すこやか歩こう会では目黒区内の文化財を見る定番コースとして庚申塔を巡る二種類(北東部・南西部)があるのですが、網羅できていない庚申塔があったり、距離が長すぎるという思いがあり、再編を考えていました。たまたま区のホームページで「文化財めぐり」の案内を見つけ、これまでの庚申塔に限らず名所などを含めることが出来るので下見をすることにしました。文化財めぐりは十コースが紹介されており、シリーズ化すると区内を巡るルートの大幅増加にもつながり期待は大きいのです。今回下見をした「三田・青葉台コース」の概要を目黒区のホームページから引用します。
このコースは、旧下目黒村から三田村、上目黒村とよばれた地域の東側を旧三田用水に沿って遡るコースです。
この地域は淀橋台という台地の上にあり、他の目黒の地域とは目黒川で区切られています。目黒川に沿った西側は急な崖で、東側は渋谷川に向かってゆるやかに下っています。この尾根状の台地の一番高いところを三田用水が流れていました。
また江戸時代のこの地域は、目黒地域の中でも人の居住は少なく寺社等も見られませんが、目黒川に沿って高台となっていることで、千代ヶ崎、鑓ヶ崎など景勝地として知られ、江戸庶民が目黒方面に来る時は休息した場所でした。
三田用水は、今から350年ほど前、江戸時代初期に飲料用の上水として作られましたが、後に農業用水として利用され、さらに明治期以降、工業用水に転用され、恵比寿ビールを始め工場で活用されこの地域の発展を担ってきました。しかし、昭和49年にその流れが止まり、今ではその痕跡はほとんど見られません。
写真:目黒川沿いの紅葉
写真:中里橋に埋め込まれたレリーフ
中里橋のこのレリーフの正体は調べたけれどわかりませんでした。撮り損ねましたがもう一種類レリーフがあったようで、そちらは葛飾北斎の「富嶽三十六景 下目黒」のようです。
写真:田道橋のレリーフ
田道橋のレリーフは二種類あり、鷹の方は出所がわかりません。もう一方は「江戸名所図会 富士見茶屋」で行人坂の上にあった茶屋からの風景のようです。
写真:田道広場の銀杏
坂を上り区立三田公園を目指し、ここからが本番です。
写真:千代ヶ崎
千代ヶ崎 三田2-10-31
JR目黒駅近くの権之助坂から恵比寿方面に向かう目黒川沿いの台地は、かって「千代ヶ崎」と呼ばれ、西に富士山を、東に品川の海を臨む景勝地で、その様子は『江戸名所図会』にも描かれています。
目黒区目黒一丁目、三田二丁目と品川区上大崎二丁目の区境あたりの地に、江戸時代、九州の肥前国島原藩松平主殿頭の抱屋敷がありました。2万坪あまりの広大な敷地の庭には、三田用水を利用した滝や池があり、景色のあまりの見事さから絶景観と呼ばれた別荘がありました。
屋敷地の一角(現、目黒1-1付近)には、かって「千代が池」という池がありました。これは南北朝時代の武将新田義興が、多摩川矢口の渡しで非業の死を遂げ、それを悲しんだ側室の千代が身を投げた池と伝えられています。千代ヶ崎の地名は、この「千代が池」が由来といわれています。
平成22年3月 目黒区教育委員会
写真:三田春日神社
同名の神社が港区三田2-13-9にあり、目黒区三田と港区三田のつながりを示しています。三田の元は「御田」で、天皇の領地だったとどこかで読んだ気がします。
写真:三田二丁目の紅葉
写真:陸軍境界石柱
区立茶屋坂児童遊園近くに帝国陸軍の石柱を見ることが出来ます。現在の艦艇装備研究所がある軍の施設で、三田用水を利用した水車で火薬が作られ、白金自然園にあった火薬庫まで運ぶための鉄道が敷かれていて、その境界を示すものだそうです。
写真:茶屋坂
茶屋坂と爺々が茶屋 三田2-12-14
茶屋坂は江戸時代に、江戸から目黒に入る道の一つで、大きな松の生えた芝原の中をくねくねと下るつづら折りの坂で富士の眺めが良いところであった。
この坂上に百姓彦四郎が開いた茶屋があって、3代将軍家光や8代将軍吉宗が鷹狩りに来た都度立ち寄って休んだ。家光は彦四郎の人柄を愛し、「爺、爺」と話しかけたので、「爺々が茶屋」と呼ばれ広重の絵にも見えている。以来将軍が目黒筋へお成りの時は立ち寄って銀1枚を与えるのが例であったという。また10代将軍家治が立ち寄った時には団子と田楽を作って差し上げたりしている。
こんなことから「目黒のさんま」の話が生れたのではないだろうか。
平成3年3月
目黒区教育委員会
写真:新茶屋坂
写真:三田用水と茶屋坂隧道
三田用水跡と茶屋坂隧道跡
三田用水は寛文4(1664)年、飲用の上水として作られ、玉川上水 から北沢で分水し、三田村を通り白金、芝へ流れていた。
享保7(1722)年この上水が廃止になった時、目黒の4か村をはじめ14か村はこれを農業用水として利用することを関東郡代に願い出て、享保10年に三田用水 となった。
農耕、製粉・精米の水車などに用いられた用水も、明治以降は工業用水やビール工場の用水など、用途を変更し利用されてきたが、やがてそれも不用となり、昭和50年にその流れを完全に止め、約300年にわたる歴史の幕を閉じた。
茶屋坂隧道は、昭和5年に新茶屋坂 通りを開通させるため、三田用水の下を開削してできた全長10mほどのコンクリート造りのトンネルで、平成15年に道路拡幅に伴い撤去された。
平成21年3月 目黒区
茶屋坂隧道の揮毫は西郷従道の次男「侯爵 西郷従徳」でした。西郷山トンネルにはプレートはなかったのかなぁ?過去の画像でも確認できませんが、今度通った時に探してみます。
写真:みちしるべは避難中
道しるべ 恵比寿南三丁目11番17号
江戸時代中期の安永八年(一七七九)に建てられたこの道しるべは、中央に南無阿弥陀佛、その右側にゆうてん寺道、左側には不動尊みちと書いてあります。ゆうてん寺道とは、目黒方面から別所坂を登り麻布を経て江戸市中へ通じる最短距離の道、不動尊みちとは、目黒不動へと続く道のことです。そして台座には道講中と刻まれています。このことから、単に道路の指導標というだけではなく、交通安全についても祈願し造られたものであると考えられます。この地域は江戸時代、渋谷広尾町と呼ばれた小規模な町並みが存在していただけでした。町並みから外への道は、人家も少ない寂しいところであったため、このような宗教的意味をもった道しるべが必要だったのでしょう。
渋谷区教育委員会
写真:馬頭観世音
馬頭観世音 恵比寿南三丁目9番7号
このお堂に、馬頭観世音菩薩がおまつりしてあります。縁起によると、享保四(一七一九)年、このあたりに悪病が流行し、これを心配した与右衛門という人が、馬頭観音に祈って悪病を退散させました。その御礼に石で観音をつくり、祐天寺の祐海上人に加持祈祷を願い、原(当時、このあたりを原といった)の中程へ安置した、と伝えています。そして村の人は毎年二回、百万遍念佛を唱え祈願をしたので、その後、このあたりに悪病は流行せず、住民は幸福にくらしたとのことです。
この道は、目黒・麻布を経て江戸市内に入る最短の道で、急な別所坂をおりると目黒川が流れ、すぐ近くに正覚寺があります。別所坂上には、庚申塔(六基)と、広重が江戸名所百景に画いた「目黒新富士」などの旧跡があり、昔の主要道路であったことがわかります。
渋谷区教育委員会
写真:別所坂上庚申塔
庚申塔
「庚申塔」は、 庚申を信仰する庚申講の仲間たちが建てたものである。 仲間たちは60日に一度来る庚申の日に、眠ってしまうと、「三尸(さんし)」という虫が体から抜け出し、天の神に日頃の悪事を報告され、罪状によって寿命が縮められので、集まってその夜は眠らずに過ごしたという。
江戸時代には豊作や長寿、家内安全を祈るとともに親睦や農作業の情報交換の場ともなり、盛んに集まりがもたれた。庚申講の仲間たちは3年、18回の集まりを終えると共同で庚申塔を建てた。 形や図柄は様々だが 多くは病気や悪い鬼を追い払うという青面金剛像、その他に三匹の猿や日月、二羽の鶏が彫られている。別所坂上庚申塔の昭和51年の調査では、紀年銘、寛文五乙巴天~明和元年(1665~1754)である。
平成九年七月吉日 設置
写真:新富士
新富士 中目黒2-1
江戸時代、富士山を対象とした民間信仰が広まり、各地に講がつくられ、富士山をかたどった富士塚が築かれた。
この場所の北側、別所坂をのぼりきった右手の高台に、新富士と呼ばれた富士塚があり、江戸名所の一つになっていた。この新富士は文政2(1819)年、幕府の役人であり、蝦夷地での探検調査で知られた近藤重蔵が自分の別邸内に築いたもので、高台にあるため見晴らしが良く、江戸時代の地誌に「是武州第一の新富士と称すべし」(『遊歴雑記』)と書かれるほどであった。
新富士は昭和34年に取り壊され、山腹にあったとされる「南無妙法蓮華経」(「文政二己卯年六月健之」とある)・「小御嶽」・「吉日戊辰」などの銘のある3つの石碑が、現在この公園に移されている。
平成18年10月
目黒区教育委員会
吉田茂と書いてあるのかと思ったら、「吉日戊辰」でした。
写真:地蔵・道しるべ
地蔵・道しるべ 猿楽町30番
地蔵尊 が現世と来世の間に出現して死者の霊を救済するという信仰は、民衆の間に広く信じられてきました。また、小児の霊の冥福を祈る意味でも地蔵尊が造立されました。道の辻などに建てられた場合には、道路の安全を祈ることのほかに、道しるべになることもあります。
この地蔵尊は、文政元(一八一八)年の造立で、その台座正面には、「右大山道、南無阿弥陀仏、左祐天寺道」と刻んであります。地蔵堂背後の坂道は、目切坂 または暗やみ坂といい、この坂を下って目黒川を渡ったあと、南へ進むと祐天寺方面に達し、北へ進むと大山道(国道二四六号線)に達します。また、堂前を東へ進むと並木橋に達します。
江戸時代には、人家もまばらな、さびしい道で、旅人はこの道しるべを見て安心したことでしょう。
渋谷区教育委員会
写真:目黒元富士跡
目黒元富士跡 上目黒1-8
江戸時代に、富士山を崇拝対象とした民間信仰 が広まり、人々が集まって富士講という団体が作られました。富士講の人々は富士山に登るほかに、身近なところに小型の富士(富士塚)を築きました。富士塚には富士山から運ばれた溶岩などを積み上げ、山頂には浅間神社を祀るなどし、人々はこれに登って山頂の祠を拝みました。
マンションの敷地にあった富士塚は、文化9年(1812)に上目黒の富士講の人々が築いたもので、高さは12mもあったといいます。文政2年(1819)に、別所坂上(中目黒2-1)に新しく富士塚が築かれるとこれを「新富士」と呼び、こちらの富士塚を「元富士」と呼ぶようになりました。この二つの富士塚は、歌川広重の『名所江戸百景』に「目黒元不二」、「目黒新冨士」としてそれぞれの風景画描かれています。
元富士は明治以降に取り壊され、石祠や講の碑は大橋の氷川神社(大橋2-16-21)へ移されました。
平成22年12月
目黒区教育委員会
写真:代官山ヒルサイドテラス
写真:旧朝倉邸
手前から新旧取り混ぜ、ヒルサイドテラス、旧朝倉邸、キングホームズ、中目黒アトラスタワーと重なっています。代官山交番がある旧山手通りのあたりは「猿楽町」という町名になります。
写真:猿楽塚
猿楽塚(さるがくづか) 区指定史跡
ここにあるこんもりした築山は、6~7世紀の古墳時代末期の円墳で、死者を埋葬した古代の墳墓の一種です。ここにはその円墳が2基あって、その二つのうち高さ5mほどの大型の方を、むかしから猿楽塚と呼んできました。この塚があることから、このあたりを猿楽といい、現在の町名の起源となっております。ここにある2基の古墳の間を初期の鎌倉街道が通っていて目黒川へくだっていました。渋谷区にように開発が早くからはげしく行われた地域に、このような古墳が残されていることは非常に珍しいことです。
渋谷区教育委員会
猿楽神社縁起
古よりこの地に南北に並ぶ2基の古墳があり、北側に位置する大型墳を猿楽塚と呼称している。この名称は江戸時代の文献「江戸砂子」「江戸名所図会」等に見られ、我苦を去るという意味から、別名を去我苦塚と称したとも言われている。6~7世紀の古墳時代末期の円墳と推定され、都市化その他の理由により渋谷区内の高塚古墳がほとんど煙滅したなかで、唯一現存する大変貴重な存在であり、昭和51年3月16日に渋谷区指定文化財第5号に指定された。
この地に移住する朝倉家は戦国時代からの旧家であり、遠祖は甲州の武田家に臣属し、後に武蔵に移り、中代より渋谷に住み、代々、無比の敬神家として、渋谷金王八幡宮と氷川神社の両鎮守への参拝を常とし、また氷川神社改建の折にも尽力している。
朝倉家では、大正年間に塚上に社を建立し、現在、天照皇大神、素戔嗚尊、猿楽大明神、水神、笠森稲荷を祀り、2月18日、11月18日を祭礼日と定めて、建立以来、一族をはじめ、近隣在郷の信仰を集めている。
平成14年11月18日 朝倉徳道 撰
古墳時代の円墳 猿楽塚
主墳と副墳から成る。昔、源頼朝がここで猿楽を催し、それが名前の由来との説もあるが実は二つとも古墳時代の円墳。区境をはさんで主墳は渋谷区、副墳は目黒区にある
源頼朝説を解説しているのは目黒区のみでした。猿楽町の由来は「我苦を去る」が主流のようですね。
写真:西郷山公園
写真:桜島の溶岩
写真:月と紅葉
写真:紅葉
明治の遺構ですが地名として残っているだけです。同級生の中には公園になる前のこの場所で遊んだという者もいるのですが、私にはあまり記憶がありません。太平洋戦争のときに、小笠原からの引揚者の住まいがあったという話も聞きますが、ネットで調べても情報がありません。
写真:菅刈公園
文化財めぐりでは西郷山公園がゴールとして紹介されているのですが、すこやか歩こう会のウォーキングでは行幸の石碑がある菅刈公園をゴールとするのがいいかなぁと思っています。
個人的には「文化財という視点でじっくり見てみると、見慣れた地元も面白い」と感じました。ウォーキングクラブの皆さんに喜んでいただけるか、楽しみです。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
このコースは、旧下目黒村から三田村、上目黒村とよばれた地域の東側を旧三田用水に沿って遡るコースです。
この地域は淀橋台という台地の上にあり、他の目黒の地域とは目黒川で区切られています。目黒川に沿った西側は急な崖で、東側は渋谷川に向かってゆるやかに下っています。この尾根状の台地の一番高いところを三田用水が流れていました。
また江戸時代のこの地域は、目黒地域の中でも人の居住は少なく寺社等も見られませんが、目黒川に沿って高台となっていることで、千代ヶ崎、鑓ヶ崎など景勝地として知られ、江戸庶民が目黒方面に来る時は休息した場所でした。
三田用水は、今から350年ほど前、江戸時代初期に飲料用の上水として作られましたが、後に農業用水として利用され、さらに明治期以降、工業用水に転用され、恵比寿ビールを始め工場で活用されこの地域の発展を担ってきました。しかし、昭和49年にその流れが止まり、今ではその痕跡はほとんど見られません。
写真:目黒川沿いの紅葉
写真:中里橋に埋め込まれたレリーフ
中里橋のこのレリーフの正体は調べたけれどわかりませんでした。撮り損ねましたがもう一種類レリーフがあったようで、そちらは葛飾北斎の「富嶽三十六景 下目黒」のようです。
写真:田道橋のレリーフ
田道橋のレリーフは二種類あり、鷹の方は出所がわかりません。もう一方は「江戸名所図会 富士見茶屋」で行人坂の上にあった茶屋からの風景のようです。
写真:田道広場の銀杏
坂を上り区立三田公園を目指し、ここからが本番です。
写真:千代ヶ崎
千代ヶ崎 三田2-10-31
JR目黒駅近くの権之助坂から恵比寿方面に向かう目黒川沿いの台地は、かって「千代ヶ崎」と呼ばれ、西に富士山を、東に品川の海を臨む景勝地で、その様子は『江戸名所図会』にも描かれています。
目黒区目黒一丁目、三田二丁目と品川区上大崎二丁目の区境あたりの地に、江戸時代、九州の肥前国島原藩松平主殿頭の抱屋敷がありました。2万坪あまりの広大な敷地の庭には、三田用水を利用した滝や池があり、景色のあまりの見事さから絶景観と呼ばれた別荘がありました。
屋敷地の一角(現、目黒1-1付近)には、かって「千代が池」という池がありました。これは南北朝時代の武将新田義興が、多摩川矢口の渡しで非業の死を遂げ、それを悲しんだ側室の千代が身を投げた池と伝えられています。千代ヶ崎の地名は、この「千代が池」が由来といわれています。
平成22年3月 目黒区教育委員会
写真:三田春日神社
同名の神社が港区三田2-13-9にあり、目黒区三田と港区三田のつながりを示しています。三田の元は「御田」で、天皇の領地だったとどこかで読んだ気がします。
写真:三田二丁目の紅葉
写真:陸軍境界石柱
区立茶屋坂児童遊園近くに帝国陸軍の石柱を見ることが出来ます。現在の艦艇装備研究所がある軍の施設で、三田用水を利用した水車で火薬が作られ、白金自然園にあった火薬庫まで運ぶための鉄道が敷かれていて、その境界を示すものだそうです。
写真:茶屋坂
茶屋坂と爺々が茶屋 三田2-12-14
茶屋坂は江戸時代に、江戸から目黒に入る道の一つで、大きな松の生えた芝原の中をくねくねと下るつづら折りの坂で富士の眺めが良いところであった。
この坂上に百姓彦四郎が開いた茶屋があって、3代将軍家光や8代将軍吉宗が鷹狩りに来た都度立ち寄って休んだ。家光は彦四郎の人柄を愛し、「爺、爺」と話しかけたので、「爺々が茶屋」と呼ばれ広重の絵にも見えている。以来将軍が目黒筋へお成りの時は立ち寄って銀1枚を与えるのが例であったという。また10代将軍家治が立ち寄った時には団子と田楽を作って差し上げたりしている。
こんなことから「目黒のさんま」の話が生れたのではないだろうか。
平成3年3月
目黒区教育委員会
写真:新茶屋坂
写真:三田用水と茶屋坂隧道
三田用水跡と茶屋坂隧道跡
三田用水は寛文4(1664)年、飲用の上水として作られ、玉川上水 から北沢で分水し、三田村を通り白金、芝へ流れていた。
享保7(1722)年この上水が廃止になった時、目黒の4か村をはじめ14か村はこれを農業用水として利用することを関東郡代に願い出て、享保10年に三田用水 となった。
農耕、製粉・精米の水車などに用いられた用水も、明治以降は工業用水やビール工場の用水など、用途を変更し利用されてきたが、やがてそれも不用となり、昭和50年にその流れを完全に止め、約300年にわたる歴史の幕を閉じた。
茶屋坂隧道は、昭和5年に新茶屋坂 通りを開通させるため、三田用水の下を開削してできた全長10mほどのコンクリート造りのトンネルで、平成15年に道路拡幅に伴い撤去された。
平成21年3月 目黒区
茶屋坂隧道の揮毫は西郷従道の次男「侯爵 西郷従徳」でした。西郷山トンネルにはプレートはなかったのかなぁ?過去の画像でも確認できませんが、今度通った時に探してみます。
写真:みちしるべは避難中
道しるべ 恵比寿南三丁目11番17号
江戸時代中期の安永八年(一七七九)に建てられたこの道しるべは、中央に南無阿弥陀佛、その右側にゆうてん寺道、左側には不動尊みちと書いてあります。ゆうてん寺道とは、目黒方面から別所坂を登り麻布を経て江戸市中へ通じる最短距離の道、不動尊みちとは、目黒不動へと続く道のことです。そして台座には道講中と刻まれています。このことから、単に道路の指導標というだけではなく、交通安全についても祈願し造られたものであると考えられます。この地域は江戸時代、渋谷広尾町と呼ばれた小規模な町並みが存在していただけでした。町並みから外への道は、人家も少ない寂しいところであったため、このような宗教的意味をもった道しるべが必要だったのでしょう。
渋谷区教育委員会
写真:馬頭観世音
馬頭観世音 恵比寿南三丁目9番7号
このお堂に、馬頭観世音菩薩がおまつりしてあります。縁起によると、享保四(一七一九)年、このあたりに悪病が流行し、これを心配した与右衛門という人が、馬頭観音に祈って悪病を退散させました。その御礼に石で観音をつくり、祐天寺の祐海上人に加持祈祷を願い、原(当時、このあたりを原といった)の中程へ安置した、と伝えています。そして村の人は毎年二回、百万遍念佛を唱え祈願をしたので、その後、このあたりに悪病は流行せず、住民は幸福にくらしたとのことです。
この道は、目黒・麻布を経て江戸市内に入る最短の道で、急な別所坂をおりると目黒川が流れ、すぐ近くに正覚寺があります。別所坂上には、庚申塔(六基)と、広重が江戸名所百景に画いた「目黒新富士」などの旧跡があり、昔の主要道路であったことがわかります。
渋谷区教育委員会
写真:別所坂上庚申塔
庚申塔
「庚申塔」は、 庚申を信仰する庚申講の仲間たちが建てたものである。 仲間たちは60日に一度来る庚申の日に、眠ってしまうと、「三尸(さんし)」という虫が体から抜け出し、天の神に日頃の悪事を報告され、罪状によって寿命が縮められので、集まってその夜は眠らずに過ごしたという。
江戸時代には豊作や長寿、家内安全を祈るとともに親睦や農作業の情報交換の場ともなり、盛んに集まりがもたれた。庚申講の仲間たちは3年、18回の集まりを終えると共同で庚申塔を建てた。 形や図柄は様々だが 多くは病気や悪い鬼を追い払うという青面金剛像、その他に三匹の猿や日月、二羽の鶏が彫られている。別所坂上庚申塔の昭和51年の調査では、紀年銘、寛文五乙巴天~明和元年(1665~1754)である。
平成九年七月吉日 設置
写真:新富士
新富士 中目黒2-1
江戸時代、富士山を対象とした民間信仰が広まり、各地に講がつくられ、富士山をかたどった富士塚が築かれた。
この場所の北側、別所坂をのぼりきった右手の高台に、新富士と呼ばれた富士塚があり、江戸名所の一つになっていた。この新富士は文政2(1819)年、幕府の役人であり、蝦夷地での探検調査で知られた近藤重蔵が自分の別邸内に築いたもので、高台にあるため見晴らしが良く、江戸時代の地誌に「是武州第一の新富士と称すべし」(『遊歴雑記』)と書かれるほどであった。
新富士は昭和34年に取り壊され、山腹にあったとされる「南無妙法蓮華経」(「文政二己卯年六月健之」とある)・「小御嶽」・「吉日戊辰」などの銘のある3つの石碑が、現在この公園に移されている。
平成18年10月
目黒区教育委員会
吉田茂と書いてあるのかと思ったら、「吉日戊辰」でした。
写真:地蔵・道しるべ
地蔵・道しるべ 猿楽町30番
地蔵尊 が現世と来世の間に出現して死者の霊を救済するという信仰は、民衆の間に広く信じられてきました。また、小児の霊の冥福を祈る意味でも地蔵尊が造立されました。道の辻などに建てられた場合には、道路の安全を祈ることのほかに、道しるべになることもあります。
この地蔵尊は、文政元(一八一八)年の造立で、その台座正面には、「右大山道、南無阿弥陀仏、左祐天寺道」と刻んであります。地蔵堂背後の坂道は、目切坂 または暗やみ坂といい、この坂を下って目黒川を渡ったあと、南へ進むと祐天寺方面に達し、北へ進むと大山道(国道二四六号線)に達します。また、堂前を東へ進むと並木橋に達します。
江戸時代には、人家もまばらな、さびしい道で、旅人はこの道しるべを見て安心したことでしょう。
渋谷区教育委員会
写真:目黒元富士跡
目黒元富士跡 上目黒1-8
江戸時代に、富士山を崇拝対象とした民間信仰 が広まり、人々が集まって富士講という団体が作られました。富士講の人々は富士山に登るほかに、身近なところに小型の富士(富士塚)を築きました。富士塚には富士山から運ばれた溶岩などを積み上げ、山頂には浅間神社を祀るなどし、人々はこれに登って山頂の祠を拝みました。
マンションの敷地にあった富士塚は、文化9年(1812)に上目黒の富士講の人々が築いたもので、高さは12mもあったといいます。文政2年(1819)に、別所坂上(中目黒2-1)に新しく富士塚が築かれるとこれを「新富士」と呼び、こちらの富士塚を「元富士」と呼ぶようになりました。この二つの富士塚は、歌川広重の『名所江戸百景』に「目黒元不二」、「目黒新冨士」としてそれぞれの風景画描かれています。
元富士は明治以降に取り壊され、石祠や講の碑は大橋の氷川神社(大橋2-16-21)へ移されました。
平成22年12月
目黒区教育委員会
写真:代官山ヒルサイドテラス
写真:旧朝倉邸
手前から新旧取り混ぜ、ヒルサイドテラス、旧朝倉邸、キングホームズ、中目黒アトラスタワーと重なっています。代官山交番がある旧山手通りのあたりは「猿楽町」という町名になります。
写真:猿楽塚
猿楽塚(さるがくづか) 区指定史跡
ここにあるこんもりした築山は、6~7世紀の古墳時代末期の円墳で、死者を埋葬した古代の墳墓の一種です。ここにはその円墳が2基あって、その二つのうち高さ5mほどの大型の方を、むかしから猿楽塚と呼んできました。この塚があることから、このあたりを猿楽といい、現在の町名の起源となっております。ここにある2基の古墳の間を初期の鎌倉街道が通っていて目黒川へくだっていました。渋谷区にように開発が早くからはげしく行われた地域に、このような古墳が残されていることは非常に珍しいことです。
渋谷区教育委員会
猿楽神社縁起
古よりこの地に南北に並ぶ2基の古墳があり、北側に位置する大型墳を猿楽塚と呼称している。この名称は江戸時代の文献「江戸砂子」「江戸名所図会」等に見られ、我苦を去るという意味から、別名を去我苦塚と称したとも言われている。6~7世紀の古墳時代末期の円墳と推定され、都市化その他の理由により渋谷区内の高塚古墳がほとんど煙滅したなかで、唯一現存する大変貴重な存在であり、昭和51年3月16日に渋谷区指定文化財第5号に指定された。
この地に移住する朝倉家は戦国時代からの旧家であり、遠祖は甲州の武田家に臣属し、後に武蔵に移り、中代より渋谷に住み、代々、無比の敬神家として、渋谷金王八幡宮と氷川神社の両鎮守への参拝を常とし、また氷川神社改建の折にも尽力している。
朝倉家では、大正年間に塚上に社を建立し、現在、天照皇大神、素戔嗚尊、猿楽大明神、水神、笠森稲荷を祀り、2月18日、11月18日を祭礼日と定めて、建立以来、一族をはじめ、近隣在郷の信仰を集めている。
平成14年11月18日 朝倉徳道 撰
古墳時代の円墳 猿楽塚
主墳と副墳から成る。昔、源頼朝がここで猿楽を催し、それが名前の由来との説もあるが実は二つとも古墳時代の円墳。区境をはさんで主墳は渋谷区、副墳は目黒区にある
源頼朝説を解説しているのは目黒区のみでした。猿楽町の由来は「我苦を去る」が主流のようですね。
写真:西郷山公園
写真:桜島の溶岩
写真:月と紅葉
写真:紅葉
明治の遺構ですが地名として残っているだけです。同級生の中には公園になる前のこの場所で遊んだという者もいるのですが、私にはあまり記憶がありません。太平洋戦争のときに、小笠原からの引揚者の住まいがあったという話も聞きますが、ネットで調べても情報がありません。
写真:菅刈公園
文化財めぐりでは西郷山公園がゴールとして紹介されているのですが、すこやか歩こう会のウォーキングでは行幸の石碑がある菅刈公園をゴールとするのがいいかなぁと思っています。
個人的には「文化財という視点でじっくり見てみると、見慣れた地元も面白い」と感じました。ウォーキングクラブの皆さんに喜んでいただけるか、楽しみです。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール