目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

ウォーキング塾地区活動(北部) 富士コース 約7.1km

2024-06-13 11:35:08 | 東京都目黒区、渋谷区
最近の活動では参加者が20名を超えることが多かったのですがこの日はちょっと少なめ16名でした。ウォーキング日和の曇り空でしたが途中からは少し暑くなってきました。


東京大学教養学部正門

一号館の時計塔
集合は東大駒場キャンパス正門前、井の頭線の駒場東大前駅が最寄になります。ストレッチをして正門からキャンパスの中へ。


キャンパス内のイチョウ並木
開校当時「駒場農学校」だったことを確認し、青々と茂った銀杏並木を歩きます。


駒場公園正門

旧前田邸洋館
野球場のわきを通り北門で東大を出て西へ、今回は駒場公園に正門から入りました。



祖霊社跡地
昭和4年(1929年)、前田利為侯爵が駒場に本邸を建設し、同時に霊社が本郷からこの場所に移築されました。古写真や旧平面図から、霊社本殿、幣殿、拝殿、神饌所、参道などがあったことがわかっています。また、手水鉢、灯籠など石造工作物やコンクリートの基礎部分が、現在も残っています。昭和20年(1945年)に終戦となり、ここ本邸は連合国軍に接収され、霊社は解体されることになりましたが、菅原道真公を祖として仰いできた前田家にとって、ゆかりの亀戸天神が空襲により大きな被害を受け、再建される計画を知り、ここにあった拝殿を昭和22年(1947年)に、亀戸天神社に寄進し、ご本殿として生まれ変わりました。昭和30年(1950年)、亀戸天神社御本殿が再建されることとなり、寄進された社は境内の御岳神社のご本殿として、移築されました。月日は流れ昭和51年(1976年)、御岳神社が再建されることとなり、社は解体され境内各所の建築・修理の用材とされました。こうして、霊社の建造物として長い歴史に終止符が打たれました。なお、前田家は菅原家と同じ幼剣梅鉢紋を家紋としています。
菅原道真公(845-903)は、平安時代の貴族であり、学問、政治、文学にも秀で学者として名が高かった。天神様とは、菅原道真公のことで「学問・至誠・厄除けの神様」として、日本全国から崇敬を集めている。



ケルネル田圃

トマト
駒場公園南門を出て井の頭線踏切を渡り駒場野公園へ。二週間前と違うところは田植えが済んでいる点。駒場野公園内を通り抜け南へ行くと淡島通り沿いに飛び地になった駒場野公園があり、淡島通り向かいには筑波大学付属中高の門があります。この門が明治時代騎兵第一連隊の門として作られたことを説明しました。またこの場所は目黒区と世田谷区の区界にあたりかつては上目黒村と池尻村の村境で、疫病が村に入ってこないよう上目黒川に締め切り地蔵があり今もお参りする人が絶えません。
淡島通りを東へ進みプラウド駒場の先を右折して大橋通りを南へ向かいます。「御用屋敷跡」の説明看板があるので鷹狩りに来た徳川将軍が休憩する御用屋敷があり、管理していたのが綱差し川井権兵衛で、三週間前に寿福寺でお墓を訪れた権兵衛さんの職場であることを説明します。
さらに南へ向かい公務員住宅の大橋住宅の敷地内にある天覧台を見ます。現在の駒場高校陸上練習場を見下ろすこの場所は練兵場で、明治天皇や大正天皇が訪れて帝国陸軍を閲兵した場所となります。江戸時代は徳川将軍、明治になって天皇陛下がたびたび駒場を訪れていたのですね。


ミヤコグサ

オミナエシ

ネジバナ

春秋共演
玉川通りを横断する歩道橋の上で上目黒氷川神社に富士登山道と浅間神社があることを説明し、クロスエアタワーのエレベーターに乗って目黒天空庭園へ。ミヤコグサは菅刈公園の和風庭園にもありますが鳥が種を運ぶのかな?秋の七草のひとつオミナエシと初夏の花ネジバナが並んで咲いているところが面白くて共演写真をとってみました。


ヤマボウシ

ブドウ

ハマナス
エアクロスタワーをバックにヤマボウシの風景はいかにも天空庭園らしい風景です。


猿楽神社

旧山手通りのジャガランダ
目黒川沿いを歩き山手通りを横断して菅刈公園。坂を上り西郷山公園を見て旧山手通りを南東に向かいます。猿楽神社は代官山ヒルサイドテラス内にある古墳です。頼朝がこの場所で猿楽を催しその道具を埋めたので猿楽塚と聞いたことがあるのですがその説は最近見かけません。この先代官山交番近くで元富士の説明をしてさらに南西に向かいます。


別所坂公園
鎗ヶ崎交差点から目黒区渋谷区の区界になる路地を南下してゆきます。私が代官山山脈と呼んでいる淀橋台地の縁が鑓のように狭くなっていたのが鎗ヶ崎で、最初はトンネルが掘られました。路面電車玉川線を通すにあたりトンネルを崩し切通しにしたので、渋谷川の谷と目黒川の谷を行き来するには比較的坂がゆるい通りとなりました。
別所坂公園が目黒新富士であることを説明し富士コースは終了となります。ストレッチをして解散。

めぐろウォーキング塾の地区ウォークはこの日が最後となるので塾生もお誘いして鳥元でランチを食べながら懇談しました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
参加を希望される方はご一報ください。
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代々木公園コース 約4.1km

2023-10-01 11:26:09 | 東京都目黒区、渋谷区
この日の集合場所は井の頭線駒場東大前駅です。


東大駒場キャンパス坂下門
駅西口に最も近いのが坂下門。


正門
正門前のスペースをお借りして、ストレッチを行いスタートです。時計台のある建物一号館は都の重要文化財に指定されています。


オリーブの木
「橄欖の碑」の傍らにあります。橄欖(カンラン)とありますがこの木はオリーブです。カンランについてWikipediaから引用してみます。
カンラン(橄欖、Canarium album)はカンラン科の常緑高木。東南アジア原産。果実は食用にされ、種子からは油が採れるため、東南アジアや華南で栽培される。見かけや利用方法がオリーブに似ているため、オリーブの訳語として橄欖、オリーブ・オイルの訳で橄欖油が用いられたが分類上は関係ない植物である。
夏目漱石の友人であり、第一高等学校で芥川龍之介などを指導した斎藤阿具が留学先から持ち帰り寄贈したもので、オリーブの木を誤って橄欖としたものです。


銀杏並木

たわわなギンナン
たくさん実がついていますね。


クズの花びら
駒場キャンパスを裏門から出て山手通りを歩きます。三田用水を覆った水路跡沿いに多くのクズが花を咲かせています。


ヤマザキカレッジ
ペットブームに乗って、いつの間にかユニバーシティに!

本隊は東へ向かい鍋島松涛公園脇を通り、井の頭通り手前を左折して宇田川緑道へ。井の頭通りを横断した先で宇田川の支流河骨川をたどります。小田急線はこの河骨川沿いを通っているようで、明治神宮西参道の参宮橋はかつて河骨川の橋でしたが、現在は小田急線の跨線橋になっています。
春の小川の碑や、透明なトイレを見て代々木公園内を歩きゴールとなります。


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代々木公園コース 約4.1km

2022-08-27 11:21:51 | 東京都目黒区、渋谷区
日なたは暑かったけれど、陰に入ると秋の風が少し感じられる中でのウォーキングでした。残暑という感じかな。


東大駒場正門
集合は駒場東大前駅西口改札。正門前まで移動してストレッチします。ヒマラヤ杉かな、大きな木が木陰を作ってくれています。


大学名物立て看板

中には警告を受けている看板も
ストレッチ後大学構内を通行させてもらい裏門へ。現在東大駒場構内を通行することは許可されているので、守衛さんに会釈をして正門を通過します。


ヒマラヤ杉

オリーブ
どちらも歴史がありそうです。


101号館
中国との交流の歴史があるようです。「一高中国人留学生と101号館の歴史展」のサイトから引用します。
2019年4月に発足した東京大学と北京大学の共同教育研究プロジェクト「東アジア藝文書院(EAA)」では、東京大学教養学部の前身である第一高等学校における中国人留学生受け入れに関する歴史を紐解く「一高中国人留学生と101号館の歴史展」を開催することになりました。

明治32年(1899)、第一高等学校は、初めて清国より留学生8名を聴講生として受け入れました。これを嚆矢とし、明治36年(1903)には、文部省より京師大学堂からの留学生30余人の教養教育に関する一切の事務を委嘱され、翌年には留学生を入寮させ、授業も開始しました。さらに明治40年(1907)には、清国政府の要請により、文部省は毎年数十名の清国留学生を第一高等学校に入学させ、卒業後は帝国大学に進学させることと定め、その翌年に一高の予備教育を担う「特設予科」が設置されるに至ります。その後、昭和7年(1932)に「予科」が廃止されるまで、中国からの留学生延べ800名以上が卒業しました。同年「特設高等科」が設置され、ここで三年間学んだ留学生が各大学へと進学する途を開きました。

昭和10年(1935)に第一高等学校が駒場へ移転するにあたって、「特設高等科」の留学生たちの学舎となったのが、101号館です。EAAは、このような歴史的背景をもつ101号館に駒場オフィスを構え、本年度より東京大学と北京大学が手を携えあって、人類共通の未来を描くためのプロジェクトとして始動しました。これを記念し、本展覧会を企画いたしました。




ボタンクサギ

イチョウ並木

三田用水遺構

ヤマザキ学園
裏門から出て山手通りを歩きます。「動物看護専門職短期大学」なんてぇのがあるのですね。国家資格?ではないのでしょうね。


鍋島松涛公園
松涛の歴史を見ると廃藩置県や鉄道がもたらした影響など、歴史を身近に感じることが出来ます。Wikipediaから引用します。
この一帯は江戸時代に中渋谷村、中豊沢村などといい、小字名として大山、大向、神山などがあった。大山には紀州徳川家の下屋敷があった。1876年(明治9年)、旧佐賀藩主の鍋島家がこれを譲渡された。11代当主の鍋島直大は広大な土地に狭山茶を移植して茶園を開き、士族授産の元武士に運営を依頼し、「松濤園」と命名した。茶の銘柄も「松濤」とされ、一時は東京市中に高級茶として知られた。地領近くに直大の四女・信子の嫁ぎ先の松平恆雄が居住している(後に秩父宮雍仁親王妃の勢津子が出ている。後に現在の旧東京都知事公館)。
1890年(明治23年)に東海道線が開通すると静岡茶などが流入、松濤園の茶業は振るわなくなった。このため茶園は廃止され、1904年(明治37年)には鍋島家が経営する畑果樹園種蓄牧場「鍋島農場」 と、農務省が運営する種畜牧場渋谷支所に分かれた。
関東大震災を契機として鍋島家は屋敷地を移住者向けに分譲し、高級住宅地となる。忠犬ハチ公で知られる帝大教授の上野英三郎もここに住んでいた。1924年(大正13年)、鍋島家は涌水池のあった種畜牧場の一角を児童遊園として開放し、さらに1932年(昭和7年)10月にはこれを東京市に寄付。1934年(昭和9年)4月からは渋谷区によって管理されることになった。
この間、「松濤」は1928年(昭和3年)に住所町名として採用された。湧水池のある広大な鍋島侯爵邸は太平洋戦争後の華族制度廃止により公園として整備され、現在では鍋島松濤公園となっている。



松涛中学校
区立中学校に学校説明会があるんだ。


戸栗美術館
こちらも鍋島家に関係する美術館かと思いきや、直接関係はないようです。Wikipediaから引用します。
山梨県の土木建築業の家に育った戸栗は、第二次世界大戦後の日本における欧米文化の普及を目にし、伝統的な日本文化を保存し後世に伝える必要があると考えた。1952年(昭和27年)に上京すると、殖産住宅相互の指定建築業者である「富士工務店」の代表として、同郷の小佐野賢治を補佐する傍ら、将来の展示公開を見据えて10年余り古民具や古道具の蒐集を行なった。1965年(昭和40年)頃からは、古美術に通じた友人たちの助言を得て、観賞用陶磁器を国内外で蒐集した。
戸栗が戸栗美術館を設立するにあたり、1500点の美術工芸品、土地(松濤の旧鍋島藩屋敷跡)、建物、運営資金の寄付が行なわれた。戸栗美術館は1987年(昭和62年)に財団法人の認可を得、日本でも数少ない陶磁器専門の美術館として同年11月21日に開館した。
収蔵品は2000年時点で5000点、2008年時点で7000点を数える。主な収蔵品は伊万里・鍋島などの肥前磁器、および中国・朝鮮の陶磁器である。



奥渋

光子館

丸木屋商店

宇田川遊歩道

ナナカマド?
奥渋の商店街を横断し、宇田川遊歩道を歩きます。宇田川は渋谷川の支流で渋谷西武あたりで穏田川と合流し、下流を渋谷川と呼びました。近年では穏田川の部分も渋谷川と呼ばれています。1964年東京オリンピックを契機に暗渠となってトイレの水洗化に大きく貢献しています。光子館はテレビ番組用に着ぐるみなどを製作しており、志村けんさんのスワンもこちらの作品です。丸木屋商店は立ち飲みで有名なお店。ある意味敷居が高すぎて訪れたことはありません。


河骨川合流点

河骨川跡

春の小川の看板
井の頭通りを横断しさらに上流へ向かってゆくと宇田川に河骨川が合流する地点が現れますが、何も書いていないので知らなければ通り過ぎてしまいます。唱歌「春の小川」は河骨川がモデルであると言われていますが、いくつか説があるようです。


ヘクソカズラ

春の小川歌碑
 「春の小川」歌碑
 ここはかつて清らかな小川が流れ、黄色のかわいらしい”こうほね”が咲いていたので、河骨(こうほね)川と呼ばれていました。春になると、岸辺にはれんげやすみれが咲く、のどかな所でした。
 明治42年(1909)から代々木山谷(現代々木3丁目3号)に住んでいた国文学者の高野辰之氏は、このたりの風景を愛して、しばしばこのほとりを散策したといわれてます。そして、今も歌い続けられている『春の小川』を作詩して、大正元年(1912)に発表しました。この詩は、小学唱歌となり、現在に至るまで広く愛唱されています。
 現在、河骨川は暗渠となり、もはや当時のおもかげはありませんが、この詩から明治末ごろの付近の様子を知ることができます。ここにある歌碑は、このことを永く後世に伝えるために、地元の篤志家が建設し、渋谷区に寄贈されたものであります。
 渋谷区教育委員会



透けてるトイレ使用前

透けてるトイレ使用中

透けてるトイレ
うちの会のメンバーがチャレンジしにゆきました。このトイレが設置された時にインタビューに答えていた近所の方が「中に誰もいないことが確認できるので安心です」と語っていました。目立つので破壊や落書きの対象になるかと思いきや、そうでもないようです。


代々木公園から都庁方面

バラ園

昭憲皇太后大喪儀葬場殿趾碑
戦前代々木公園の場所は練兵場でした。


オリンピック記念の宿舎
戦後ワシントンハイツと呼ばれるアメリカ軍将校の住宅が建設され、1964年8月12日に東京オリンピックのために日本へ返還されています。選手村の宿舎はアメリカ軍将校の住宅がそのまま使用されました。



国土緑化運動
 大戦は国土の荒廃と森林緑地の喪失を招き、災害を続発し水源を枯渇せしめ生活の潤いを奪った。有志はその参状の一刻も放置できないことを見、相はかって国土緑化推進委員会を結成してここに20年、幣原喜重郎氏以来歴代の衆議院議員を委員長に、故村上竜太郎氏を始めとする多数関係者は、国民の繁栄は緑とともにあるという理念のもとに、全国土の緑化を提唱して献身的努力を重ねてきた。
 山に木を植え都市を緑で包むこの国民運動は全国にわたって着々と成果をあげ、現に明治百年記念事業として国が明治の森国民の森の造成を進めているほか、郷土の森県民の森等が各地に育ちつつある。いま東京都が代々木の地に森林公園を開設するのを機とし、その一角を得てこの碑を建てるのは、顧みて国土緑化運動の由来を記念し、その力強い発展をさらに将来に期するためである。
 昭和43年(1968)11月 国土緑化推進委員会


ストレッチをしてこちらで解散となりました。

以前はみんなで渋谷へ歩いてゆきましたが、食事をしなくなったせいかほとんどの会員が原宿方面に帰ります。副都心線に乗れば一本ですからね。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
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ウォーキング塾地区活動(北部) 富士コース 約7.1km

2022-06-20 11:31:49 | 東京都目黒区、渋谷区
令和2年2月に目黒区が発行した「めぐろウォーキングマップ」で紹介されているコースです。冊子では「目黒と富士の絆を歩く 8.4km」と紹介されていますが、すこやか歩こう会で歩くときは東大構内、公務員住宅など歩きやすい道を選び距離も短くなっています。


大橋住宅のネジバナ
集合場所の東大教養学部正門前へ向かう途中、公務員住宅でネジバナを見つけました。小さいけれどおしゃれなランですね。


東京大学教養学部旧第一高等学校本館(時計台)
都の重要文化財となっています。夏目漱石も通った一校と説明しましたが、よく調べてみると一高は昭和十年に駒場に移転してきたとのことで、漱石や正岡子規が通った一高は一ツ橋にあったようです。今度訂正しておかなければ!
こちらの正門前をお借りしてストレッチをしました。




正門前のバラ園
こちらのバラも駒場バラの会の方々が手入れしています。


駒場公園
前回は東門から入ったのでこの日は正面から。


駒場野公園正門

ケルネル田圃
田植えが済んだばかりといった感じです。


上目黒氷川神社の手水
富士コースなので初参加の塾生の皆さんには目黒富士登山を楽しんでいただき、氷川神社と浅間神社にお参りしました。富士講について目黒区のサイトから引用します。
歴史を訪ねて 富士講
更新日:2016年3月4日

「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

富士講
山を神と仰ぐ山岳信仰は、かなり古い歴史を持つ。なかでも庶民に広く受け入れられたのは、秀峰富士を仰ぐ富士信仰であった。平安時代に記された「竹取物語」にはすでに「不死の霊薬」というくだりがある。今ではビルやスモッグにさえぎられて、富士山を拝むのも難しいが、空気の澄んだ昔のこと、江戸の町民は朝な夕なに富士に親しんだことだろう。

「江戸八百八講」
江戸時代には、霊験あらたかな社寺や霊場に参詣し、あるいはその維持のために奉加寄進を行うことを目的とする「講」という団体が、多く組織された。伊勢講や御嶽講、相模の大山を仰ぐ大山講、富士山を崇拝する富士講などがそれである。
富士登拝は中世以降から行われていたか、庶民に広まったのは、江戸時代の初期に、長谷川角行が教義を整え、講を組織してからであった。角行は無言不眠・水垢離などの難行苦行を積み、106歳で富士の人穴で入定したといわれる。これが江戸っ子に支持されたのか、弟子に恵まれたこともあって、以来富士講は「江戸八百八講」といわれるほど隆盛を極めることになった。
旧暦6月1日の山開きには、講員が団体を組み、白装束にわらじ掛けといういで立ちで、鈴を振り金剛杖をつき「六根清浄」を唱えながら登拝した。ただし女性は不浄とされ、霊山に登ることは許されなかった。

目黒元富士・新富士
安永9年(1780年)、高田村(現在の新宿区戸塚)の藤四郎という者が、はるばる富士のふもとから溶岩塊を運び、近所の宝泉寺領に人造の富士を築いた。昔のこととて、富士登拝は決して容易な道のりではなかったし、経済的にも負担であった。そこへ築山の富士である。本物の富士山に難儀をして行かずとも、築山に登って富士を拝めば霊験あらたかとなれば、多くの人びとに歓迎されたことは想像できる。
その後、築山はあちこちに造られた。目黒では元富士と新富士が並び称され、広重の「名所江戸百景」に美しく描かれている。現在も都内には数十カ所の富士塚が確認できるが、移築されたり、再築されたりしていて、元の姿をとどめているものはほとんどない。なお、下谷坂本の富士塚、豊島長崎の富士塚、江古田の富士塚は国の民俗文化財(有形)に、千駄ヶ谷の富士塚、中里の富士塚は都の有形民俗文化財に指定されている。
目黒元富士は現在の上目黒一丁目、目切坂上にあり、別名西富士または丸旦山といわれた。文化9年(1812年)に目黒村の熱烈な富士講員たちが築いたもので、高さは12メートルほど、つづら折りの登り道があり山頂には浅間神社が奉られていた。旧6月1日の山開きに限らず、江戸の人びとの行楽の名所として春に秋ににぎわったという。丸旦山とは、目黒村の富士講のマークが丸に旦の字であったことからきている。明治11年にお宮や鳥居が撤去され、丸旦マークの碑石は氷川神社(大橋二丁目)に移された。今でも7月1日、浅間様の例祭が行われる。
目黒新富士は元富士に遅れること7年、文政2年(1819年)に、択捉島探検で知られる近藤重蔵が、三田村鎗ヶ崎(現在の中目黒二丁目)の邸内に築いたもの。東富士、近藤富士とも呼ばれた。近藤重蔵は邸内に三田用水を引き込んで滝を造るなど、趣味人であったらしく、富士の築山も信仰心からというより観賞のためと思われる。昭和34年まで残っていたが、今日では自然石の碑が残るだけである。



菅刈公園のスダチ?
スダチだかカボスだか、どちらかだと思いますが、ミカンの形になってきました。


西郷山公園
菅刈公園内の坂を上って西郷山へ。旧山手通りを南東へ向かい、猿楽塚古墳、目黒元富士を経由し、槍ヶ崎で駒沢通りを横断し目黒新富士(別所坂公園)でウォーキングは終了しました。

地区ウォーク最後となったこの日は、塾生も誘って惠比壽ビヤホールへ。お一人はすこやか歩こう会の入会手続きを終えています。三年ぶりのウォーキング塾から、何名の新入会員が現れるでしょうか?


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ウォーキング塾地区活動(北部) 北部公園コース 約6.0km

2022-06-09 13:32:50 | 東京都目黒区、渋谷区

フェイジョア
ウォーキングへ向かう途中のお宅にあった花で名前が分からなかったのでGoogleで画像検索してみました。果物がなるようです。


集合場所の中目黒GT
すこやか歩こう会の活動で中目黒出発の際、最近は目黒川船入場を使っているのですが、ウォーキング塾の期間中はわかりやすい中目黒GT集合としています。この日は雨の心配はないようです。


菅刈公園のスモークツリー
合流点遊び場でストレッチをして上流へ向かってスタートします。いつもと少しコースを変えて、東京音楽大学のみどりの鎌倉街道の標識を見て、目切坂から宿山へ続く道が鎌倉街道であることを確認。上村坂をちょっとだけ歩き、菅刈住区センター。菅刈公園でトイレ休憩をとります。

休憩後坂を上って西郷山。景色の良い方が柵で囲われ改修工事が行われるようですが看板は見当たりません。ネットで調べると土砂災害対策工事のようです。三田用水跡、旧山手通りを神泉に進み淡島通り。松見坂交差点から裏道に入り駒場バラ園。


東大教養学部一二郎池
炊事門から東京大学に入ります。昨年度まで正門以外の門が閉まっていたのですが、最近は子供が遊んでいたり犬の散歩をしていたり。以前と同じように構内を歩けるようでしたが念のため警備の方に聞いてみると、「通行することは問題ない」とのことでした。


駒場公園洋館前のバラ
東大構内で池を見て、野球グランドのまわりを歩き裏門から出ました。フレッシュネスバーガーの一号店を見て、駒場公園へ東門から入ります。こちらのバラも駒場バラの会の方々がきれいに手入れをしてくれています。


東大教養学部西門
駒場公園を西門から出て、「そうそう、東大の門が開いている写真を撮らねば」と思って西門を撮影しました。駒場野公園でストレッチをして、解散となりました。


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