目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

谷津干潟コース 約5.8Km

2019-09-25 14:51:22 | ウォーキング
昨年のこの時期はキリンビール生麦工場をゴールとしたコースだったのですが、今年はサッポロビール千葉工場を目指すコースを復活させました。日陰がない部分が苦行ともいえるコースなのですが、ゴールで味わうビールがおいしくて。。。


津田沼駅前千葉工業大学
集合は中目黒GTで中目黒→日比谷線→茅場町→東西線快速→西船橋→総武線各駅停車→津田沼とやってきました。私の母校で学生時代もこのルートで通学していました。文化会の合宿で「津田沼の『津』は『谷津』の津」と聞いたことは印象に残っていたのですが、他の二文字の由来は忘れています。Wikipediaから引用します。
1889年4月1日 - 町村制施行にともなう明治の大合併により、千葉郡北西部の谷津村・久々田村・鷺沼村・藤崎村・大久保新田が合併して千葉郡津田沼村が発足(谷「津」・菊「田」あるいは久々「田」・鷺「沼」の合成地名)。旧村の区域により、谷津・久々田・鷺沼・藤崎・大久保の各大字を編成する。


谷津駅へ向かう道

京成本線

京葉道路
谷津駅へ向かう道、以前は狭かったので拡張されたようです。東側にあった友人の家がそのままの位置にあるようなので、西側に拡張されたのでしょう。あいまいな記憶ですが畑が広がっていたような気がします。今はマンションが数多く立ち並んでいます。
京成線の踏切あたりは以前の道幅でした。千葉街道を横断するとそのバイパスである京葉道路が見えてきます。


谷津公園

谷津バラ園




巨人軍発祥の地
谷津公園はバラ園や、谷津干潟北側の遊歩道まで含めたエリアのようです。ここに巨人軍発祥の碑があります。その由来を千葉県公式観光物産サイトから引用します。
読売巨人軍発祥の地記念碑は、昭和9年(1934年)、アメリカ大リーグのオールスターチームと名選手、ベーブルースが来日しました。当時まだプロ野球団がなかった日本は、6大学から選手を選抜して全日本軍を編成しました。両チームの練習場となったのが旧谷津遊園内にあった谷津球場です。この選抜のメンバーが巨人軍の創設メンバーとなり日本プロ野球誕生への歴史的な第一歩となりました。バラ園の入口の脇に記念碑が建立されています。

手形に懐かしい名前が並んでいますが、西本投手の上に江川投手があるのが興味をひきました。江川さん、徹底的に悪役だったからなぁ!CM中とはいえ小林繁投手と和解できてよかったと思います。




谷津干潟

伊藤新田(塩田)跡・谷津遊園跡
 明治時代の中頃から大正時代はじめの間、この地には塩を作るための塩田がありました。
 津田沼村の初代村長だった伊藤彌一氏が中心となって開発されたものです。
 この塩田は入浜式塩田という種類です。堤防を築いて外部の海と区切り、堤防内に海水を取り入れて砂浜に散布し、天日によって水分を蒸発させて濃縮し、さらに釜に入れて煮詰めるという製塩方法で塩を作っていました。
 入浜式塩田は当時、行徳から谷津にかけての海岸で盛んに行われていました。
 しかし明治44年の暴風雨によって生産不能となり、さらに大正6年、大暴風雨と高潮に襲われ、復興不可能な状況となり閉鎖されました。
 大正14年、京成電気軌道株式会社(現京成電鉄株式会社)がこの地を買収し、谷津海岸遊園(のち谷津遊園)を開設しました。
 この遊園地は昭和57年12月に閉園されるまで、東京近郊でも有数の遊園地として多くの人々に親しまれました。
 また、この地には一時期、無声映画時代の阪妻撮影所や、プロ野球の読売巨人軍の最初のグラウンドがあり、アメリカ大リーグとの最初の日米親善野球の行われた場所としても知られています。

平成19年3月
習志野市教育委員会




谷津干潟

船橋競馬場

京葉線沿いの草地

高瀬川
谷津干潟は高瀬川で東京湾とつながっています。通った時間は引き潮だったようで海に向かって勢いよく水が流れていました。


川沿いの歩道

松ぼっくり

サッポロビール千葉工場
台風の後だったので歩道には松葉と松ぼっくりが大量に落ちていました。ビール工場は高瀬町という埋め立て地の工業団地にあり、看板が見えてからもけっこう遠いんです。ゴールが遠いこの時間帯が苦行です。


ジンギスカンのレストラン

南極観測船しらせ
ようやくゴールで工場前でストレッチをしてレストランへ向かいました。ジンギスカンもうまいけど、ビールが一味違う気がします。『しらせ』がこの場所に係留されている経緯をWikipediaからちょっと長めに引用します。
除籍後
2008年10月24日、政府の南極地域観測統合推進本部は南極観測船「しらせ」の展示保存を断念し解体すると発表した。「しらせ」は南極観測船はもとより自衛隊を見渡しても過去になかった規模の大型艦の退役であり、当然ながらそのため維持展示にも従前の観測船以上の費用が掛かる事が見込まれる事から引き取り手の折り合いが付かず、また自衛艦のため海上保安庁への移管や海外輸出も難しい事から、スクラップとして処分される事となっていた。
ただし、政府の推進本部はスクリュープロペラ・いかり・艦名看板など少なくとも17点の部品を保存し、2009年秋から海上自衛隊佐世保史料館で一般展示をする準備を進めていた。また、船内で使われたソファーや椅子の一部が名古屋港で展示されている「ふじ」に転用されている。
昭和期の南極観測隊の訓練などで縁のある北海道稚内市が保存に名乗りを上げており、ホームページなどを通じて誘致キャンペーンを行っていたが財政難のため2007年夏の展示保存を希望する自治体の募集には正式に応募せず、これも立ち消えとなった。
2008年12月以降解体に着手する予定だったが鉄屑価格下落の影響から解体は先送りとなり、2009年6月19日に政府の南極地域観測統合推進本部は保存活用に向けて買い手を再度公募することを決定した。その時点では海上自衛隊横須賀基地内で係留されていた。

SHIRASEプロジェクト
2009年11月9日、南極地域観測統合推進本部は「しらせ」を同年1月に「スクラップになるのはもったいない」・「気象や環境問題の情報発信や議論の場として活用したい」と、「しらせ」の購入を文部科学省に提案していた、民間の気象情報会社「ウェザーニューズ」に売却すると発表。環境情報発信基地として、「第二の人生」を送ることになった。「しらせ」は2010年2月10日に海上自衛隊からウェザーニューズ社に引き渡され、海上自衛隊横須賀基地を出港。一旦、神奈川県横浜市中区の三菱重工業横浜製作所本牧工場のドックに曳航され、検査や用途変更船修繕工事を実施するとともに、船名をローマ字表記の「SHIRASE」に変更した。同年3月31日に当面の間の係留地である千葉県船橋市の船橋港(港則法上は千葉港葛南区)に曳航され、係留された。
「しらせ」の艦番号「5002」にちなんで2010年5月2日から南極観測および気象観測の象徴として一般公開。また、それに先立ち、一般公開前日の5月1日にはSHIRASEが係留されている船橋市の近隣住民・市職員・教育関係者向けに先行公開された。5月2日に開催されたSHIRASEのグランドオープニングセレモニーには、同社社員や同社のウェザーリポーター約320人、国会議員、冒険家でSHIRASEの副KANCHO(艦長)に任命されている三浦雄一郎など約500人が参加。同セレモニーでは、SHIRASE KANCHOの宮部二朗同社代表取締役副社長がシャンパンの瓶の形をした氷を割って、「第2の船出」を宣言した。
ウェザーニューズでは船内の南極観測機器を居抜きで入手。2010年10月から同社グローバルアイスセンターを船内に移設して世界の氷のモニタリング業務を開始する。さらに、小型気象観測レーダー『WITHレーダー』を設置し、首都圏のゲリラ雷雨や突風などをリアルタイムに観測する他、2010年頃に打ち上げ予定で東京大学・千葉大学・アクセルスペース共同開発の小型人工衛星『WNI衛星(仮称)』から送られてくるデータを利用して、世界各地の海氷の動きなどを観測する「WNI衛星管制センター」や東京湾・世界各地で発生した地震を観測・検証する「地象センター」を開始する予定となっている。また、テレビスタジオや教育・会議施設などを開設・設置し、みんなで気候変動を考え、コンテンツを発信する場にしたいとしている。
2010年8月15日には同社の第24期株主総会(幕張メッセで開催)終了後に株主向けにSHIRASE体験乗船(株主以外に3名まで乗船可)を実施。また、同年8月22日には「夏休みに環境問題を考えるきっかけに」とSHIRASEの親子乗船会を開催した。
なお、「しらせ」の購入代金約4千万円の他に改修に10億円、年間維持費に1 - 2億円かかるとされている。
また、このプロジェクトの中心となったウェザーニューズ創業者で代表取締役会長・石橋博良が死去した際はお別れの会が「船出の会」という名称で2010年7月13日に本船船上にて行われた。
2011年7月に、東日本大震災の被災地の人を元気づけようと、福島県いわき市小名浜港でイベント開催。
2013年9月2日に本船の所有権がウェザーニューズから同社関連団体であるWNI気象文化創造センターに移管された。
2015年11月18日修繕のため4年ぶりに船橋港を出港し、三菱重工業横浜製作所のドックに入った。12月14日修繕を終え船橋港に帰着した。

見学
SHIRASEの見学・乗船は無料だが、事前の申し込みが必要になる。SHIRASEが係留されている船橋港では、コンビナート岸壁周辺敷地への立ち入りが禁止されている為、関係者以外はSHIRASEに接近する事が出来ない。さらに船橋港周辺は、駐車禁止区域となっており、駐車場・駐輪場共にない。
2011年3月11日に発生した東日本大震災の影響を受け、係留している船橋港周辺の液状化により乗船にあたっての安全性が見込めないことから、震災当日以降の見学を一時的に中止した。また、この年10月の台風により対岸(習志野市茜浜)に係留していた船のロープが切れSHIRASEまで流れ着き、左舷にぶつかり損傷するという事態も起きた。その後、船橋港の液状化の舗装とSHIRASE左舷損傷の修繕を経て、2012年1月28日より再開する運びとなった。
一般見学再開にあたり、今までのJR京葉線新習志野駅駅前の千葉県国際総合水泳場付近に集合し、貸切バスで船橋港に向かうという形式であったが、見学再開にあたりウェザーニューズという会社を知ってもらうことも見学コースに含めることになった。そのため現在はJR京葉線海浜幕張駅駅前に、ウェザーニューズが入居している幕張テクノガーデンD棟2階Cポート0号店前に集合し、受付・身分証明書による本人確認をした上で、ウェザーニューズの会社見学を行ってから、社有車で船橋港に向かう形式に変更された。
見学の日時は、おおむね隔週土曜日12:30の1回で10人程度で行われるようになった。ウェザーニューズでは2010年4月26日から専用ホームページ(外部リンク参照)にて、同年5月5日以降の一般見学・乗船の事前申し込みを受け付けている。なお、右舷の外観を眺めるだけであれば、近傍の飲食施設の窓際から望むことが可能。
なお、前述のように2013年9月2日に本船の所有権がウェザーニューズから同社関連団体であるWNI気象文化創造センターに移管されているが、より公益性の高い取組みを進めていくための企画を検討し推進するため従来から行ってきた一般乗船見学は当面見合わせるとしている。
2013年より「チャレンジングSHIRASE」として年5回の一般公開イベントを行っているほか、週に2日、近隣にあるサッポロビール千葉工場とのコラボレーションでのツアーに参加してで乗船することもできる。



津田沼駅まで送迎バス
ジンギスカンとビールでおなかいっぱいになった後は無料送迎バスで津田沼駅まで送っていただきました。酔っ払いにはありがたいサービス。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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第17回めぐろウォーキングマーチ将軍お鷹狩りウォーク、コース確認

2019-09-18 11:41:35 | ウォーキング
すこやか歩こう会が所属する目黒ウォーキング協会では最大のイベントである、お鷹狩りウォークの準備が着々と進んでいます。イベントの主催者は目黒区で運営を委託されているのが目黒ウォーキング協会という枠組みになっていますが、お鷹狩りウォーク開催初回より目黒区(当初は目黒区教育委員会)と目黒ウォーキング協会が試行錯誤しながら作ってきたイベントです。

こちらのページから申し込みが出来ます。その内容を一部引用してみましょう。
「健康なまちめぐろ」の実現を目指し、ウォーキングによる健康づくりを進めています。歩く機会の少なくなった現代において、歩く楽しさや、心地よさを区民のみなさんに感じていただくため、今年も「将軍お鷹狩りウォーク」を実施します。ふるってご参加ください!!

ゲームを目的としたイベントへの参加はご遠慮下さい。

第17回めぐろウォーキングマーチ 将軍お鷹狩りウォーク
内容
日時 令和元年11月3日(日曜日・文化の日)。小雨決行です。
対象 医師から運動を制限されていない区内在住・在勤・在学者。なお、小学生以下のかたは保護者同伴です。
定員 9.8キロメートルコース300人、6.4キロメートルコース200人(いずれも先着順となります)
参加費 各コース保険料など700円、小学生以下は無料です。
聴覚障害者で手話通訳をご希望の方は、申し込みの際お申し出ください。
コース紹介
9.8キロメートルコース
東京都立日比谷公園健康広場(集合場所及びスタート地点)、虎ノ門ヒルズ、愛宕神社・出世の石段、都立芝公園(トイレ休憩)、御成門・二天門、増上寺、芝丸山古墳、プリンス芝公園、聖坂、御田小前、高輪皇族邸(仙洞仮御所)、大石良雄外十六人忠烈の跡、高輪区民センター、ゆかしの杜(トイレ休憩)、目黒区三田一丁目(目黒区最東端)、サッポロビール本社(恵比寿ガーデンプレイス)、茶屋坂を通って田道広場公園まで
時間 午前9時30分から午後2時(予定)
集合時間 午前9時
集合場所 都立日比谷公園・健康広場

6.4キロメートルコース
都立芝公園4号地多目的運動広場(集合場所及びスタート地点)、御成門・二天門、増上寺、芝丸山古墳、プリンス芝公園、麻布十番、暗闇坂、一本松坂、有栖川宮記念公園(トイレ休憩)、広尾橋、渋谷区恵比寿社会教育館、サッポロビール本社(恵比寿ガーデンプレイス)、茶屋坂を通って田道広場公園まで
時間 午前9時50分から午後1時20分(予定)
集合時間 午前9時20分
集合場所 都立芝公園4号地・多目的運動広場
お申し込み
お申し込み方法
電話、ファックスまたはハガキ、スポーツ講座申し込みシステム(メールでのお申し込み)で、10月15日(必着)までにスポーツ振興課スポーツ事業係へお申し込みください。お申し込みには次の事項が必要です。



日比谷公園

日比谷見附の石垣とミッドタウン日比谷
私の担当はロングコースで、日比谷公園健康広場スタートです。江戸時代百万都市といわれた江戸の街ですが、明治維新により各大名の屋敷が不要となりそれぞれの領地に帰ってゆきます。人口は五十万まで減少、大名屋敷で働いていた人々は失業者となり不況に見舞われます。丸の内にあった大名屋敷は取り壊されて帝国陸軍の練兵場となり、霞ヶ関界隈には役所が設けられました。地盤が軟弱だった場所にドイツ留学から帰国した本多静六を中心とするメンバーによる設計で現在の日比谷公園が造園されました。


虎ノ門ヒルズ
健康広場をスタート後日比谷公園内の見所を見た後、白山通りを南下します。将軍が目黒筋に鷹狩りに行く際、青山通りのルートともにこちらのルートも使われていたようです。
歴代徳川将軍が鷹狩りをしたものと思っていましたがそんなことはないようです。三代将軍家光の頃盛んにおこなわれました。徳川将軍家の鷹狩りについてWikipediaの「鷹狩」から一部を引用します。
戦国武将の間で鷹狩が広まったが、特に徳川家康が鷹狩を好んだのは有名で、単なる鷹好きとか慰めの域を越えて確たる養生法と捉えていた。『中泉古老諸談』によると家康は鷹狩を気分転換の遊芸にとどめず、身体を鍛える一法とみなし、内臓の働きを促して快食・快眠に資する養生と考えていたことが知られている。家康には鷹匠組なる技術者が側近として付いていた。鷹匠組頭に伊部勘右衛門という人が大御所時代までいた。東照宮御影として知られる家康の礼拝用肖像画にも白鷹が書き込まれる場合が多い。江戸時代には代々の徳川将軍は鷹狩を好んだ。3代将軍・家光は特に好み、将軍在職中に数百回も鷹狩を行った。家光は将軍専用の鷹場を整備して鳥見を設置したり、江戸城二の丸に鷹を飼う「鷹坊」を設置したことで知られている。家光時代の鷹狩については江戸図屏風でその様子をうかがうことができる。5代将軍・綱吉は動物愛護の法令である「生類憐れみの令」によって鷹狩を段階的に廃止したが、8代将軍・吉宗の時代に復活した。吉宗は古今の鷹書を収集・研究し、自らも鶴狩の著作を残している。累代の江戸幕府の鷹書は内閣文庫等に収蔵されている。江戸時代の大名では、伊達重村、島津重豪、松平斉貴などが鷹狩愛好家として特に著名であり、特に松平斉貴が研究用に収集した文献は、今日東京国立博物館や島根県立図書館等に収蔵されている。
鷹は奥羽諸藩、松前藩で捕らえられたもの、もしくは朝鮮半島で捕らえられたものが上物とされ、後者は朝鮮通信使や対馬藩を通じてもたらされた。近世初期の鷹の相場は1据10両、中期では20-30両に及び、松前藩では藩の収入の半分近くは鷹の売上によるものだった。
鷹狩に用いる鷹の繁殖をはかるため、その巣を保護するため、狩猟や入山を禁じた山もあり、それらは巣山や巣鷹山と呼ばれた。



芝公園
愛宕神社出世の石段の前を通り愛宕通りを南下すると芝公園3交差点には歩道橋のみで横断歩道がないため日比谷通りの横断歩道を渡り芝公園に入ります。芝公園の広大な敷地は元は増上寺の敷地でしたが、明治維新後に公園となり敷地が芝公園地1-25号地の計25区画に振り分けられるました。この場所はお鷹狩ショートコースのスタート地点となりお知らせにも「都立芝公園4号地」となっていますが、行政以外に「号地」を使う習慣もないので、場所を説明するのに苦労するところです。

芝公園でトイレ休憩をとった後、増上寺へ向けて出発するとすぐに御成門、二天門があります。現在は東京プリンスの敷地内にあるのでこの二つの門が増上寺の門だった認識はあまりないかもしれません。増上寺には上野寛永寺同様に徳川将軍の霊廟が置かれました。増上寺に将軍がお参りする際に使用されたのが御成門であり、七代将軍霊廟の西の守りが二天門になります。持国天(東)、増長天(南)、広目天(西)、多聞天(北)の四天王のうち広目天、多聞天が二天門の左右で邪気を踏みしめ霊廟をお守りしています。実踏の時にはシートで覆われていた二天門ですが、修復が終わり一番きれいな状態で門を見ることが出来ます。
増上寺の築地壁の先に三解脱門を見て二代将軍霊廟の惣門の前を通過し、港区立芝公園では平和の灯を見ることが出来ます。港区のページから引用してみましょう。
平成17年8月15日、「港区平和都市宣言」を行ってから20年が経ちました。これを記念し、区立芝公園に設置しました。ここに灯された「火」は広島市の「平和の灯(ともしび)」、福岡県八女市の「平和の火」、長崎市の「ナガサキ誓いの火」をあわせたものです。
この灯(ひ)を通じて、戦争の惨禍と平和の尊さを後世に伝えてまいります。
平和の灯デザインは、子どもたちからアイディアを募集し、そこから得られたキーワードの「地球」「火」を活用し、「水と緑の地球に、核兵器の廃絶と世界の恒久平和を願う火が灯されている」様子を表現したものとなっています。


芝丸山古墳の脇を通りプリンス芝公園を通過します。ここは東京タワーのビュースポットです。赤羽橋から桜田通りを南下し、三田2交差点を直進し次の信号を西に折れて聖坂に入ります。ウォーキングイベントでは坂は避けたいところですが、聖坂は徳川家康が江戸に入った時にとおった由緒正しい道なのでこのコースを採用しました。
桜田通りは国道1号、つまり東海道で第二京浜とも呼ばれます。広重が書いた東海道五十三次はもっと海側を通っているイメージがあると思います。このルートは徳川家康が整備した五街道の東海道で、国道15号第一京浜がそのバイパスにあたり、南側に旧東海道として道が残っています。整理すると第一京浜が江戸時代の東海道のパイパスで、第二京浜は鎌倉時代の東海道のバイパスです。もっとも鎌倉時代往来があったのは鎌倉京都間であり、へき地の江戸へ向かうこの道は単なる田舎道だったのでしょう。高野山で修業した高野聖と呼ばれるお坊さんが寄付を募って整備したので聖坂と呼ばれるようになりました。余談ですが第三京浜は有料道路です。東名高速道路の一部になる予定で整備された有料の私道でしたが、東名高速のルート変更により現在に至ります。第三京浜についてWikipediaから「変遷」を抜粋します。
国道15号第一京浜と国道1号第二京浜に続いての東京と横浜を結ぶ京浜道路として、第三京浜道路が計画された。
元々の計画は、1929年(昭和4年)5月に鎌倉急行電気鉄道が、渋谷駅から藤沢駅を通り鎌倉坂ノ下までの鉄道事業免許を取得し、その後、自動車専用道路に計画を変更したことが始まりである。また、1954年(昭和29年)3月に東京急行電鉄が、渋谷から江ノ島間に東急ターンパイクの計画をしたが、建設省による整備が決まったことにより、代わりとして田園都市線の計画に変更することになる。
1964年(昭和39年)10月6日に一部区間が開通し、1965年(昭和40年)12月19日に全線開通となる。開通当初は、一般都県道東京野川横浜線とされ国道に指定されなかった。これは当時の法令などにより国道指定が困難であったため、都道府県道とされた。しかしながら、道路の長さを伸ばすことが重視されていた時代のなか、破格なまでの幅員で建設され、日本で初めて「6車線の自動車専用道路」となる。更には、自動車専用道路として初めて全線に水銀灯の道路照明灯も設置されることとなった。今日でも交通の流れはスムーズに保たれ、出口付近以外での渋滞も少ないので便益は高い。




高輪皇族邸(仙洞仮御所予定地)
聖坂を上り伊皿子を通過する道は二本榎通りと呼ばれます。旧華頂の宮邸跡亀塚公園の先に御田小学校があり「三田」の原型が「御田」だったことが分かります。目黒六か村の一つである三田村は飛び地で、港区三田にある春日神社の氏子という親しい関係にあります。

地図では「高松宮邸」とも表記される高輪皇族邸も先週の台風15号の被害があったようです。江戸時代この辺りは肥後細川家下屋敷で忠臣蔵の舞台となります。


ゆかしの杜(旧公衆衛生院)
高輪で桜田通りへ戻り、清正公前から目黒通りに入り日吉坂を上ります。台地の上東大医科学研究所となりにある港区の施設「ゆかしの杜」でトイレ休憩をとります。戦前関東大震災復興事業としてロックフェラー財団の寄付により建設された国立公衆衛生院は2018年ゆかしの杜として公開されました。

港区白金台4丁目、品川区上大崎2丁目、渋谷区恵比寿3丁目の三区界で外苑西通りを横断し、品川区上大崎2丁目、渋谷区恵比寿3丁目、目黒区三田1丁目の三区界から区界沿いを歩きガーデンプレイス内恵比寿神社前を通ります。サッポロビール本社前、アメリカ橋、茶屋坂とお馴染みのコースを通り目黒区民センターに到着し実行委員会を行ってコース確認は終了でした。お鷹狩り当日のゴールは田道広場公園となります。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
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文化財めぐり下目黒コース 約3.0km

2019-09-10 14:41:56 | ウォーキング
先日下見をしたばかりのコースです。目黒区の案内文は前回下見の時に掲載したので、今回は個人的感想を中心にかいてゆきます。

集合場所のアトレへ向かい権之助坂を上ると、その先に煙が見えてきました。一瞬「事故?」と思ったのですが、においが漂ってきて秋刀魚を焼いていることが分かりました。この時期二週連続でサンマ祭りのニュースが流れるので、デジャブ感を感じている方もいるかもしれません。実は異なる主催者により複数ののサンマ祭りが行われているのですが、今回は品川区、来週は目黒区で行われます。
9月8日に行われたのは「第24回 目黒のさんま祭り」。主催者は目黒駅前商店街振興組合で後援が品川区。岩手県宮古市からさんま7,000匹、徳島県神山町からすだち10,000個、栃木県那須塩原市の大根500本、和歌山県みなべ町の備長炭で焼き上げた旬のさんまが振る舞われます。今年は宮古に秋刀魚の水揚げが無く冷凍サンマが使われたことがニュースになっていました。
9月15日に予定されているのが、「第43回目黒区民まつり(目黒のSUNまつり)」。主催者は第43回目黒区民まつり実行委員会で後援が目黒区、目黒区教育委員会。友好都市である宮城県気仙沼市の漁港から5,000匹の秋刀魚が送られ、宮城県産大根の大根おろしと大分県のカボスを添えて無料で振舞われます。本日までアナウンスはありませんが、こちらも冷凍サンマが提供されることが予想されます。
目黒区民の私の気持ちは「品川区側がまねした」ということになり、一週間早く行われる目黒駅前商店街のサンマ祭りの方がテレビの扱いが大きいのもちょっとだけ不満です。2007年から行われている恵比寿ビール坂の「となりの恵比寿サンマ祭り」には興味があるんですけどね。

これらのイベントは落語「目黒のさんま」をモチーフに行われています。江戸時代の目黒は日帰りの行楽地、現代の感覚からすると埼玉の秩父くらいのイメージでしょうか。海にも面していません。将軍家光がひいきにした爺々が茶屋をイメージして話が作られているようです。爺々が茶屋があった場所は目黒区ですが、目黒駅があるのが品川区なので品川区にも目黒のさんま祭りを名乗られてしまうのです。


夕陽の丘
この坂が目黒通りの旧道である行人坂で、消火栓の広告にとんかつで有名な「とんき」とあり、その奥の建物はホリプロです。



ドレメ通り

衣装博物館
「ドレスメーカー学院通り」が短縮されてドレメ通りです。私より年上の世代には「ドレメ」は一般的ですが、我々の頃はもう洋裁を習うという時代ではなかったように思います。文化服装学院の方が数年早く開校しています。


亀の甲橋

目黒川
ドレメ通りは淀橋台の上にあり、目黒川が削った斜面を下ったこのあたりとは20メートルくらいの標高差になります。この近くの下目黒二丁目が目黒区で一番標高が低く4メートル強です。目黒川は潮の満ち干の影響を受けなかなか流れてゆきません。


かむろ坂

下目黒三丁目

目黒不動尊門前通り
この日は大鳥神社のお祭りで、神輿の準備をしています。


目黒不動の手水
龍泉寺なので、龍の手水です。センサーがついており近づくと水が出る仕組みで節水しています。目黒不動は羅漢寺川が削ったはけにありもともと湧水が豊富なのですが、手水は水道水なのでしょう。


大日如来

持国天
ご本尊はもちろん不動明王です。お不動様は大日如来の化身でご本堂の裏に大日如来座像が控えており、その四隅を四天王がお守りしています。


大日如来の後ろのお社

大鳥神社へ向かう山車
目黒不動の最奥にひっそりとお社がありますが、その横にある山車は大鳥神社へ向かうものです。


青木昆陽先生墓

海福寺

五百羅漢寺
羅漢寺さんは有料なので普段寄らないのですが、初めて中に入って見ました。紹介したいコンテンツが目白押しなのですが、撮影禁止でご紹介できないのが残念です。


蟠龍寺

岩屋弁天

ハギ

大聖院のキリシタン灯篭
この日も暑かったのですが、あちらこちらで萩を見ました。季節は確実に進んでいます。キリシタン灯篭は近くにあった島原藩の下屋敷から移されたものです。




大鳥神社
地元の烏森神社と比べればまだ盛況ですが、近ごろどこのお祭りも貧弱です。千年以上の歴史を誇る目黒区最古の神社も同様のようです。


区民センター
台風の影響があったこの日はゴールでのストレッチ中に雨に祟られました。区民センターで雨宿りの後、中目黒にある高級イタリアン“サイゼリヤ”でマグナム二本開けて、勢い余ってONCEで相撲観戦でした。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
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【番外】さくら歩こう会

2019-09-06 11:06:10 | ウォーキング
“よじごじDays『厳選!都内最強の金運&健康運スポット』:石塚英彦”に映っているかもしれません。9月9日15時40分からテレビ東京です。



等々力駅側等々力渓谷入口

カタツムリ

ゴルフ橋から見た渓谷
ブログを見たという某会社より連絡があり、「等々力渓谷を歩いてほしい」とのことで、歩いてきました。会長は当初「取材」と言っていましたが、実態はエキストラですね。
渓谷内は下界と比べて2度程度温度が低くなっています。初めは涼しいと感じるものの、湿度も高いのでやっぱり暑いです。


ゴルフ橋と渓谷

渓谷下流方向
ゴルフ橋とは変な名前だと思っていたのですが、この場所が東急のゴルフ場だった時にかかっていた橋とのこと。こんなところにゴルフ場があったのかと思いましたが、駒沢公園、砧公園も元はゴルフ場なのです。高速道路もない時代、都心部からゴルフに行くにはこのあたりがちょうどよかったのでしょうか。プレーするにはお金がかかったでしょうね。


手水

稚児大師

不動の滝

ちょっと紅葉
恒例となっているすこやか歩こう会の等々力渓谷コース、今年は高温のため中止になりここを訪れるのは二年ぶりです。歩こう会で訪れた時は素通りしてしまうのですが、この日はゆっくり見ることが出来ました。カエデの葉がちょっとだけ赤くなっています。紅葉の時期もいいかもしれません。


撮影風景
出演は島田秀平さん、梅田彩佳さんです。興味のある方はビデオの予約を!


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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【下見】文化財めぐり下目黒コース 約3.0km

2019-09-05 15:38:13 | ウォーキング
週半ばになり週末に歩くコースを下見しているのだからまさに泥縄です。でも暑い日がいつまでも続いた今年の夏は下見に行けるような日もありませんでした。また、区内だし、コースはほとんど知っている道なので下見は必須ではありません。それでも地図を見て「へぇ、こんな道があったのか」と思ったり、本番一回だけでは見逃してしまうところもあるかもしれないので涼しかったこの日下見をすることにしました。今回の引用で註釈のないものは目黒区のホームページからのものです。

文化財めぐり(下目黒地域)の概要
下目黒地域は、目黒区内でも寺社が多く集まり、見所の多い地域です。
前半は、夕日の丘といわれた現在のドレメ通りから、目黒川方面へ歩きます。夕日の丘は、夕映えが美しい江戸期の名所でした。昭和の初め頃には、数百坪を1区画として分譲され、政財界の有力者が多く住んだそうです。また洋装教育の先駆けとなったドレスメーカー女学院も建設され、独特の落着いた街並みが形成されました。
後半は、目黒不動として親しまれている瀧泉寺、明治40年代に移転してきた羅漢寺と海福寺、旧下目黒村の鎮守、大鳥神社など、江戸期を偲ばせる文化財を見学します。



夕日の丘(品川区大崎四丁目周辺)
淀橋台の先端に位置し、目黒川の谷を隔て西の荏原台と向かいあった高台です。名の由来は、この丘の夕映えがたいへんに美しかったことによりますが、一説では、目黒不動に参詣し江戸へ帰る人がこの丘から振り返ると、荏原台に夕日が沈む様がまことに美しく、誰言うとなくこの名が付いたといわれています。


町会掲示板
町会の名前が「夕陽町会」でした。さすが夕日の丘。


アンセルモ教会

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能楽堂
ドレメ通りにある、ドレメ以外のものを集めて見ました。






ドレメ通り(品川区大崎四丁目)
杉野学園は、大正15年(1926年)、東京市芝(現在の港区)に杉野芳子ドレスメーカースクールとして開校し、同じ年の11月に現在の場所に移転して多くの服飾関係者を輩出してきました。特に第二次世界大戦後は、これからは洋装の時代と、多くの入学希望者が押し寄せたということです。学園の校舎がこの通り沿いに並び、現在は“ドレメ通り”とよばれています。
また、この通り沿いには、屋根と周囲をガラス張りにして自然光を利用するグラス・ステージを持つ、日本で初めての映画撮影所が明治41年(1908年)につくられました。



かめのこうばし
目黒川にかかる人道橋です。


かむろ坂(品川区西五反田四丁目)
お葬式の後焼き場へ向かう時にとおる坂でこれまでちょっとネガティブなイメージがありました。比翼塚と関連があったのですね。
「かむろ」とは、肩までで髪を切りそろえた児童期の髪型です。遊郭で遊女に仕えた童女がこの髪型をしていたので、狭い意味では遊郭の童女を指します。
かむろ坂の名は、江戸時代の平井権八と小紫の悲恋話に由来します。
遊女小紫と深い仲となった鳥取藩浪人の平井権八は、金を得るために辻斬りを繰り返し処刑されます。小紫は、目黒不動の近くにあった東昌寺に平井権八の墓を訪れ、自害して後を追います。小紫が帰らないので、店の主人はかむろを様子見に遣わしますが、帰り道で暴徒に襲われ、かむろはこの付近にあった池に飛び込み亡くなりました。これを悼んで坂の名になったと伝わっています。



比翼塚
平井権八がなぜ講談・浄瑠璃・歌舞伎・映画等に取り上げられる存在なのか、ネットで簡単に調べても理解できませんでしたが、Wikipediaに聞き覚えのあるセリフがあったので、「伝説・物語」の項目から引用します。
幡随院長兵衛(1622年 - 1657年)とのエピソードが多く語られるが、実在の長兵衛は1657年に殺害されており、時代にずれがある。『浮世柄比翼稲妻』(四代目鶴屋南北、1823年)における二人の鈴ヶ森での出会い(御存鈴ヶ森)で、長兵衛に「お若えの、お待ちなせえやし」と問われ、「待てとお止めなされしは、拙者がことでござるかな」と応える台詞が有名である。長兵衛との説話では、権八はこの後、長兵衛の食客となったとされ、「権八」といえば「居候」を意味するほどに普及したエピソードである。
「白井権八」と「小紫」を描いた歌舞伎狂言や浄瑠璃を「権八小紫物」と呼び、ほかにも、『江戸名所緑曾我』(1779年)、『驪山比翼塚』(吉田鬼眼・桂川甫粲、同年)等がある。
吹上宿には、権八の辻斬りに由来した「荊原権八延命地蔵」がある。
1852年6月-7月(嘉永5年5月)、三代目歌川豊国(歌川国貞)が『東海道五十三次の内 川崎駅 白井権八』に描いた権八は、『浮世柄比翼稲妻』のうちの『鈴ヶ森』の場であるが、六郷の渡しをバックに描かれている。







目黒不動(瀧泉寺) (目黒区下目黒三丁目20番26号)
大同3年(808年)に慈覚大師が開いたと伝わる天台宗寺院です。
本尊は不動明王で、本堂裏には銅造の大日如来坐像(だいにちにょらいざぞう)(目黒区指定文化財)が安置されています。前不動堂(まえふどうどう)(東京都指定文化財)は、やはり不動明王をまつっています。
その他、目黒区指定文化財の役の行者倚像(えんのぎょうじゃいぞう)や勢至堂(せいしどう)などがあります。また裏山の墓地には、サツマイモ栽培を広めて飢饉から人々を救った青木昆陽の墓(あおきこんようのはか)(国指定文化財)があります。





海福寺(目黒区下目黒三丁目20番9号)
万治元年(1658年)、隠元禅師が深川に開いた黄檗宗の寺です。
明治43年(1910年)に現在地に移転してきました。本堂は日比谷にあった中山大納言家の邸宅を移築したものといわれています。山門の手前には、東京都指定文化財の文化四年永代橋崩落横死者供養塔及び石碑(ぶんかよねんえいたいばしほうらくおうししゃくようとうおよびせきひ)があります。山門の朱塗りの四脚門(しきゃくもん)は目黒区指定文化財です。
境内には、東京都指定文化財の梵鐘(ぼんしょう)があります。また、武田信玄の館にあったと伝わる九重の石塔がありますが由来など詳細は不明です。


後の行程はだいたいわかるだろうと下見を省略しましたので、文化財めぐりの説明だけ引用しておきます。
五百羅漢寺(目黒区下目黒三丁目20番11号)
黄檗宗の寺として、元禄8年(1695年)に本所に開かれました。
羅漢堂のほか螺旋構造の通路がめぐる「さざゐ堂」と呼ばれた建物があり、江戸名所として富嶽三十六景にも描かれましたが、幾度かの天災に見舞われ、明治41年(1908年)に現在地に移転しました。
現在、本堂と羅漢堂に、松雲禅師が浄財を集め十年あまりをかけて彫刻した五百羅漢像(ごひゃくらかんぞう)などのうち、305体が残され、東京都指定文化財になっています。
境内には、戦時慰問で広島を訪れ原爆の犠牲となった、移動演劇団さくら隊の原爆殉難碑などがあります。

蟠龍寺(目黒区下目黒三丁目4番4号)
宝永6年(1709年)、行人坂付近にあった称明院(1648年創建)を現在地に移し、戒律を厳守する寺として名を改めました。今でも、参道の右手に酒などの境内持込み禁止を刻んだ結界石が残り、戒律の厳しい寺(律院)の名残を留めています。
本尊の阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)は平安時代の作で、東京都指定文化財になっています。また、山手七福神(やまてしちふくじん)のひとつに数えられ、本堂脇の岩屋には石造の弁財天がまつられています。

大聖院(目黒区下目黒三丁目1番3号)
弘治3年(1557年)に開かれたと言われます。江戸時代は隣の大鳥神社を管理する寺でした。
境内には、織部形の石灯篭が三基あり、切支丹灯篭ともよばれています。
これは、千代ヶ崎(現在の目黒区三田付近)にあった島原藩主松平主殿頭の抱屋敷から移したものと伝えられています。

大鳥神社(目黒区下目黒三丁目1番2号)
旧下目黒村の鎮守ちんじゅで、ヤマトタケルノミコトを主神としてまつっています。大同元年(806年)創建と伝えられ、目黒区内で最も古い神社です。
毎年11月の酉の日に開かれる酉の市には、縁起物の熊手を売る露店が立ち並び、多くの人が訪れます。
また、毎年9月の例大祭には太々神楽「剣の舞」が、11月の酉の市には太々神楽「熊手の舞」が奉納されます。



すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


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