昨年より早めたつもりだったのです。昨年は「もう少し早い方が良かったね」といった感じだったので、12月の初回の活動から11月の最後の活動へと一回分はやめたつもりだったのですが、結果的には一日早かっただけ。それでも今年の紅葉は遅めということで、かなり楽しめました。
北の丸スクエア
九段中坂
中目黒→東横線→渋谷→半蔵門線→九段下と乗り継いで地上に出ると北の丸スクエアです。昨年警備員の方に教えていただいた公開スペースでストレッチしました。奥の階段を上るとどこへ行くのだろうと帰ってから調べて見ると築土(つくど)神社に出るようです。神社についてWikipediaから引用します。
祭神
現在は天津彦火邇々杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)を主祭神とし、平将門、菅原道真を配祀する。
江戸時代の文献によると、当社内には平将門の首(頭蓋骨や髪の毛)そのものが安置されていたといわれ、数ある将門ゆかりの社寺の中で、将門信仰の象徴的神社となっていた。明治に教部省の指示により将門は相殿に格下げされ、現在は天津彦火邇々杵尊が当社の主祭神となっている。
戦災で当社が焼失するまで、将門の首を納めたという首桶、将門の肖像画(束帯姿)、木造の束帯坐像等が社宝として伝わっていた。昭和20年4月、戦災により社殿とともにそれらは焼失し、現在は一部の写真が残るのみである。
拝殿の装飾や絵馬などには、巴紋のほか平将門に因んだ繋ぎ馬(つなぎうま)の紋が使用されている。これは神社境内にある天水桶(文政元年)の彫刻を模したもので、築土神社の登録商標である(平成23年現在)。
正直知らなかったのですが、機会を作ってお参りしてみたいと思います。北の丸スクエア奥の階段を見て、傾斜地となっている理由を考えました。標高は九段坂上交差点25.1m、九段下6.4m、日本橋川にかかる俎橋5.1m、神保町交差点3.8mです。九段下から駿河台下にかけての平地は日本橋川の浸食によるもののようです。地形図を見て思い出しましたが、神田川仙台堀は放水路で、本流は日本橋川の方なんですね。
北辰社牧場
維新後榎本武揚がここに牧場を持っていたとのことです。目黒区役所の場所が牧場だったことに驚いていましたが、皇居に近い場所にも牧場があったのですね。傾斜地で使い道が限られたのでしょうか。
東京大神宮
ハライコ
ハライコでビールを飲みたいなどと考えながら飯田橋交差点まで目白通りを進みます。
飯田橋SS
大江戸線飯田橋駅
日中会館前のケヤキ
道案内
後楽園庭園の紅葉
小石川運動場
清掃事務所
鹿島道路
遺失物センター、盲学校、運動場など私が高校に通っているときにもありましたが、運動場は新しくなっています。後楽園庭園、日中会館、清掃事務所も当時からありましたが、大江戸線飯田橋駅は当時ありませんでした。鹿島道路のビルが建っている場所にかつて通っていた高校があり、「こんなに広かったかなぁ」という感じです。
旧小石川町
京都聖護院門跡道興准后が、「廻国雑記」(文明18年・1486)に次のことを書いている。
ここ(上野忍岡)を過ぎて小石川と言へる所にまかりて、我方を思ひ深めて小石河いつをせにとかこひ渡るらん」
また、「江戸砂子」(享保17年・ 1732)に、「小石多き小川が幾流もある故なり・わけて伝通院の後の流、ねこまた橋の川筋小石川の濫觴なり」とある。
むかし、千川(小石川)、江戸川(神田川)や周囲の高台から流れた細流が、現在の後楽園一帯で合流していた。これらの川は砂や小石が多かったので、この辺を小石川村と呼んだ。明治5年、小石川町とした。
写真に撮った時には気づきませんでした、地図には母校が残っていました。
文京シビックセンター
古美術商?
道案内
北野神社牛天神
北野神社は富嶽三十六景の「礫川 雪の旦(こいしかわ ゆきのあした)」の舞台なのです。丸ノ内線後楽園駅の隣に礫川公園があるのですが、礫川を「こいしかわ」と読むとは知りませんでした。牛天神には一度行ってみようと思います。
伝通院
春日通りのサザンカ
金栗四三青春の地
八百屋の看板
播磨坂桜並木
安藤坂を上り伝通院前。春日通りを歩いて播磨坂に到達し、坂を下ってゆきます。
旧白山御殿町
旧白山御殿町(昭和41年までの地名)
町の大部分は、白山御殿の跡である。
承応元年(1652)館林藩主徳川綱吉が、別邸を与えられた。ここは白山神社の鎮座地であったので、白山御殿(小石川御殿)と称した。綱吉が五代将軍に就任後、御殿は廃止されて幕府の御薬園となった。それで付近の土地を併せて白山御殿跡地と称した。
周辺を合併して明治24年、新たに町をおこした。町名は、俗にいう白山御殿跡から白山御殿町とした。
小石川薬園は、明治10年、東京大学付属の小石川植物園となった。また、江戸時代から小石川養生所が薬園内に置かれた。青木昆陽が甘藷の試作を行ったのも、この薬園内であった。文京区
ナンテン
小石川植物園本館
小石川植物園は東京大学の施設であり、この本館も東大総長を務めた内田祥三さんが設計した内田ゴシックと呼ばれるデザインです。このブログで何度も登場した旧公衆衛生院や駒場東大一号館と同じですね。
コダチダリア
ヤドリギ
皇帝ダリアとも呼ばれますがWikipediaでは「キダチダリア」となっており、こちらは「コダチダリア」となっています。東大の植物園ですから間違えていることはないと思われ、どちらもありなんでしょうね。英名は“Tree dahlia”なので、翻訳の問題?
イロハモミジ
イチョウ
ハゼノキ
マルバチシャノキの実
センリョウ
松ぼっくり
ハゼノキ
日本庭園
イチョウ
赤黄の紅葉は何の木?
イイギリ
逆さ紅葉
ラクウショウ
ラクウショウの気根
ヒイロタケ
小石川植物園のイロハモミジは紅葉が始まった感じで、まだ青い葉も多く見られます。夕方、斜光線に照らされ紅葉が輝いて見えます。
ラクウショウの気根については、新宿御苑のブログから一部引用します。
地中から様々な形をしたものが生えているのが見えます。これは「気根」と呼ばれる根っこです。原産地の北アメリカでは、湿地や沼地に生息しているため地中に根を張り巡らせていると、酸素を充分に吸収することができません。そのため酸素不足を補うために、地上や水面に気根という呼吸根を出しています。
八百屋お七の墓
八百屋お七の墓 文京区白山1-34-6
お七については、井原西鶴の『好色五人女』など古来いろいろ書かれ語られて異説が多い。お七の生家は、駒込片町(本郷追分など)で、かなりの八百屋であった。天和の大火(天和2年〔1682〕12月、近くの寺院から出火)で、お七の家が焼けて、菩提寺の円乗寺に避難した。その避難中、寺の小姓の佐兵衛(または吉三郎)と恋仲になった。やがて家は再建されて自家にもどったが、お七は佐兵衛に会いたい一心でつけ火をした。放火の大罪で捕らえられたお七は、天和3年(1683)3月29日火あぶりの刑に処せられた。数えで16歳であったという。3基の墓石のうち中央は寺の住職が供養のため建てた。右側のは寛政年間(1789~1801)岩井半四郎がお七を演じ好評だったので建立した。左側のは近所の有志の人たちが、270回忌の供養で建立したものである。
文京区教育委員会 平成14年(2002)3月
地下鉄白山駅近くに八百屋お七の墓がある圓乗寺があると知り帰りに寄ってみました。吉三郎はその後僧となり、お七を弔うために毎日目黒不動と浅草寺にお参りし、行人坂下、現在の太鼓橋の場所に橋をかけました。
この日は有志六名、コリドー街地下の天狗で「やっぱり銀座の天狗は違う」などと馬鹿なことをいいながら、楽しい時間を過ごしました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
北の丸スクエア
九段中坂
中目黒→東横線→渋谷→半蔵門線→九段下と乗り継いで地上に出ると北の丸スクエアです。昨年警備員の方に教えていただいた公開スペースでストレッチしました。奥の階段を上るとどこへ行くのだろうと帰ってから調べて見ると築土(つくど)神社に出るようです。神社についてWikipediaから引用します。
祭神
現在は天津彦火邇々杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)を主祭神とし、平将門、菅原道真を配祀する。
江戸時代の文献によると、当社内には平将門の首(頭蓋骨や髪の毛)そのものが安置されていたといわれ、数ある将門ゆかりの社寺の中で、将門信仰の象徴的神社となっていた。明治に教部省の指示により将門は相殿に格下げされ、現在は天津彦火邇々杵尊が当社の主祭神となっている。
戦災で当社が焼失するまで、将門の首を納めたという首桶、将門の肖像画(束帯姿)、木造の束帯坐像等が社宝として伝わっていた。昭和20年4月、戦災により社殿とともにそれらは焼失し、現在は一部の写真が残るのみである。
拝殿の装飾や絵馬などには、巴紋のほか平将門に因んだ繋ぎ馬(つなぎうま)の紋が使用されている。これは神社境内にある天水桶(文政元年)の彫刻を模したもので、築土神社の登録商標である(平成23年現在)。
正直知らなかったのですが、機会を作ってお参りしてみたいと思います。北の丸スクエア奥の階段を見て、傾斜地となっている理由を考えました。標高は九段坂上交差点25.1m、九段下6.4m、日本橋川にかかる俎橋5.1m、神保町交差点3.8mです。九段下から駿河台下にかけての平地は日本橋川の浸食によるもののようです。地形図を見て思い出しましたが、神田川仙台堀は放水路で、本流は日本橋川の方なんですね。
北辰社牧場
維新後榎本武揚がここに牧場を持っていたとのことです。目黒区役所の場所が牧場だったことに驚いていましたが、皇居に近い場所にも牧場があったのですね。傾斜地で使い道が限られたのでしょうか。
東京大神宮
ハライコ
ハライコでビールを飲みたいなどと考えながら飯田橋交差点まで目白通りを進みます。
飯田橋SS
大江戸線飯田橋駅
日中会館前のケヤキ
道案内
後楽園庭園の紅葉
小石川運動場
清掃事務所
鹿島道路
遺失物センター、盲学校、運動場など私が高校に通っているときにもありましたが、運動場は新しくなっています。後楽園庭園、日中会館、清掃事務所も当時からありましたが、大江戸線飯田橋駅は当時ありませんでした。鹿島道路のビルが建っている場所にかつて通っていた高校があり、「こんなに広かったかなぁ」という感じです。
旧小石川町
京都聖護院門跡道興准后が、「廻国雑記」(文明18年・1486)に次のことを書いている。
ここ(上野忍岡)を過ぎて小石川と言へる所にまかりて、我方を思ひ深めて小石河いつをせにとかこひ渡るらん」
また、「江戸砂子」(享保17年・ 1732)に、「小石多き小川が幾流もある故なり・わけて伝通院の後の流、ねこまた橋の川筋小石川の濫觴なり」とある。
むかし、千川(小石川)、江戸川(神田川)や周囲の高台から流れた細流が、現在の後楽園一帯で合流していた。これらの川は砂や小石が多かったので、この辺を小石川村と呼んだ。明治5年、小石川町とした。
写真に撮った時には気づきませんでした、地図には母校が残っていました。
文京シビックセンター
古美術商?
道案内
北野神社牛天神
北野神社は富嶽三十六景の「礫川 雪の旦(こいしかわ ゆきのあした)」の舞台なのです。丸ノ内線後楽園駅の隣に礫川公園があるのですが、礫川を「こいしかわ」と読むとは知りませんでした。牛天神には一度行ってみようと思います。
伝通院
春日通りのサザンカ
金栗四三青春の地
八百屋の看板
播磨坂桜並木
安藤坂を上り伝通院前。春日通りを歩いて播磨坂に到達し、坂を下ってゆきます。
旧白山御殿町
旧白山御殿町(昭和41年までの地名)
町の大部分は、白山御殿の跡である。
承応元年(1652)館林藩主徳川綱吉が、別邸を与えられた。ここは白山神社の鎮座地であったので、白山御殿(小石川御殿)と称した。綱吉が五代将軍に就任後、御殿は廃止されて幕府の御薬園となった。それで付近の土地を併せて白山御殿跡地と称した。
周辺を合併して明治24年、新たに町をおこした。町名は、俗にいう白山御殿跡から白山御殿町とした。
小石川薬園は、明治10年、東京大学付属の小石川植物園となった。また、江戸時代から小石川養生所が薬園内に置かれた。青木昆陽が甘藷の試作を行ったのも、この薬園内であった。文京区
ナンテン
小石川植物園本館
小石川植物園は東京大学の施設であり、この本館も東大総長を務めた内田祥三さんが設計した内田ゴシックと呼ばれるデザインです。このブログで何度も登場した旧公衆衛生院や駒場東大一号館と同じですね。
コダチダリア
ヤドリギ
皇帝ダリアとも呼ばれますがWikipediaでは「キダチダリア」となっており、こちらは「コダチダリア」となっています。東大の植物園ですから間違えていることはないと思われ、どちらもありなんでしょうね。英名は“Tree dahlia”なので、翻訳の問題?
イロハモミジ
イチョウ
ハゼノキ
マルバチシャノキの実
センリョウ
松ぼっくり
ハゼノキ
日本庭園
イチョウ
赤黄の紅葉は何の木?
イイギリ
逆さ紅葉
ラクウショウ
ラクウショウの気根
ヒイロタケ
小石川植物園のイロハモミジは紅葉が始まった感じで、まだ青い葉も多く見られます。夕方、斜光線に照らされ紅葉が輝いて見えます。
ラクウショウの気根については、新宿御苑のブログから一部引用します。
地中から様々な形をしたものが生えているのが見えます。これは「気根」と呼ばれる根っこです。原産地の北アメリカでは、湿地や沼地に生息しているため地中に根を張り巡らせていると、酸素を充分に吸収することができません。そのため酸素不足を補うために、地上や水面に気根という呼吸根を出しています。
八百屋お七の墓
八百屋お七の墓 文京区白山1-34-6
お七については、井原西鶴の『好色五人女』など古来いろいろ書かれ語られて異説が多い。お七の生家は、駒込片町(本郷追分など)で、かなりの八百屋であった。天和の大火(天和2年〔1682〕12月、近くの寺院から出火)で、お七の家が焼けて、菩提寺の円乗寺に避難した。その避難中、寺の小姓の佐兵衛(または吉三郎)と恋仲になった。やがて家は再建されて自家にもどったが、お七は佐兵衛に会いたい一心でつけ火をした。放火の大罪で捕らえられたお七は、天和3年(1683)3月29日火あぶりの刑に処せられた。数えで16歳であったという。3基の墓石のうち中央は寺の住職が供養のため建てた。右側のは寛政年間(1789~1801)岩井半四郎がお七を演じ好評だったので建立した。左側のは近所の有志の人たちが、270回忌の供養で建立したものである。
文京区教育委員会 平成14年(2002)3月
地下鉄白山駅近くに八百屋お七の墓がある圓乗寺があると知り帰りに寄ってみました。吉三郎はその後僧となり、お七を弔うために毎日目黒不動と浅草寺にお参りし、行人坂下、現在の太鼓橋の場所に橋をかけました。
この日は有志六名、コリドー街地下の天狗で「やっぱり銀座の天狗は違う」などと馬鹿なことをいいながら、楽しい時間を過ごしました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
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すこやか歩こう会活動スケジュール