目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

原宿とその界隈コース 約4.8km

2023-09-21 11:17:15 | 東京都渋谷区
この夏の猛暑で、すこやか歩こう会の活動も大きく影響を受けました。8月は4回中3回が活動中止、9月初回の活動も中止となりました。この日のウォーキングは8月2週に実施できなかったコースを再企画しています。


代々木公園原宿口
集合場所は代々木公園入口。会員の皆さんは時間まで日陰で待機です。


カルチェの看板
ビルの窓を使った大きな看板、室内はどうなっているんだろう?


竹下通り
午前中の竹下通りはまだ歩けるレベル。このコースを一度午後に実施したことがあり、人が多くて歩くことが出来ずそれ以来午後ここを歩くことはなくなりました。


スシニンジャトイレ
竹下通りから東郷神社への入り口、昔から公衆トイレがありましたがずいぶん前からスシニンジャトイレとなり外装が派手になりました。渋谷区のデザイナーが手掛ける公衆トイレの一環かと思ったら、単なるネーミングライツとのことで、外観の構造は以前と変わっていませんね。



東郷神社
事情により私は東郷神社まで。本隊はこの後、明治通りを横断しキャットストリートを南下して穏田神社。参道を出て北東へ進み右折してねっこ坂、神宮前住宅を左折し大山巌邸宅跡の看板を見て表参道。伊藤病院とApple表参道の間の道を北へ進み、まい泉の前をさらに北へ、キラー通りの手前で左に折れ東へ、原宿発祥之地碑がある妙圓寺で休憩。再び東へ向かい、明治通りを横断し千駄谷小学校交差点を左折し原宿駅方面へ戻り、代々木公園原宿口でストレッチをして解散です。

一部有志は中目黒へ戻り鳥元で反省会をしたとのこと。この日も暑さの中でのウォーキングとなりました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原宿とその界隈コース 約4.8km

2022-08-21 14:25:00 | 東京都渋谷区
猛暑日にはならない予報でしたが湿度が高く汗だくのウォーキングとなりました。


代々木公園原宿門
昨年この時期は熱中症の危険で中止となり、11月に再挑戦しました。11月からは午後のウォークになることを失念して設定し、混雑した原宿の街を歩いて失敗だったと反省したことを覚えています。この場所もロックンローラーなどで騒がしかったのですが、朝10時の時点では穏やかな様子でした。


原宿駅前交差点
ちょっとわかりにくいですが表参道の入口に「ハリネズミカフェ」なるものが。


ごりんばし

原宿駅

竹下通り
竹下通りも谷筋にありますが、もともとは清正の井戸を水源とする川が流れていて穏田川(渋谷川)に合流していました。


東郷神社

寅年の絵馬

砲弾
まずは神社について東郷神社のサイトから引用しておきます。英語もあるのでそちらも
東郷神社とは
 東郷神社は東郷平八郎命をおまつりする神社です。「至誠」「勝利」「強運「縁結び」の神様として多様な世代から崇敬を集めています。
 東郷平八郎命の「至誠(まごころ)は神に通じる」とその一生を貫かれた御徳を後世に顕彰するため、神社におまつりしてほしいと国民からの要望と浄財によって創建された神社です。日本はもとより、世界中の方々からの崇敬を集め、数多く参拝者が訪れています。

Togo jinja worships Togo Heihachiro Mikoto. He is revered by various generations as the god of “Sincerity”, “Victory”, “Fortune”, and “Relationship”.
This jinja was built by the wishes and property of the people to leave his honor and virtue “Sincerity reaches the god” to posterity. Many people visit our Jinja from all over the world as well as Japan.


境内に展示されている椎の実型の砲弾を日本人が初めて見たのは薩英戦争の不発弾で、従来の砲弾と比べ飛距離が三~四倍になったとか。銃弾にもこの形が導入され、長州奇兵隊を起源とする官軍が使用するエミー銃は幕府軍が使用する火縄銃とは比較にならないほど命中精度が高かったようです。




東郷記念館
昨年は改修工事で池まで行けませんでしたが、工事は終了していました。


明治通りの竹下口
表参道には一流ブランド、明治通りやキャットストリートにはスポーツブランドや山用品のブランドが目立ちます。


旧渋谷川遊歩道路の空地
結構な段差があることが分かります。水車があったくらいだから穏田川にはそこそこの水量があったようです。


ライフガードスクエア超生命体広場
中学生の頃によく飲んだチェリオという飲料メーカー運営しているようです。


交番の後ろのラルフローレン

表参道

キャットストリート商店会
バナーは水車と富士山が描かれ穏田推しですね。




穏田神社
絵馬は一人の人が書いているようで、ラブライブ!という漫画だかアニメに関連して穏田神社と神津島が聖地になっているようです。内容については全くわからないのですがこの組み合わせに興味を惹かれて。高校生の時英語で赤点を連発していた私が通うことになった塾で神津島旅行に連れて行ってもらったこと。その塾の先生がかつて穏田のお嬢様だったこと。こんな偶然の組み合わせがあるんだ。


ノウゼンカズラ

蘇民将来子孫
このお札の意味は知らなかったのでWikipediaから引用します。
蘇民将来(そみんしょうらい)は、備後国風土記に記された人物であり、日本各地に伝わる説話、およびそれを起源とする民間信仰となっている。こんにちでも「蘇民将来」と記した護符は、日本各地の国津神系の神(おもにスサノオ)を祀る神社で授与されており、災厄を払い、疫病を除いて、福を招く神として信仰される。また、除災のため、住居の門口に「蘇民将来子孫」と書いた札を貼っている家も少なくない。なお、岩手県県南では、例年、この説話をもとにした盛大な蘇民祭がおこなわれる。陰陽道では天徳神と同一視された。


ザクロの実

大山巌邸跡

とんかつのまい泉
表参道を横断し、伊藤病院の脇の道を北へ向かいます。かつてまい泉の隣が銭湯だったという話をノルディックウォーキングでお世話になっているJOJOから何度か聞きました。



妙圓寺
切り株は欅でしょうか。


明治通り

ボーネルンド 本店

神宮橋

明治神宮
明治通りの千駄ヶ谷小学校交差点を左折して原宿駅に戻ってきます。質素倹約を旨とする明治天皇を祀る明治神宮の鳥居は倹約のため白木となっています。

代々木公園原宿門へ戻りストレッチをして解散しました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おまけ

2021-11-22 09:38:02 | 東京都渋谷区
先週のウォーキングの集合場所である代々木公園まで歩いてゆく途中の風景です。


旧山手通りのジャカランダ
心眼レベルの写真になってしまいましたが、よく見るとジャカランダの紫色の花がちらほら咲いています。ハワイ島で見て印象に残った花木なので夏の花だと思っていました。


渋谷ストリームのかまぼこ屋根
東横線渋谷ターミナル駅のかまぼこ屋根にノスタルジーを感じる人もだんだんと少なくなってくるのでしょうね。先日大改造を終えたJRの渋谷駅も少し見えていますが、今度見に行こうかな。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原宿とその界隈コース 約4.8km

2021-11-16 10:58:22 | 東京都渋谷区
このコースは渋谷区のサイトに掲載されていたのですが、現在掲載されている「シブヤウォーキングマップ」には掲載されていません。原宿界隈を知るにはよいコースですが時間帯によっては人が多くウォーキングには不向きということかな?
すこやか歩こう会では8月8日のコースとして設定し雨で流れ、9月18日の再設定も雨で流れました。三度目の正直となりましたが、11月から4月は午後の活動となっていることを失念していました。日曜日の午後、原宿の活気を知るにはよい機会となりましたが人が多くウォーキングには不向きでした。


代々木体育館
NHK杯フィギュアスケートのエキシビションが行われていました。


五輪橋

竹下通り

一本北の道
五輪橋を渡ると原宿駅から表参道方面へ向かう人の波で身動きが取れないほどです。混雑を避け竹下通りの一本北の道で東郷神社へ向かいます。会員には「希望者は竹下通りを歩いてもいいですよ」と言ってあったのですが、だれもこの混雑の中を突き進む勇気はなかったようです。



東郷神社

東郷記念館

祈念旗
竹下通りの混雑と比べると東郷神社は落ち着いたもので、七五三参りの家族が何組かいる程度です。東郷記念館は改装中のようでお庭にも入ることが出来ません。「Z旗」、国際信号旗のZ旗には「勝利」の意味はないのですが、東郷平八郎がこの旗を特別なものにしたとのこと。


スニーカーショップ

表参道

キャットストリートのたこ焼き

ティファニー
竹下通りを抜けて明治通りを横断するスニーカーショップがたくさんある道は竹下通りなのかな?裏原宿の入口というイメージですが、私自身裏原宿が分かっていないかもしれません。歩道橋で表参道を横断するとキャットストリート。ティファニーの猫が分からなかったけど、キャットストリートにちなんだデザインでしょうか。ブラタモリのパイロット版ではこのたこ焼き屋さんでたこ焼き買って久保田アナと二人で食べていたと記憶しています。「ティファニーでたこ焼きを」なんてパロディーを考えていたらふと「下落合焼とりムービー」を思い浮かべネットで検索。めずらしく小森のおばちゃまが酷評したというこの映画をちょっと見てみたい気になりました。時間の無駄か?


穏田神社拝殿

河野タカ

神輿
河野タカさんは明治時代の教育者で神社の氏子とのこと。末社の稲荷神社を再建に携わったということでここにいらっしゃるのかな。穏田を調べているといろいろ興味深い記述が見つかり、「穏田マンション」は岸田総理と関連がある。古くからの住人に聞いてみようかな。


神宮前社宅
好立地にある団地は都営住宅かと思いましたが公務員住宅のようです。外壁塗装したのか大規模修繕したのか奇麗になりました。同じ一角に「大山柏邸跡」があるので、大山巌公爵の邸宅の跡地かもしれません。


表参道のケヤキ
表参道のライトアップは一時行っていなかったと思うのですが、今年はライトアップを行うようで、電球がついています。たぶんLEDだと思うので、電球と言ってよいのかどうか。ケヤキは日本では一般的な木ですが、欧米ではそうでもないようです。Wikipediaから引用してみます。
分布
朝鮮半島、中国、台湾と日本に分布し、日本では本州、四国、九州に分布する。暖地では丘陵部から山地、寒冷地では平地まで自生する。

自然分布の他に、人の手によって街路や公園、人家のまわりにも植えられたものもよく見られる。


ケヤキを英語で“zelkova”と言いますが、この単語は英語圏に人にもなじみがないようで通じません。“a kind of elm”と言うと分かってもらえます。“elm”は楡の木です。楡もWikipediaから引用してみましょう。
象徴
ヨーロッパでは楡と葡萄は良縁の象徴とされる。この風習は元々はイタリア由来とされ、以下のような話がある。古代ローマ時代からイタリアではブドウを仕立てる支柱としてニレを使うために、ブドウ畑でニレも一緒に栽培していた。成長したニレは樹高3m程度のところで幹を切断する。ニレは萌芽を出すのでこれを横方向に仕立ててぶどうの蔓を絡ませてやるのだという。古代ローマの詩人オウィディウス(Ovidius、紀元前43-紀元前26年)はこれを見ていたく感動し、ulmus amat vitem, vitis non deserit ulmum(意訳:楡はブドウを愛している。ブドウも傷ついた楡を見捨てない)という詩を読んだ。
この話はローマ神話の神で恋仲だった季節の神ウェルトゥムヌスと果実の神ポーモーナの話としても好まれ、ルネサンス時代には絵画の題材としてもよく描かれた。
他にも北欧神話に登場する人類最初の男女アスクとエムブラのうちのエムブラ(女)が最高神オーディンに息を吹きかけられたニレから生まれたとされる。ギリシア神話では詩人で竪琴の名手だったオルペウスが妻の死を悼みニレの木の下で泣いたとされ、悲しみの象徴とされることもある。


楡の木はヨーロッパでおなじみのようですね。


まい泉青山本店
今年のお鷹狩りのコースだった都営青山北町アパートにはもともと風呂がついていなかったのでみんな銭湯に通っており、その銭湯の跡がとんかつ屋になったと聞いていました。「まい泉=銭湯を居抜きで利用」との印象が強かったのですがちょっと違っていたようです。少し長くなりますがまい泉のサイトから引用します。
【コラム】まい泉青山本店レストラン「西洋館」の工事中に、驚きの遺跡発掘?!
 まい泉青山本店レストランは1978(昭和53)年に開業し、1983(昭和58)年には隣接していた銭湯「神宮湯」の廃業にともない、その建物を譲り受け、「西洋館」という名のダイニングルームを増設して営業してきました。この「西洋館」はお客様から『旧き良き昭和の日本建築に懐かしさを感じる』『天井が高くて、ゆったりした気分でお食事ができる』など、国内外のお客様から長らくご愛顧をいただいてまいりました。
 今年の2月より青山本店レストランの改修工事をおこなっていますが、「西洋館」の工事中、思いがけずかつての「神宮湯」の名残りが見つかりました。そこで、銭湯文化研究の第一人者で、かつての「神宮湯」をご存知の社団法人 日本銭湯文化協会理事 町田 忍様に現場をみていただき、おはなしを伺いました。


* * * * * * * * * * * * * * * * * *


 さて以下が神宮湯銭湯時代のわかったことです。
1982(昭和57)年ころまで営業。創業は不明。典型的な東京型銭湯の代表格の様式です。特徴は宮造り型。脱衣場天井は格子状の社寺風の最上級の「折り上げ格天井」の吹き抜け(脱衣場が吹き抜けは東京型銭湯の特徴)であった。
庭は富士山から運んだ溶岩と高級な大きな庭石、創業時は錦鯉がいたと思われます。建築年代はその外観の様式からして戦後から1965(昭和40)年ころまでと思われます。


■浴室・・ペンキ絵
 湯船が壁際にある東京型銭湯・その上にペンキ絵背景画があります。絵の下には近所のおみせの広告看板(業界用語でコマ)がはいるスペースが残っています。これはかつて銭湯専門の広告代理店が地域ごとにあり、そこに所属する絵師が描きました。神宮湯場所からして「美虹社」(現在消滅)という広告代理店が担当しており、絵はおそらく年代からしてそこに所属していた「木村進」さん(故人)が描いた絵と推測されます。当時広告が年に一回更新時ごとに集金、その代金で年一回無料で新しい絵にしていたのです。したがって銭湯は費用を負担することなく毎年新しい絵になりました。
 このようにペンキ絵は本来1年という短い期間しか残されていないわけで、そのことからするとまい泉さんのこの絵は40年以上前の大変貴重な絵で銭湯文化遺産といっても過言でない絵と思います。
 
■タイル絵
 左浴室ペンキ絵下に小さいタイル絵があります。鯉の尻尾の部分です。これは九谷焼です。この部分に鯉のタイル絵があるのは昭和40年代までの東京の銭湯に多くみられました。なぜならばこれらタイル絵は全ては金沢のタイル店『鈴木建材店」のご主人が戦前から見本帳を持って全国をセールスした結果でした。とくに東京の銭湯のオーナーの約8割が北陸(石川・新潟・富山)出身でしたので、石川県の金沢などで生産されていた九谷焼はその高級感と故郷に近いこともあり盛んに利用されました。またこの地域は鯉の生産地としても有名でした。
 神宮湯のタイル絵を描いたのは金沢にいた石田庄太郎さん(画名「章仙」)は大正3年生まれ(故人)。都内の多くの銭湯のタイル絵を手がけました。神宮湯に残ってるのはわずか4枚ほどですが。同じタイル絵の完全版は現在、渋谷のもと同潤会文化アパートの敷地にある公園に記念で残されています。
 以前、章仙さんにインタビューした際「鯉の絵が多いのは、お客コイコイと登竜門の縁起からで、12匹描くことが多かったのは12ヶ月お客コイコイからです」との話でした。


* * * * * * * * * * * * * * * * * *
 
 いかがでしたか?文中に出てくる、ペンキ絵やタイル絵はお客様にはご覧頂けませんが、この「神宮湯」の名残や思い出は大事に次世代に引き継いでいきたい、という思いから、ご紹介させていただきました。「西洋館」は7月末には改修工事を終え、リニューアルオープンをさせていただきます。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げております。



原宿発祥の地
妙圓寺境内にあります。


自昌院自筆法華経 (じしょういんじひつほけきょう)八巻 附函
神宮前三丁目8番9号 日蓮宗 蓮光山 妙圓寺
区指定有形文化財 平成二十八年十一月二十一日
 妙園寺が所蔵する法華経八巻は、広島藩二代藩主浅野光晟(みつあきら)の正室である自昌院(満姫(まんひめ))により、万治二年(1659)二月三日に写経されました。
 巻子本(かんすぼん)に仕立てられたこれらの経典は、見返しに箔地に日輪と月輪及び文殊と普賢菩薩が描かれ、鳥の子紙を使用した写経料紙には、金泥(きんでい)による優美な装飾が施されています。
 自昌院は、加賀藩三代藩主前田利常(としつね)の娘として、元和五年(1619)十二月十五日に金沢で誕生しました。母親は、徳川秀忠の娘珠姫(たまひめ)です。その関係からか、満姫は徳川家光の養女となって、寛永十二年(1635)九月に浅野光最に嫁ぎました。満姫は、万治元年(1658)十月十二日に実父利常の死去をうけて剃髪したようで、自昌院と号しました。自昌院は熱心な日蓮宗信者で、維司ヶ谷の鬼子母神堂や広島の菩提寺となる自昌山國前寺(こくぜんじ)を建立しています。
 法華経は、自昌院の写経にみられるように、日蓮宗の根本経典であるばかりでなく、女性の成仏を説く経典として、中世以来女性に信仰されてきました。
 自昌院による日蓮宗妙園寺への法華経の寄進は、自身が日蓮宗信者による者であるとともに、女性ならではの法華経信仰を持っていたからと
考えられます。
 妙園寺は、安房小湊の本山誕生寺の末寺で、山号は蓮光山(れんこうざん)です。寛永四年(1627)に円成院(えんじょういん)日光が四谷千日谷に草庵を営んだのが始まりとされています。その後、日寛が当寺を再興し、宝永三年(1706)に現在の地に移転をしました。
 本法華経は、保存状態が極めて良く、経函(きょうばこ)などを含めて自昌院が奉納した当時の姿を今に伝える貴重な文化財です。
渋谷区教育委員会



穏原小学校旧跡
神宮前三丁目8番
この道路の向かい側に、かって穏原小学校がありました。
この学校は、妙円寺などの寺子屋の児童を収容し、隠田・原宿両村の連合公立小学校として、明治十四年(1881)に、当時の原宿七十番地に開校したもので、当初の児童数は二十四名にすぎませんでした。しかし、付近の住宅化が進むにつれ児童数も増加したため、同二十一年にこの場所に校舎を新築し、移転してきました。
その後、校地が再び狭くなり、同三十三年に原宿百七十番地に移転、さらにまた、現在原宿中学校がある場所に移りました。
この間、大正十一年には分教場(現在の神宮前小学校)を設け、めざましい発展を遂げたのですが、昭和二十年五月の空襲によって校舎を焼失し、児童数も激減したため、在籍児童を神宮前小学校に移し、同二十一年三月、六十五年にわたる歴史の幕を閉じましたが、この間はぐくまれた建学の精神は、多くの卒業生によって受けつがれております。
渋谷区教育委員会


この説明看板かつても読んでいるのですが、今更ながら気づいたことがあります。字名だと思っていた穏田や原宿は村でした。穏田村は江戸時代、武蔵国豊嶋郡穏田村で上目黒村の荏原郡とは異なる郡です。Wikipediaから引用してみると江戸時代 - 武蔵国豊嶋郡穏田村(幕藩体制下においては武州〈天領〉伊賀者給地穏田村)/朱引内の一地域。と伊賀者に与えられた土地で江戸御府内です。江戸時代以前、律令制では江戸国はなく、武蔵国の中の江戸氏の領地で、徳川家康の江戸入府以降地図に朱色の線をひき朱引内と朱引外に分けられました。江戸というのは武蔵国内に定められたコロンビア特別区のようなものでしょうか。


センリョウ

ロータス

ボーネルンド
妙圓寺で給水休憩後北西に向かい、原宿警察署近くから明治通りを歩き、千駄ヶ谷小学校交差点を左折し、原宿駅側部乗降場 (宮廷ホーム)を横目で見ながら人ごみの原宿駅を何とか通過し、代々木公園原宿門まで戻ってきました。

ストレッチ後解散。午後の原宿は訪れるもんじゃないと改めて思いましたが、原宿本来の賑わいを見たという点でちょっとだけ価値があったウォーキングになったでしょうか。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【散歩】広尾東北寺

2021-02-26 11:46:06 | 東京都渋谷区
代官山・恵比寿・広尾コースのブログを書いていて気になった東北寺を目指して、一眼レフをもって散歩してきました。



コブシの花芽

ジンチョウゲ
この写真を撮ったのは2月17日。すでに一週間が過ぎ、コブシは花開きジンチョウゲは香りを放ち始めました。


庚申塔群

馬頭観音

壊れた庚申塔

説明書き

庚申塔
所在地 東京都渋谷区恵比寿西2-11-7
 庚申信仰は、江戸時代に盛んに行われ、多くの講(グループ)が作られました。それにともない、たくさんの庚申供養塔があちこちの路傍に建てられたのです。
 その信仰とは、60日ごとに巡ってくる庚申の夜、うっかり寝てしまうとそのまま死んでしまうことがあると信じられていました。庚申の日は、一晩中飲んだり食べたりしながら語り明かして、眠らないようにして過ごしたのです。その仲間を庚申講と呼びました。
 ここには五基の庚申塔と馬頭観音が一基あります。
 囲いのなか向かって右側より、寛文8年(1668年)、延宝4年(1676年)、延宝2年(1674年)、寛文4年(1664年)の庚申塔があり、明治38年(1905年)の庚申塔は馬頭観音と共に囲いの外に建っています。

渋谷区教育委員会



恵比寿駅西口
トイレに行こうと思って恵比寿駅に向かったのですが、当てにしていた公衆便所は工事中でなくなっていました。


東三丁目の庚申塔
江戸時代にはシュロの木はなかったでしょうね。外来種ですが調べてみると平安時代から日本にあるとのこと。江戸にもあったのかなぁ?時代劇には出てきそうにありません。



庚申塔

説明書き
 渋谷区東三丁目17番17号
庚申橋供養碑
 この橋供養碑は、寛政11年(1799)にたてられた数少ない珍しいものです。上部の青面金剛像のほかに、四面すべてに、橋講中世話役や万人講及び、個人の名が多数刻まれています。
 それらの人びとの地域をみますと、渋谷はもとより麹町、赤坂、芝、麻布、四谷、大久保、池袋、市ヶ谷方面から、目黒、中野、世田谷、荻窪といった広い範囲にわたっています。
 こうしたことからみますと、庚申橋を通る道は、江戸時代には重要な交通路であったことがわかります。
 渋谷区教育委員会



渋谷川とミモザ


阿弥陀石棺仏

説明書き
 東三丁目10番13号 曹洞宗 渋谷山 福昌寺
 区指定有形文化財 平成19年3月1日
阿弥陀石棺仏

石棺仏とは、古墳時代の石棺を転用して、そこに仏像を彫り込んで路傍に立て庶民が礼拝の対象としたものです。本石棺仏は、古墳時代中後期頃の家型石棺の蓋を利用しており、その内側は長方形に彫り窪められています。中心部に表されるのは蓮台上に立つ阿弥陀如来像で、船形光背を負い、来迎印を結ぶ姿が浮き彫りにされています。現存する阿弥陀石棺仏の多くが座像であり、このような立像は稀な例になります。
この石棺仏の材質は、兵庫県高砂市・加西市付近を産地とする播磨竜山石と考えられます。石棺仏が彫られた時期は、その像容や年紀を持つほかの作例から見て、南北朝時代頃と推定されます。現状は石棺蓋の上端部に物が奉置されるような窪みが穿たれていますが、阿弥陀如来像や蓮華座に破損や摩滅等がほとんど見られず、保存状態は比較的良好です。
この阿弥陀石棺仏は、和歌山県那賀郡から運ばれて来たものと伝えられ、昭和25年頃に造園業を営む東光園が入手して当寺に寄進したもので、東京では本例のみという珍しいものです。
 渋谷区教育委員会



花供養塔

説明書き
花供養塔由来記
 花は天地自然の美しき心を姿色香にあらわし 人の世の喜怒哀楽につけて その人の心を和らげ慰め励まし無量の福楽を与え来れるものなり
 その花を己が商とすることを天職と思い 花を愛し 花と天地自然に感謝しつヽ生花を商う 願心の施主横山サダ及び同業の有志相寄りて人々の心を慰め散り行ける多くの花の命に感謝し慰霊せんものと 渋谷山福昌寺の聖域をトし 茲に供養塔を建立し 併せて施主家の家門興隆同業有志各家の繁栄 業界の発展を祈念するものなり
 昭和丙辰51年4月吉日
 花供養塔建立協賛会






法雲寺

白鴎観音の由来
 この観音像は大正十一年東京美術学校出身、日展無審査の服部仁郎氏の作で楠木を用い、また台座は前田文六氏の作であります。
 本観音像は服部氏が昭和十六年に、戦争が一日も早く終わるように祈りをこめて制作に着手し、同十八年十月に完成開眼されました。昭和四十年、時あたかも終戦二十周年を機に、同氏の深い想いにより、社団法人白鴎遺族会に寄贈を賜りましたものです。同会は法雲寺本堂に安置し、毎年六月に慰霊法要を続けてまいりました。
 白鴎遺族会は、海軍飛行科予備学生、予備生徒出身の戦没者の遺族と生存同級生によって昭和二十一年に結成され。戦没者の慰霊と遺家族の援護を継続している団体であります。海軍予備学生、予備生徒とは旧制大学、高等学校、専門学校の卒業生、修了者から採用され、飛行科は一期より十六期の予備学生と、一期より三期の予備生徒まで、総数は一万五千百四十九名でありましたが、大空の戦いに二千四百八十五名が戦死されました。その中で神風特別攻撃隊として戦死した士官搭乗員七百六十九名の内には実に六百五十八名の予備学生・予備生徒が、雲流るる果てに散華しました。
 特に十三期は一千六百十六名が戦死し、同期の三分の一を失いました。十三期出身である法雲寺住職岡村泰遠氏は友の冥福を祈り、先々の人々が白鴎観音を、至純の志をもって国難に殉じた若き学徒の化身として仰ぎ、彼らが最も願っていた永遠の平和を共に祈っていただくため、観音堂を建立しました。
  平成十年十月十八日



枯草の壁


東北寺山門

日向国佐土原藩島津家大名墓地への階段


日向国佐土原藩島津家大名墓地
この冬宮崎市砂土原に住む知人と会うことになっていたのが果たせなかったので、Googleマップのこの文字が気になったのだと思います。


門前の紅梅

交差点の英語表記
「Ebisu 2 Chome」と書いてあったのだと思います。Chomeがあると外国人にはわかりずらくなるのでしょうね。


ライオントレーニングセンター

ビール坂商店会

恵比寿ガーデンファーム
以前通っているのですが、ここにライオンのトレーニングセンターがあることは忘れていました。「銀座ライオン」だと思っていたのですが、会社の名前はサッポロライオンなのですね。銀座ライオンという名の店舗を運営しているサッポロライオンという会社。

ガーデンプレイスでビールを飲むこともなく散歩終了で、帰宅の途につきました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする