目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

北部公園コース 約6.0km

2020-05-27 09:44:14 | 東京都目黒区、渋谷区

毎回8名くらいの参加者がありそろそろ増えるかなぁと思っていたこの日は6名と思ったよりも少なかったです。緊急事態宣言が解消されてもwithコロナの世界はbeforeコロナとは同じにはならないのでしょう。すこやか歩こう会や目黒ウォーキング協会にどのような役割が求められるのか、これまでと同じではないことを肝に銘じてしっかりと変化してゆかなければなりません。ウォーキングがお手軽かつ有用な運動であることは変わらないので、皆さんが安心して参加し、かつ楽しいウォーキングを模索し、とりあえずはマスクをして歩きましょう。


5月9日の目黒川

5月23日の目黒川
緑は徐々に濃くなっているのでしょうが、この時期二週間たってもそんなに大きな変化はありませんね。


アジサイ

立入禁止

アカンサス

北野神社
アジサイは集合場所へ向かう途中で撮ったものです。入梅前のアジサイは可憐ですね。目黒川周辺はお花見時期に張られた綱がそのままで憩うことが出来ません。緊急事態が解消されたら変化があるかな。児童遊園のトラウマ遊具も解禁されるでしょうか。北野神社が北野天満宮の流れをくむものと知りました。土の中から出てきた菅原道真公像を祀っているということですが、なんで土の中にそんなものがあるんだ?隅田川から観音像が出てきた浅草寺の方がまだリアリティがあると思います。


菅刈公園日本庭園(閉園)

エンジュ?

ヤマボウシ

スモークツリー

露に濡れた草

ムラサキサギゴケ

芝生養生中

ゼラニウム

スダチ

オリーブ
ドクダミが咲くと花が少なくなると思っていましたが、よく見るといろいろ咲いていますね。二週間くらい前からバラの華やかさを見てしまうと、地味な花が目に入らなくなってくるのかもしれません。


モンスーンカフェ

マレーシア大使館

ゴーンの隠れ家

松見坂
目黒の坂 松見坂
更新日:2014年2月3日

「目黒の坂」は、「月刊めぐろ」1972年3月号から1984年2月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒の坂 松見坂
「昔、今の環六と淡島通りの交差する駒場一丁目付近に、道玄太郎という山賊がいましてね。その道玄がこの付近にあった松の大木に登って、旅人をねらっていたそうです。まあ、そんな話から、渋谷には道玄坂があり、道玄の登った松の大木を道玄物見の松といい、その名から松見坂という坂名がついたと、よく祖父から聞いたものです」と、土地っ子、宗田淳さんはいう。
坂名の由来は、この道玄の話が有力だ。道玄が出没していたのは、今から約450年以上も前のことである。
坂の途中で、自動車修理工場を営んでいる谷口さん兄弟は、「戦前のこの辺は、じめじめとした湿地で、田んぼが広がり、今の山手通りの立体交差付近からは渋谷一帯が眺望できましたよ。昔、追いはぎが出たという話も聞いたことがあります。それに関係があるかどうかわかりませんが、道の向こう側に、松見地蔵という地蔵様がありましたよ」。この松見地蔵は「目黒町誌」によると、「霊験あらたかなる地蔵」ということで、多くの人が参詣に来ていたという。
今、松見坂には、新遠江(しんとおとうみ)橋という橋がある。この橋は、空川にかかっていたものである。もっと以前には、この新道の下にわずかに残っている旧松見坂にあった。この橋は、伊達遠江守が創設したもので、明治に入って、明治天皇行幸に伴い西欧技術を取り入れたドーム型の橋に改築された。大正2年、道路を改修し、現在の松見坂と新遠江(しんとおとうみ)橋となった。
田んぼに囲まれていた松見坂。現在は、住宅や中高層ビルに囲まれている。時代とともに自動車・バス・トラックなどが急速に増加し、その需要に応えるべく幾度となく道路開発工事が行われた。



アカンサス

駒場バラ園

観葉植物



駒場公園(閉館中)

ユキノシタ
いくら調べてもわからない花というのもあり、花の形はドウダンツツジなのですが木ではないし葉っぱも違います。なんでしょうね?


駒場野公園



田植え風景
駒場農学校は札幌農学校と同じように作られた国営大学でした。東京大学農学部、東京教育大学農学部、東京農工大学に分割され駒場野公園のあった場所は東京教育大学で、ケルネル田圃はドイツ人教師ケルネルの実験場でした。いまでも東京教育大学の流れをくむ筑波大付属駒場中高の生徒が田植えを行っていますが、COVID-19の影響かこの日は少人数でした。


ザイフリボク

ツバメオモトに似た花

バラの花壇

イチゴ

アカツメクサ

シロタエギク

ニワゼキショウ
駒場野公園でストレッチをして解散です。よく見るといろいろな花が咲いていましたね。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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東部地区コース 約5.3km

2020-05-22 11:30:37 | 東京都目黒区

改札口前の燕
このコースは木陰が多いので毎年盛夏に企画しているのですが、電車に乗っての移動を避けるため緊急事態宣言中に歩くことにしました。集合は祐天寺駅改札口でしたが、ツバメが遊びに来ていました。


駅前ロータリー

ナイヤガラコレクション
このロータリーがないころの祐天寺駅も知っていますが半世紀ほど前になるでしょうか。将来花壇がなくなるのか、このロータリー自体がなくなるのか。祐天寺駅の開業は昭和2年、中目黒駅より先と聞いていたのですが同時のようです。平塚幼稚園付近にあるコレクションはカレーショップナイヤガラの持ち物です。動輪が目立ちますが、腕式信号機を撮ってみました。



祐天寺
本堂にお参りをし、境内をお借りしてストレッチです。


祐天寺墓地の広い空
墓地ですが広い空があるこの景色が好きです。


中目黒五丁目の床屋さん

油面地蔵通り

子育て地蔵尊

目黒通り油面交差点
地蔵通り商店街の街灯はスズランをかたどったものでしょうか?子育て地蔵尊は旧道の交差点にあるので昔からここにあったものと思いましたが、関東大震災後に移設されたとのことです。油面は増上寺の燈明用に菜種油を生産していたことをこのブログでも何度か書いたと思いますが、目黒と増上寺はどんな関係なのでしょう。浅井三姉妹の江姫がかかわってきます。目黒区の歴史年表から1632年の出来事を引用します。
2代将軍秀忠夫人崇源院の遺領(上目黒村・下目黒村・衾村・碑文谷村の4カ村の一部)が、増上寺に寄進される

江姫の知行地が増上寺に寄進されたため目黒区に広大な寺領があったのです。祐天寺が現在の場所に建立されたことも、油面の地名もこんな背景があったのですね。


アレクサンドル・ネフスキー聖堂

元競馬南泉公園

夏みかん?

不動住区センター
目黒通りを横断してさらに南下します。元競馬南泉公園は目黒通り元競馬交差点から少し離れているのでちょっと意外な感じがするのですが、競馬場の敷地内ですね。不動住区センター、不動小学校など目黒不動尊から少し離れているのですがこのあたりが不動という小字だったようです。




林試の森公園
たいざんぼくのトイレで休憩しました。祐天寺や目黒不動の公衆トイレがコロナ感染症対策のため閉鎖されており、がまんしてそこまで行ってがっかりすることがあります。公衆トイレの閉鎖は最小限にしてほしいですね。


比翼塚


目黒不動尊

アジサイ

お不動様の石像
石像は甘藷先生墓もある墓地の片隅で見つけました。花の季節も一段落してこれからはアジサイの季節ですね。


バラ

レトロの店立乃
山手通りを横断して柳通りと呼ばれる電車道を歩くと大森海岸駅へ。立乃という居酒屋ですが、鉄道趣味というよりレトロな看板を集めているようです。


目黒川の緑道
目黒川沿いを上流へ向かい舟入場でストレッチをして解散です。


ボラの群れ
目黒川を覗くと小魚がたくさん泳いでいました。表面を流れる泡の奥にきらりと光るボラを見ることが出来ますか?


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
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東部地区コース 約5.3km

2020-05-22 11:30:37 | 東京都目黒区

改札口前の燕
このコースは木陰が多いので毎年盛夏に企画しているのですが、電車に乗っての移動を避けるため緊急事態宣言中に歩くことにしました。集合は祐天寺駅改札口でしたが、ツバメが遊びに来ていました。


駅前ロータリー

ナイヤガラコレクション
このロータリーがないころの祐天寺駅も知っていますが半世紀ほど前になるでしょうか。将来花壇がなくなるのか、このロータリー自体がなくなるのか。祐天寺駅の開業は昭和2年、中目黒駅より先と聞いていたのですが同時のようです。平塚幼稚園付近にあるコレクションはカレーショップナイヤガラの持ち物です。動輪が目立ちますが、腕式信号機を撮ってみました。


祐天寺
本堂にお参りをし、境内をお借りしてストレッチです。


祐天寺墓地の広い空
墓地ですが広い空があるこの景色が好きです。


中目黒五丁目の床屋さん

油面地蔵通り

子育て地蔵尊

目黒通り油面交差点
地蔵通り商店街の街灯はスズランをかたどったものでしょうか?子育て地蔵尊は旧道の交差点にあるので昔からここにあったものと思いましたが、関東大震災後に移設されたとのことです。油面は増上寺の燈明用に菜種油を生産していたことをこのブログでも何度か書いたと思いますが、目黒と増上寺はどんな関係なのでしょう。浅井三姉妹の江姫がかかわってきます。目黒区の歴史年表から1632年の出来事を引用します。
2代将軍秀忠夫人崇源院の遺領(上目黒村・下目黒村・衾村・碑文谷村の4カ村の一部)が、増上寺に寄進される

江姫の知行地が増上寺に寄進されたため目黒区に広大な寺領があったのです。祐天寺が現在の場所に建立されたことも、油面の地名もこんな背景があったのですね。


アレクサンドル・ネフスキー聖堂

元競馬南泉公園

夏みかん?

不動住区センター
目黒通りを横断してさらに南下します。元競馬南泉公園は目黒通り元競馬交差点から少し離れているのでちょっと意外な感じがするのですが、競馬場の敷地内ですね。不動住区センター、不動小学校など目黒不動尊から少し離れているのですがこのあたりが不動という小字だったようです。


林試の森公園
たいざんぼくのトイレで休憩しました。祐天寺や目黒不動の公衆トイレがコロナ感染症対策のため閉鎖されており、がまんしてそこまで行ってがっかりすることがあります。公衆トイレの閉鎖は最小限にしてほしいですね。


比翼塚

目黒不動尊

アジサイ

お不動様の石像
石像は甘藷先生墓もある墓地の片隅で見つけました。花の季節も一段落してこれからはアジサイの季節ですね。


バラ

レトロの店立乃
山手通りを横断して柳通りと呼ばれる電車道を歩くと大森海岸駅へ。立乃という居酒屋ですが、鉄道趣味というよりレトロな看板を集めているようです。


目黒川の緑道
目黒川沿いを上流へ向かい舟入場でストレッチをして解散です。


ボラの群れ
目黒川を覗くと小魚がたくさん泳いでいました。表面を流れる泡の奥にきらりと光るボラを見ることが出来ますか?


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
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南東部公園コース 約7.0km

2020-05-14 09:38:52 | 東京都目黒区

緊急事態宣言が延長になって初めてのウォーキングです。宣言中は完全自由参加で活動を行っており、この日は8名のウォーキングとなりました。参加されない会員の中には介護をされている方もおり、「自分が感染することで家族にうつしたくない」「自分が感染すると介護する人がいない」など悲痛な声が聞こえてきます。それぞれ個人でウォーキングをして、宣言終息後にはまた元気に参加されることを期待しています。


目黒川新緑のソメイヨシノ
緊急事態宣言中は電車での移動を避けるため主に目黒区内を歩いており、毎回のようにこの景色を見て季節の移ろいを感じています。


中目黒公園
中目黒公園には広い芝生があり、休日にはそれなりに人が出ています。当初三密(密閉・密集・密接)はand条件で語られ、すべて当てはまるような状況を避けましょうと言われていたと思うのですが、いつのまにかor条件つまり一つでも当てはまる場所は避けましょうということになった気がします。ステイホームが叫ばれ始めた時から次元が変わったということかな。適度な運動で体力、免疫力を保ってください。
報道を個人的に咀嚼して見るとCOVID-19は血管にダメージを与える疾患で、肺炎という形で現れることが多いと理解しています。「NHKスペシャル人体”骨”が出す!最高の若返り物質」は、骨に衝撃を与えると寝ているときに骨が再生されそれと同時に若返りを促すメッセージ物質が体全体を駆け巡り血管や臓器も若返るという内容でした。NHKのページから一部抜粋してみましょう。
骨は常に作り替えられていて、大人では3~5年で全身の骨が入れ替わります。新しく強い骨を維持することで、疲労骨折などを防ぐためです。この作り替えを行っているのが、骨の中にいる細胞、骨を壊す「破骨細胞」と骨を作る「骨芽細胞」です。この二種類の細胞の作り替えのバランスが崩れて起きるのが「骨粗しょう症」です。

では細胞たちはどうやってバランスをとっているのか?実は、作り替えのペースを指示する、いわば建設現場監督となる細胞がいます。「骨細胞」です。骨細胞は「メッセージ物質」といわれる特別な物質によって作り替えの指示を出します。その内容は「骨を作ろう!」「骨を壊そう!」など。スクレロスチンは、骨細胞が出すこのメッセージ物質の一つで「骨を作るのをやめよう!」というちょっと変わった内容のメッセージです。骨細胞は骨の量が増えすぎないように、スクレロスチンによって、骨を作る「骨芽細胞」の数を減らします。ところがスクレロスチンが出過ぎてしまうと、骨量が減ってしまうのです。

なぜそんな異常事態が起きるのか。実は骨細胞には「骨にかかる衝撃を感知する」という働きもあり、衝撃があるかないかによって、新しい骨を作るペースを決めているのです。骨に「衝撃」がかからない生活を続けていると、骨細胞が「スクレロスチン」をたくさん出して、骨芽細胞の数を減らし、骨の建設を休憩させてしまうことが、最新の研究でわかっています。つまり運動をしないで一日の大半を座って生活している現代人は、スクレロスチンが大発生し、知らないうちに骨粗しょう症が進行している可能性があるのです。


記事全体はこちらを参照してください。ウォーキングと睡眠がステイホームより重要だと思っている根拠がこの番組でした。


泡巣

桑の実
子供のころ植物についている泡はみなモリアオガエルの卵隗だと思っていました。


遊具は使用禁止
目黒清掃工場緩衝緑地の遊具ですが、どこでもこのようになっていますね。子供にとってはトラウマの光景となることでしょう。


マリーゴールド

花の影

平和の鐘
前回このコースで歩いた時にジュリアンが植えてあった花壇はマリーゴールドに変わっていました。目黒区民センターにある彫刻花の影は東洋のロダン朝倉文夫氏の作品です。平和の鐘は人間国宝香取正彦氏から寄贈されたものです。


大鳥神社

おしゃれなおうち

竹が育ったお宅

甘藷先生墓道
大鳥神社交差点を通り目黒寄生虫館の前を左折し南下して目黒不動の裏に出ます。


大日如来

お不動様の象徴

役行者
目黒不動尊では新型コロナ感染症のため行者様にすがることもできません。


仁王門

キハナショウブ

大黒天
韋駄天は山門に祀られることが多いそうです。目黒不動尊の山門は仁王門と呼ばれますが、仁王像を寄進したのは山手通りにある和菓子店玉川屋です。キハナショウブの先には三福堂があり、弁財天、恵比寿神、大黒天が祀られているので、その向かいの目黒不動境内に大黒様の石像があるのでしょうか。


石古坂


林試の森公園
林試の森公園西門の前が石古坂です。さらに南へ進むと武蔵小山駅近くに朝日地蔵尊があります。目黒、世田谷、品川の百姓が江戸へ野菜を売りにゆく際朝日に照らされながら石古坂を下ったことでしょう。目黒区のページから引用します。
目黒の坂 石古坂(いしこざか)
更新日:2014年2月3日

「目黒の坂」は、「月刊めぐろ」1972年3月号から1984年2月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒の坂 石古坂

下目黒三丁目と品川区小山台一丁目の境、都立林試の森公園正門前に「石古坂」というゆるやかな坂がある。
坂の名は、石ころの多い坂だから「石古坂」と、土地の人はいう。また、江戸の「府内場末其他沿革図書」の「中下目黒滝泉辺之図」には、この坂を石河坂」とあり、そこから転じて「イシコ坂」となったらしいともいわれている。
坂下で米穀商を営む林正雄さんは「以前、この坂は、かなりの急斜面で、大八車なんかが通る時には、ひどく汗を流していました。私も幼いころは、確か、1銭か2銭のだ賃をもらうために、坂下で大八車を待っては、後押しをしたものですよ」
坂下の目黒不動商店街付近には、昭和18年ごろまで、何軒もの芸者屋があり、稽古三味線の音がよく聞けたそうである。また、不動の門前には、待合や料理屋が軒を連らねていたという。
不動門前に比翼塚という石碑がある。これは以前、坂下にあったもので、その碑にまつわる平井権八と小紫の恋物語は、いろいろと脚色され、歌舞伎や人形浄瑠璃で知られ、参拝する男女も多かったという。俳優の長谷川一夫、大江美智子、萬屋錦之介の兄である中村時蔵など、比翼塚にまつわる芝居をする役者さんたちが、よく芝居の前に供養に訪れたという。



目黒七中

円融寺

円融寺釈迦堂

仁王門のわらじ

円融寺仁王門

参道の青梅
円融寺釈迦堂は23区内で最古の木造建築で区内で最初に国指定重要文化財となりました。円融寺の黒仁王についてお寺のページから引用します。
空前の黒仁王尊ブーム!
江戸初期から中期にかけて最盛期を迎えた法華寺(現、圓融寺)でしたが、幕府による不受不施派の弾圧の中で衰微し、元禄11年(1698年)、第19世日附上人が八丈島に流刑されることによって450年続いた日蓮宗法華寺の歴史は幕を閉じました。再び繁栄の時期がおとずれたのは、天台宗に改宗後のことで、それは黒仁王尊信仰の爆発的なブームによるものでした。
田山花袋の『東京の近郊』には「そこにある仁王尊は、昔は中々の流行佛で、寛政年間には、殆ど道もさりあへぬほど、參拜者があったといふ事が何かの本に書いてあったと覺えている」と書かれていますが、確かに『遊歴雑記』(※1)『過眼録』(※2)『新編武蔵風土記稿』(※3)『江戸名所図会』(※4)『武江年表』(※5)『飛鳥川』などの江戸時代の文献には、法華寺の仁王尊が庶民の篤い信仰をあつめていた様子が語られています。
それらの文献によると、最盛期はおよそ天明年間末から寛政年間末にいたる十二、三年間で、門前には茶店が立ち並び、境内では多くの人々が仁王尊にお線香を供えたり、背負わなければならないほどの大きな草鞋を奉納したりして、大変な賑わいぶりだったようです。
おそらく、物見遊山といわれる郊外散策や旅行が当時の庶民の娯楽の一つとして盛んになったことが、仁王尊の参詣と深く関連していると思われますが、なかには宿願成就を願って夜を徹して断食修行するような熱心な信者も多く、仁王門の周囲にはお籠(こも)り堂が数箇所設けられていたそうです。また、仁王尊の床下は、近年まで断食修行をする人が入れるようになっていました。
江戸から法華寺までの道のりは、昔の単位で二里半余りといわれますが、参詣するために最もよく用いられていたのは品川宿からのルートで、通称「碑文谷道」と呼ばれました。碑文谷道は、品川宿の南馬場、今の南品川から西にのびている野道で、平塚村(品川区平塚)より下丸子道(中原街道)を横切ると、武蔵の辻(品川区小山二丁目)に出ます。その角には名物の煤団子(すすだんご)を売る店があったので、別称、煤団子の辻ともいいました。この地には仁王尊繁栄期の寛政元年(1789年)に「右 不動尊 左 仁王尊」と刻まれた道標がたてられました。すなわち、目黒不動尊と碑文谷仁王尊の分岐点がちょうどこの辻だったのです。 この道標は昭和31年の道路改修工事のために僅かに移動され、左右の方向が逆になってしまいましたが、今もなお残されており、仁王尊の参拝者で賑わう当時の様子をしのばせてくれます。



立会川緑道


碑文谷八幡宮

碑文谷の由来となった碑文
円融寺の正面にはかつて立会川が流れており、そのどんつきに碑文谷八幡宮があります。区内最大の神社かもしれません。由来となった碑文は呑川から引き上げられました。


すずめのお宿の古民家は閉鎖中

ヒエンソウ



すずめのお宿緑地の筍

虫食いの葉っぱ
すずめのお宿で休憩をとりました。筍について目黒区のページから引用します。
歴史を訪ねて 目黒のタケノコ
更新日:2013年10月1日

「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒のタケノコ
「竹の秋」という言葉がある。春ともなれば、木という木、草という草が若葉を出すのに、竹は古い葉が黄ばみ始める。「竹の秋」は、だから春の季語である。
昭和の初めころまで、目黒には竹林があちこちにあった。わざわざ京都へ足を運ばなくても、居ながらにして竹林を渡る風の音を楽しめたわけである。もっとも、目黒の竹林は風流のために植えられたわけではない。農家にとって竹林は、タケノコを栽培するためのものであった。タケノコは重要な農産物だったのである。

目黒式タケノコ栽培法
目黒のタケノコ栽培の最盛期は大正時代。「太く、柔らかく、おいしい」と三拍子そろった「目黒のタケノコ」は、目黒式といわれる独特の栽培法によるものであった。目黒式は、地下茎を掘り起こして、深く掘った溝に埋め直し肥料を施す方法で、目黒の土質に合っていた。
タケノコの出盛りは4月下旬から5月上旬。このころになると、タケノコ栽培農家は、一家総出で、ときには人を雇って収穫した。柔らかいタケノコは、地上に出る前に抜かなければならない。そのために、竹やぶを竹ぼうきで掃き清め、地面のひび割れを探すのである。

「わたしはかけ出していって『あったよー』といってほそい竹の枝にめじるしの赤いきれのついているのをさしていきます。おとなたちが、それを堀りおこします。(中略)『でかいぞ、これはきょうの王様だ』といって兄ちゃんがもち上げたのは高さが二尺(60センチメートル)ぐらい下の方は兄ちゃんのからだぐらいの太さがありました。」(「目黒区郷土研究」269号「小さな文庫」より)

土を掘るにはタケノコヘラ、根元を切り離すにはタケノコノミという独特の農具を使った。収穫したタケノコは、仲買人の手で、神田や駒込などの青物市場へ運ばれていった。

明治初年における孟宗筍の生産地の分布
「東京府志料」によると、明治5年の農産物収入のうち、タケノコによる収入の割合は、碑文谷村で2割弱、衾村で1割弱。上目黒村・中目黒村・下目黒村でも多くはないが採れた。手のかかるタケノコ栽培は、すべての農家で行っていたわけではないので、タケノコ栽培農家にとっては、かなりの収入だったと思われる。「タケノコが採れたら」「タケノコまで待ってくれ」という「タケノコ勘定」という言葉が戦前まであったという。

「孝竹院釈筍翁居士」
そもそも「目黒のタケノコ」の祖は、江戸鉄砲洲の海運業者、山路勝孝であるという。薩摩の藩邸より孟宗竹を幾株か分けてもらって戸越村の彼の別荘地に植えたのが初めといわれている。一説には、薩摩から直接取り寄せたともいわれる。ときに、寛政元年(1789年)(寛永5年とも)のことである。
戸越村後地(現在の品川区小山一丁目、後地小学校そば)に、子孫が建てた孟宗筍栽培記念碑には、次の句が刻まれている。

「櫓も楫も 弥陀にまかせて 雪見哉」(釈竹翁)

ちなみに、法名は「孝竹院釈筍翁居士」とか。

名物も今は昔
土質に合った栽培法によって、タケノコ栽培は戸越村から碑文谷村、衾村などへ広がった。「日本産物誌」(明治6年、伊藤圭介著)の武蔵部には、練馬大根や千住のネギなどと並んで、目黒のタケノコがあげられている。
「目黒のタケノコ」の名を広めるにあたって一役買ったのは、目黒不動前の料亭であった。角伊勢かどいせ・内田屋・大黒屋などの店が、「名物筍飯」として客を呼び、正岡子規ら多くの文人墨客も賞味した。
「目黒のタケノコ」発祥の地である品川の竹林は、大正時代にその多くが宅地化され、代わって世田谷が生産額を増やすようになった。目黒の竹林も、関東大震災を機にだんだん切り開かれていき、その後には鉄道が敷かれ、家が建った。今では、すずめのお宿緑地公園などにわずかに残るだけとなった。「目黒のタケノコ」は忘れられようとしている。

「目黒なる 筍飯も 昔かな」(高浜虚子)



サレジオ教会

三善管理地

碑文谷公園

シャクナゲ
三善管理地は去年の台風で被害があったのか、うっそうとしていた木々が整理されています。樹木の多いこの場所からウグイスの声が聞こえてきました。
碑文谷公園でストレッチをしてこの日は解散しました。ウォーキング後にみんなでワイワイビールを飲む日常が、一日も早く戻ってきてくれることを願います。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


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【下見】勢揃坂

2020-05-05 13:49:18 | 東京都新宿区、渋谷区、港区、目黒区

4月8日、新宿花園神社近くの歯科医院へ行った後、気になっていた勢揃い坂や第十八回将軍お鷹狩りウォークの候補となるコースを下見しました。


玉川上水の碑

玉川上水
 玉川上水は幕府が江戸市中の拡大発展と人口の増加にともなう水不足を解消するために、承応二年(1653)から翌三年(1654)にかけて開削した水路である。
 上水は多摩川の羽村に堰を設けて取水し、ここ内藤新宿の水番所までの四十三キロメートルは掘割で、ここより江戸市中へは地下に石樋、木樋といった水道管を埋設して給水した。また途中三十余ヶ所で分水され、武蔵野台地の新田開発に利用された。
 工事は江戸の町人である庄右衛門(しょうえもん)、清右衛門(せいえもん)が請負い、川越藩主松平信綱が総奉行を、関東郡代伊奈忠治が水道奉行を命ぜられ、これを監督した。
 玉川上水の工事は、途中幾多の困難に遭遇したが、川越藩士、安松金右衛門の協力もあり、一年五ヶ月程という、短期間で完成した。
 掘削りによってでた土砂は掘割の両側に堤として積み上げ、桜並木などをつくり(小金井など)、当時の江戸の人々の行楽の場所となった。
   平成三十年三月   新宿区教育委員会



ハナニラ


内藤町けやき公園のけやき
 この公園にあるけやきは、幹の直径が1m以上もある区内でも有数の大木です。
 この木は、昭和51年に新宿区みどりの文化財(保護樹木)に指定され、長い間、木の所有者が大切に世話して来ました。また、この付近の自然環境は、新宿御苑のみどりと一体化し、この木も内藤町の住民に長く親しまれてきました。
 その後、平成16年、土地所有者が変わりけやきが失われる懸念が生じましたが、この街の良好な住環境を守ろうと活動する内藤町の住民の熱意と努力で、この木は現在の姿を保つこととなりました。
 そして、新宿区はこの土地を取得し、内藤町の住民の意見を取り入れ、新たにけやきをシンボルとした公園に整備しました。
 平成22年12月   新宿区



新宿御苑正門の大木

正門と新宿上空を飛ぶ旅客機
試験飛行が行われていましたが、三月末から新宿や渋谷の上空を羽田に着陸する飛行機が飛ぶようになりました。


外苑西通りのちょっと変わった建物

新築の大規模住宅と飛行機

ことり食堂のツタがからまるビル

大規模住宅
ジャパン・スポーツ・オリンピック・スクエアの隣に大規模住宅がほぼ完成間近でした。オリンピックスクエアからこの住宅わきを抜けることが出来そうで、将来のお鷹狩コースとして面白いかもしれません。


國學院高校勢揃坂門


勢揃坂
 神宮前二丁目2番
 ここのゆるい勾配の坂を 勢揃坂といい、渋谷区内に残っている古道のひとつです。
 後三年の役 -- 永保三年(1083)に八幡太郎義家が奥州征伐にむかうとき、ここで軍勢を揃えて出陣して行ったといわれ、この名が残されております。
 このとき従軍した武士のなかに、桓武平氏良文の嫡流にあたる秩父十郎武綱(渋谷氏等の祖)が参陣して、手柄をたてたという伝説があります。
 真偽についてはもちろんわかりませんが、区内に伝わる源氏に関する伝説のひとつとして注目されます。
            渋谷区教育委員会


今回下見をしたかった場所の一つで、すこやか歩こう会のコースに組み入れた後将来のお鷹狩りのルートとして考えています。


青山熊野神社

青山霊園

外人墓地
青山霊園内は以前お鷹狩りでルートに設定したことがあり、ルートにする場合は車が走るこの道ではなく一本東の郵便通りを設定します。今回距離を確認したところ長くなりすぎてしまうので、青山墓地は断念です。


コバンソウとスズメノエンドウ


青山の庚申塔
港区指定文化財 歴史資料 青山の庚申塔
 本庚申塔は、高さ103cm、最大幅94cm、最大厚17cm、安山岩(根府川石)で作成されています。石塔の形態は板状の「自然石形」を呈し、下部の一部は地中に埋まっています。銘文は正面に「庚申塔」と刻まれており、その下に花押がありますが、揮毫した人物は未詳です。その右側には「慶應元乙丑年」、左側には「五月大祥吉日」とあり、慶応元年(1865)五月に造立されたものであることがわかります。さらにその右側には、一部剥離していますが、「右 あをやま 内とうしん[宿] ほりのう[ち]」、左側には「左二十きおくみ屋「敷ヵ] 百人おくみ屋[敷ヵ] ぜんこ[うじ]」と刻まれており、この庚申塔が「右 青山・内藤新宿・堀之内」、「左 二十騎組屋敷・百人組屋敷・善光寺」の方向を示す道標の役割も果たしていたと考えられます。
 また、この地域では昭和初期まで庚申祭(庚申講)が行われていたと伝えられていますが、この庚申塔はそうした民間信仰が江戸時代に遡ることを示す貴重な資料です。
平成27年10月14日 港区教育委員会


根津美術館の道を美術館へ行かず青山霊園建山地区の脇の坂を下りて長谷寺へ向かうルートを確認してこの庚申塔を見つけました。


長谷寺(ちょうこくじ)

青山高樹町の由来
由来
 本町域は、かつての下渋谷村のうちであるが、徳川家康の入国直後から武家地となったものである。江戸府内中心部より遠い割合にはたいへん早い。すなわち現町域の大部分は丹南藩高木邸、南の一角は牛久藩山口邸の一部であって、高木氏賜邸は天正十八年(1590)中と推定されている。
 元禄十年(1697)には高木邸内一万坪を幕臣への給地のため上げ地とした。それでも広い屋敷で、この屋敷から切り出す薪は毎日七十駄におよんだほどである。
 現在の電車通りは当時屋敷内を北方の百人組屋敷より来る道であって、里俗に主水町(高木主水正による)と呼んでおり、また姓の方をとって高木町と呼ぶこともあった。明治五年七月、木の字を改めて高樹町という一町を起立した。
 主水町の俗称は明治になっても残り、そのあたり多少商店ができたが、だいたい閑静な住宅地となった。この町況は今日も変わりなく、区内でも代表的な邸宅街となっている。ただ電車通り沿いは商店などが並んでいる。
  港区史 上巻(昭和35年3月15日発行)より
   ※「電車通り」は現在の骨董通りのことです。



実践女子大学

ベルサール渋谷ファースト

新設された首都高下り渋谷入口
実践女子大学はいつも裏からしか見てないので撮ってみました。ベルサール渋谷ファーストは確定申告の相談会などが行われるのでどんな場所か見てみましたが、トイレを借りるのは難しそうな単なるオフィスビルです。


渋谷山東福寺

金王八幡宮

豊栄稲荷神社(とよさかいなりじんじゃ)
日本古来からある神社は訓読み、お寺は音読みと習っていたので「豊栄稲荷神社」は読めませんでした。金王は「こん」が訓読みで「のう(おう)」は音読みで、湯桶読みです。
今回のお鷹狩りでは変わりゆく渋谷を見てもらおうと思って、金王神社経由に挑戦です。


渋谷ブリッジ

シャクナゲ
東横線の線路跡地に建てられた渋谷ブリッジは鉄道に関連したデザインが多く用いられているのですが、天井に線路があることには気づきませんでした。

今年も楽しくお鷹狩りウォークを歩けることを祈るばかりです。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


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