
小学校開校の歴史を見ると目黒区内でどのように人口が増加していったのか、昔の字名はなんといったのかということがわかり地域の歴史をひも解く大きな手掛かりとなります。1924年油面小学校(中目黒)、1928年大岡山小学校(衾)、1928年烏森小学校(上目黒)、1930年向原小学校(碑文谷)、1931年五本木小学校(上目黒)、1932年鷹番小学校(碑文谷)、1932年田道小学校(中目黒)、1934年月光原小学校(碑文谷)、1934年駒場小学校(上目黒)、1937年緑ヶ丘小学校(衾)、1934年(分校として開校?)原町小学校(碑文谷)、1940年不動小学校(下目黒)、1941年上目黒小学校(上目黒)、1950年東根小学校(衾)、1952年中根小学校(衾)、1958年宮前小学校(衾)、1958年東山小学校(上目黒)となっています。
1kmウォーキングは中目黒小学校前からスタートし、目黒税務署の交差点で折り返します。駒沢通りのけこぼ坂は江戸時代目黒や世田谷のお百姓さんが江戸へ野菜を売りに毎日通った道です。もともとは小学校裏のなべころ坂同様急坂でしたが、主要な道なので切通しにして徐々に坂をなだらかにしました。「けこぼ」には土がボロボロこぼれるといった意味があって、切通しの壁からこぼれる土を表しています。江戸方面へ向かうにはさいかち橋を渡り、別所坂を登り恵比寿へ抜けるルートとなり、現在のさいかち橋から恵比寿へ至る駒沢通りは明治期以降に作られた新道です。駒沢通りと旧山手通りの丁字路となる場所は槍ヶ崎と呼ばれ、渋谷川と目黒川が削り残した台地の幅が狭く急峻だったため迂回したのでしょう。
駒沢通りを境として北側が大字上目黒、南側が大字中目黒です。現在目黒区役所がある場所は字伊勢脇でした。祖母が生前目黒銀座商店街のことを伊勢脇と言っていたので、私にとってはなじみのある地名です。目黒区のページから引用します。
「目黒の地名」は、「月刊めぐろ」(昭和55年8月号から昭和58年4月号)の掲載記事を再構成し編集したものです。
目黒の地名 伊勢脇
伊勢脇は、目黒村、目黒町時代の字名。目黒村が大正11年に目黒村になっても「東京府荏原郡目黒町大字上目黒字伊勢脇」として親しまれていた。それが、昭和7年の目黒区誕生を機に、「東京市目黒区上目黒1919番から2107番地」と改まり、地名伊勢脇は消え去ってしまった。
では、どの辺りを伊勢脇と称していたのであろうか。今日の上目黒二丁目全域と上目黒一丁目24番から26番がそれであり、祐天寺一丁目と上目黒二丁目の境界となっている区道と、蛇崩川(緑道)、目黒川、駒沢通りに囲まれた地域である。
そもそも伊勢脇のいわれは、この地に伊勢神宮の祭神、天照大神を祭る天祖神社があり、境内を俗に「お伊勢の森」といったところからきている。
「伊勢脇」を歩くと馬頭観音に出会う。現在の目黒区総合庁舎辺りに牧場があったからだろうか。明治の末ごろまでは人家もまばらで、現在の伊勢脇通り一帯も畑地であった。道路すらなかったという。それが大正11年に、目黒町制施行後最初の道路計画で、伊勢脇通りが整備されることになり、発展の緒をつかみかけたとき、関東大震災に見舞われたのである。
震災復興の余勢を受けて、天祖神社から祐天寺方面にかけての高台は住宅地に、畑地であった低地は商店街として急激に発展。今日では、東横線と地下鉄日比谷線の乗換駅となっている交通の要衝、中目黒駅を中心に、区役所をはじめとして、事業所・商店・飲食店が数多く集まり、区内でも有数のにぎわいをみせている。
古地図を見ると天祖神社の西側から始まる川筋が確認できます。傾斜地から清水が湧いていたのでしょう。目黒区役所の建物が千代田生命の本社だったことはご存知の方も多いでしょう。それ以前は昭和32年までアメリカンスクールがありました。その前は牧場だったとのこと。江戸時代日本人には牛乳を飲む習慣はありませんでしたが、明治維新以降牛乳の需要が高まり、この場所や正覚寺のあたりも牧場になりました。江戸時代については想像ですが、北側斜面のこのあたりは入会地で吹き替えにつかうカヤなどの草地だったのではないでしょうか。
天祖神社からさらに南へ進むと細いけれども重要な目黒不動と宿山を結ぶ道があります。十七が坂のある道です。ここが字の境目となり、祐天寺側は大字中目黒字谷戸前、北側は大字上目黒字蛇崩です。蛇崩がこの辺りまで顔を出しているのは現在の感覚では驚きです。字谷戸前は祐天寺の存在感が光ります。目黒不動、大鳥神社が千年の歴史を誇っているのに比べると、祐天寺の歴史は浅いと言わざるを得ません。財政が破綻していた江戸幕府は寺社の建立を禁止していましたが、八代将軍吉宗に特別に許され建立されたお寺です。地名としての祐天寺を目黒区のページから引用します。
目黒の地名 祐天寺
「祐天寺」は、比較的新しい地名。昭和43年1月1日の住居表示施行によって、それまでの上目黒四・五丁目、中目黒三丁目のそれぞれの一部分が「祐天寺一・二丁目」となったのである。
付近一帯は、江戸時代に上目黒村と中目黒村に属していたが、明治22年の町村制の施行によって目黒村字蛇崩・田切・原の一部、大正12年には目黒町上目黒四・五丁目と中目黒三丁目の一部となり、昭和7年の目黒区誕生で目黒区上目黒四・五丁目と中目黒三丁目の一部となってから住居表示の施行を迎えたのである。
そもそも地名「祐天寺」の由来は、駒沢通りをはさんで祐天寺一丁目と向かい合っている中目黒五丁目にある名刹「祐天寺」にちなんだもの。
祐天寺は、浄土宗の寺院で、総本山は京都の智恩院。開山は芝増上寺第三十六世法主の祐天上人である。高僧として名高かった祐天上人は、下目黒善久院で念仏を修行した因縁から、この地に念仏道場を建立したいと念願したが、果たせず享保三年(1718年)他界した。その高弟祐海上人が師の遺志をつぎ、江戸幕府に熱心に願い出た結果、八代将軍吉宗はその願いを入れて特別の保護を加えたので、享保五年(1720年)に本堂などが完成し、祐天上人の没年を開山とした。さらに享保七年(1722年)には、将軍家から「明顕山祐天寺」の山号寺号を授けられ、以後、目黒屈指の名刹となったのである。
数ある住居表示名のなかでも、お寺の名称が使われているのはこの祐天寺だけである。
祐天寺はまもなく三百周年を迎えるのですね。
現在の都立目黒高校の北側の道が字境になり目黒高校の場所は大字中目黒字原です。このあたりが蛇崩川支流と目黒川に注ぐ谷戸前川の分水嶺(というほどのものではありません)になっていますが、今回の1kmウォーキングでは目黒高校の先目黒税務署の交差点で折り返します。目黒高校の著名な出身者を見ると向田邦子、白川和子など。以前は福士蒼汰の名もありましたが、削除されています。フェイクニュースだったのでしょうか。泉谷しげるは一週間で中退となっています。泉谷さんは私の小学校、中学校の先輩です。
イベント終了後の中目黒小学校会場
同じ道をたどり中目黒小学校へ戻ってきますが、復路は後ろからミニマラソンの選手が走ってくるので入念に声掛けをしました。
今回の目黒シティランで、ウォーキング協会が関係するイベントが終わり、これからはまた来年度へ向けて準備が始まりますが、ちょっとひと休みといったところでしょうか。すこやか歩こう会の活動は、これからも続きます。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール