目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

小江戸川越コース 約6.4Km

2020-03-29 09:02:22 | 埼玉県川越市

人気のウォーキングコースで、東横線渋谷駅が地下化される前から実施しているので、初めて実施したのは2010年頃でしょうか。渋谷で集合し、渋谷発川越市行きに乗って行った記憶があります。


川越一中のシモクレン

光西寺のシダレザクラ

スミレ
今年は桜などの開花が早く、川越を訪れるのがいつもより遅かったことも加わって、花盛りでした。


川越八幡神社

御神木の枝垂れモモ

民部稲荷

創建千年まであと十年
摂末社の民部稲荷は足腰にご利益がある神様なので、ウォーキングクラブの我々にはとても重要な神社なのです。まずはメインの八幡様にお参りをし、民部稲荷へ。


川越工業高校
東へ向かい、県道川越坂戸諸山線を横断すると大友康平さんが卒業した川越工業高校があります。会員から「大友さんは川越の出身なんですね」と聞かれたので、調べた結果宮城県の出身でした。Wikipediaから一部抜粋して引用します。
康平の「康」は徳川家康から、「平」は在原業平からとられている。

宮城県塩竈市生まれ。実家の「大友材木所」は、宮城県でも三本の指に入るほどの大きさであったが、康平一歳の時に倒産。両親は乳飲み子の康平を連れて母方の実家・青森県弘前市に移る。そこでは長居することができず、後に千葉県松戸市へと移る。父はそこで一旦サラリーマンになるが、祖父の知り合いが埼玉県入間郡越生町に材木工場を開いてくれて、父はサラリーマンを辞め再び材木商となり、康平4歳の時、越生町に一家で引越し、19歳で東北学院大学に入学するまで同地で過ごした。幼少時代から、街のカラオケ大会等で熱唱し、その片鱗を見せる。本格的に音楽を始めたのはグループ・サウンズ・ザ・タイガースが好きだった父の影響。一番衝撃を受けたのはキャロルで、高校に入って仲間を集めキャロルを真似たバンドを作った。高校は埼玉県立川越工業高等学校建築科へ行き、やんちゃしながらも、武者小路実篤等を愛読する読書家でもあった。その時の経験が後の活動の礎となる。

一浪した後、東北学院大学経済学部に入学、卒業。仙台市長の郡和子とは、東北学院大学の同期生である。社会科の教員免許状を持つ。教育実習では仙台市立八軒中学校で教壇に立ったことがあり、テーマは「江戸時代の農民と町人の暮らし」であった。当時は仙台のテレビ局でアルバイトをしていた。大学時代に同級生とお笑いコンビ「コント爆弾」を組み活動していた。ある日、コント中に小学生に石をぶつけられて逆上し、「おまえの親を呼んでこい」と迫った。この一件をきっかけにコンビを解散。



中院の鐘楼

中院のシダレザクラ
中院のシダレザクラは黄色いミモザとのコントラストがきれいなのですが、ミモザは時期が過ぎて茶色くなっており残念。空襲の被害をほとんど受けていない川越には古い桜が多く残されています。


南院遺跡
江戸時代には喜多院(北院)、中院、南院と並んでいたのですが、廃仏毀釈の嵐の中南院は廃寺となってしまいました。現在中院が従来南院があった場所より南にあるのは、仙波東照宮建立のため引っ越しをしたためです。


仙波東照宮
階段脇の売店の焼きそばがおいしいそうです。今度試してみましょう。


川越大師 喜多院

喜多院多宝塔

A CITY WHERE HISTORY LIVES
喜多院の境内にはソメイヨシノが多く植えられています。見どころが多いのですがいつもウォーキングで訪れるのでゆっくり見ている時間がありません。江戸城御殿が移築され、そのために新河岸川の水運が開かれたなど、川越が小江戸と呼ばれる所以となっている場所です。


成田山川越別院 開山堂

川越不動 出世稲荷

太子堂の独鈷
眼の絵馬、面白いですね。


浮島公園

郭町

川越城本丸御殿

川越城中ノ門堀跡
郭から「遊郭」を想像したのですが、「城郭」から郭町になるのですね。三芳野神社はわらべ歌「とおりゃんせ」の発祥の地となっており、川越城ともゆかりがあるようなので次回は行ってみましょう。


銅板張りの蕎麦屋さん

休館中の駐車場

川越まつり会館
コロナの影響でまつり会館が休館はわかりますが、観光地の駐車場を閉めているのはあまりよくないと思います。観光客はけっこういました。川越は道が狭いので公共交通機関を使ってきてねというメッセージかな。


稲荷大明神

蔵造りの町並み
菓子屋横丁近くの崩れ落ちそうなお宮は稲荷大明神とGoogleマップにありました。蔵造りの町並みはやっぱり人が多かったです。


中成堂歯科医院

亀屋茶店

大正浪漫通り

熊野神社
このあたりを歩くのもなかなか楽しいです。川越は道が狭いのでできるだけ車が通らない道を歩きたいですね。有名な川越太麺焼きそばは熊野神社周辺が有名なようです。


出世稲荷

川越まつりの山車格納庫
日本の大きなイチョウが目印の出世稲荷にお参りし、境内をお借りしてストレッチします。


中原商店会
こちらを通って川越市駅へ向かい、元町中華街行きがすぐに来たので待つことなく帰途につきました。


中目黒まで乗って行けばいいのですが、新宿三丁目のダブリナーズでおいしいビールと、焼き立てピザを楽しみました。コロナ自粛ですいていましたが、早く気兼ねなく飲みにゆける環境になってほしいです。
更にもう一軒千草へ。皆さんに温かく迎えていただきハッピーに酔っぱらいました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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【下見】松戸 戸定邸

2020-03-24 10:55:05 | 千葉県松戸市
かつて松戸のお蕎麦屋さん「松戸の里 宮前」で新蕎麦を食べるためのコースがありました。葛飾柴又駅を起点とした5.8kmのコースだったのですが、お蕎麦屋さんが営業をやめてしまいこのコースはお蔵入りとなりました。
江戸川沿いを歩く良いコースだったので復活案を探り、戸定邸を訪れるコースを下見しました。松戸ローカルな話題で聞き覚えのある方も少ないと思うので、施設を管理する松戸市のホームページから引用します。
 水戸藩最後の藩主・徳川昭武が建てた戸定邸の敷地の内、約三分の一は戸定が丘歴史公園として整備公開されています。
 公園内には徳川昭武と彼の兄徳川慶喜の資料を展示する戸定歴史館、徳川昭武が住んでいた戸定邸(国指定重要文化財)と庭園(国指定名勝)、昭和53年に松戸市が市制施行35周年を記念して建設したお茶室の松雲亭があります。

戸定歴史館
 戸定邸に隣接する博物館。戸定邸と庭園の公開や徳川昭武の遺品を中心とする松戸徳川家伝来品、徳川慶喜家伝来品、1867年パリ万国博覧会関係資料の展示を行っています。
 徳川昭武が将軍名代として派遣された万国博覧会に関する資料や幕末から明治にかけての古写真、戸定邸の歴史を語る文書や調度品、慶喜が亡くなるまで手元にあった彼の遺品などを順次公開しています。数ヶ月に一度は展示替えのため、休館期間があります。(戸定邸は開館)

戸定邸
 明治時代の徳川家の住まいがほぼ完全に残る唯一の建物です。約2年の建設期間を経て1884年4月に座敷開きが行われました。増築を経て、現在は9棟が廊下で結ばれ、部屋数は23に及びます。旧大名家の生活空間を伝える歴史的価値が、高く評価されています。 

 江戸時代の大名屋敷の系譜上にありながら、徳川家が権力の座を離れたため、生活様式は大きく変化し、規模が著しく縮小しています。建物は大きく三つに分けられます。1) 来客や他家との交際に使う区画 2) 家族が暮らす区画 3) 職員のための区画です。各区画の性格に応じて、建物の構成や材木の質が異なっています。

戸定が丘歴史公園
 徳川家は約400年前から260年間に及び、日本の統治者でした。権力の座を離れた徳川家は現代にまで続いていますが、変革の次の時代、明治時代の徳川家の住まいと庭園を見ることが出来る場所が戸定が丘歴史公園です。

 徳川家の最後の統治者(将軍)・徳川慶喜(1837年から1913年)の弟・昭武(1853年から1910年)は1884年4月に戸定邸の座敷開きを行い、1890年末に庭園の整備を終えました。かつて7万平方メートルを超えていた敷地の約3分の1が、現在、歴史公園となっています。園内には戸定歴史館や伝統的な日本の茶会を催せる松雲亭があります。

 西側に江戸川や富士山を望む標高25メートル程の高台上には昭武が運び上げたコウヤマキやヒヨクヒバの巨木が残り、梅、ベニシダレザクラ、鉢植えの藤など四季折々の花を楽しむことが出来ます。緑豊かな園内は鳥の鳴き声が絶えません。



坂川沿いのソメイヨシノ

公園入口

茅葺門
戸定邸は小高い丘の上にあり、戸定みその坂を登ったところにこの門があります。


戸定邸
新型コロナウィルス感染症の影響で閉館していました。周辺が公園になっているので、公園は開放されています。


シダレザクラ

戸定邸

江戸川方面の眺め
松戸のソメイヨシノは目黒よりも早い感じで、坂川沿いはずいぶん咲いていました。戸定が丘歴史公園のシダレザクラはピンクが濃くてきれい。丘は西に開けていて運が良ければ富士山も見えるそうです。


戸定邸

松?の古木
なかなか良いところですこやか歩こう会の皆さんも喜ぶことと思います。従来のコースは柴又から川をさかのぼってきましたが、新たに設定するコースは松戸スタートで戸定が丘歴史公園を見た後、川沿いを下り、矢切の渡しで柴又へ渡って解散するコースを作りたいと思います。草餅が買いやすくなりますね。


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【下見】仙川コース大蔵・岡本・水道道路編

2020-03-18 10:43:02 | 東京都世田谷区
成城学園駅前駅がスタートとなります。祖師谷編でもう少し多摩川寄りまで進みたかったのですが、ゴール場所からの帰りの足を考え祖師谷編は少し短め、大蔵・岡本・水道道路編は少し長めとなります。
駅から仙川までは300メートルくらい。そこから仙川沿いの緑道を下流へ向かいます。左側にたくさんの人が出入りして、警備員がチェックしているちょっと変わった場所があり、東宝の撮影スタジオであることが分かります。下見では川沿いを歩きましたが、正面ゲートに回ってみるのも良いかもしれません。



大倉運動公園
世田谷通りを横断すると運動公園の西門がありました。国分寺崖線の崖の上に公園があるので、登ってみる気にはなりません。




親水公園
崖線沿いに湧水が流れ、クレソンがありました。


岡本の富士見坂
「俺たちの旅」のロケ地だったかなぁ?この急坂は下りの一方通行なのですが、ロケ地はもう一本北にある上りの一方通行だと思っていました。



丸子川親水公園
下見に出かける前に地図を見てルートを検討し、この部分はちょっと迷ったところです。仙川沿いを400メートル進むと野川に合流し、合流地点は野川下りのウォーキングで確認済みです。野川下りでは二子玉川の多摩川との合流点まで歩きましたが、もう一度歩きたいという興味をひくルートでもないのです。
それならば渋谷町水道の水道道路を、駒沢給水塔へ至るルートで歩いてみよう。野川合流点まで行き、野川沿いを少し下って野川水道橋を起点にしてもよかったのですが、仙川から分岐する丸子川親水公園の方が魅力的だったので、野川合流点は目指さないことにしました。地図上では仙川から分岐しているように見えるのですが、国分寺崖線の湧水を水源としているのですね。23区内で湧水を水源としている川は珍しいと思います。


サンシュ

岡本民家園
この日民家園はお休みでしたが、時間があったら見てみたいと思います。でも交通の便が悪いのでなかなか来られないでしょうね。


静嘉堂文庫
この日はGoogle Mapでルートを確認していたので岡本公園から静嘉堂文庫へのルートがいまいちわかりませんでした。この図が民家園あたりにあったら迷うこともなかったんだけど、図の右上の部分でちょっと悩みました。国分寺崖線の崖で結構急坂なので、ここを登って静嘉堂文庫に入れずに戻ってくるのは嫌だなぁ。結局ぐるっと回ってバス停八の橋のあたりから入りかなりの遠回り。下見の遠回りは歓迎すべきことだけど、結構疲れました。仙川駅からすでに10キロくらい歩いてきたでしょうか。



静嘉堂文庫
東京都選定歴史的建造物
静嘉堂文庫
所在地 東京都世田谷区岡本2-23-1
設計者 桜井小太郎
建築年 大正13年(1924)4月

 武蔵野の面影をよく留める丘陵の一隅にこの建物は建っている。鉄筋コンクリート造2階建スクラッチ・タイル貼りの瀟酒な建物で、イギリス郊外住宅のスタイルを濃厚に表現している。
 静嘉堂文庫は、三菱合資会社の第四代社長であった岩崎小弥太が、その父弥之助の収集した日本や中国の貴重な古典籍を永久に保存し、更に研究者に公開することを目的に建造したものである。
 設計者の桜井小太郎(1870~1953)は、イギリスで建築を学び、英国風の落ち着いた品格のあるデザインを得意とした。岩崎小弥太も明治33年イギリスに留学し、ケンブリッジ大学を卒業した英国通であり、両者の呼吸が一致した作品である。内部は玄関ホール、ラウンジ、閲覧室、2階に応接室等があり、19世紀後半イギリスのアーツ・アンド・クラフト運動の雰囲気をもっている。
  東京都生活文化局



灯篭



岩﨑家廟堂
岩崎家廟堂案内
 この奥にある青緑色のドームを戴く白亜の建物は、静嘉堂文庫を創設した岩崎彌之助の霊廟として建てられ、岩崎彌之助、小彌太をはじめ岩崎家代々の墓である。
 明治43年3月、わが国西洋建築の始祖ともいうべきジョサイア・コンドルによって建てられた。コンドルは鹿鳴館、ニコライ堂、三菱一号館なども設計している。
 青銅の扉に刻まれている中国二十四孝のレリーフ並びに前面の大香炉は岡崎雪聲の作である。また森の奥には、松方正義の文と書による男爵岩崎君墓碑がある。
 この霊廟は平成11年4月東京都により歴史的建造物に選定された。
  平成24年9月 世田谷区教育委員会



ハナニラ

無量寺

世田谷百景 84 用賀観音の無量寺

無量寺
 浄土宗に属し、芝の西応寺の末寺で、祟鎮山観音院と称する。
 寺史については明らかではないが、文政九年(1826)の『新編武蔵国風土記稿』には「開山光運社明誉寿広和尚、文禄三年(1594)八月十八日示寂ス」と記されている。
 本堂左の観音堂には、天正年間に品川の浜で漁師の網に揚げられ、用賀の住人高橋六右衛門尉直住が観音様のお告げにより当寺に納めたものと言い伝えられている観音像が安置されており、十二年に一回午の年に御開張が行われる。この他にもかつて当寺においては「観音様の御巡行」「お十夜」などの観音にゆかりの行事が盛んに行われ大変な賑わいを見せていたという。
 現在の観音堂は文政十三年(天保元年、1830)の棟札があることから建立年代はその前後とみられる。ただし延宝四年(1676)の棟札も残されていることから、その草創はおそくとも江戸時代の前半期までさかのぼるものと考えられる。
  平成元年 九月
   世田谷区教育委員会



大山道道標
水道道路は目的地、この場合は砧下(きぬたしも)浄水所から駒沢給水所配水塔まで、一直線になっているですが、静嘉堂文庫内には道はなく、ドミニコ学園からまた一直線の道が始まっていました。無量寺あたりで一直線の道が途絶えるのはすでに集落があったためでしょう。この道標を見て納得したところです。


蹄鉄のプレート
プレートについて世田谷区役所のページから引用します。令和元年12月6日のお知らせです。
区民の皆さんへ
「うままちプロジェクト」蹄鉄入り平板ブロックの敷設が始まりました

12月3日(火曜日)、馬事公苑正門付近(上用賀2丁目)にて、馬事公苑と最寄り5駅を繋ぐ「うままちプロジェクト」蹄鉄入り平板ブロックの敷設工事のお披露目を行いました。
世田谷区は東京2020大会馬術競技会場のJRA「馬事公苑」開催に向けて、馬事公苑界わいのまちの魅力向上に取組んでいます。その一環として、「うままちプロジェクト」では、JRA馬事公苑と最寄り5駅(小田急線千歳船橋駅、経堂駅、東急世田谷線上町駅、東急田園都市線桜新町駅、用賀駅)のルート上の道路や公園等に「馬の蹄鉄入りのブロック」を敷設し、楽しく親しみやすいサインにするとともに、区民等にも思い出として残る取組みとするため、ふるさと納税の仕組みを利用したガバメント・クラウドファンディングで寄附を募り、3万円以上寄附をいただいた方のうち、希望する方には、ブロックに寄附者名を刻印したプレートを取り付けるという取組みを行って参りました。

このプロジェクトは、平成30年6月から10月にかけて行い、2,500万円(800枚)の目標額に対して、約2,136万円(691枚)の寄附が集まりました。たくさんの皆さんにご協力いただきありがとうございます。

この「馬の蹄鉄入りのブロック」は馬事公苑へと繋がる道しるべとして、そして、東京2020大会以後も残り続けるレガシーとして、世田谷区の財産となると思っています。

保坂 展人



水道道路の終端部



双子の給水塔
世田谷区に残された渋谷町水道の歴史遺産
 明治末期から大正初期にかけての東京市(当時)周辺は、人口の増加につれて安全な飲料水の確保が必要となり、上水道布設事業が相次いだ。特に人口増加の著しい豊多摩郡渋谷町(現渋谷区)では早くから具体化が進み、東京市の水道事業推進の重鎮であった中島鋭治博士に依頼して町営上水道布設の計画に着手、大正六年には実地調整を基に、取水地に多摩川河畔の砧村(現鎌田)を、中継の給水場に駒沢を選び、計画を取りまとめて認可を得、ここに世田谷を横断する大規模な水道工事が、国家事業並みの扱いで大正十年五月に着工となった。

 中島博士の計画は、砧村に浄水場を設けて清潔な水を作り、ポンプの力で駒沢給水場に設置した給水塔に押し上げた後、自然重力で渋谷町へ送水する言う斬新な仕組みであった。工事は順調に進み関東大震災を挟んで大正十三年三月に全工事が完了した。

 ここ給水場には、西欧の中世風の趣きを持ち、独特な意匠を施した二基の巨大塔が姿を現した。塔屋には王冠を連想させる装飾電球が付けられ、軽やかな特徴あるトラス橋で両塔が結ばれている。この独特な設計は二度のヨーロッパ出張で得た中島博士の卓越した土木建築デザイン感覚によるものである。同時期砧浄水場(現鎌田)には、緩速ろ過池の横、青い西洋瓦葺き屋根の上に、愛らしい四角錐の小塔を載せたユニークな送水ポンプ室が竣工している。なお昭和二年、ここ給水場には渋谷町上水道布設記念碑も造られた。

 その後、関東大震災後の渋谷町の人口急増により、昭和六~七年にかけて取水場所の作り変えや、ろ過池の増設など大規模な拡張工事が行われた。その際砧の浄水場には取水ポンプ室、駒沢の給水場には送水ポンプ室が新たに建造されたが、いずれも優れたデザイン性に富み、昭和の名建造物といわれている。昭和七年十月、周辺郡部が東京市に併合されるのに伴い、渋谷町水道も東京市水道局に移管されて、その名は消えた。

 戦後、東京都の水道局となってから、水道技術革新により浄水場は高度浄水施設への転換と給水場の地下埋設大型化が進み、大正・昭和初期の水道の姿を留めるものが極めて少なくなりつつある現在、数少ない例外ともいえるのが、駒沢給水塔を頂点とした多摩川河畔と駒沢の渋谷町水道遺産の数々ではなかろうか。豊かな緑の樹林の中に聳え立つ双塔の偉容は、人々に近代水道文明の歴史を語りかけているように思えてならない。

 平成十四年、都水道局は老朽化の激しい布設記念碑の大掛かりな補修作業と併せ、塔屋の装飾球の復元やトラス橋の全面塗装換えでイメージを一新した。殊に塔屋の夜間点灯は、復元後今日まで、世田谷区民に貴重な近代化遺産をアピールする格好の風物詩となっている。

 中島博士生誕百五十年にあたる今年、駒沢給水塔風景資産保存会と世田谷区は相携え、この地に残る世界的に貴重な近代化遺産を永く後世に残せるよう、都水道局の理解協力のもとに、思いを込めてこの銘板を作成した。

平成二十年十二月  駒沢給水塔風景資産保存会・世田谷区


仙川コースはここで終了となります。丸子川・矢沢川に進むべきかとも考えましたが、そのあたりは六郷用水としてまた別企画にしておきましょう。


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【下見】仙川コース祖師谷編

2020-03-13 09:08:00 | 東京都調布市、世田谷区
前回京王線仙川駅付近まで歩いてきた仙川コースの下流部の下見に行きました。



仙川の菜の花

仙川の仙人

エンコウソウ
仙川駅から北へ向かい弁天橋から仙川沿いを歩き始めるのですが、菜の花が迎えてくれました。柵のレリーフは近くで見ていると分からなかったのですが、ちょっと離れてみると仙人でした。仙川だけに。エンコウソウは知らなかったので調べてみました。キンポウゲに似ていると思ったらキンポウゲ科でした。Googleで画像検索すると五弁の花が多かったので違うかなぁと思ったけど、撮影したものは八重なのでしょうね。


アオサギ

中州
アオサギ、チュウサギ、カモ、セキレイなどを見ながらのウォーキングです。カワセミはいるだろうと思い注意していると二羽連なって一直線に飛んで行きました。つがいだったのかな?下流で見ることが出来るだろうと探し、一キロくらい下流で木に止まっているところを発見したのですが、写真に撮るまもなく飛んで行ってしまいました。カワセミのテリトリーは思っていたよりも広いようです。中州は鳥たちの絶好の休憩場所となっていました。


スミレ

セイヨウタンポポ

フキノトウ


今年の初スミレ。コンデジの割にはよく撮れたと思います。丸々太った大きな鯉がたくさん泳いでいます。


カワウ

駒大野球場
立派な野球場だと思ったら大学の施設だったようです。駒大出身の野球選手多いですからね。


ボケ

おちゃらか
ボケも今が花盛りです。大きな花でした。わらべ歌を描いたベンチがいくつかあって、あんたがたどこさが自然と口にしていました。「船場」とはどこかなぁと調べてみると、川越の「仙波」という説があることを知りました。仙波豆腐が有名ですね。異説をWikipediaから引用してみます。
「あんたがたどこさ」を関東地方の童歌とする資料・研究が多方面からなされている。実際、唄われている歌詞は熊本弁ではなく完全な関東方言である、と古くから研究者の指摘が多い。熊本のことが触れられているだけで、熊本で生まれた童歌ではない、とする熊本の研究家も少なからずいる。
この童歌の発祥地は、武蔵国川越藩(埼玉県川越市)とする説である。
「あんたがたどこさ」のような「問答歌」は、幕末から明治時代初期に生まれた手鞠歌の形式である。
史実として戊辰戦争時に、薩長軍が東征軍として彰義隊の残党である振武隊を追って川越城に進駐し、城に隣接する仙波山に駐屯していた。仙波山とは仙波古墳群のある周辺一帯の別名である(熊本には船場川はあっても船場山や仙波山という地はない)。仙波山付近の子供たちが兵士にどこからきたのか尋ね、熊本藩出身の兵士が答える様子が歌詞に描かれているという。「肥後どこさ 熊本さ」という問答は肥後(熊本)に不案内な関東だからあり得る会話で、官軍に帰順した川越藩の子供たちが立派な銃を所持している官軍兵士のご機嫌を取っている場面が唄われている、などの説である。
川越の仙波山は、「古狸」と呼ばれた江戸幕府開祖の徳川家康を祀る「日本三大東照宮」のひとつ、仙波東照宮がある。また川越城内には「通りゃんせ」の発祥の地とされている三芳野神社(異説あり)もある。
これに対し、2016年3月19日放送のNHK『ブラタモリ』で熊本市が取り上げられたときは、熊本市新町付近は堀が作られ、その堀を作ったときの土を盛り上げた土塁を「せんば山」と呼んでおり、そこに狸がいたことが示されている。
なお、この異説の元となっている太田信一郎『童謡を訪ねて』には、この説について「地元川越市の郷土史研究家によって明らかにされています」とのみ説明しているが、その出典は明らかにされていない。 一方、川越郷土史研究家で川越市史の編纂に当たった岡村一郎は、川越でなく「熊本城下の洗馬山のほうが正しい」としている。


この日の下見はまだ続くのですが、コースとしては成城学園前駅までとなる予定です。


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南東部公園コース 約7.5km

2020-03-02 14:02:23 | 東京都目黒区
政府から「不要不急の外出を控える」よう要請が出ている中、我々なりの活動を振り返り、これまで通り活動を継続してゆくという結論に至りました。理由として挙げられるのは、
・屋外の活動であること
・免疫力を高めるため、適度な運動は必要であること


です。もともと自由意思で参加している倶楽部なので、参加不参加は会員自身の判断になります。この日の参加者は普段並みと言える18名でした。



目黒川
川の写真の左側が目黒川舟入場と呼ばれる公園で、かつては水運が行われていました。中目黒に材木商が多いのは、この水運があったおかげという話を聞いたことがあります。


ユキヤナギ

オオイヌノフグリ

目黒清掃工場工事現場
この時期歩くたびに春の花が増えてきます。清掃工場は旧工場の解体がほとんど終わり、覆いもほとんど解体されてきました。解体は2017年から始まり、新工場は2022年竣工予定です。


プリムラ・ジュリアン
区民センターに植えられているものですが、鮮やかな色合いの花でした。


花の影
目黒区のホームページから引用します。
彫塑家、故・朝倉文夫氏が、大正11年第4回帝展に出品した作品です。陽の光を全身に浴びて、大空に向かって伸びやかに両手を差し出す姿は、まさに普遍的な平和のシンボルにふさわしいものです。
朝倉氏及び「めぐろ平和の鐘」の作者・香取氏の各遺族、朝倉彫塑館のある台東区のご厚意により、世界の恒久平和と区民の限りない幸せを祈念し、区の平和の象徴として、平成2年に区民センターに設置しました。
朝倉氏は、昭和23年に文化勲章受賞、26年に文化功労者となり、近代彫塑界に大きな足跡と影響を残しました。



目黒区平和都市宣言
目黒区平和都市宣言
かつて人びとは、戦火に包まれ悲しい歴史の一ページをつくった。
時は移り、
今、平和の尊さをしみじみと思う。
青い空、緑の木々。
街には明るいあいさつがかわされ、
人びとの顔にほほえみが浮かぶ。
この幸せを再び失ってはならない。
わたくしたちは、
地球のすべての人びととともに永遠の平和を築くよう努力する。

この誓いをこめて、目黒区は平和憲法を擁護し、核兵器のない平和都市であることを宣言する。
昭和60年5月3日
東京都目黒区



平和の鐘
目黒区のホームページから引用します。
人間国宝で名誉区民の鋳金家、故・香取正彦氏の作品で、広島平和の鐘、カナダ・バンクーバー市の平和の鐘と同型の、いわば三姉妹に当たる梵鐘です。
昭和60年に目黒区が平和都市宣言をした記念として、香取氏から寄贈された梵鐘を「めぐろ平和の鐘」と命名し、世界の恒久平和と区民の限りない幸せを祈念して区民センター公園に設置しました。
香取氏は、戦時中の金属供出で全国からたくさんの鐘が失われたことを悲しみ、戦後は平和の願いを込めた鐘を作り続け、昭和52年に人間国宝に指定されました。



玉川屋

大鳥神社

寄生虫館

大鳥中学校
山手通りと目黒通りの交差点付近にあります。大鳥中学校は目黒区でもっとも最近開校した中学校ですが、三中と四中が合併したもので、校舎は元三中です。


広目天像
目黒不動尊の大日如来をお守りする四天王の一つです。後で出てくる独鈷の滝の独鈷を言葉では説明しきれず、どこかにないかと探したときに広目天の右手に握られていました。


龍泉寺の鳥居
男坂を上った御本堂の前に鳥居があるのですが、今まで疑問にも思わずくぐっていました。大鳥神社のものとは形状が違いますが、目黒不動のこの形式は山王鳥居と言います。


お不動様の看板
こちらの看板では、目黒不動が「日本三大不動の一つ」で「関東最古の不動霊場」で「江戸五色不動の一つ」であることが描かれています。808年の創建で開基は慈覚大師円仁とされている天台宗のお寺です。


役行者

独鈷の滝
目黒不動のご本尊は不動明王ですが、円仁の夢に出てきた姿を彫ったものです。その後円には最澄、空海と同様に中国に留学するのですが、そこで初めて自分が彫った像が不動明王であったと分かったということです。円仁が独鈷を投げたところから水が湧いて独鈷の滝と名付けられたと言います。羅漢寺川が目黒台を削ったところから流れ出る湧水だと思っていました。高野山は空海が中国で投げた独鈷が飛んでたどり着いた場所と聞いていますが、昔のお坊さんはよく独鈷を投げたようです。


仁王門

仁王門裏の狛犬
仁王門に納められている仁王像は前出の玉川屋が寄進を申し出て、区内在住の後藤良(ごとうなおし)に依頼して制作したもので、その縁で玉川屋では仁王餅を売っています。狛犬も後藤良が制作したものです。


比翼塚
お年を召した方に好まれる話です。歌舞伎の影響でしょうか幡随院長兵衛が権八を「おわけぇの、おまちなせぇ」と呼び止めたこと、本来平井権八なのに江戸っ子の発音が悪く白井権八になっていることなど。地域に歴史に詳しい方だとかむろ坂の話が加わります。


不動ふれあい広場
ハクモクレンがこんなに咲きました。


林試の森公園
メジロの他にワカケホンセイインコも花の蜜を食べに来ていました。


円融寺東門

真公稲荷

毘沙門堂

釈迦堂

黒仁王

円融寺山門
円融寺も天台宗のお寺で853年創建、開基は慈覚大師円仁です。目黒区でいち二の歴史を誇るお寺は両方ともに慈覚大師が開基ということです。慈覚大師は下野の生まれで、関東や東北の寺院にゆかりが深いそうで、立石寺、毛越寺、中尊寺の開基でもあるとのことです。


立会川緑道

みどりの散歩道
ここに来ないと忘れているのですが、区内から東京湾に直接流れこむ川三本のうちの一つになります。


碑文谷八幡神社参道

拝殿

碑文谷八幡宮
碑文谷八幡宮 碑文谷3-7-3
 この神社 は、旧碑文谷村の鎮守 で、祭神 は応神天皇 です。畠山重忠 (1205)の守護神 を家臣 筋の宮野左近 という人がここに祀ったのがその起源だといわれています。
 創建年代は不詳ですが、「四神地名録 」や「新編武蔵風土記稿 」にも記されてい
る由緒のある神社です。
 社殿 は、延宝 2年(1674)に建てられ、その後明治5年に再建、同20年に改築されました。
 本殿の右側に重忠の臣、榛沢六郎 を祀った稲荷社 があり、また碑文谷の地名の起こりとなったともいわれる梵字 を刻んだ石(碑文谷)が保存されています。
 なお、当社には勝海舟 筆の「額」や「のぼり」が所蔵されています。祭礼は春秋の2回で、昔ながらの“目黒ばやし、の音もなつかしく、みこしやだしも練り歩き賑やかです。
平成4年3月
目黒区教育委員会



みみず
写真なのでわかりませんが生きています。アスファルトの上をのたうち回る様子を見て「啓蟄」という言葉が浮かんできたので撮っておきました。


すずめのお宿緑地公園

旧栗山家住宅

蕗の薹

サクラソウ
すずめのお宿でしばし休憩。お雛様が飾ってありました。


サレジオ教会

オカメザクラ

延命地蔵


碑文谷池
目黒通りを横断し、碑文谷公園をぬけて、碑文谷体育館でストレッチをして解散となりました。

有志九名で天狗へ繰り出しました。時間が早かったというばかりでなく、こんなご時世なのですいていました。「天狗を応援」と言いながら、お好み宴会でアルコールを十分いただきました。飲みすぎは免疫力を弱めるので注意すべきだとは思うのですが。。。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


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