目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

下馬太子堂三宿コース 約6.8km

2018-01-30 13:46:47 | ウォーキング
低い雲が垂れ込め、ときどき小雪がぱらつく寒い日のウォーキングにもかかわらず13名の参加がありました。


写真:祐天寺駅南改札
現在駅ビル建て替えのためこちらに集合していますが、改修が終われば元の改札集合となるでしょう。新しくできたこちらは改札前が東急ストアなので、こちらの改札がメインに運用されるのかもしれません。


写真:五本木児童遊園
こちらの公園をお借りしてウォーキング前のストレッチをします。私がこの公園を知るようになってから半世紀がたちますが、ずっと「上目黒五丁目公園」だと思っていました。この記事を書くにあたって、「あそこは上目黒五丁目ではないんじゃないか」と思って調べてみて、長年の勘違いに気が付きました。


写真:謡坂

写真:五本木一丁目

写真:公開歩道
改めて地図を見ると蛇崩川の南は上目黒二丁目と四丁目で、上目黒五丁目と五本木一丁目が一部川を隔てて隣接しています。五本木には親戚がいて、その家が五本木小学校の近くだったので、このあたりが五本木という認識があまりなかったのです。


写真:目黒・世田谷区境


写真:芦毛塚
区界は写真でいうと左側の道から出てきて、この名もなき道で隔てられるのですが芦毛塚はかろうじて目黒区に属しています。この名もなき道は鎌倉街道で渋谷村を通った街道は目切坂を下り、目黒川を宿山橋で渡り、小川坂を上りきり宿山にたどり着きます。現在野沢通りと呼ばれる道を三宿病院入り口で左に折れたところから上目黒と下馬曳沢の村境となり、現在の環七あたりまで南下していたものと思いますが、その先のルートはわかりません。
葦毛塚

源頼朝が、葦毛の馬にのって、この地を通ったとき、その馬が何かに驚いて沢に落ちこんで死んだという。
また、一説に鎌倉将軍の世、この地の領主北条左近太郎が仏経を持って出かけたが、その葦毛の乗馬が突然たおれたのでここに、埋めたともいう。
いずれにせよ、遠い昔から葦毛塚と呼ばれていたらしい。このあたりは古くから馬の放牧場であり、馬に関した地名や伝説が多い。

昭和五十三年三月

世田谷区教育委員会

芦毛塚は目黒区に属しているように見えるけど、世田谷区教育委員会が看板を立てた?よく見てみると、地域の歴史は面白いです。



写真:蛇崩川緑道

写真:冬バラ

写真:水槽も結氷

写真:駒繋公園
積雪はだいぶ溶けたもののところどころ残っており慎重に歩きました。このあたりでばらばらと雪が降り始め、ちょっと物悲しいウォーキングの予感が。。。
水槽の渡した板のねじくぎは、猫除けでしょうか?駒繋公園は蛇崩川が削った自然の傾斜を生かした造りがいいですね。





写真:駒繋神社
神社のページから引用します。
駒繋神社は、ご祭神 大国主命 をおまつりし、前九年の役に源義家公、頼義公が戦勝祈願をし、奥州藤原氏の征伐に際しては、源頼朝公が戦勝祈願をしたと伝えられる源氏ゆかりの神社です。
駒繋神社では、安産祈願、初宮詣、七五三詣、家内安全、厄除祈願をはじめ地鎮祭、結婚式等各種ご祈願祭を執り行っております。
特に、もともとの神社の名前が「子の神」であることから、多くの方が安産祈願や初宮詣(お宮参り)のご祈願で、お越しになっております。



写真:自動車修理工場

写真:駒留小学校
蛇崩川緑道を西へ向かいます。







写真:西澄寺
東京都指定有形文化財(建造物)
武家屋敷門
  所在地 世田谷区下馬2-11-16
  指 定 昭和39年4月28日
 大正末期、現在の港区芝5丁目にあった阿波徳島藩主蜂須賀家の中屋敷門を、西澄寺に移築し、山門として転用されている門です。切妻造の門の桁行は6間で、中央に2間の両開きの門扉があり、その左右脇に1間の片開きの潜戸を設け、門の内側方向に2間の袖壁が取り付けられています。門扉の両側には、1間突出した切妻造の桁行2間、梁間3間の出番所が配され、6畳の番所内の門内に面した側に式台が構えられています。
 この門は江戸時代末期に建築されたと推定されており、いわゆる両番所附石垣出屋根庇造と呼ばれる構造の門です。大名屋敷の表門については、幕府は貞享年間(1684-88)に、大名の家禄高を基準に家格を加味して、その形式・構造を定めています。この門は、蜂須賀家の中屋敷門ですが、25万石の大々名の家禄と家格に応じた門として建築されたものと考えられます。東京に残る数少ない武家屋敷門の一つとして、貴重なものです。
 平成22年3月 建設
    東京都教育委員会



写真:三軒茶屋栄通り商店街


写真:三軒茶屋交差点の道標

写真:キャロットタワー

写真:田中屋陶苑

写真:コブシ?
三軒茶屋の由来をピクシブ百科事典のページから引用します。
江戸時代には「太子堂村」だったが、神社・仏閣への参詣ブームで賑わった大山道(246号)と、登戸道(世田谷通り)の追分(分岐)付近に「信楽(後に石橋楼)」、「角屋」、「田中屋(「田中陶苑」として現存)」という三軒の茶屋が並び、「三軒茶屋」と呼ばれるようになった。




写真:教学院(目青不動)
門柱には教学院の方が大きく書いてありますが、通称だそうです。Wikipediaから引用します。
最勝寺(さいしょうじ)は東京都世田谷区太子堂にある天台宗の寺院。寛永寺の末寺の一つである。通称「教学院(きょうがくいん)」、正式名称は「竹園山最勝寺教学院」。「目青不動」の通称でも知られる。
五色不動についてもWikipediaから引用します。
五色不動は江戸五色不動とも呼ばれており、江戸幕府3代将軍・徳川家光が大僧正・天海の建言により江戸府内から5箇所の不動尊を選び、天下太平を祈願したことに由来するなどの伝説が存在する。史跡案内など多くの文献ではこのような説話に倣った由来が記述されているが、資料によっては伝説の内容にばらつきも見られる。
一方で五色不動を歴史的に研究したいくつかの報告によると、実際に「五色不動」という名称が登場するのは明治末または大正始めであり、江戸時代の史実とは考えにくいとしているが、伝説自体は江戸時代から伝わる噂話に原型が見られるという。
また名称を別とすれば個々の寺院や不動像自体は江戸時代(以前)からの歴史を持つとされる。特に目黒不動・目白不動・目赤不動については江戸時代の資料からもその名称が確認でき、江戸の名所として「三不動」の名で知られる。
このうち、目黒と目白は山手線の駅名ともなり、特に目黒は区名となっているため有名である。
なお五色不動は基本的に天台宗や真言宗の系統の寺院にあり、密教という点で共通しているが、不動明王に限らず明王は元来密教の仏像である。



写真:キャロットタワー
教学院の墓地越しの眺めです。


写真:弁天社


写真:出羽三山神社・鹽竈神社




写真:太子堂八幡宮

写真:ご神木の楠木
鹽竈神社と蛸の関係はわかりませんでした。それと並んで、八幡神社と蛙の関係もわかりません。いつもより一週間遅く訪れているので、梅の花の付き具合もいいのかな?神社のページから引用します。
八幡さまは、大分県宇佐の地に「私は、この国と皇室、国民全てを守るために現れた、誉田(ほんだ)天皇(応神天皇)広幡(ひろはた)・八幡麻呂(やはたまろ)である」(古墳時代)と告げられた神さまです。そこに鎮座したのが八幡神社の総本宮=宇佐神宮です。
応神天皇の時代、朝鮮半島との交流を盛んに行いました。そのため、多くの渡来人より、養蚕・機織・稲作の灌漑技術や、漢字などの進んだ文化が取り入られ、国力が発展・増大しました。
その応神天皇の御霊とされる八幡さまは、東大寺の大仏建立に「日本のすべての神様を率いてその大事業を成功させましょう」(奈良時代)と、大きな工業力(鋳造技術)を発揮しました。
そして仏教を信仰する人々よりは八幡大菩薩と仰がれ、民衆救済の神さまとしても信仰されました。平安時代には、新しい都の守護神(石清水八幡宮)となり、やがて源氏が氏神(先祖神)として、鎌倉時代には鶴岡八幡宮が建立され、幕府政治の要となりました。その後、産業・文化・武門の神として武家、庶民にますます篤く崇敬されてきました。
現在も、特に厄除、家内安全、交通安全、安産、商売繁盛、学業成就、五穀豊穣、殖産興業など、人々の苦難を救い、あらゆる願いに応える多くの御神徳を備えた神さまとして仰がれ、全国で最も広く八幡宮・八幡神社としておまつりされています。
八幡さまのお使いは、白鳩です。平和を守る武門の神の使いとしても、平和の象徴とされる鳩は誠にふさわしいものといえます。
平安時代後期にまつられたと伝えられる「太子堂八幡神社」は、世田谷の要所・三軒茶屋の緑豊かな杜の中に位置し、皆様に親しまれています。



写真:茶沢通りの歩行者天国

写真:茶沢通りにある石柱

写真:林芙美子旧居の看板
林芙美子旧居 太子堂三丁目29
 此の路地奥の二軒長屋は、林芙美子の不遇な時代の寓居です。その一軒には壺井繁治、栄夫婦が住み、若い頃の平林たい子も度々訪れました。芙美子の処女作「放浪記」にはこの頃の太子堂での生活の一こまが描かれています。壺井栄の「はたちの芙美子」にも当時の生活が記されています。芙美子のすぐれた文学性が磨かれた場所として文学史上、記念されるべき場所と言っていいでしょう。
 昭和四十七年三月 世田谷区教育委員会







写真:円泉寺


写真:太子堂


写真:庚申塔
円泉寺
聖王山法明院とよび、真言宗である。文禄五年(1597)に建てられ、開山は賢恵僧都である。本尊は不動明王立像及び二童子像である。また境内の太子堂には聖徳太子像がまつられ、太子堂の地名は、これにもとづいている。
世田谷教育界の恩人宮野芟平先生の碑がある。
先生は、明治3年郷学所がつくられてから、太子堂幼童学所、荏原学校となまえは変っても、引きつづき校長として郷土の教育につくした。この荏原学校は区内最初の小学校である。
昭和49年3月
世田谷区教育委員会

「荏原学校」が気になったので調べてみると、現在の世田谷区立若林小学校のようです。学校の沿革を抜粋します。
学校名 世田谷区立若林小学校

明治  4年4月 太子堂郷学所開校
    6年12月 第二中学校四番小学校荏原学校と名称変更
    7年1月 開校式(児童数90名)
    14年5月 東京府荏原尋常小学校と名称変更
    33年12月 校舎3棟焼失(円泉寺で授業)
大正  元年9月 第7代 上田 徳蔵 校長着任
昭和  7年10月 東京市荏原尋常小学校と名称変更
    16年4月 東京府東京市若林国民学校と名称変更
    18年6月 第12代 青木 林之助 校長着任
      7月 東京都若林国民学校と名称変更
    19年9月 新潟県柏崎市に集団疎開
    22年4月 東京都世田谷区立若林小学校と名称変更






写真:三宿の森公園
「三宿の森を育てる会」のページからこの場所の沿革を一部抜粋します。
【緑地の由来】
2004年4月1日に開園した三宿の森緑地は、緑の少ないこの地において8,000㎡という面積を持ち、樹齢百年に及ぶ大きな樹木と自然を大切に残すように設計された世田谷区立公園です。
1.屋敷の成立――敷根氏の時代    
 昭和の初年、雑木林と畑が広がるこの地を屋敷にしたのは敷根氏であるとされている。今の敷地よりずっと広く土地を求めて造園に着手し、二階建ての日本家屋を着工した。家屋は出来上がって昭和51年に5階建ての研修所宿舎建設のために取り壊されるまで、戦前の典型的日本家屋の優美な姿をとどめていた。事情はつまびらかでないが、敷根氏はここに住むことなく、中村氏が後を継いで屋敷としての完成を見る。
2.屋敷の完成――中村氏の時代
 敷根氏から屋敷を引き継いだ中村氏は大陸方面で、日産コンツェルンを作った有名な鮎川義介氏と共同で事業を営んでいたという。当主は事業の地である朝鮮に在って、子息夫妻が三宿に居住し、今に残る樹林や十三重の塔、石灯籠、石像や、日本家屋と共に取り壊された泉水など、屋敷を作り上げた。今は2棟のマンションが建つ一段下がった土地には使用人の住む家があったから、敷地は1倍半くらいはあったであろう。同夫妻はこの地で3人の令嬢に恵まれ、テニスコートを邸内に持ち、揃って乗馬を楽しむという優雅な生活であったという。戦争はこの一家にも過酷な運命をもたらす。朝鮮の事業は烏有に帰し、子息は戦地から帰ることはなかったのである。
3.法務省施設の時代――昭和50年まで
 終戦後はおそらく財産税物納のため国有地となり、法務省の施設となった。日本家屋は寮として使い、住宅不足時代のため職員の官舎が数棟建てられ、後には研修に召集される全国職員のための2階建て寄宿舎が設けられたが、いずれも木造であった。
  樹木は年を経て成長し、隣接の三宿神社と併せて高速道路からも目立つ三宿の森となっていった。なおこの時代のエピソードがある。昭和29年のいわゆる造船疑獄のとき、時の与党幹事長佐藤栄作氏が、約400米の距離にある北沢の自宅から着流し下駄履きで散歩と称して出かけ、張り込む記者の目をくらまし、ここで検察の取り調べを受けた。犬養法務大臣の指揮権発動で難を逃れた佐藤氏は、後に総理大臣となる。その後も重大事件があるたびに記者の張り込みが見られた。




写真:三宿神社
郷土の歴史が面白いと思っていろいろ調べるのですが、隣の世田谷区の情報はなかなか接する機会が無く、「多聞」という小学校があることは知っていても、その名の寺があったことは知りませんでした。ウォーキングの最終盤で訪れる三宿神社についてこれまであまり調べてきませんでしたが、なかなか興味深い歴史がありました。Wikipediaから三宿神社の歴史を引用します。
「多聞寺」の存在
かつてこの地には「多聞寺」という寺院が存在していた。多聞寺は、当地にあった「多聞寺城」(世田谷城の東の砦)の中核部であったといわれる。多聞寺城はまたの名を「三宿城」といい、文明年間(1469年-1486年)の頃に吉良氏が築いたもので、三宿村もこの時期に開かれたという説がある。
三宿村は北宿、本宿、南宿の3つの字に分かれていた。多聞寺の付近は「字北宿」に属していて、南北を北沢川と烏山川(烏山用水)によって刻まれた台地であり、台地の東の端で両河川は合流して目黒川となっている。
往古の本尊である毘沙門天は村人たちに深く尊崇されていた。『新編武蔵国風土記稿 巻之五十一 荏原郡之十三』では、「村ノ北ニアリ。曹洞宗。郡中世田ケ谷村勝国寺ノ末、清水山天王院ト号ス」と記されていて、勝国寺(世田谷四丁目27番4号に現存)の末寺であった。同じ『新編武蔵国風土記稿 巻之五十一 荏原郡之十三』に「イヅレノ頃カ火災ニ遭ヒ、開山・開基ナドモ詳ナラズト云」とあって、創建年などは不明である。

三宿神社の建立
多聞寺は江戸末期から明治期に廃寺となり、その跡地の一部を使って1885年(明治18年)に三宿神社が建立された。これは村の鎮守が必要になったための措置で、本殿の前に拝殿を新築して「三宿神社」と名付けたものであった。東京府に祭神を毘沙門天として申告したところ許可が下りず、改めて大物主命を祭神として申告しなおしたという。結局祭神は毘沙門天と倉稲魂命を祀ることになったという。当時の申告によれば、社務所は400坪余り、東京府までの距離2里15町(約10キロメートル)、総代4軒で所在地は三宿村字北宿379番地であった。
村の中心部は大山街道が通る字本宿と南宿付近であり、三宿神社が建てられた時期の字北宿付近に民家は1軒もなかった。神社前を流れる烏山用水沿いは田んぼが広がり、多聞寺橋付近には堰が設けられていた。近在の農民たちは、この堰に毎月1日と15日に餅を供えていたという。社殿は第2次世界大戦の戦災に遭って焼失したが、1949年(昭和24年)にある企業から社殿を譲り受けて再建した。その後社殿は再度1967年(昭和42年)に建築された。



写真:多聞寺橋
とは、読めませんねぇ!


写真:狸のレリーフ
Wikipediaの三宿神社のページにヒントがありました。引用します。
9月の例大祭で奉納される神楽の中に「たぬき囃子」がある。これは近在に住む父親思いの少年がある日けがをしたたぬきを助けたところ、そのたぬきの恩返しとして、境内裏手の丘から流れる湧水が少年の父親が患っていた病気を治す水に変じたという伝説にちなんだものといわれる。





写真:騎兵第一連隊の碑
池尻の騎兵山と言われた一角にあり、鉄製階段の入り口は閉まっていますが世田谷区に問い合わせをしたところ「入り口を開けて入ってください」とのことでした。
征清之役戦死者哀悼碑建設工ヂ竣ル 慈ニ其姓名ヲ勒シ 永ク後世ニ傳フ
明治二十九年六月三十日 騎兵第一聯隊長 秋山好古謹記



写真:騎兵山からの風景
ウォーキングの始めはどんよりとした曇り空で、途中バラバラと雪まで降ってきたのですが、終盤は暖かくなり青空を見ることも出来ました。


写真:目黒川緑道のカワヅザクラ

写真:目黒川緑道のロウバイ

写真:東邦大学大橋病院

写真:小鷺

写真:東京燃料林産
目黒川緑道を下り、東邦大学の新しい大橋病院の建物がいつの間にか出来上がっていました。燃料屋さんは年々薪の量が増えているように思います。ピザ釜用のまきは樹皮をはいだものを使うようです。こちらの前でストレッチをして解散となりました。

この後有志は中目黒まで行き、サイゼリヤでリーズナブル反省会でした。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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善福寺川公園コース 約6.6km

2018-01-22 13:28:26 | ウォーキング
この時期の定番になっているコースです。以前は環八から先、善福寺公園の遅野井(おそのい)の滝まで歩いていたのですが、この日のコースと比べると道が悪いというか楽しみが少ないので、最近は大宮八幡から環八までのコースだけを歩いています。


写真:西永福商店街



写真:理性寺
西永福駅に集合し、商店街の中ほどにある理性寺の門前をお借りしてストレッチをします。法華宗のお寺のようで、杉並区教育委員会が設置した案内を引用します。
当寺は、法華宗法真山理性寺といい、本尊は十界諸尊の曼荼羅です。
「御府内備考続編」によれば、当寺は承応3年(1654)、大久保越中守忠辰、忠陰兄弟が両親の忠当夫妻を開基として、その菩提のために創立したものです。
寺名は、夫妻の法名、法真院殿・理性院殿に因んで法真山理性寺としました。
創立にあたっては、内藤新宿四谷大木戸(現新宿区新宿1丁目付近)に、大久保家下屋敷の名義をもって草創し、後に老中久世大和守広之の許可により、境内地として使用することになったと伝えられています。
現在地に移転したのは大正3年です。
境内の左手には大黒殿があり、中には「火伏せの大黒天」と呼ばれる高さ役12cmの木彫りの小さな大黒天が安置されています。
この大黒天は、高祖日蓮の作と伝えられ、お経の「経」の字を形取っており、寛政6年(1794)御殿医木村検校によって奉納されたものといわれています。
「火伏せ」の由来については、当寺が新宿に在ったころ、近隣火災の折、大黒天が大団扇をもって現れ、類焼から守ったことによると言われております。
以後、火伏せの守り神として今も、甲子の日に「大黒天甲子祭」が行われています。
墓地には、戯作者伊庭可笑・幕府医官林恒斎・初代杵屋三五郎の墓等があります。(杉並区教育委員会掲示より)

空気が乾燥した日が続くので、火伏の神様はありがたいですね。


写真:方南通り

写真:夏みかん

写真:ちょっと変わった灯篭
商店街を出ると井の頭通りで、少し先で方南通りとの三差路になります。この夏ミカンはきれいで写真に撮りやすい高さにあるので、毎年撮っているように思います。動物が支えているような格好になっている灯篭はクロネコヤマトの配送センターの前にあるのですが、元は中華料理屋だった雰囲気です。



写真:南参道鳥居
灯篭の十六弁の菊の御紋が天皇家の菊花紋章と違って見えるのは、真ん中の丸が大きいせいかな?御由緒を神社のホームページから引用します。
大宮八幡宮の由緒と歴史
第70代・後冷泉天皇の天喜年中(1053~57)に、奥州に乱(前九年の役)が起き、この乱を鎮めよとの勅命をうけた鎮守府将軍・源頼義公の軍がこの大宮の地にさしかかると、大空には白雲が八条にたなびいて、あたかも源氏の白旗がひるがえるような光景となりました。源頼義公は、「これは八幡大神の御守護のしるしである」と喜ばれ、乱を鎮めた暁には必ずこの地に神社を構えることを誓って、武運を祈り出陣されました。そして奥州を平定して凱旋のおり、誓いの通り康平6年(1063)、京都の石清水八幡宮より御分霊をいただいて、ここに神社を建てました。これが当宮の創建の縁起であります。
また、その子八幡太郎義家公も後三年の役のあと、父にならい当宮の社殿を修築し、境内に千本の若松の苗を植えたと伝えられています。
かつては武蔵国三大宮の一つ「多摩の大宮」あるいは「武蔵国八幡一之宮」と称され、昭和44年に境内の北端につづく旧境内地から弥生時代の祭祀遺跡や族長の住居跡が発掘され、この地は太古からの聖域であったことが判明致しております。
今や大東京の重心「東京のへそ」として、神々の記憶と数々の日本の歴史へと誘う胎内回帰の出来る神秘的な場所とされております。

大宮八幡宮の信仰
八幡さまは応神天皇が主祭神です。
悠久の昔のこと。応神天皇は父君の仲哀天皇の御遺志をついで、母君の神功皇后とともに国づくりを進められました。兵乱を鎮め、また大陸文化を取り入れることに力をつくされました。その御威光の輝かしいことから、人々に力を授けたまう神として仰がれています。
また、大空に八条の白雲がたなびいて軍を勝利に導いたという縁起から、当宮には厄除開運の信仰があって、当宮の破魔矢を家庭や職場におまつりしますと、「禍(まが)つもの」を祓って繁栄をもたらすといわれています。
また、応神天皇は御母の胎内に有る時から御神威を発揮され、胎中天皇とたたえられましたが、こうした親子三神の固い絆から縁結び・安産・子育ての信仰があります。又、神功皇后が御子を宿されて出陣のとき、御腰の御帯に鎮懐石(ちんかいいし)を結び陣痛をおさえて大陸に渡られ、目的を果たされ、北九州に帰還。無事御子をお産みになったところが宇美(うみ)といわれている。
その故事から当宮では戌の日には安産祈願に詣でる人が多くなっております。
また、御鎮座950年には「子守神功皇后の図」扁額も奉され、皇后は赤ちゃんの応神天皇をお抱きになっている慈悲深い母子図であり、傍らには黒雲(厄)を振り払い、お二人をお守りする武内宿禰の姿も描かれています。
母子二神の深い情愛と絆が見事に表され、子育て厄除け八幡に相応しい扁額であります。当宮ではこの故事に因み、安産祈願をした腹帯(岩田帯)を「大宮八幡息長帯(おきながおび)」と名付け、お生まれになるお子様とお母様に延命長寿と幸運が授かるように祈念して調製しております。
さらに、神功皇后が大陸にわたられるときに御神助をいただいたという縁故から、交通安全の信仰もあります。



写真:大宮幼稚園

写真:車御祓所
幼稚園の壁画の雄鶏や、看板脇の白い鳩も何かいわれがあるのでしょうね。鶏は朝を告げる神の使いなので明治になるまで鶏肉も鶏卵も食さなかったという話を聞いたことがあるので、神の使いと平和の象徴という意味かもしれません。車御祓所の意味は御縁起にありましたね。


写真:左の大絵馬

写真:神門

写真:右の大絵馬
この大絵馬を撮った時点では、戌年の絵馬だと思っていました。左は子育て、右は厄除けです。



写真:安産祈願


写真:初宮参り

写真:子育て厄除け

写真:学業成就

写真:武蔵国八幡一之宮

写真:アンパンマン
安産祈願の方は見た目ではわかりませんが、初宮参りの方々は多く見かけました。学業成就となると、「天神さまもあったのだっけ?」と少し疑問もわいてきますが、商売熱心だからこそ多くの参拝客が訪れるのでしょうから、いいことです。アンパンマンまで用意して、子供を飽きさせない演出ですね。「武蔵国八幡一之宮」は風祭竜二さんの切り絵作品だそうです。武蔵一之宮は大國魂神社で、武蔵八幡一之宮は大宮八幡ということですね。
「東京のへそ」と言われて今まで何となく納得していましたが、国分寺には東京の重心という場所があり、東京都の形を切り出してその重心になるとのこと。大宮八幡宮が意味する「へそ」は人口重心で、二十三区に住む人が多いので重心が東にずれるということのようです。
大絵馬の犬は戌年だからなのか、もしくは安産の神様としていつも犬が飾られているのかどちらも考えられます。来年確認してみましょう、覚えていたら。


写真:十月桜

写真:参道の手すり

写真:表参道大鳥居
明治神宮は拝殿が南向きで南参道が表参道となりますが、大宮八幡宮は東向き。東参道が表参道で、堀ノ内から八幡通りがあり、一直線に大宮八幡宮拝殿へ向かっています。場所がないので仕方がないのですが、表参道を来宮者向けの駐車場にしてしまっているところがちょっと残念です。
波型の手すりは日本ではすでにおなじみですが、考えた人はすごいなぁと感心しています。先日外国人ゲストに説明しようとして、うまい英語が出てこなかったので、次回までに練習しておきます。


写真:善福寺川

写真:和田堀調節池
善福寺川はこの先杉並区和田で神田川と合流します。我々のウォーキングは反対の上流へ向かいます。善福寺川の歴史も神田川同様洪水との戦いで、野球場クラスの調節池がいくつも作られ、それでも足りなくて環状七号線の地下に巨大な調節池を作り集中豪雨に備えています。



写真:和田堀池のかいぼり
カワセミが飛来することで有名なこの池もかいぼり中でした。しかし「和田堀池」とは「堀」なのか「池」なのか?
かつて「和田堀之内」という大字があり堀之内の堀のようです。妙法寺の寺町として堀で囲まれていた場所が堀之内なのかなぁ?


写真:桜の欄干

写真:板がついたような枝

写真:梅林
このあたり、川の周囲は公園になっており、自転車の通行が多いものの気持ちの良いウォーキングコースです。


写真:尾崎橋
杉並区成田西と成田東にかかる尾崎橋です。
上流に向って左側の台地が尾崎と呼ばれています。「おさき」とは、突き出した台地の先端(小崎)を指す古い地名で、発掘された石器や土器また住居址からみて、この台地には約8,000年前から人が住んでいたことが知られます。またこの地名に付会して「源頼義が奥州征伐のため当地を通過した際、源氏の白幡のような瑞雲があらわれ、これが因縁で大宮八幡宮を勧請することになったが、その白幡の見えたあたりを白幡(この付近)、尾のあたりを尾崎と名付けた」(大宮八幡宮縁起)との伝説があります。
このあたりの風景は、五日市街道を通って小金井の桜見物に出かけた江戸の文人たちの随筆にも書かれており、辻知篤の享和3年(1803)の文には次の様に記されています。
「馬橋村のなかばより左におれて、山畑のかたへのほそき道をゆく。」「つづらおりめいたる坂をくだりて田面の畦をゆく。田の中に小河ありて橋をわたる。これを尾崎橋という。」
 平成9年3月
 杉並区教育委員会



写真:善福寺川桜並木
桜の季節はきれいでしょうね。


写真:サザンカ

写真:善福寺川
地図で見るとよくわかるのですが、いい具合に蛇行しながら流れています。




写真:調節地工事
ここでも新たな調節地の工事が行われ、もう四年間もここを通ることが出来ません。平成30年3月終了予定ということで、次回はこの柵もなくなっていることでしょう。調節地は地下に作られるようなので、来年工事をしていたことも気づかずに通り過ぎてしまうかもしれませんね。


写真:スイセン

写真:庭の大根畑


写真:大谷戸橋付近
善福寺川公園から出てしまうと遊歩道が狭くなり、民家のお庭が公園とは違った景色を見せてくれます。大谷戸橋付近で南へ向かう暗渠を見つけました。「大谷戸」という橋の名前と合わせて「川が合流する低湿地だったのだろう」と想像して調べてみると、写真に撮った暗渠は水路だったもので支流ではないそうです。西側から松庵川が合流しているのですが、この川は大正時代に人工的に作られたものでした。松庵川についてWikipediaから引用してみましょう。
松庵川(しょうあんがわ)とは、東京都を流れる河川であり、荒川水系善福寺川の支流の通称である。大部分が東京都杉並区内であり、暗渠化されている。
荒川水系?意味が分からなかったのですが、善福寺川は中野富士見町の地下鉄車庫の脇で神田川に合流し、両国橋で隅田川に注ぎこみます。隅田川は荒川の元本流(江戸時代の河川工事により荒川本流となり、大正時代の河川工事により荒川放水路が出来てそちらが荒川と呼ばれるようになった)なので「荒川水系」と納得しました。


写真:カモ

写真:コサギ

写真:カワセミ

写真:夏みかん

写真:歩道を遮る大木
上流に行き堤外地がなくなり川幅が広くなると、流れが穏やかになり水草が増え多くの野鳥を見ることが出来ます。カワセミを見つけるときはだいたい飛んでいる羽の青色に気づくことが多いのですが、この日は色ではなくスピードと大きさでカワセミだと確信しました。とまったあたりをよく観察し対岸に見つけたのですが、コンデジズームの最高倍率で撮ったものの、目を凝らさないとカワセミと識別できませんね。


写真:忍川上橋から環八方面


写真:与謝野晶子と鉄幹
本日のウォーキングはこちらで終了です。荻窪川南共栄会商店街の与謝野晶子・鉄幹が見守る小さな公園をお借りしてストレッチをして解散となりました。

有志九名は荻窪駅から新宿に出てライオン会館二階のアイリッシュパブ・ダブリナーズで反省会。三角くじを引くことが出来るエビスビールを飲んで、ドリンク券19枚ゲットの荒稼ぎでした。大宮八幡様のご利益でしょうか?


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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とことん烏山川コース水無川支流 約7.3km

2018-01-15 18:17:45 | ウォーキング
烏山川をさかのぼるシリーズは、前回水源の一つ高源院の「烏山の鴨池(弁天池)」に到着しましたが、今回は芦花公園あたりで合流している支流「水無川」を遡り、このシリーズの最終回になります。集合地点は前回同様京王線八幡山駅です。


写真:名もなき支流跡
改札前で集合なのですが、人数が多くなり通行の邪魔になりそうなので、先に近くの公園に移動してもらい、合流後ストレッチをしてウォーキング開始です。それなりの調べ方をすればこの地域での呼ばれ方がわかるのでしょうが、見つからないので「名もなき支流」です。八幡山駅付近で杉並区と世田谷区の区界が複雑に入り組んでいるのは、この支流が地域を分けていたということなのでしょう。



写真:都営八幡山アパート

写真:環八通り
ポケモントレーナーでしたっけ?以前はよく見たけれど最近では珍しくなりました。


写真:芦花公園


写真:八幡神社

写真:芦花公園
八幡山駅と芦花公園駅は京王線の隣の駅ですが、由来となった粕谷の八幡様は芦花公園と隣接しています。







写真:蘆花恒春園
徳富蘆花が暮らした茅葺の家が、都立公園として奇麗に保存されています。ガラスなども古いものに見えますが、きれいに磨き込まれています。


写真:世田谷自動車学校とガスタンク
教習所脇のこの道路が一番低くなっているので、この場所を水無川が流れていたものと思われますが、このあたりにはそれをうかがわせるようなものは見当たりません。


写真:水無川暗渠
このあたりではまだ「水無川」の表記はなく「水際の散歩道」と書いた看板があるだけです。ここからは暗渠が続き、とても分かりやすいルートとなっています。


写真:水無川の説明
現在は自転車道になっているこの川は、古来より水無川と呼ばれ、旧烏山村と旧給田村の境を概ね南東方向に流れ下り、旧粕谷村を経て旧船橋村に入ると、現在の千歳清掃工場付近で、高源院(北烏山四丁目)鴨池等を水源とする本来の烏山川(本流)に合流していました。
この区間は、河川法上の名称は烏山川ですが、もともと烏山川(本流)とは別の支川であり、今も地元では水無川と愛称されています。
昔、水無川沿いに帯状に広がっていた水田は、水無田圃とよばれ、江戸時代の延宝2年(1674年)や元禄10年(1697年)調整の武蔵国烏山村検地帳に北水無、南水無と記載され、現在も橋やバス停の名称に水無の文字を留めています。
名の由来は、旧烏山字出井向(現北烏山八丁目付近)や旧北野村(現三鷹市北野)の湧水と天水を水源としていたので、雨期以外は流れが細り、いつしか「水(の)無(い)川」と呼ばれるようになったようです。
後に延享2年(1745年)に、玉川上水(1654年開削)に牟礼分水が開削され、牟礼や北野の水田を灌漑した後、水無川に流れ落ちるようになりましたが、分水は稲作期のみの通水で安定した水源ではありませんでした。
時は下り、昭和39年河川法改正の際、水無川は「2級河川烏山川」(世田谷区北烏山~池尻)の一部として公示されました。この時より、河川行政上は水無川の名が消えて烏山川と公称される一方、合流点以北の本来の烏山川(本流)は、無名の普通河川になるという捻れが生じることとなりました。
昭和50年代以降、下水道整備が急速に進歩する中で、水無川の姿は暗渠へと大きく変貌し、かつて水無川という名の川であったことを知らない人も増えてきました。
平成19年5月、1900余筆の署名を添えた水無川の名の復活を求める要望書が、烏山を愛する郷土史研究者有志の方々から東京都及び世田谷区に提出されました。
これを受け、広く水無川の名とその歴史を後世に伝えるため、この看板を設置することにしたものです。
  平成22年3月
    烏山給田文化財保存会
    世田谷区土木事業担当部




写真:暗渠が京王線にぶつかり途切れる
このあたりの京王線は高架化が予定されているようで、その際には暗渠がつながることと、この先自転車置き場になっている暗渠が遊歩道として復活することを期待します。


写真:首なし地蔵
水無川と旧甲州街道が交差する地点なので、このように石仏があるのでしょう。首のないお地蔵さんはかわいそうですね。




写真:甲州街道横断
甲州街道を横断すると畑が目立ってきます。


写真:ヒイラギナンテン

写真:中央自動車道
中央自動車道の下も何か工事をしていますが、水無川暗渠をつなげてほしいものです。このあたりが世田谷区と三鷹市の境になります。


写真:ミツマタ
意図したところでピントを合わすことが出来なかったのですが、ミツマタの季節になったのだなぁということで載せておきます。




写真:中川遊歩道
世田谷区では水無川だったのですが、三鷹市では中川に名前が変わりました。車止めや、街灯のデザインも変わりました。世田谷区の公園づくりもセンスを感じますが、三鷹市の遊歩道もおしゃれですね。


写真:畑
この畑の先で東八道路の“三鷹台団地南口”交差点でこの遊歩道が終わっている感じで、すこやか歩こう会の活動も、ここから最寄りの久我山駅に向かうルートで設定しました。地図で見ると三鷹台団地の中に暗渠らしきものがあるので、機会があれば確認に行ってみようと思います。


写真:東八道路未開通部分
中央高速の下を通る道路から富士見ヶ丘あたりで分岐して玉川上水沿いを通り、人見街道をかすめて中本宿通りあたりで開通している東八道路と接続するようです。週末のこのあたりの渋滞は嫌だったけど、車にあまり乗らなくなった今となっては玉川上水に残された自然の方が貴重に感じます。


写真:神田川
久我山駅近くの宮下公園をお借りして〆のストレッチをして、解散となりました。思ったほど寒くなくて、青空の元、気持ちの良いウォーキングでした。

その後渋谷へ移動し、有志九名でマークシティーのライオンへ。井の頭線ホームからアベニュー口(マークシティーのライオンの隣にある改札)への登り階段を「天国への階段」と称し、あの曲を口ずさみながら登りました。その後天国、ではなくライオンでのどを潤し、やっぱりそこは天国でした。


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目黒七福神コース 約7.0km

2018-01-08 10:07:45 | ウォーキング
新年最初のウォーキングは恒例の「江戸最初山手七福神めぐり」です。天気に恵まれ25名の参加がありました。昨年も人が多いと感じたのですが、今年はそれを上回る人出でした。とくに板橋史談会主催の七福神巡りに参加された方があちらこちらで見受けられ、200人くらいの方がいるのではないかというほどでした。


写真:集合場所の大鳥神社
下目黒の大鳥神社に集合し、境内をお借りしてストレッチをしてスタートしました。




写真:蟠龍寺(弁財天)

写真:如意輪観音像

写真:石仏群
山手通りを南へ向かうと浄土宗の蟠龍寺があります。石仏は弁財天かと思って撮ったのですが、六観音の一つ如意輪観音像のようです。これらについての説明は「awesom-o!」さんのブログがわかりやすかったので、引用します。
六観音菩薩の特徴

真言系では聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝観音を六観音と称し、天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。六観音は六道輪廻(ろ くどうりんね、あらゆる生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)の思想に基づき、六種の観音が六道に迷う衆生を救うという考えから生まれたもの で、地獄道-千手観音聖観音、餓鬼道-聖観音、畜生道-馬頭観音、修羅道-十一面観音、人道-准胝観音、天道-如意輪観音という組み合わせになっている。

1.聖観音・餓鬼道
餓鬼道は、飢えから火や糞までも食べさせられる大変なところです。
その世界にあった人を助ける観音は聖観音です。聖観音はすべての観音菩薩の基本で、慈悲の心であらゆる衆生の悩みと苦しみを救い楽を与える菩薩と説かれています。やがて、6,7世紀になると、十一面観音や千手観音など観音思想の展開に伴ってさまざまな観音が出現すると、それらと区別するため聖観音(正観音)と称するようになりました。したがって、日本においてもこの観音像は非常に多く、信仰も各時代を通じて広く行われています。
聖観音像の基本的な姿は頭に宝冠をいただき、体には天衣をまとい、耳飾りや胸飾り・腕輪などの美しい装具をつけて、左手に蕾の蓮華を持ち、右手の指先でそ の花びらを開かせようとする形が多いです。蕾の蓮華は容易に悟ることができない人々の心を、右手の先指はそれを開かせようとする仏心を意味しています。

2.千手観音・地獄道
地獄道は、最も苦しみの多い世界で、串刺し(食物を串に刺すこと)にされたりして罰を受ける人々が苦しみから雷のように大声で泣き叫ぶ世界です。
地獄に落ちた者を済度する観音は千手観音です。詳しくは千手千眼観世音菩薩などとも称する。
千手観音は1000本を持つほかに、頭の上に11面の化仏をいただき、本面に三眼を表し,掌のそれぞれに一眼ずつを表す。そして、それぞれの手には、救済の力を示すものとして、日・月・輪宝・宝珠・弓などを持ちます。
その姿を造形化する場合は、1000個の眼と1000本の手を表するのが、42臂につくることも多いです。これは中央の2臂を除く40本の手が1手につき25の衆生を救うと考えるからで、40に25を乗じて1000となる。
1000本の手は多くの人々に救済の手を差し伸べる慈悲を表し、1000個の眼は人々を教え導く知を表すとされる。

3.馬頭観音・畜生道
畜生道は、ペットなら飼ってもらえるのでまだ良いが、牛馬ならこき使われたり牛肉にされたり挽肉にされたりする動物の世界です。
他の観音が女性的で穏やかな表情で表されるのに対し、馬頭観音のみは恐ろしい忿怒と言う相に表現されます。
像容は前述のような忿怒相で体の色は赤、頭上に白馬頭を戴き、三面三目八臂(額に縦に一目を有する)とする像が多い。一面二臂、一面四臂、三面二臂、三面六臂、四面八臂の像容も存在する。立像が多いが、坐像も散見される。頭上に馬頭 を戴き、胸前で馬の口を模した「馬頭印」という印相を示す。
意味:一切の魔や煩悩をうち伏せる働きをするとされますが,これは馬が周囲の草をむさぼるように,人間の煩悩を食べ尽くして救済するということのようです。

4.十一面観音・修羅道
修羅道は、明けても暮れても人をいたみつけ、また人から傷つけられる生傷(なまきず)の絶えない世界です。
十一面観音は頭部に小さな十一の面相がつけられているので、こう呼ばれます。十一面の配置は多くの場合,正面の三面は穏やかな慈悲の菩薩相。左の三面が恐ろしい怒りを現わした瞋怒相。右の三面は一見菩薩相に似ていて、しかし上方に牙 をむき出している白牙上出相。後部の一面は大笑している大笑相。そして頭頂には正面を向いて、如来相がつけられている。
左手に水瓶を持ち、右手は前に向けて開く施無異手の二臂(二本の腕)像が多いが密教の経典には四臂や八臂の像も説かれる。
十一面の意味は人々のさまざまな苦難に対応するため、すべての方向に顔を向けます。

5.不空羂索観音・人間道
人間道は、人間が住む世界で楽と苦がある世界。今、私たちが生を受けた人間社会です。
像容は、経典には様々な姿が説かれるが、いずれも多臂(多くの腕)を持ち、シカの毛皮を身にまとうのが特徴である。この「野獣の毛皮をまとう」という点でヒンドゥー教のシヴァ信仰と関係があります。日本では一面三目八臂(額に縦に一目を有する)とする像容が通例で、立像、坐像ともにある。胸の前で二手が合掌し、二手は与願印を結ぶ。その他の四手には、羂索や蓮華などを持す。
意味:羂索は鳥や魚を捕らえる網(あみ)や綱(つな)です。つまり、観音の大慈悲のあみで煩悩の世界で苦難するすべての人々をもらさず(不空)救いとるのです。

6.如意輪観音・天界道
天界道は、楽しみが多く寿命の長い天人の世界ですが、まだ煩悩が残っているので、いつか苦しみがやってきます。
如意輪観音像は、原則として全て坐像または半跏趺座(はんかふざ・片足を他の足のももの上に組んで座ること)で、立像はまず見かけません。片膝(かたひざ)を立てて座る六臂の像が多いが、これとは全く像容の異なる二臂の半跏像もある。六臂像は6本の手のうちの2本に、如意宝珠と法輪とを持っている。
意味:如意とは如意宝珠、輪とは法輪の略で、如意宝珠、六道の衆生の苦を抜き、世間・出世間の利益を与えることを本意とする。如意宝珠とは全ての願いを叶えるものであり、法輪は元来古代インドの武器であった輪が転じて、煩悩を破壊する仏法の象徴となったものである。六観音の役割では天上界を摂化するという。



写真:松雲羅漢像
やけに現代彫刻風の仏像だなぁと思って撮ったのですが、松雲羅漢は五百羅漢寺の開祖なので、仏像ではないのですね。



写真:不動尊参道
松雲羅漢像で右に曲がり五百羅漢寺の前を通ると早いのですが、新年なのでさらに南下して参道を通り目黒不動へ向かいます。



写真:蛸薬師成就院

写真:お静地蔵尊

写真:庚申塔
途中蛸薬師にお参りします。由来を成就院のホームページから引用します。
天台宗の宗祖、比叡山開山伝教大師最澄の高弟、慈覚大師円仁は栃木県壬生町生まれ、幼くして伝教大師をしたって比叡山に登り、学問修行に励まれました。
承和5年(832)唐に渡り、同14年帰国されるまでいろいろと苦学して、唐各地をまわり、たくさんの仏法を伝えて帰国されました(この時の旅行記が有名な「入唐求法巡礼行記」です。この本は先年、米国の元駐日大使ライシャワー氏が研究し、英訳出版されました。)大師は若いときから眼病を患い、40歳のとき、自ら薬師さまの小像を刻み、御入唐の時もこれを肌身につけて行かれましたが、お帰りの海路、波風が荒れましたので、その御持仏を海神に献じて、危急をのがれ、無事に筑紫の港に帰り着かれました。その後大師、諸国巡化のみぎり、肥前の松浦に行かれますと海上に光明を放ち、さきに海神にささげられたお薬師さまのお像が、蛸にのって浮かんでおられました。大師は随喜の涙にむせび給い、その後東国をめぐり天安2年(858)目黒の地に来られました時、諸病平癒のためとて、さきに松浦にて拝み奉った尊容をそのままに模して、一刀三礼、霊木にきざみ、護持の小像をその胎内に秘仏として納め、蛸薬師如来とたたえまつられました。かくして本尊の殊勝の12大願による福徳威力、信心の人は、心願ことごとく成就し、除災長寿の利益あまねく千年のいまに至るまで、弘く信仰されてきました。


お静地蔵尊についても成就院のホームページから引用します。
この石仏像は、徳川二代将軍秀忠公の側室 お静の方の発願で奉納されたものです。お静は江戸城大奥にあがり将軍の寵愛を受け「お腹さま」となることを願い、三体の観音像を納め奉り、その素願かない慶長16年(1611)に男子「幸松麿」が授かります。その後、秀忠公正室、浅井崇源院の威勢をを畏れながらもその恙ないご成育を祈り3体の地蔵を刻み納められます。そして再び願いが叶い、また家康公の側室見性院殿(武田信玄公の娘)の庇護もあり、保科正光公の養子となり、元服後、保科正之公となります。
 元和年間、三代将軍家光公は、目黒で鷹狩のみちすがら、当山に参拝され、瞬興和尚(中興第15世)とのご法談の折、正之公との浅からぬ縁を知り、それにより寛永8年、正之公は信州高遠城主となります。お静は、大願成就の御礼として、阿弥陀如来像を納め奉りました。
 正之公は後に山形城主、さらに正保元年会津藩二十三万石の城主となり、会津松平家の祖なります。また家光公の命により四代将軍家綱公の後見人として、幕政に力を注ぎ、善政を施されました。
 お静地蔵はその由来により、古くから縁結び・子宝・子育て・出世・福徳・開運を願う人々の信仰を集めてこられました。


ここにも庚申塔がありますが、目黒区の庚申塔案内にここは載っていません。目黒不動尊周辺にはまだ数多くの庚申塔があるようです。



写真:瀧泉寺(目黒不動:恵比寿)

写真:増長天と大日如来
目黒不動の縁起を瀧泉寺のホームページから引用します。
当山の開基は、今から一千百余年前の平安時代(八〇八)にさかのぼります。十五歳の慈覚大師・円仁(後の天台座主第三祖)が、師の広智阿闍梨に伴われて、故郷の下野国(今の栃木県)から比叡山の伝教大師・最澄のもとへ向かう途中、目黒の地に立ち寄りました。
 その夜の夢中、面色青黒く、右手に降魔の剣を提げ、左手に縛の縄を持ち、とても恐ろしい形相をした神人が枕の上に立ち現れて『我、この地に迹を垂れ、魔を伏し、国を鎮めんと思うなり。来って我を渇仰せん者には、諸々の願ひを成就させん』と告げ、夢覚めた後その尊容を黙想し自ら、像を彫刻して安置したのに創まります。(ご尊像は秘仏として十二年に一度、酉年にご開帳されます)
 その後、大師は唐(今の中国)の長安にある青竜寺の不動明王を拝し、先の神人がこの明王であると分かり、帰朝して堂宇を建立します。棟札に『大聖不動明王心身安養咒願成就瀧泉長久』と認め、この「瀧泉」をもって寺号と成し、山号は清和の御代に「泰叡」の勅額を賜り、泰叡山と称しました。
 
 関東最古の不動霊場として、熊本の木原不動尊、千葉の成田不動尊と併せて日本三大不動の一つに上げられます。
 
 また、堂宇建立の敷地を定めるに当たり、大師が所持の法具「独鈷」を投じた浄地より湧出した「独鈷の瀧」の流れは、数十日間の炎天旱魃が続いても涸れることなく、不動行者の洗心浄魂の場として、今日に至るまで滔々と漲り落ちています。
 
 江戸時代には、徳川三代将軍家光がこの地で鷹狩りををした際、その愛鷹が行方知れずになり自ら不動尊の前に額ずき祈願を籠めました。すると、忽ち鷹が本堂前の松樹(鷹居の松)に飛び帰ってきたので家光公はその威力を尊信し、諸堂末寺等併せて五十三棟に及ぶ大伽藍の復興を成し遂げました。その伽藍は『目黒御殿』と称されるほど華麗を極めました。(広重の「江戸名所図会」に詳しい)
 
 かくして五色不動(目黒・目白・目赤・目黄・目青)のひとつとして江戸城守護、江戸城五方の方難除け、江戸より発する五街道の守護に当てられ、江戸随一の名所となりました。
 明治時代になると西郷隆盛や東郷元帥等が篤い信仰を寄せられ、祈願に訪れております。
※境内裏山一帯は『目黒不動遺跡』として縄文・弥生時代の住居跡、土器等が、発見されています。さつまいもの栽培を広めた食料の恩人、青木昆陽先生は蘭学者・文化人としても日本社会に貢献し、目黒の土地を愛して、自ら『甘藷先生墓』と書きました。そのお墓が今は国の史跡となっております。


瀧泉寺のご本尊は不動明王で、本殿の裏に大日如来像があることの意味が理解できなかったのですが、不動明王は大日如来の化身なのです。明王を天部と同じように守護神だと思っていたのですが間違いでした。大日如来像は四天王(持国天 - 東、増長天 - 南、広目天 - 西、多聞天 - 北)に守られています。


写真:山手通り
中央環状線山手トンネル完成後、山手通りの整備が着々と進められています。


写真:太鼓橋

写真:雅叙園の入り口
太鼓橋についてWikipediaから引用します。
1769年(明和6年)に完成した。建設された当時としては珍しい石造りであった。長さ8間3尺(約15.3メートル)、幅2間(約3.6メートル)であり、名前の通りいわゆる「太鼓橋」の形状をしていた。
斎藤月岑が『江戸名所図会』(第三巻、1834年)に選び、歌川広重が『江戸名所百景』(1857年)にも描いた。周辺には目黒不動や行人坂、千代ヶ崎(上大崎村千代ヶ崎、現在の品川区上大崎3丁目)等の名所が多かった。
太鼓橋を造った人物には諸説あり、八百屋お七の恋人の吉三郎が出家した西運上人だったという伝説がある。修行中に江戸の民衆から寄進を集めて太鼓橋を造ったという。橋の東側にあった大円寺には吉三の伝説が書かれた標識があったほか、旧太鼓橋に使用された石材が置かれてある。ほかにも、木喰上人(木食養阿)が1700年代の始めに作り始め、江戸・八丁堀の町人が資金を出し合い、完成させたという説がある。






写真:大圓寺(大黒天)

写真:七福神

写真:五百羅漢(大火犠牲者供養の羅漢像)

写真:とろけ地蔵尊
大圓寺について天台宗東京教区のホームページから引用します。
目黒駅西口を下りると急な坂行人坂があり、坂の途中に大円寺がある。この坂は江戸市中から目黒不動尊への参詣路であった。行人坂の名は、大円寺を拠点にする修験道の行者が、この坂道を往来したことによる。寺伝では、寛永元年(1624)出羽湯殿山の修験僧大海法印が大日如来を本尊として道場を開いたのが始まりという。
明和9年(1772)寺より火を発し、江戸市中628町に延焼した。振袖火事、車町火事と並ぶ江戸三大火事の一つになり、行人坂火事として安永元年と年号も改められた。幕末になって薩摩藩島津氏の菩提寺として再興された。門を入った左手にある五百羅漢の石像(都有形)は、この大火の犠牲者供養のために当時につくられたものと伝える。
境内左側釈迦堂の本尊釈迦如来立像(国重文)は、鎌倉初期の清涼寺式生身の釈迦像であり、胎内に五臓六腑がおさめられている。正面本堂には、江戸城裏鬼門にあたる為徳川家康をモデルに大黒天を祭る。山手七福神の一つで、今日でも参詣者を集めている。
阿弥陀堂には弥陀三尊が祭られお七地蔵の木彫もある。
墓地に西運の墓がある。西運は江戸初期、隣の明王院(現在の雅叙園の位置)に住し、行人坂の修築などを行った。門前にその時の行人坂敷石造道供養碑がある。西運は八百屋お七の恋人吉三の出家後の名である。
また境内に江戸時代の庚申塔が3基あり、会津八一の歌碑も残されている。
行人坂を下ると目黒川にかかる橋がある。雁歯橋とも太鼓橋とも呼ばれ、今は後者が橋の名になっている。その当時使用された石材は寺の境内に置かれている。太鼓橋の往時の景観は、広重の錦絵「名所江戸百景・目黒太鼓橋より夕日の岡」に残されている。明王院、大円寺一帯は夕日の岡といわれ、紅葉・桜の名所でもあった。



写真:目黒駅前に完成した複合ビル
アトレでトイレをお借りして休憩です。



写真:自転車文化センター


写真:妙円寺(福禄寿、寿老人)
目黒通りを東へ向かうと自転車文化センターがあります。さらに東へ向かっているときに板橋史談会の団体と一緒になってしまい、日蓮宗の妙円寺は大混雑でした。





写真:瑞聖禅寺(布袋尊)
目黒通りをさらに東へ向かい、瑞聖寺です。大雄宝殿は国指定の重要文化財として登録されています。東京都文化財めぐりのページから引用します。
 紫雲山瑞聖寺は、宇治万福寺を開いた隠元の弟子・木庵を開山とする、江戸で最初の黄檗宗寺院です。木庵に帰依した青木甲斐守によって寺地が準備され、寛文10年(1670)に創立し、翌年に諸堂が完成しました。創建伽藍がらんは享保11年(1726)と延享2年(1745)の2度の火災で焼失しましたが、宝暦7年(1757)に仏殿(大雄宝殿)を再建、以後文化年間(1804-18)までに伽藍が再整備されました。大雄宝殿は、雄大な規模を持つ伽藍の中心建物です。
 黄檗宗は、江戸時代になって現在の中国から渡ってきたもので、月台と呼ばれるテラス状の張り出しや、開ほう(外に吊るされた木魚)、正面中央の桃の彫刻がついた腰扉など、それまでの日本の寺院建築とは異なる意匠が目を引きます。他にも、二重屋根で、正面と背面に外廊下のような吹放し部分を設けること、内部の床は四半敷瓦敷きで左右に畳床を置くこと、組物を簡略化して角柱を用いること、丸窓を多用することなども特徴といえます。
 江戸に残された数少ない本格的な仏堂建築として貴重です。



写真:DOG BAR
シェラトン都ホテルのDOG BARにはお客さんはいませんでした。




写真:覚林寺(毘沙門天)
日蓮宗のお寺です。桜田通から分岐して目黒通りが始まる地点にあり、交差点名は「清正公前」となっており、加藤清正公をお祭していることから勝負祈願のお寺として信仰を集めています。



写真:明治学院

写真:高輪消防署二本榎出張所
東京都消防庁のページから引用します。
昭和8年に建てられた二本榎出張所(旧高輪消防署)が、平成22年3月26日に「東京都選定歴史的建造物」に選定されました。
第一次世界大戦後に流行した「ドイツ表現派」の建築設計で、そのレトロな外観から、地域のシンボル的な存在となっており、年間約1,200人の方々が見学に訪れています。





写真:池田山公園
品川区立池田山公園で休憩します。雪つりのある落ち着いた良い公園です。


写真:タイ王国大使館看板

写真:大使公邸

写真:大使館

写真:読めない看板
以前は大使公邸しかなく、大使館は十年くらい前に引っ越してきたように思うのですが、資料が見つかりませんでした。大使公邸は目を引く建物ですが、日本人の邸宅として建てられたもののようで、在日本タイ王国大使館のページから一部引用します。
公邸の歴史は第二次世界大戦前に遡る。和歌山県出身の実業家として名声のある濱口一族の一方の雄、十代目濱口吉右衛門(無悶)氏(1883-1945)が1931年に福沢諭吉の養子、福沢桃介氏から現在の東京都品川区上大崎3丁目14-6に2500坪の土地を購入した。そして翌年、洋風現代建築の大家の一人である和田順顕氏の設計と清水建設の建造により、いわゆる“濱口邸”の建設が開始され1934年に完成した。濱口氏は芸術・骨董品に深い造詣を持つことで知られており、優美なインテリアや上質の輸入品を配し、濱口邸は古典的な建築様式と芸術的な装飾を兼ね備えたものとなった。

目黒駅方面へ向かい、自転車文化センター裏の児童公園をお借りしてストレッチをして解散となりました。

その後有志八名は天狗で新年会。お正月ということで、刺身を肴に山形の日本酒。すぐにカラになってしまうYさんの枡には穴が開いていたのかもしれません。ほどほどに!


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


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【番外】神奈川県二宮町横穴墓群

2018-01-06 09:50:40 | ウォーキング

写真:箱根駅伝
1月2日に西湘二宮へ移動し、箱根駅伝を沿道で応援するのが定番となっているので、今年も往路の四区、復路の七区を沿道で応援しました。今年の往路はばっちりテレビに映っており、すこやか歩こう会の会員で見つけた方もいたようです。
1月4日に散歩を兼ねて古墳時代の横穴墓群を探しにゆきました。地図に載っているので以前探したのですが見つからず、今回はネットで情報を調べて再挑戦です。


写真:富士山とスーパー17月齢

写真:相模湾と大島
2日から4日にかけて富士山がずっときれいに見えていて、海側も大島が見えていました。東横線で多摩川の鉄橋を渡るときに富士山が見えているものの、川にさざ波が立つほどの強風だったので心配したのですが、二宮はぽかぽかと暖かく駅伝ランナーには悪コンディションだったかもしれません。



写真:松屋本陣の跡
松屋本陣の跡
 江戸幕府の交通政策によって東海道 が整備されたことや、参勤交代制などにより、江戸~上方間を往来する人々は増え、旅人の宿泊所、休憩所も街道の随所に設けられました。
 このあたりは、大磯宿と小田原宿の中間に位置し、大磯宿~小田原宿の距離が十六キロメートルと長い上、押切坂、酒匂川を手前に控えていることから、間の宿(あいのしゅく)として休憩所が設けられ、大友屋・蔦屋・釜成屋など多くの茶屋や商店が軒を並べ、「梅沢の立場」と呼ばれて、大変賑わっていました。
 その中心的存在となっていたのが「松屋本陣」であり、参勤交代 の諸大名・宮家・幕府役人など、特権階級にあたる人達の休憩所に指定されていました。「松屋」であった和田家には、本陣を利用した人々の記録である「御休帳」が保存されていて、二宮町指定重要文化財になっています。
 平成十七年十二月 二宮町教育委員会



写真:吾妻山公園山頂
1月6日から2月12日の予定で「吾妻山菜の花ウォッチング」が行われるので、もう少し黄色く見えるかと思ったのですが、黄色はいまいちはっきりしません。


写真:富士山(コンデジ)

写真:2日にスマホで撮影した富士山
コンパクトカメラPENTAX Optio w90で撮影したほうがエッジの処理がナチュラルです。長く活躍しているありがたいカメラです。


写真:二宮町民運動場の横穴墓群
運動場自体が横穴墓群をを壊して作った感じです。開発前がどのようになっていたのかわからないのですが、横穴墓群は保存するほど珍しくないということかな?


写真:菜の花

写真:スイセン

写真:ホトケノザ

写真:クサフジ

写真:コブシかな
ホトケノザは春の七草に入っているものとは名称が同じですが、異なる植物です。コンパクトカメラ購入時のポイントは「マクロ撮影が出来ること」で、ホトケノザをアップで撮れるのがOptio w90の魅力です。この時期のクサフジは珍しいので撮っておきました。この花の花期は5-7月だそうです。







写真:釜野八重久保横穴墓群
古墳時代後期のものだそうです。昭文社の地図には「釜野横穴古墳群」で標識は「八重久保横穴墓群」なので異なるものかと思いましたが、この二つは呼び名が異なるだけで同じもののようです。


写真:地層
タモリさんのように石の種類を言い当て、その土地がどのように形成されたか推察することが出来れば面白そうですが、まったくその域には達しません。ただ、黒い層は富士山の噴火による火山灰がたまったものかなぁと推察しています。


写真:ボタンヅルの綿毛
お日様が当たって奇麗だったので撮ってみました。


写真:ロウバイ

写真:二日前に撮った同じ花
二日に二宮へ来たときに「ロウバイが咲いている」と写真に撮ったのですが、二日経って蕾だった花も開きました。

釜野八重久保横穴墓群は民家の畑の中にあるので、ウォーキングで訪れるのは難しいかな?吾妻山公園の登山もつらいと言われているし、もう少し検討します。



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