目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

第十九回お鷹狩りすこやか歩こう会スタッフ研修

2022-10-30 13:48:42 | 東京都千代田区、港区、渋谷区、目黒区
4月のコース設計から何度も歩いたお鷹狩りのコース、今回が最終確認となります。


青空

リバティベル
快晴に恵まれたスタート場所の日比谷公園健康広場です。自由の鐘はフィラデルフィアにある物のレプリカで、米国外ではイスラエル、ドイツ、ベルギーとここ日本の四カ国のみレプリカがおかれているそうです。


テニスコート脇のヒマワリ

ハナミズキの紅葉

松本楼

雲形池の噴水

野音

ハナミズキの紅葉
テニスコート脇は「菜の花の小道」となっていますが、菜の花が終わるとヒマワリの種がまかれるようで、うれしい配慮ですね。日比谷公園の中は見どころがたくさんあるのですが、物見遊山ではなくウォーキングなのでほぼ素通りです。


市政会館

ハートの時計塔

国会議事堂
内幸町の交差点。時計塔の時刻はあっていませんが止まっているのかな?日本勧業銀行の跡地で現在はみずほ銀行の公開空地ですが、銀行の時計がくるっていては。。。ハートは第一勧銀のコーポレートマークでした。国会通りを横断する際議事堂が見え、その先ヒビコクテラスはNHK東京放送会館跡です。西新橋交差点では北東方向に霞が関ビルが見えます。


愛宕神社出世の石段

愛宕隧道
愛宕山に日本放送協会放送博物館があり、日本で初めてラジオ放送の電波を出した場所です。23区内で一番高い山だからと説明しながら、新宿区戸山にもっと標高が高い山がなかったか?と、気になり調べてみました。戸山の箱根山の方が標高は高いのですが、自然の山では愛宕山が23区内で一番でした。また愛宕隧道は23区で唯一自然の山に掘られたトンネルです。


キッチンダダ
トンネルを通り桜田通りに出ますが、この洋食店が気になっていました。「ダダ」というネーミング、ウルトラマンに出てくる怪獣の中でゴモラとかいそうもないけど、人間のようなダダはどこかにいるような気がして怖かった記憶があります。マグマ大使のゴアも怖かったなぁ。



六本木ケントス
Wikipediaから短く引用します。
全国展開するオールディーズ系のライブハウスレストラン。現在はディスコクラシック系の楽曲の演奏を中心としている。

神谷町交差点から神谷町緑道を上りスペイン大使館脇から、道源寺坂、アークヒルズサウスタワーを抜けて、歩道橋で六本木通りを横断し、六本木通りを下り三河台公園を右折します。


東京ミッドタウンレジデンス

フランス鴨?

檜町公園
檜町公園の池に見慣れぬ鳥がいました。鵜かと思ったけど鴨だという噂でした。


ホトトギス


東京ミッドタウン デザインタッチ

国立新美術館
環状三号線を横断し国立新美術館を通り青山霊園脇を西麻布交差点へ向かいます。


大使館ビル

ハロウィンの飾り
六本木通りをちょっとだけ下ると興和西麻布ビルは南米の大使館がたくさん入っていました。その先を左折し牛坂の上に出ます。


献血発祥之地

日本赤十字社医療センター
南へ向かいます。

在日チェコ大使館
ロシアによるウクライナ侵略以来ずっとウクライナ国旗が掲げられています。

11月3日(木・祝)、いよいよめぐろウォーキングマーチ第十九回将軍お鷹狩りウォークが実施されます。今年も天気に恵まれそう!事故の無いよう気を引き締めて運営してゆきます。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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渋谷川コース渋谷ストリーム経由 約6.2km

2022-10-21 16:14:39 | 東京都新宿区、渋谷区、目黒区
渋谷川をたどり恵比寿に至るコースは初め金王八幡宮を経由するコースを歩きました。のちに渋谷リバーストリートが整備された際、今回の渋谷ストリーム経由のコースを追加し歩きました。このコースは三回目くらいかな?毎回変わりゆく渋谷の街を楽しんでいます。


雷電稲荷神社

都立新宿高校
地図を確認して「旭橋の石柱と石樋」を見ようと思っていたのですが、雷電神社に気を取られて見落としたようです。


明治通りバイパス
少し前に明治通りを歩いていて渋谷側から見たのですが、今回は新宿側から。内回りが地上で外回りがトンネルの二階建て構造。12月3日から運用開始で、新宿三丁目交差点の渋滞解消が見込まれます。










玉川上水・内藤新宿分水散歩道

ホトトギス

新宿御苑大木戸門
玉川上水は四谷大木戸まで開渠でその先は地下の木樋や石樋を通り江戸の上水道の役目を果たしていました。四谷大木戸には水番所がおかれ、余った水は渋谷川(穏田川が宇田川と合流して渋谷川となり笄川と合流して古川となる)に流されていたので、今回のコースと大いに関係があります。
この場所を始めてウォーキングで訪れたのは玉川上水を羽村から数回に分けて歩く企画でした。企画のゴールを果たした後、随園別館で水餃子、野菜炒めなどを堪能しました。


内藤新宿宿開設三百年記念碑
元禄十一年(一六九八)六月、浅草阿部川町の名主・高松喜兵衛(後の喜六)らの願いにより、ここから新宿三丁目交差点付近までの約一kmに、新たな宿場として「内藤新宿」が開設された。
この宿場は、享保三年(一七一八)に一旦廃止されたが、五十四年後に再興されて以降、甲州・青梅両街道が交差する、交通の要衝として、また文化と娯楽の町として繁栄をつづけ、 平成十年(一九九八)、開設三百年を迎えることとなった。
新都心・新宿の出発点となった内藤新宿の歴史と先人の歩みを記念し、ここに記念碑を建立する。
平成十年十一月
東京都新宿区



玉川上水
 玉川上水は幕府が江戸市中の拡大発展と人口の増加に伴う水不足を解消するために、承応二年(1653)から翌三年(1654)にかけて開削した水路である。
 上水は多摩川の羽村に堰を設けて取水し、ここ内藤新宿の水番所までの四十三キロメートルは掘割で、ここより江戸市中へは地下に石樋、木樋といった水道管を埋設して給水した。また途中三十余ヶ所で分水され、武蔵野台地の新田開発に利用された。
 工事は江戸の町人である庄右衛門、清右衛門が請負い、川越藩主松平信綱が総奉行を、関東郡代伊那忠治が水道奉行を命ぜられ、これを監督した。
 玉川上水の工事は、途中幾多の困難に遭遇したが、川越藩士安松金右衛門の協力もあり、一年五ヶ月程という、短期間で完成した。
 掘割によって出た土砂は掘割の両側に堤として積み上げ、桜並木などを作り(小金井など)、当時の江戸の人々の行楽場所となった。
 平成三十年三月
 新宿区教育委員会



四谷大木戸跡


多武峯内藤神社


駿馬塚

石碑


鉛筆の碑
 この地(多武峯内藤神社の西側付近は、明治二十年(1887)に佐賀藩出身の眞崎仁六が眞崎鉛筆製造所(現・三菱鉛筆株式会社)を興し、鉛筆の製造を始めたところです。三十年後の大正五年(1916)品川区東大井に移転するまで、ここで鉛筆製造を行っていました。
 創業時は玉川上水の分水であり、現在は暗渠となっている渋谷川を利用した水車を動力にして鉛筆が造られていました。
 平成十八年十月
 寄贈 三菱鉛筆株式会社
 資料提供 新宿区教育委員会



穏田川跡

川跡にある派出所

伝 沖田総司逝去の地
 この場所には、高遠藩主内藤家屋敷(現新宿御苑)に沿って流れる旧玉川上水の余水吐(渋谷川と呼ばれる)に池尻橋がかかっていました。
 多くの歴史小説や映画などで、新撰組隊士沖田総司(1844~1868)が晩年に療養し、亡くなったとされる植木屋平五郎(柴田平五郎)の屋敷はこのあたりにありました。
平成二十六年三月
新宿区



新宿御苑正門

穏田川暗渠にある大番児童遊園


国立競技場

TOKYO 2020 メダリストのレリーフ

国立競技場

オリンピックシンボル

ザ・コート神宮外苑

タイガースショップ
穏田川を一度離れ国立競技場を半周したのち穏田川跡(キラー通り)に戻ってきました。


原宿橋の柱

穏田キャットストリート商店会

金の卵と宮下公園

渋谷キャスト

宮下公園
渋谷キャストは渋谷ストリームと同じような階段がありました。



渋谷スクランブルスクエア

渋谷フクラスとセルリアンタワー東急ホテル

渋谷マークシティ

銀座線渋谷駅

かまぼこ屋根のモニュメント

渋谷ストリーム
変わりゆく渋谷の街です。



渋谷リバーストリート

旧東横線の橋脚

渋谷川の向こうに渋谷の巨大ビル

鎌倉道
渋谷三丁目15番
 この右手の細い道を、古くから鎌倉道 と呼び、源氏 が鎌倉に幕府を開いて以来、東日本の各地に設けた軍道 のひとつといわれています。
 ここから西へ行くと、渋谷川を渡って台地をのぼり、猿楽塚の二つの築山の間を抜けて目黒川にくだり、さらに多摩川を渡って神奈川県にはいります。
 また、東に進むと、青山学院の付近を通り、千駄ヶ谷方面に達し、さらに東北地方に向かっていたといわれています。
 大永四年(1524)に、相模の北条軍 がこの鎌倉道を通って江戸に攻めのぼり、その時の戦火が渋谷地域にも及び金王八幡宮付近にあった城館が焼失したと伝えられます。
渋谷区教育委員会





たこ公園のコウホネ

トイレの撮影をしてるみたい
更に渋谷川沿いを下り恵比寿東公園がゴールで、ストレッチをして解散しました。

気温が上がりちょっと暑かったので「おいしいビールが飲みたいね」という話になり、恵比寿アトレのライオンで久しぶりの反省会がありました。


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秋の旅行、三島親水コース・伊豆長岡

2022-10-12 11:30:24 | 静岡県三島市、伊豆の国市
春の旅行は13名の参加でした。感染症の波が縮小傾向で秋の旅行は25名の参加がありました。


楽寿園の十月桜
集合は横浜駅、修善寺行きの踊り子号で三島駅に降り立ちました。天気予報は13時まで雨でしたが、三島駅を出発する11時の時点で上がっていました。入場券を購入し楽寿園へ。


小浜池3月

小浜池10月
観光用の写真で見る小浜池には水があるのに3月に初めて訪れた際水が枯れていることにびっくりしました。説明を見ると近年は池の水が枯れていることが多く、水がある小浜池はまれとのことでした。Googleマップでも池と書いてはあるものの陸地の扱いです。水がある小浜池を見ることが出来てラッキーかと思いきや、源兵衛川が増水して飛び石を渡れなくなっているのでアンラッキーかもしれません。


三島梅花藻の里
楽寿園の南門を出て源兵衛川についた時には雨が降り始め、飛び石を行きたい希望者を募りましたが誰も希望しないので美術館通りを南へ向かいました。源兵衛川では数輪しか見ることが出来ない三島梅花藻がここでは咲いていました。


源兵衛川

中郷温水池
この先飛び石はないので源兵衛川沿いを歩くことにしました。東海道を横断し温水池公園でトイレ休憩。


カニ
温水池をぐるっと回ってきたらサワガニが歩いていました。東海道をひたすら歩いて柿田川公園へ向かいます。下見の時に東海道を避ける道を探ったのですが良いルートを設定できず。この部分はいまいちでした。晴れ間も出てきてこれで雨は終わりかなぁと思ったのですが。。。。


柿田川公園第二展望台6月
柿田川公園でお弁当を食べたのですが激しい雨に見舞われ「早く三島駅へ戻りたいと」クレームをつける会員も出てくる始末。わからないでもないけど団体行動の予定はそんなに簡単に変えられません。話を聞くとどこも見ていないというので第二展望台へ。雨がバシャバシャ水面に波紋を作るので、このようにきれいには見えませんでした。




柿田川公園第一展望台
柿田川の方を見るともやがかかり幻想的な景色だったので第一展望台へ移ってきました。この景色を見て雨の中でも来てよかったと思った会員もいたでしょう。陽も差し込んできて雨粒が川面を叩ききらきら光って、雨だからこそ見られた景色でした。


丸池



三又親水緑地
さっきまでの大雨がうそのような青空に。三又親水緑地のどこどこ湧き出る水は一見の価値があります。


秋葉神社

木町観音堂(福聚山茲雲院)

伊豆国分寺

伊豆国分寺塔跡
三島駅方向へ戻りながらいくつか見どころを回ります。このころには日差しが暑いくらいで日陰を選んで歩きます。コースは蓮沼川(宮さんの川)沿いを歩く設定だったのですが、往路は雨で行けなかった源兵衛川の飛び石を経験してもらおうと源兵衛川にゆきました。しかし増水で一部飛び石の上を水が流れており歩くことはできませんでした。




伊豆箱根鉄道駿豆線
三島駅前で日帰り組と別れて、駿豆線で伊豆長岡へ移動。


千歳橋から狩野川
KKR伊豆長岡千歳荘の迎えの車に乗れるだけの人と荷物を載せて乗り切れなかった会員は歩きます。昼の大雨を忘れてしまいそうな良い天気となりました。


朝焼け5時33分
夜のうちに会員の意向を聞くと源兵衛川を歩きたい、鎌倉殿の13人 伊豆の国 大河ドラマ館を見たいなど。朝食後9時に作戦会議を開き、グループに分かれて行動することになりました。


順天堂大学医学部附属静岡病院
11時迄部屋を使わせていただき11時に伊豆長岡駅まで送っていただくようお願いをしていたので、私は当初の予定通り伊豆長岡を歩いてみることにしました。


収穫前




スポーツの記念碑のようですがGoogleマップに載っていないのでわかりません。



狩野川
ここから土手の上を歩きます。時々小さな虫の集団に襲われますが、気持ちの良い遊歩道でした。


富士山が見えた

富士山とヤシの木

柿畑と富士山

川の先の富士山

川向こうの富士山
ずっと富士山が見える良いコースでした。春、冠雪した富士山を見るのはいいでしょうね。南斜面だから5月には雪はまばらかな?


うな重
三島駅前でうな重のランチ。三島ということで交通手段がたくさんあり帰りは各々都合の良い交通手段で帰ります。
私は横浜からとか菊名からの東横線が座れない可能性があること。品川からの山手線が混んでいるかもしれないことを懸念して湘南新宿ラインで渋谷を目指すことにしました。熱海で上野東京ライン、小田原で湘南新宿ラインに乗り換える予定が熱海の乗り換えが間に合いませんでした。上野東京ラインに乗って品川かなぁと思っていると、平塚で籠原行きに接続があり渋谷まで無事帰ってきました。


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【下見】湯島天神・神田明神・ニコライ堂・将門塚

2022-10-09 14:51:34 | 東京都千代田区、文京区、台東区
今年六月、三年ぶりとなるウォーキング塾を実施して二人の新人を迎え、その後このブログを見た方や会員からの紹介で四人、三年ぶりに合計六名の新人を迎えました。新入会員が楽しそうに歩いていたり、「楽しかったです」と声をかけられるとあらためて気づくことがありました。新入会員を迎え楽しく歩く様子を見て、既存の会員もマンネリを打破しまた新たな気持ちでウォーキングを楽しめるのだと実感しています。
二日間続いた雨が上がり、秋らしい涼しい日に「どこか歩きにゆきたいなぁ」と新コースを企画すべく下見に出かけました。「お茶の水」の由来は何だったっけなぁと調べ始め、今回の下見となりました。


おかちまちパンダ広場
集合はこちらの広場にしようかと見に行きました。思ったより人が多く、ストレッチの場所には向かないかもしれません。


学問のみち

台東区立黒門小学校
御徒町駅から湯島天神へ向かう道は「学問のみち」と名付けられています。この場所は伝七親分が住んでいた黒門町で、小学校三階のアーチ窓は復興小学校であることの象徴です。黒門小学校についてWikipediaから抜粋引用します。
台東区立黒門小学校(たいとうくりつ くろもんしょうがっこう)は、東京都台東区上野一丁目(黒門町)にある公立小学校。
江戸時代、現在の上野公園一帯(約35万坪)には、徳川将軍家の祈祷・菩提寺として歴代将軍から厚い庇護を受けていた東叡山寛永寺が有った。歴代の住職は天皇の皇子が務めており、比叡山延暦寺の座主と日光山輪王寺門跡を兼ねていて、日本の宗教界の頂点に君臨し、寛永寺に居住していた。寛永寺の入り口の総門は黒門と呼ばれていたので、門に近い町の名前には元黒門、西黒門、東黒門等、黒門に因んだものが多く、学校が設立される時に地域に根付いた黒門という名称を校名として採用した。ちなみに黒門小学校のすぐ側に住んでいた落語界の大名人である桂文楽は黒門町の師匠と呼ばれていた。

概要
明治43年5月7日創立。江戸時代から日本を代表する繁華街である上野の街をそっくり学区域に持つ小学校である。校舎は都内でも少なくなった関東大震災後の復興小学校(1930年竣工)を、現役の校舎として使用していて重厚な雰囲気を醸し出している。また建築当初からある地下の防空壕と二宮金次郎像もそのまま残っている。
現存する震災復興校舎の中でも名建築として高く評価されている校舎を文化財・歴史的建造物として保存し、また現役の校舎として永く使い続ける為に東京芸大などの専門家が監修して耐震化を含めた改修工事を2014年(平成26年)から2019年(平成31年)3月までに実施。創建当時の優美な佇まいを取り戻した。

中略

校歌
作曲 山田耕筰  作詞 笹川臨風

1、御代の光と師の恵み
  うけて茂りし若緑
  上野の森の空高く
  我が学舎の誉れを揚げん
  善き子はやがて善き人と
  なるを忘るな怠るな

2、清く素直に明らけく
  家の風をも吹き起こし
  不忍に咲く蓮の花
  世の鑑とも賞で仰がれん
  善き子はやがて善き人と
  なるを忘るな怠るな

著名な出身者
岡野俊一郎 - 国際オリンピック委員会委員、日本サッカー協会名誉会長
小椋佳 - 歌手、音楽家
石井ふく子 - 演出家
山田耕筰 - 作曲家
山本善之助 - 写真家
上田令子 - 政治家





湯島天神男坂

心城院(湯島聖天)

復興地蔵尊

湯島天満宮 女坂

講談高座発祥の地の碑

石碑

努力碑(王貞治)
銘文
王貞治君は、昭和五十二年九月三日午後七時十分五秒、後楽園球場において通算本塁打七五六号を達成、前人未踏の世界記録を樹立しました。これをたたえて政府は、わが国初の「国民栄誉章」を贈り、また球界最高の「正力松太郎賞」初の受賞者となりました。これは、昭和三十三年読売巨人軍に入団以来試練の嵐に耐え、心技を研鑽した努力の結晶であります。王君は、これを記念し崇敬する湯島神社に、白梅一樹を献木いたしました。ここに有志相集い、王君の生涯の座右銘である「努力」の碑を建立、もって青少年の亀鑑とするものであります。
 昭和五十三年一月一日
有志代表
読売新聞社社主読売巨人軍オーナー 正力  亨
読売新聞社社長              務臺 三雄
日本テレビ社長              小林與三次
セントラルリーグ会長           鈴木 竜二
湯島神社宮司               押見 守康
       刻                山田 光造





唐獅子

拝殿
天神様は見どころ満載ですが、ウォーキングメインなのでそこそこに。


花姫稲荷


神田明神男坂

開花楼跡地
湯島天神も神田明神も台地の縁の景色の良い場所にあるようで、男坂は少々きつめです。


拝殿

獅子山

だいこく様尊像

神田明神 隨神門
行列しているので参拝は遠くから。


孔子廟の屋根


湯島聖堂
太極拳をやっている人たちがいました。


聖橋

中央線快速

中央線各駅

丸の内線
三種類の電車を一枚で撮ることはできませんでした。通勤時間帯が狙いめかな。


お茶の水の楽器街

東京医科歯科大学・順天堂大学

駿河台
町名由来板:駿河台(西)
 高台である「駿河台」は元来、本郷・湯島台と地続きで、その南端に位置し、「神田山」と呼ばれていました。江戸に幕府を開いた徳川家康は、新たな町づくりのため、この神田山を切り崩し、江戸城の南に広がる日比谷入江(現在の日比谷公園、新橋周辺)を埋め立てました。しかし、埋め立てによって、それまで海に流れ込んでいた平川(神田川のもとになった川)の流れがとどこおり、下流で洪水が頻発するようになりました。そこで現在の飯田橋付近から隅田川まで、分流としての水路を確保し、あわせて江戸城の外堀の役目も果たす「神田川」が開削されたのです。こうしてこの界隈は、本郷・湯島台から切り離され、現在の駿河台が形成されました。
 さて、家康が駿府で没した後、家康付を解かれ、駿河から帰ってきた旗本(駿河衆)たちが、江戸城に近く富士山が望めるこの地に多く屋敷を構えました。駿河衆が住んでいたことや駿河国の富士山が見えたことなどから、この地は駿河台と呼ばれるようになり、多くの武家屋敷が立ち並ぶ地域となりました。
江戸時代初期には、奈良奉行を勤めた旗本中坊長兵衛、また、幕末には勘定奉行や軍艦奉行を勤めた小栗上野介忠順などが居住していました。明治になると、武家屋敷の跡地が華族や官僚などの屋敷に変わり、加藤高明男爵邸、坊城俊長伯爵邸、小松官邸などいくつかの邸宅は昭和の初期まで残っていました。
明治五年(1872年)に新たに定められたこの地域の町名は、駿河台西紅梅町、駿河台北甲賀町、駿河台南甲賀町、駿河台袋町、駿河台鈴木町(いずれも神田区)でした。関東大震災後の区画整理が終わった昭和八年(1933年)に現在の駿河台一丁目、駿河台二丁目に町名が変更され、昭和二十二年(1947年)に千代田区となってからもこの地名で親しまれています。




お茶の水
聖堂の西比井名水にてお茶の水にもめしあげられたり
神田川掘割の時ふちになりて水際に形残る 享保十四年 江戸川拡張の後川幅を広げられし時 川の中になりて 今その形もなし
 (再校 江戸砂子 より)
慶長の昔、この邊り神田山の麓に高林寺という禅寺があった ある時寺の庭より良い水がわき出るので将軍秀忠公に差し上げたところお茶に用いられて大変良い水だとお褒めの言葉を戴いた。それから毎日この水を差し上げる様になり この寺をお茶の水高林寺と呼ばれ、この邊りをお茶の水と云うようになった。
 其の後、茗渓又小赤壁と稱して文人墨客が風流を楽しむ景勝の地となった。時代の変遷と共に失われ行くその風景を惜しみ心ある人達がこの碑を建てた。
   お茶の水保勝会 坂内熊治
   高林寺    田中良彰
   昭和三十二年九月九日





ニコライ堂

笹巻けぬきすし

自衛隊大規模接種会場


将門塚

箱根駅伝 絆の像
ニコライ堂を見て、本郷通りを南下して大手町まで。和田倉門でストレッチして解散と考えていましたが、東京海上日動ビル本館が工事で囲われているため郵船ビルの片隅をお借りしましょうか。まだ地図をひいていないのですが、5kmから6kmくらいのコースになりそうです。もしかしたら今回の逆もあるかもしれません。


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青山千駄ヶ谷コース 約8.6km

2022-10-02 14:59:10 | 東京都新宿区、渋谷区、港区、目黒区
秋彼岸も過ぎてウォーキングシーズン、距離の長いコースもちらほら登場します。


目黒川とアトラスタワー
木陰は爽やかですがこの青空の下、お日様はまだまだ暑いので日陰を選んで歩く日となりました。


裁判所
旧厚生省麻薬取締官事務所の跡地に裁判所関連の建物が完成しました。北側に通路が出来て東西に通り抜けが出来るようになり、安心安全なウォーキングコースとして使えそうです。


別所坂

別所坂上庚申塔群
私の感覚では区内一の急坂です。一般的には十七が坂が一番の急坂となっていますが、平均斜度だとそうなるのかな?登るにつれて傾斜が強くなる別所坂の方が最大斜度は急だと思います。調べてみると23区の坂の傾斜をランキングしているサイトがあり、四輪車が通れる部門で第五位タイでランキングされ、13度・23%で目黒区内の最大傾斜となっています。


恵比寿像

恵比寿駅前公衆トイレ
渋谷区では「おもてなしはトイレから」と有名建築家などが設計したユニークな公衆トイレが続々登場しており、こちらは佐藤可士和さんのデザインです。


服部南郭別邸跡
東二丁目10番
 服部南郭は,江戸中期の儒学者。漢詩人で 幼名を勘助,のち元喬(もとたか)といい 字を子遷(しせん),書斎を 芙蓮館(ふきょかん)と称しました。
 この場所は,南郭の別邸があったところで 邸前にある坂道は,昔から 南郭坂 あるいは 富士見坂 と呼ばれてきました。
 南郭は,天和三年(1683)に京都に生まれ,十六歳の時に 和歌と絵画をもって 江戸の柳沢吉保に仕え,また,荻生徂徠の門人となって,古文辞学と詩を学びました。三十四歳の時,柳沢家を辞し,ここの別邸で塾を開いて 在野の人となり,もっぱら漢詩文に親しみ,後継者の育成に努めました。宝暦九年(1759)没。享年七十七歳。
 著書に「南郭文集」「大東世語」「南郭先生燈下書」などがあります。
渋谷区教育委員会



温故学会会館
塙保己一とヘレン・ケラーの逸話をWikipediaから引用します。
ヘレン・ケラーは幼少時より「塙保己一を手本にしろ」と母親より教育されていた。昭和12年(1937年)4月26日、ケラーは渋谷の温故学会を訪れ、人生の目標であった保己一の座像や保己一の机に触れている。ケラーは「先生(保己一)の像に触れることができたことは、日本訪問における最も有意義なこと」「先生のお名前は流れる水のように永遠に伝わることでしょう」と語っている。


渋谷氷川神社
三島由紀夫の豊饒の海第二巻・奔馬でこちらの神社が舞台となっています。


國學院大學博物館

瀧川政次郎胸像
博物館は一度ゆっくり見てみたいと思っています。胸像は大学設立者ではないそうで、國學院大學の設立者はいないようです。


飲食店みたい
南青山七丁目交差点を左折して北へ向かい、根津美術館まえを通りさらに北へ。


青山霊園

霊園のキンモクセイ


外人墓地

日本近代スポーツの父
F.W.ストレンジ
1853年10月29日~1889年7月5日 享年35歳
1875年英国より来日し、東京英語学校(後の東京大学予備門、第一高等学校)の英語教師を務めながら、日本にスポーツを広めた。日本初のスポーツ紹介本を出版、体育会による「部活動」のシステムを作り上げ、スポーツマンシップを説き、陸上競技やボートなどを教え、運動会を普及させたスポーツの恩人。



海軍少将のお墓
青山霊園でトイレ休憩としました。


石屋さん


神宮外苑イチョウ並木

秩父宮ラグビー場
青山通りを少し歩いて神宮外苑に入ってゆきます。神宮外苑の再整備に当たり木を何本切るとか騒がれているけど、切っただけ植えれば若木の方が二酸化炭素を吸収するんじゃないかなぁ。そういう問題じゃない?


川口鋳物の聖火台

相撲の神様

ギリシャの勝利の女神

TOKYO2020大会の聖火台

パラリンピックのメダリスト


木をふんだんに使っています
戦後19年で丹下さんの代々木体育館が建設されたとき、人々は誇りに思ったのだと想像します。今が眺めてもすごいものを作ったなぁと思います。体育館は明治神宮拝殿の真南にあり、つり屋根を支える日本の柱は丹下の鳥居と言われています。
戦後75年の二度目の東京オリンピックでは隈研吾設計の木を多用したオリンピックスタジアム。持続可能な社会や、二酸化炭素排出削減必要性を感じる今にマッチしていると思います。以前のように柵で囲われず競技場に触れることが出来ることもいいですね。


競技場前のちょっと色づいた紅葉

競技場の外観
競技場のまわりを歩くだけでもいい景色がありました。


津田塾大千駄ヶ谷キャンパス

国立能楽堂
津田塾の名称が変わったかなと思ったら英語表記がTSUDA UNIVERSITYなのですね。


明治神宮北参道


七五三

拝殿
拝殿の柱のこちら側には小さな傷がたくさんついていますが、参拝者が投げたお賽銭によりできた傷です。昭和二十年五月の青山空襲で神宮の拝殿も焼けてしまい、昭和三十三年に再建されます。柱の傷は初日だけでついたもので、明治神宮の再建が都民にどれだけ熱狂的に迎えられたのかが分かる逸話だと思います。昭和三十三年はほかに浅草寺の本堂が再建され、東京タワーが完成しています。昭和三十四年に夏季オリンピックが東京で開かれることが決定しており、日本人にとってはまさに「もはや戦後ではない」という雰囲気だったのでしょうか。




神前結婚式

もう一組
新郎新婦が拝殿前を通りそうだったのでしばらく待ってみていました。新郎は外国人のようです。


二の鳥居
先代二の鳥居が落雷で火災被害に遭い、台湾から輸入した檜で再建されたこと。被害に遭った鳥居は加工され大宮氷川神社の鳥居になっていることなどを説明しました。現在使われている檜は樹齢1,500年だそうです。

表参道を歩き一の鳥居の脇で場所をお借りしストレッチをして解散しました。しばらくガイドをしていないので創建百周年記念で一の鳥居が架け替えられたことは忘れていたし、吉野の杉が使われていることなど情報をアップデートできていませんでした。こちらの杉は樹齢280年と260年とのことです。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
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