目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

呑川コース 約7.4km

2025-03-24 11:52:31 | 東京都目黒区、世田谷区
開花宣言が待たれる中この時期恒例呑川緑道を歩きます。1964年の東京オリンピックで駒沢競技場はサブ会場となったため水洗トイレ用下水道の整備が急務となり、呑川が暗渠化されソメイヨシノが植えられました。60年が経過しソメイヨシノの老木が目立つようになりました。


ソメイヨシノ胴咲き
集合場所は都立大学駅近くの呑川本流緑道。よく見ると枝先にも何輪か咲いているようです。


ナノハナ

ソメイヨシノ

呑川本流緑道一部工事中
ソメイヨシノ枝にほとんど花はありませんが暖かい日が続くので一週間後には満開でしょう。目黒区内の呑川本流緑道は土の部分が多く石や張り出した木の根でデコボコしています。土は膝への負担が少なくデコボコの道は足の裏の刺激になったり、注意して歩くことにより転倒しにくい足腰が鍛えられるものと思っています。工事後はアスファルトで覆われていました。メンテナンスが容易になるのか埃対策か?


ソメイヨシノ胴咲き

カワヅザクラ

カンヒザクラ

ホトケノザ

ユキヤナギ

エドヒガン?

ハナニラ
目黒消防署八雲出張所を過ぎると世田谷区に入り、目黒区内では緑道の真ん中に植えられているソメイヨシノが緑道の両脇になり緑道の幅が広がり歩きやすくなります。住所としては目黒区八雲から世田谷区深沢へ。駒八通り、深沢学園通り、駒沢公園通りを横断して深沢五丁目の三島公園でトイレ休憩。


呑川親水公園
駒沢通りを横断すると親水公園として整備され水の流れる様子が見えます。


駒沢公園 ストリートスポーツ広場

円形花壇
西山橋で呑川と別れ東へ向かいます。駒沢公園通りを横断し、駒沢5丁目23番地口から駒沢公園に入り公園内を散策。休日なので人出が多い。ぶた公園で再度トイレ休憩。


柿の木坂支流緑道のハクモクレン
東京医療センター側に公園を出て自由通りとの交差点で駒沢通りを横断。目黒十中まえの通りを東へ、柿の木坂通りを横断して呑川柿の木坂支流緑道を南へ向かいます。目黒通りまで来るとゴールは間もなく、都立大学駅近くの呑川本流緑道でストレッチをして解散となりました。
その後我々のクラブハウスといっていい天狗学芸大学店で反省会。お相撲の千秋楽を見ながら盛り上がりました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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【下見】神田川遡上、西早稲田から中野坂上

2025-03-23 11:54:51 | 東京都新宿区、豊島区、中野区
以前歩いているのですがずいぶん時間が経つしはっきりとした印象がないので下見しました。


高戸橋

高田馬場分水路

ユキヤナギ
集合は西早稲田駅で戸山公園でストレッチをして明治通りを北へ向かい、神田川にかかる明治通りの橋が高戸橋です。暗渠から合流する流れが高田馬場分水路で、落合から神田川の水を妙正寺川にバイパスして高戸橋合流させている水害対策と思われます。ユキヤナギがきれいな季節になりました。


手塚漫画の壁画
高田馬場駅前、早稲田通りのガード下にこの壁画があります。JR高田馬場駅のメロディーは鉄腕アトムのテーマ曲。このテーマ曲の作詞は谷川俊太郎さんなんです。2003年4月7日アトムは高田馬場にある科学省で誕生します。当時虫プロの事務所があり鉄腕アトムという漫画が誕生したのも高田馬場。二つの意味で高田馬場はアトムのふるさとなんです。


さかえ通り

田島橋の由来
江戸時代、鼠山(現豊島区)に下屋敷があった安藤但馬(たじま)守がよくこの橋を通ったため、「但馬」を「田島」としてこの橋の名がついたといわれています。
この橋は江戸時代初めには既に架けられていたようで、初めは仮橋だったものを後に土橋に改めたと伝えられています。
この橋の上流には犀ヶ淵という深い淵があって、江戸時代には高田十二景といわれる月の名所の一つとして知られていたそうです。

さかえ通りは学生向けの居酒屋が並ぶ魅力的な通りです。


田島橋から上流を眺める
川を渡る通路は東京富士大学。


川跡?
川跡のように見えるので調べてみようと写真に撮ってきました。どうやらこれが高田馬場分水路の始まりのようです。



伊良コーラ(いよしコーラ)
クラフトコーラで人気のようです。


東京都下水道局 せせらぎの里公苑

東京都下水道局 落合水再生センター
目黒川、呑川、渋谷川の清流復活事業ではこちらのセンターから送られる水を流しているというつながりがあります。


小滝橋の由来
神田川に架かっているこの橋は、江戸時代には上戸塚村(現新宿区)と中野村(現中野区)の間に架けられていた板橋でした。
小滝橋という名は、かつてこの橋の下に小さな堰があり、そこに水が流れて小さな滝となっていたことから名付けられたといわれています。
今はもうこの堰は残されていませんが、吉祥寺にあった油屋の小僧が大蛇を切ってしまい、その下アゴの骨がこの堰まで流されてひっかかったという昔話が伝えられています。



神田川の桜並木

カワヅザクラ

ユキヤナギとサクラ
ソメイヨシノが植えられ花見の時期は見事だと思います。




鎧神社
鎧神社
   東京都新宿区北新宿三丁目十六番十八号
祭神  日本武命   大己貴命   少彦名命   平将門公霊
縁起
当社は江戸時代迄、鎧大明神と称し此の辺りの古社として人々の尊崇を受けて来たが、鎧の社名には日本武命御東征のおり、甲冑六具の内を蔵めた事により社名起こると伝えている。天慶三年(九四○) 関東に威を称えていた平将門公、下総猿島に亡びし時、士族の公を追墓して天歴元年(九四七)将門公の鎧も亦此の所に埋めたという。別説によれば将門軍残党を追ってこの地に来た藤原秀郷、重病を得て悩み苦しんだ時、是将門公の神霊の怒り也と怖れ、薬師如来を本尊とする円勝寺々内に公の鎧を埋め、一祠を建てて厚くその霊を弔ったところ、病悉く癒えたという。これを聞いた里人達その神威のあらたかなるを畏み、柏木淀橋にかけての産土神、鎮守の社として深く信仰してきたものである。明治初年将門公は朝廷に反したものとして官の一作で未社に移されたが大戦後氏子全員の願いで本社に復する。
氏子地
北新宿全域及び西新宿七丁目七番地

はじめにこのコースを設定した際にどうしてこの神社によるようになったのか記憶にありません。行ってみてもなぜだか思い出せません。


圓照寺
篠山紀信さんのご実家とのこと。


謎の人魚

いきいきウォーク新宿

神田川歌碑

桃園川緑道

モクレンと新宿のビル

淀橋
淀橋は神田川にかかる青梅街道の橋でした。私が初めに知ったのはカメラ店、次が浄水場、橋が一番最後です。



淀橋さくら公園
こちらでストレッチができそう。



マンションストーンミル
石うす屋さんの跡地のマンションなのでしょうが、調べても不動産情報ばかりで情報得られず。
中野坂上駅で下見を終え帰宅しました。


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小江戸川越コース 約6.4Km

2025-03-20 11:59:12 | 埼玉県川越市
毎年楽しみにしている遠征コースですがこの日は夕方雨予報の寒い日だったので10人をちょっと超えるくらいとこじんまりしたウォーキングとなりました。


川越アトレのからくり時計
出発時間の13時ちょうどでからくり時計が作動していました。アトレのロゴに「MARUHIRO」が入っているので、JR東日本のアトレと川越の老舗デパート丸広のジョイントなのかと調べたらそうではないようです。正式名称は「アトレマルヒロ」、Wikipediaから引用してみます。
第三セクターの川越都市開発が運営管理するアトレの核テナントとして1990年(平成2年)5月16日開店。百貨店としては丸広百貨店アトレ店が正式な店名である。名称の「アトレ」とはフランス語で「魅力」を意味し、公募によって名称を決定した。他には「アピコ」「ケリア」などが候補に挙がっていた。日本で最初に“アトレ”と称したのは当店であり、JR東日本の首都圏にある駅ビルのアトレとは無関係、JR川越駅ビルはルミネである。
丸広百貨店川越店とは500mほどしか離れていないが、中高年層に強い川越店に対しアトレ店では若者を意識した品揃えを徹底することで川越店と差別化をはかり、丸広が苦手としてきた若い世代の顧客獲得と川越商圏の拡大で丸広百貨店は川越2店体制を確立、川越地区での売上を急拡大させたことで注目された。紙袋や包装紙は丸広百貨店で使われている埼玉県花「さくら草」が描かれたものではなく、当初から独自のatre MARUHIROロゴが入った白と青のものが使われていたが、食品売場のみ2000年代初頭から他の丸広百貨店と同じさくら草の袋に変更された。
2012年に改装工事が行なわれ、2012年9月15日に「新・川越ライフスタイル発信ステーション」をストアコンセプトにリニューアルされ、百貨店機能は川越本店に集約してショッピングセンターに転換した。リニューアル後の年商目標は140億円としている。唯一の丸広直営売場であった地下食品売場も2015年8月に、ザ・ガーデン自由が丘(セブン&アイ・ホールディングス)としてリニューアルオープンした。そのため、全国百貨店共通商品券と丸広のポイントカードが使用できなくなった。ザ・ガーデン自由が丘は2018年3月25日に閉店し、同年4月6日からYasuno Foodestが新たに開店した。





川越八幡宮
川越駅から北へ向かいお参りした後境内をお借りしてストレッチをします。末社の稲荷神社は足腰の神様でこちらにもお参りしなくてはなりません。



民部稲荷神社
まんが日本昔ばなし
 民部稲荷神社
御祭神 倉御魂神

 お稲荷様は、衣・食・住すべてを守ってくださる神様です。
 また、当社は「相撲稲荷」とも称され、特に「足腰の健康」にご神徳があるとされています。
 昔、八王子に住んでいた老狐が、人間に化け「民部」と名のり暮らしていたが、老僧に正体を知られたため、川越の梵心山に移り住んだ。この民部は、相撲が得意で、老僧に「捻挫や打ち身」の手当の仕方を教えて去っていったとの伝説があり、「まんが日本昔話」でも「民部稲荷」として紹介されました。足腰は身体健康の基本です。神様のご神徳をいただき、お守りを身に付けて、健やかな日々をお過ごしください。



小仙波のマメザクラ

中院のアセビ

中院のミモザ

中院のサンシュ
八幡宮から東へ向かい、大友康平さんが卒業した川越工業高等学校の前を通り中院へ。エドヒガンの枝垂れ桜には少し早かったようですが、ミモザが見ごろでした。開山は慈覚大師円仁、浅草寺や目黒不動など関東の古刹はみな円仁が開山と伝えられています。


仙波東照宮
日本三大東照宮の一つでかつて中院だった場所に創建されました。童謡「あんたがたどこさ」の「仙波山」であるという異説があります。それについてWikipediaから引用してみましょう。
「あんたがたどこさ」を関東地方の童歌とする資料・研究が多方面からなされている。実際、唄われている歌詞は熊本弁ではなく完全な関東方言である、と古くから研究者の指摘が多い。熊本のことが触れられているだけで、熊本で生まれた童歌ではない、とする熊本の研究家も少なからずいる。
この童歌の発祥地は、武蔵国川越藩(埼玉県川越市)とする説である。
「あんたがたどこさ」のような「問答歌」は、幕末から明治時代初期に生まれた手鞠歌の形式である。
太田信一郎『童謡を訪ねて』によると戊辰戦争に出兵した熊本人が川越市の仙波山に駐屯した際の現地の子供たちとのやりとりが元になっているという。薩長軍は彰義隊の残党である振武隊を追って川越城に進駐し、城に隣接する仙波山に駐屯していた。仙波山とは仙波古墳群のある周辺一帯の別名である(熊本には船場川はあっても船場山や仙波山という地はない)。仙波山付近の子供たちが兵士にどこからきたのか尋ね、熊本藩出身の兵士が答える様子が歌詞に描かれているという。「肥後どこさ 熊本さ」という問答は肥後(熊本)に不案内な関東だからあり得る会話で、官軍に帰順した川越藩の子供たちが立派な銃を所持している官軍兵士のご機嫌を取っている場面が唄われている、などの説である。
川越の仙波山は、「古狸」と呼ばれた江戸幕府開祖の徳川家康を祀る「日本三大東照宮」のひとつ仙波東照宮がある。また川越城内には「通りゃんせ」の発祥の地とされている三芳野神社(異説あり)もある。異説の根拠としては肥後の地元住民同士が出身を聞きあうのは不自然で、熊本の船場から来た人に対して川越の子どもたちが「川越の仙波山にも狸がいる」と返答するほうが自然とみる。
これに対し、2016年3月19日放送のNHK『ブラタモリ』で熊本市が取り上げられたときは、熊本市新町付近は堀が作られ、その堀を作ったときの土を盛り上げた土塁を「せんば山」と呼んでおり、そこに狸がいたことが示されている。
なお、この異説の元となっている太田信一郎『童謡を訪ねて』には、この説について「地元川越市の郷土史研究家によって明らかにされています」とのみ説明しているが、その出典は明らかにされていない。一方、川越郷土史研究家で川越市史の編纂に当たった岡村一郎は、川越でなく「熊本城下の洗馬山のほうが正しい」としている。



喜多院


成田山川越別院

おびんづるさま


大師堂
成田山にお参りしてさらに北へ進みます。


川越城本丸御殿

川越城 中ノ門堀跡

川越市役所太田道灌像
現存する本丸御殿は江戸時代の建物ですが、太田道灌の川越城、また江戸城との関連についてWikipediaから引用します。
室町幕府より関東の押さえとしておかれた鎌倉府は、代を重ねるごとに独立志向を強める鎌倉公方足利氏と、その補佐役でありながら、中央政権である室町幕府を支持する関東管領上杉氏との内部対立が生じていた。
そしてついに1454年(享徳3年)、第5代鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺した事をきっかけとして、関東を戦乱の世とした享徳の乱が勃発した。
鎌倉公方であった足利成氏は、自身が遠征中で不在となっていた本拠地・鎌倉を上杉氏援軍の今川範忠勢によって制圧されてしまう。足利成氏は鎌倉に戻るのを断念して下総国古河に拠点を構えた事から以後古河公方と呼ばれ、室町幕府の支持を得た上杉氏と関東を二分する争いになった。
武蔵国東部の低湿地帯は、上杉氏と古河公方の対立の最前線となったため、古河公方の勢力(古河城や関宿城・忍城など)に対抗する上杉氏の本拠地として、1457年(長禄元年)、扇谷上杉氏の上杉持朝は、家宰の太田道真、太田道灌父子に河越城(川越城)の築城を命じ、自ら城主となった。加えて、上杉持朝は南方の下総国との国境に江戸城も築城させ、道灌を城主とし、両城を軍事道路(後の川越街道)で結び、古河公方への防衛線を構築した。



蔵造りの町並み

時の鐘

埼玉りそな銀行

大正ロマン通りうなぎ 小川菊
西へ向かい元町休憩所で菓子屋横丁を散策する眺めの休憩を取りました。団子よりビールと地ビールを飲んでいたら雨も降りだし冷え切ってしまい失敗。
南へ向かい出世稲荷の境内を借りてストレッチをした後、川越市駅まで歩きFライナーで中目黒へ。遠くても座って一本で帰ることができるので川越ウォーキングは好きです。


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台東区ウォーキングHコース(改) 約6.5Km

2025-03-05 12:26:55 | 東京都台東区、荒川区
今回のコースは台東区が発行している「台東区ウォーキングマップ」の「Hコース 浅草寿地区健康推進委員おすすめコース(PDF:3,272KB)」をベースにスタートを上野駅、ゴールを南千住駅に改変したもので、吉原や山谷といった聞いたことはあるけど行ったことはないような街を訪れます。2008年に始めて歩き、今回大河ドラマ「べらぼう」にあやかって復活させてみました。


台東区役所

上野消防署

広徳公園
廣徳禅寺の遺跡
 この地は、昭和46年まで廣徳寺があった場所で、この石碑は、練馬別院に移転の際に、廣德三十世雪底和尚によって詠まれた七言絶句を記したものです。また、石碑の裏側には、廣徳寺が移転した理由が記されています。
 なお、この解釈にあたっては、廣徳寺海雲和尚のご協力を賜わったものです。
【七言絶句】
 高掲法幢三百戴 タカク ホウトウヲカカケテ サンヒャクネン
 (禅宗を掲げて下谷の地に移って、300年か経った)
 已憂斯地累兒孫 スデニ コノチヲウルエテ シソンニツナグ
 (時代の移り変わりや環境の変化もあったが今日まてきた)
 無邊廣大先人徳 ムヘンコウダイナル センジンノトク
 (未来永劫受け継がれるためにも、代々、世のため人のためにおこなってきた)
 桃勒碑陰去故園 ワズカニ ヒインヲオサメテ コエンヲサル
 (碑陰(石碑の裏面)を記して この地を去ります)
【石碑裏面】
 廣徳寺は、希叟宗罕禅師が明叟和尚を小田原に招き、創建したとされ、その年代は、元亀天正の頃と推定される。
 天正18年(1590年)に豊臣秀吉により小田原域が落城し、その際、廣徳寺も焼失した。
 その後、徳川家康が江戸の神田(昌平橋付近)に再興。そして寛永12年(1635年)に下谷に移っておおよそ300年が経った。当時は、江戸屈指の禅林と仰がれた。
 昭和45年9月、台東区より敷地を新庁舎建設用地として観望され、時代の情勢を鑑み、これを受託し、練馬の別院へ移すことにした。
 この地を去るにあたり、先人達の深い思に感謝し、石碑を建て移転の経緯を記し、 後世に残すものである。


台東区役所隣の公園をお借りしてストレッチをしました。廣徳禅寺は「びっくり下谷の広徳寺」といわれるほど広大なお寺だったようです。


浅草仏壇通り

ニイミ洋食器店

かっぱ橋道具街通り
仏壇通りを東へ向かい菊屋橋で左折して道具街通りを北へ向かいます。


生涯学習センター

国際通り



鷲神社
翌日の大河ドラマべらぼうの最後で、鈴木奈穂子アナウンサーが鷲神社を紹介していたのでタイムリーなウォーキングとなりました。


新吉原花園池(弁天池)跡

花園公園のトイレ


吉原神社



吉原の町並み

吉原大門跡
大河ドラマ人気でこれまでにない賑わいを見せていました。さすがに外国人は少なく日本人ばかりのように見えます。


矢吹ジョー


いろは会商店街
2008年に歩いたときはアーケードのある寂れた商店街でしたがアーケードは撤去されたようです。現在はかつての商店街でにぎわっていたような店が数件あるだけで、もはや商店街とは言えない感じです。


山谷労働者福祉会館
アニメあしたのジョーで描かれ子供心に怖い場所というか、別の世界と感じていた泪橋は現在、交差点とバス停にその名を残すのみで川も橋もありません。泪橋の名は小塚原刑場が近くにあったことに由来しているようです。


玉姫稲荷神社
神社についてはWikipediaから引用してみましょう。
760年(天平宝字4年)に創建された。武蔵国豊島郡王子村(現・東京都北区)の王子稲荷神社とも関係があるという。また新田義貞が北条高時を追討すべく、鎌倉に進撃(鎌倉の戦い)する際に、当社で戦勝祈願したという故事もあり、かなり歴史ある神社であると推測される。
1945年(昭和20年)の東京大空襲で全焼してしまった。戦後まもなくは台東区立田中小学校(現在は閉校)の奉安殿を譲り受けて祭祀を行い、1953年(昭和28年)に各社殿が再建された。
当社の氏子には、地場産業である製靴業者も名を連ねており、毎年11月に「靴のめぐみ祭り市」と題して、靴の大安売り市が開かれている。



カンヒザクラ



石浜神社
神社についてWikipediaから引用してみます。
724年(神亀元年)に創建された。
奥州征討の折、源頼朝が戦勝を祈願し、また元寇の際に朝廷は鎌倉幕府7代将軍・惟康親王を勅使として戦勝を祈願させた。いずれの戦役にも勝利したことから、中世以降、関東武士をはじめ、多くの人々の崇敬を集めることになった。
なおこの地域には中世の鎌倉・南北朝時代から安土桃山時代頃にかけて石浜城が存在し、当社付近が城跡候補地の1つとされており、東京都の遺跡地図上では当社北側が埋蔵文化財包蔵地となっている。
当社には、神社には珍しく神道式霊園「石浜霊園」を経営しており、神道に基づく葬儀を挙行することができる。



カワヅザクラ
南千住駅に到達してウォーキングは終了。ストレッチをするスペースがなく解散しました。ちゃんと下調べしておかなければいけませんね。


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呑川緑道・池上梅園コース 約5.0km

2025-03-03 15:33:07 | 東京都目黒区、大田区
2月23日のウォーキングは二週連続で梅園が目的地となっています。


呑川本流緑道自転車置き場

カタバミ


緑道を下流に向かって南下してゆきます。都立大学の駅に近い場所は自転車置き場として活用されています。水道施設のようでなんだかわからない場所はGoogleマップでも説明がありません。社会インフラを支える場所でターゲットにならないよう表示しないのでしょうね。


保護されたソメイヨシノ
呑川が暗渠になり桜が植えられたのは20世紀の東京オリンピックの時だから半世紀以上たっています。老化が早いソメイヨシノは傷んだ木も多くなってきます。


コウバイとハクバイ

東京科学大学
東京工業大学は東京医科歯科大学と統合して東京科学大学になったのですね。医学と工学の堺は大きくあるのでしょうが、医療機器の高度化などで協業も重要なのでしょう。


ここから開渠に
目黒区の南のはずれで九品仏川と合流し呑川本流は開渠となります。


呑川緑道
洗足池
 北千束の清水窪湧水などを主な水源とする都内屈指の広さを有する淡水池のある公園です。江戸時代、歌川広重の名所江戸百景『千束の池袈裟懸松』にも描かれた水辺の景観の面影を今も残しています。春は桜でにぎわい、秋には紅葉を満喫することができます。生物に目を向ければ、冬は渡り鳥の楽園となり、夏には水辺を飛び交うトンボなどの姿も見られます。

多摩川の排水口(中原幹線取水施設)
 呑川は、豪雨の際に流れ込む雨水により増水し、下流域では度重なる浸水被害が発生していました。この対策として、呑川の増水した雨水をバイパスして速やかに多摩川へ放流するため、中原街道の地下に下水「道の中原幹線を昭和57年(1982年)に整備しました。中原幹線の完成によって、呑川の水位上昇はかなりおさえられ、下流域で水があふれることはなくなりました。
(資料提供:呑川の会)

アオサギ
 アオサギは、水田、川、湿地、河口などにすむ留鳥です。灰青色の大きなサギで、高い松林などをねぐらにします。「グワー、グワー」と鳴き、深い水深まで歩きながら獲物をさがし、くちばしでとらえます。呑川では、同じ領域で魚を狙うコサギが近づくと、アオサギが追い返す光景がよく見られます。

コサギ
 コサギは、平地の川、水田、湿地、河口、入江などにすむ留鳥です。全身が白い中型のサギで、松林などをねぐらにします。浅い水の中で、石の下や水草の陰から魚などをとらえます。呑川にはボラなどの魚がすむ深みがあるため、コサギ等の野鳥がやってきます。




石橋供養塔
大田区文化財
石橋供養塔
 安永三年(一七七四)に、雪ヶ谷村の浄心ら六名の者が本願主となって、石橋の安泰を祈って建てられた供養塔である。
 石橋は現存しないが、呑川を渡って中原街道を通るため、当時すでに石橋がかけられていたことがわかる。
 正面に「南無妙法蓮華経」と題目が刻まれ、側面に村内の日蓮宗円長寺の住職日善の署名と花押が刻まれている。このように日蓮宗の色彩を帯びているのは、雪ヶ谷村の寺院がいずれも同宗であったという地域的な特色によるものである。
 石橋供養塔は、他の民間信仰供養塔と兼ねたものが多いが、この塔は石橋の無事と通行人の安全という交通安全だけを目的として建てられたものであり、貴重である。
  昭和五十一年二月二十五日指定
  大田区教育委員会



南雪谷周辺
このあたりはソメイヨシノが植えられています。


ホトケノザ

新幹線の高架

呑川緑道
カワセミは、川、池、湖沼などにすむ留鳥で、コバルト色の背面と橙色の腹部をもった小さな美しい鳥です。「チー」と鳴き、水面上の木の枝や木杭、石などにたたずみ、低空を飛んで水中の魚を狙います。川がきれいになってエサの魚が増えたこともあり、よく見られるようになりました。

ゴイサギは、川、池、湖沼などにすむ留鳥または漂鳥で、頭と背中が黒く、つばさと体が灰色のずんぐりしたサギです。この写真は幼鳥のゴイサギで羽が茶色ですが成長すると色が変わります。夜行性で、昼間は松林や杉林をねぐらとしています。ゆっくりはばたきながら 「クワッ」と鳴くため、その鳴き声から「夜ガラス」といわれています。夕方は岸に立ち、近づいた魚をくちばしで直接とらえます。

(資料提供:呑川の会)



仲池児童公園
まもなくゴールということでこちらの公園をお借りしてストレッチをし先を急ぎます。


カワイ音楽教室
音楽教室という割には「自業自得」「身から出た錆」「口は禍の元」「負け犬の遠吠え」「暇ほど毒な物はない」などお習字がシュール。


池上梅園
この日のゴールで、65歳以上は入場無料なので皆さん梅を見に行きました。池上本門寺に隣接していますが、もとは個人所有の邸宅が庭を残すことを条件に東京都に寄贈され、現在は大田区立の公園となっています。こちらの六分咲きといった感じですが、青空に紅白の梅が映えています。


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