雨の予報ではあるけれど活動時間帯はどうにかもつかなという判断で活動有りのメールを発信しました。
東京燃料林産
集合は池尻大橋駅改札。目黒川緑道沿いのこちらに移動してストレッチしました。ピザ窯を持つ店が増えて、燃料屋さんも繁盛しているようです。
緑道おさんぽマップ
北沢川烏山川合流点
目黒川緑道をさかのぼり、この日は北沢川へ進みます。
雨に濡れたデイジー
ミソハギ
キキョウ
ヒメヒオウギズイセン
オニユリ
ハンゲショウ
健康はウォーキングから!
まさに「健康はウォーキングから!」ですね!緑道は花の手入れが行き届き楽しいウォーキングコースです。
環状6.5号線
タモリ倶楽部で環状6.5号線として紹介されるずっと前から道路用地になっていましたが、ようやく形になってきました。笹塚方面から山手通りを経由しないルートなので、便利になるといいですね。
ヒマワリ
雨の波紋
歩きはじめて20分くらいすると雨が降り始め傘をさしてのウォーキングです。
ジュズタマ
代沢小学校脇のカエル
円乗院
横光利一文学顕彰碑
微笑といふものは人の心を殺す光線だ 横光利一
新感覚という未踏の境地を切り開いたのは小説家、横光利一(1891-1947)である。彼は、1928年11月、ここ北沢川左岸の丘に居を構えた。小田急線開通によって開けた地である。『雨過山房(うかさんぼう)』と名づけられた邸からは近代郊外風景が望めた。木々の間に赤い屋根が見え隠れし、眼下には緑の傾斜が川まで続いていた。
代表作『旅愁』をはじめとする数々の作品がここで書き上げられた。当地、北沢に想を得たものも少なくない。その愛着の深い地で彼は終馬を迎える。1947年12月30日、49歳の若さだった。彼こそは下北沢文士町、先駈けの作家である。
冒頭の一節は、遺作となった『微笑』から抜き出したものだ。数文字で現象の本質を巧みに衝く新感覚表現の結晶の一つだと言ってよい。この『微笑』には、「家の門から 玄関までの石畳が靴を響かせ」てくるとき、その「靴音の加減で」、用向きの判定をつけていたとある。碑の下に据えられているのは横光家から寄贈されたその石畳である。
ゆかりの石を用いての碑を、彼が慣れ親しんだ散歩道沿いに建立した。ここを踏み渡っていく足音が想像できるように・・・・。
二〇一三年 十一月二十三日 北沢川文化遺産保存の会
三好達治文学顕彰碑
三好達治(1900~1964)は、詩界の開拓者だ。和洋の詩風を織り込んで新しい詩の可能性を切り拓いた。昭和期を代表する第一級の持情詩人だ。処女詩集『測量船』は、言葉の響きを重んじて創られた名編だ。この発刊以降も語の音楽性にこだわり、生涯で千篇を越える詩を詠んでいる。
達治は、世田谷区代田一丁目一番(当碑の南約四百メートル)に十六年間住んだ。静かな路地裏で詩集『百たびののち』は編まれた。その一篇を刻み記す。
開窓一盞
憐れむべし糊口に穢れたれば
一盞はまづわが腹わたにそそぐべし
よき友らおほく地下に在り
時に彼らを憶ふ
また一盞をそそぐべし
わが心つめたき石に似たれども
世に憤りなきにしもあらず
また一盞をそそぐべし
霜消えて天晴る
わが庭の破れし甕にこの朝来りて水浴ぶは
黄金褐の小雨鶲
小さき紅もたつならし
雨の羽衣すがしきになほ水そそぐはよし
また一盞をそそぐべし
信あるかな爾
十歳わが寒庭を訪ふを替へず
われは東西南北の客
流寓に疲れたれども
一日汝によりて自ら支ふ
如何にために又々一盞をそそがざらでやは
詩人は諸国をさすらった末、この代田に「流寓独居」し、独り酒を飲み、寒庭を訪れる小島に語りかけた、風狂の詩人、終穏の地での秀作である。
達治が歩いたこの北沢川べりに詩碑を建て、これに一枚の写真を添える。庭で愛犬ミミーと戯れる詩人の肖像である
二〇一四年 十一月二十九日 北沢川文化遺産保存の会
斎藤茂吉歌碑
代田川のほとりにわれをいこはしむ 柳の花もほほけそめつつ
茂吉
萩原朔太郎・葉子と代田の丘の61号鉄塔
ここ鶴ヶ丘橋たもとから眺められる丘上の鉄塔には歴史がある。昭和元年(1926)に建ったものだ。当時緑豊かなここに堂々と聳え立つ銀色の塔は都市近郊を象徴する景観であった。
この塔のすぐ下に昭和八年、自らの設計による家を建て、居住したのは萩原朔太郎(1886-1942)だ。鋭く尖った三角屋根の家は、鉄塔を意識して設計されたものだろう。
詩人は、故郷前橋で電線の青い閃光を眺めては東京を恋い慕った。
『定本青猫』の「自序」にはこうある。
都会の空に映る電線の青白いスパークを、
大きな青猫のイメーヂに見てゐる
萩原朔太郎
かつては当地の高圧線の碍子も青く仄めいていたという。詩人はそれを青猫に見立てたのかもしれない、代田鉄塔物語である。父はポエヂイを子は怖れを感じた。娘葉子(1920-2005)は、自伝小説『蕁麻(いらくさ)の家』で「あの高い鉄塔」と描写し、「暗い予感」をこれに持ったという。
今となっては詩人と小説家とを偲ばせるたった一つの風景だ。このことから丘の鉄塔は「世田谷区地域風景資産」に選定された。日本では他に類例を見ない文学モニュメントだといえる。
二〇一二年 十月六日 北沢川文化遺産保存の会
梅が丘のブドウ棚
東京都道423号渋谷経堂線
若林小学校前の道、拡幅に向けて準備が進んでいるようです。これは何の通りだろうと調べてみると淡島通りでした。現在環七以西がこのような状態の拡幅待ちです。
若林公園で休憩後ストレッチをして解散しました。ほとんどの人は松陰神社にお参りし、バスで帰ったようです。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
東京燃料林産
集合は池尻大橋駅改札。目黒川緑道沿いのこちらに移動してストレッチしました。ピザ窯を持つ店が増えて、燃料屋さんも繁盛しているようです。
緑道おさんぽマップ
北沢川烏山川合流点
目黒川緑道をさかのぼり、この日は北沢川へ進みます。
雨に濡れたデイジー
ミソハギ
キキョウ
ヒメヒオウギズイセン
オニユリ
ハンゲショウ
健康はウォーキングから!
まさに「健康はウォーキングから!」ですね!緑道は花の手入れが行き届き楽しいウォーキングコースです。
環状6.5号線
タモリ倶楽部で環状6.5号線として紹介されるずっと前から道路用地になっていましたが、ようやく形になってきました。笹塚方面から山手通りを経由しないルートなので、便利になるといいですね。
ヒマワリ
雨の波紋
歩きはじめて20分くらいすると雨が降り始め傘をさしてのウォーキングです。
ジュズタマ
代沢小学校脇のカエル
円乗院
横光利一文学顕彰碑
微笑といふものは人の心を殺す光線だ 横光利一
新感覚という未踏の境地を切り開いたのは小説家、横光利一(1891-1947)である。彼は、1928年11月、ここ北沢川左岸の丘に居を構えた。小田急線開通によって開けた地である。『雨過山房(うかさんぼう)』と名づけられた邸からは近代郊外風景が望めた。木々の間に赤い屋根が見え隠れし、眼下には緑の傾斜が川まで続いていた。
代表作『旅愁』をはじめとする数々の作品がここで書き上げられた。当地、北沢に想を得たものも少なくない。その愛着の深い地で彼は終馬を迎える。1947年12月30日、49歳の若さだった。彼こそは下北沢文士町、先駈けの作家である。
冒頭の一節は、遺作となった『微笑』から抜き出したものだ。数文字で現象の本質を巧みに衝く新感覚表現の結晶の一つだと言ってよい。この『微笑』には、「家の門から 玄関までの石畳が靴を響かせ」てくるとき、その「靴音の加減で」、用向きの判定をつけていたとある。碑の下に据えられているのは横光家から寄贈されたその石畳である。
ゆかりの石を用いての碑を、彼が慣れ親しんだ散歩道沿いに建立した。ここを踏み渡っていく足音が想像できるように・・・・。
二〇一三年 十一月二十三日 北沢川文化遺産保存の会
三好達治文学顕彰碑
三好達治(1900~1964)は、詩界の開拓者だ。和洋の詩風を織り込んで新しい詩の可能性を切り拓いた。昭和期を代表する第一級の持情詩人だ。処女詩集『測量船』は、言葉の響きを重んじて創られた名編だ。この発刊以降も語の音楽性にこだわり、生涯で千篇を越える詩を詠んでいる。
達治は、世田谷区代田一丁目一番(当碑の南約四百メートル)に十六年間住んだ。静かな路地裏で詩集『百たびののち』は編まれた。その一篇を刻み記す。
開窓一盞
憐れむべし糊口に穢れたれば
一盞はまづわが腹わたにそそぐべし
よき友らおほく地下に在り
時に彼らを憶ふ
また一盞をそそぐべし
わが心つめたき石に似たれども
世に憤りなきにしもあらず
また一盞をそそぐべし
霜消えて天晴る
わが庭の破れし甕にこの朝来りて水浴ぶは
黄金褐の小雨鶲
小さき紅もたつならし
雨の羽衣すがしきになほ水そそぐはよし
また一盞をそそぐべし
信あるかな爾
十歳わが寒庭を訪ふを替へず
われは東西南北の客
流寓に疲れたれども
一日汝によりて自ら支ふ
如何にために又々一盞をそそがざらでやは
詩人は諸国をさすらった末、この代田に「流寓独居」し、独り酒を飲み、寒庭を訪れる小島に語りかけた、風狂の詩人、終穏の地での秀作である。
達治が歩いたこの北沢川べりに詩碑を建て、これに一枚の写真を添える。庭で愛犬ミミーと戯れる詩人の肖像である
二〇一四年 十一月二十九日 北沢川文化遺産保存の会
斎藤茂吉歌碑
代田川のほとりにわれをいこはしむ 柳の花もほほけそめつつ
茂吉
萩原朔太郎・葉子と代田の丘の61号鉄塔
ここ鶴ヶ丘橋たもとから眺められる丘上の鉄塔には歴史がある。昭和元年(1926)に建ったものだ。当時緑豊かなここに堂々と聳え立つ銀色の塔は都市近郊を象徴する景観であった。
この塔のすぐ下に昭和八年、自らの設計による家を建て、居住したのは萩原朔太郎(1886-1942)だ。鋭く尖った三角屋根の家は、鉄塔を意識して設計されたものだろう。
詩人は、故郷前橋で電線の青い閃光を眺めては東京を恋い慕った。
『定本青猫』の「自序」にはこうある。
都会の空に映る電線の青白いスパークを、
大きな青猫のイメーヂに見てゐる
萩原朔太郎
かつては当地の高圧線の碍子も青く仄めいていたという。詩人はそれを青猫に見立てたのかもしれない、代田鉄塔物語である。父はポエヂイを子は怖れを感じた。娘葉子(1920-2005)は、自伝小説『蕁麻(いらくさ)の家』で「あの高い鉄塔」と描写し、「暗い予感」をこれに持ったという。
今となっては詩人と小説家とを偲ばせるたった一つの風景だ。このことから丘の鉄塔は「世田谷区地域風景資産」に選定された。日本では他に類例を見ない文学モニュメントだといえる。
二〇一二年 十月六日 北沢川文化遺産保存の会
梅が丘のブドウ棚
東京都道423号渋谷経堂線
若林小学校前の道、拡幅に向けて準備が進んでいるようです。これは何の通りだろうと調べてみると淡島通りでした。現在環七以西がこのような状態の拡幅待ちです。
若林公園で休憩後ストレッチをして解散しました。ほとんどの人は松陰神社にお参りし、バスで帰ったようです。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール