目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

下馬太子堂三宿コース 約6.8km

2023-01-25 15:53:32 | 東京都目黒区、世田谷区
下馬、太子堂、三宿はすべて世田谷区の地名ですが、スタートとゴールは目黒区内となります。


五本木児童遊園
祐天寺駅に集合しこちらの児童遊園をお借りしてストレッチをして出発します。


聴力障害者情報文化センター
ご近所のわりにはあまり知らない施設です。法人のホームページから引用します。
当法人は、聴覚に障害を持つ人々に対し、コミュニケーション、情報、文化等に関する各種の事業活動(字幕・手話付加映像作品の制作・貸出、手話通訳技能認定試験(手話通訳士試験)の実施並びに相談、各種講習会の開催など)を行い、聴覚障害者の人権を守り生活文化の向上と福祉の増進に関する啓発、普及に寄与することを目的としています。

2009年にこちらに移転してきたそうです。


謡坂

蛇崩川支流緑道



葦毛塚
葦毛塚
源頼朝が、葦毛の馬に乗ってこの地を通ったとき、その馬が何かに驚いて沢に落ち込んで死んだという。
また、一説に鎌倉将軍の世、この地の領主北条左近太郎が仏経をもってでかけたが、その葦毛の乗馬が突然たおれたのでここに埋めたともいう。
いずれにせよ、遠い昔から葦毛塚と呼ばれていたらしい。このあたりは古くから馬の放牧場であり、馬に関した地名や伝説が多い。
昭和五十三年三月
世田谷区教育委員会



ノボロギク?

バラ

スイセンとバラ

蛇崩川緑道
葦毛塚の後は蛇崩川緑道をさかのぼります。




駒繋神社

末社の稲荷

江戸・東京の農業
陸稲 の 藤蔵糯

 日本人の主食として大切な米は水田でつくりますが、田の少ない地方では陸稲 として畑で栽培し、畑作地帯の重要な作物で農家は、収量を少しでも多くするため熱心に品種改良にとりくみ、東京の農家が作りだしたものも数多くあります。
 陸稲の糯米「藤蔵糯 」は明治30年代はじめ、荏原郡駒沢村下馬引沢(現在の世田谷区下馬)の清水藤蔵氏が、それまで栽培していた尾張糯を改良してつくりだしたことから「藤蔵糯」と呼ばれました。
 田んぼで作る水稲に比べると粘りが弱い陸稲 は、赤飯に用いられ、餅には水稲が使われていました。しかし、この「藤蔵糯」は、水稲に劣らぬおいしい餅をつくることができ、収量が多く、病気にも強いので、東京都の奨励品種にも採用されました。
 また、その後に品種改良された、「陸稲農林1号 」をはじめ、優れた品種をうみだす母体ともなりました。

平成9年度JA東京グループ
農業協同組合法施行五十周年記念事業
世田谷目黒農業協同組合



西澄寺近くの墓地
かなり古い墓石も並んでいます。


西澄寺

弘法大師

お地蔵様

武家屋敷門

末社の稲荷


寺務所
野沢通り沿いにある大きなお寺です。弘法大師の文字がなぜ赤?考えてみれば御大師様は高野山の奥の院で生きていらっしゃるんですね。


節分
西澄寺の塀に貼ってありましたが、豆まきが行われるのは駒繋神社。


世田谷区商店街連合会
キャラクターは世田谷区特別住民票が発行されているそうです。
名前 が~やん
住所 世田谷区太子堂2丁目16番7号
   世田谷産業プラザ2階
生年月日 平成20年4月1日
交付日 平成25年10月19日



店頭のタヌキ

レトロな喫茶店

大山道道標

キャロットタワー

世田谷線
西澄寺の裏を西へ向かうと道なりに北西に向かい、商店街を抜けて玉川通りを横断します。


目青不動尊 教学院最勝寺



獣魂塔のいわれ
人類が地球上に生息するようになったのは いまより約二千五百萬年以前といわれ 原始時代における人類の食生活は 山野の「けもの」をとりかつ 草木の芽や実などを獣類の肉とともに「なま」でたべてきました 時代の進化と共に 人類は火を使用することをおぼえ 食べ物にも火を利用するようになり米や麦野菜なども栽培し 獣類を飼育 家畜として食料とするようになりました。
人類の食生活に最も重要である動物性蛋白質は 獣類の肉などによって摂取されております 人類が長い年月獣類より受けた恩恵は 誠に大きいものがあります 私達は 人類に貢献してきた獣類の霊を慰め心から感謝し祈念するために建立しました。
本碑は 昭和三十七年春彼岸に 三軒茶屋「奥吉」こと故斎藤菊三郎氏が生前に 食肉協同組合世田谷支部にはかり支部員一同の協力によってこれが建立され衆議院議員賀屋興宜氏が揮毫したものであります。
 昭和四十三年四月八日
この獣魂塔のいわれ は故斎藤菊三郎七回忌を記念し建立奥吉会建之
  奥吉会建之



イイギリ

辨天社(太子堂弁天)



太子堂八幡神社

どんど焼き終了

御神木

紅梅
この日はどんど焼きをやっていたようで後片付けをしていました。


茶沢通り

東京ワンタン本舗跡
まだ就学前の記憶だと思うけど祖父が聴いていたラジオ(競馬中継)でこの会社のCMが流れていました。本社は上尾に移ったようです。





圓泉寺
こちらの太子堂が地名の元となっています。下馬は源頼朝が馬から降りて通行するように命令した馬引沢が上馬引沢、中馬引沢、下馬引沢となり、短くなって上馬と下馬だけ残り、中馬引沢は三軒茶屋という地名になりました。三宿は池尻同様湿地で水宿が由来とありますがいまいち納得できない感じがしています。


東京都道420号鮫洲大山線
環状六号線と環状七号線を補完するためその間にあり、「環状6.5号線」としてタモリ倶楽部で取り上げられていました。南に行くと三宿通り、北へ行くと中野通りですがまだ開通していません。この部分が開通したのも初見です。




騎兵第一連隊址
「騎兵第一連隊長秋山好古謹記」とあります。騎兵山の南西側にありますが案内はなく地図にも載っていないのでたどり着くのは難しいかも。


ロウバイ
今年初めてのロウバイでした。

この後有志でオンセに繰り出し、初場所中日の取り組みを観戦しました。ワールドカップクロアチア戦の後半をビデオで見せてもらいましたが、日本のサッカーもうまくなりましたねぇ。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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目黒七福神コース 約7.0km

2023-01-08 16:15:18 | 東京都目黒区、品川区、港区
年はじめ恒例の七福神巡りです。正確には「江戸最初 山手七福神」で「新宿山ノ手七福神」と区別しています。「江戸最初」の枕詞の通り江戸の七福神巡りでは最古参の部類に入るようです。一部は朱引き外で江戸ではなく武蔵の国ですが、目黒不動が寺社奉行の管轄だったのでほぼ江戸といっていいのでしょう。


大鳥神社
集合は大鳥神社、区内最古の神社といわれています。お参りをし、境内をお借りしてストレッチをしてスタートです。


センリョウ

マンリョウ


蟠龍寺(弁才天)

岩屋辯天

辯天堂のお前立

おしろい地蔵
辯天堂の木造辯天像は岩屋辯天のお前立だそうです。


不動尊参道のカレー屋さん
いろいろ店が変わっていますが元のお寿司屋さんの看板が残っているようです。



蛸薬師(成就院)


比翼塚
かむろ坂の名の由来にもなっています。


滝泉寺(目黒不動:恵比寿)

大日如来

増長天
御本尊は不動明王で毎月28日に御開帳が行われ、その日は縁日で露店が並びます。不動明王は大日如来の化身といわれ、御本堂の裏に大日如来坐像が控えています。不動明王の役割についてWikipediaから一部抜粋します。
仏法に従わない者を恐ろしげな姿で脅し教え諭し、仏法に敵対する事を力ずくで止めさせる、外道に進もうとする者はとらえて内道に戻すなど、極めて積極的な介入を行う姿である。不動明王は大日如来の教令輪身とされる。煩悩を抱える最も救い難い衆生をも力ずくで救うために、忿怒の姿をしている。

四天王で南方を守る増長天は戟(げき、ほこ)を持ち邪鬼を踏み従えています。


墓地の観音様
十一面観音菩薩像、地蔵菩薩像と弥勒菩薩半跏思惟像です。十一面観音がもたらしてくれる恵みについてWikipediaから抜粋します。
十一面観自在菩薩心密言念誦儀軌経によれば、10種類の現世での利益(十種勝利)と4種類の来世での果報(四種功徳)をもたらすと言われる。

十種勝利
・離諸疾病(病気にかからない)
・一切如來攝受(一切の如来に受け入れられる)
・任運獲得金銀財寶諸穀麥等(金銀財宝や食物などに不自由しない)
・一切怨敵不能沮壞(一切の怨敵から害を受けない)
・國王王子在於王宮先言慰問(国王や王子が王宮で慰労してくれる)
・不被毒藥蠱毒。寒熱等病皆不著身(毒薬や虫の毒に当たらず、悪寒や発熱等の病状がひどく出ない。)
・一切刀杖所不能害(一切の凶器によって害を受けない)
・水不能溺(溺死しない)
・火不能燒(焼死しない)
・不非命中夭(不慮の事故で死なない)
四種功德
・臨命終時得見如來(臨終の際に如来とまみえる)
・不生於惡趣(悪趣、すなわち地獄・餓鬼・畜生に生まれ変わらない)
・不非命終(早死にしない)
・從此世界得生極樂國土(今生のあとに極楽浄土に生まれ変わる)


ありがたや、ありがたや。



甘藷先生墓
国指定史跡
所在地 目黒区下目黒3-20-26滝泉寺内
指 定 昭和18年5月1日
 江戸中期の儒者。通称は文蔵。元禄11年(1698)に生まれ、京都の儒者伊藤東涯に学ぶ。幕臣大岡忠相 の知遇を得て幕府に仕え書物方となり、のち評定所儒者・書物奉行となる。
 彼は八代将軍徳川吉宗 の命により蘭学 を学び、長崎に遊学し、『和蘭文学略考』『和蘭貨幣考』『和蘭語訳』などを著述する。また、『蕃薯考』を著し、救荒作物として甘藷 の栽培を奨励したために”甘藷 先生”と呼ばれた。一方、幕命によりしばしば関東・東海地方に出向き古文書を調査・収集した。明和6年(1769)歿。行年72歳。
昭和62年3月21日建設
東京都教育委員会


墓石の文字は青木昆陽先生が生前書いたものです。


椎の木・太鼓橋
椎の木
椎の木はブナ科の紅葉常緑樹で、目黒区の木として指定されている。椎の木は浮世絵師、歌川(安藤)広重(1797-1858)画の<江戸名所百景-目黒太鼓橋夕日の岡>1857(安政4)年中にも描かれている。水と緑に恵まれたここ夕日の岡一帯は、遠く富士の頂をのぞむ美しい自然の名勝として椎の木とともに親しまれてきた。

太鼓橋
太鼓橋は1700年代初頭に木喰上人が造り始め、後に江戸八丁堀の商人たちが資材を出し合って1764(宝暦14)年から6年の歳月を経て完成した。広重はこの太鼓橋を浮世絵に描いており、こうしたアーチ型の石橋は江戸の中でも他に例がなく、目黒の欧風文化の第一号とさえ言われていたが、1920(大正9)年9月1日に豪雨により石橋が濁流にのまれたため、1932(昭和7)年架設された。現在の橋は、目黒川流域の都市整備計画により1991(平成3)年11月に完成した。



大円寺(大黒天)


八百屋お七と吉三(西運)
 江戸時代、本郷駒込町に住む八百屋の娘お七は、天和2年(1682)の火事の際、避難のためしばらく間近くの円林寺に仮住まいしており、その時に寺小姓吉三に恋したという。お七が十六才、吉三が十八才でした。
 しかし、短い避難生活のこと、やがて離れ離れになってお七は吉三に会いたさゆえに乱心し、自宅に火を放ったのです。大事には至らなかったものの、当時放火は火あぶりの大罪。お七は江戸中引き廻しの上、大井・鈴が森の処刑場で火刑に処せられました。
 その後、恋人吉三は剃髪し、西運と名を改めて、お七の菩提を弔うために念仏を唱えながら諸国を行脚しました。その後、江戸にもどった西運は、大円寺の坂下にあった明王院(現ホテル雅叙園東京)に阿弥陀三尊仏を祀り、身を寄せながら隔夜日参一万日という念仏業を始めました。浅草寺までの道のりを雨の日も雪日も休むことなく、鉦をたたき念仏を唱えながら、一万日の行を二十七年と五か月かけて成し遂げました。その夜、お七が夢枕に立って成仏したことを告げたのですがその姿が今現在も阿弥陀堂に祀られているお七地蔵になります。
 西運は集まった浄財で行人坂の石畳を直し、目黒川に架かる橋を石の橋に造り替え、社会活動の数々を行いました。そのことを伝える当時の石碑があり、現在文化財指定となり、寺に伝えられています。
地蔵菩薩 ご真言
  おん。かかか。びさんまえい。そわか。




ホリプロ

目黒駅上空に猛禽類



妙円寺(福禄寿、寿老人)

プラチナ ドン・キホーテ白金台店
こちらのお店には将軍お鷹狩りウォークのスポンサーとしてお世話になっています。


地蔵堂




瑞聖寺(布袋尊)

日吉坂町会
♪白金小学校合唱団♪NHK全国学校音楽コンクール全国コンクール銅賞受賞!!おめでとうございます。


クラウン
トヨタモビリティ東京にあったのですが車種が分からず、前から見た時「マセラティ?」と思ってしまいましたが、クラウンでした。



覚林寺(毘沙門天)
前会長の腰の痛みが治ってすこやか歩こう会のみんなと一緒に歩けるように浄行菩薩様の腰をたわしでこすってきました。


旧海軍軍人白金墓地記念堂

明治学院大学

高輪消防署二本榎出張所

三菱電機高輪荘
清正公から桜田通りを高輪台まで南下します。


池田山公園

雪つり

ロウバイの蕾

石に根付く若木
池田山公園で二度目のトイレ休憩、トイレが新しくきれいになりました。ロウバイはまだ葉が落ちず開花は先のようです。


タイ大使公邸
目黒駅近くまで戻り上大崎児童遊園をお借りしてストレッチをして解散しました。

これまでこのウォーキングの後必ず寄っていた天狗目黒西口店が閉店してしまったので、この日は惠比壽ビヤホールへ。山手線外回りが渋谷駅改良工事のため運休しているのでタクシーで向かいました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
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【散歩】下馬、上目黒

2023-01-04 14:17:51 | 東京都目黒区、世田谷区
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

三が日ほとんど歩いていないので散歩へ。でもないのですが、駒沢の日産ディーラーに車検で車を預けに行った帰り道です。数えてみれば今回が16回目の車検。いつまで乗れることやら。


白梅
ロウバイでも咲いていないかとカメラを持って出かけたのですが見つけたのは白梅で香っていました。植物の名称はカタカナで書くようにしているのですが、「ハクバイ」では雰囲気が出ないので白梅ですね。




お猿庚申
お猿庚申(庚申塔二基・供養塔一基)
 台座の上に猿が座っている石像は通称お猿庚申といわれ、寛文十一年(1671)の銘があります。青面金剛と三猿が刻まれてるものは、もとあった地域の名から東山谷(ひがしさんや)庚申と呼ばれ、元禄七年(1694)に造られました。もう一基は「供養塔」と彫り込まれていてこれも江戸時代のものです。
 かつての下馬引沢村では、庚申講といって春と秋の「かのえさる」の日の夜に集まり、眠らず過ごす行事がありました。徹夜するのは、庚申の日の夜には三尸という虫が人体を抜け出て天上の神にその人の悪事を告げに行き、長命を妨げると信じられていたためです。
 ここにある石造物は、何らか紀念する目的で造られたと考えられます。近代の区画整備事業などで元の場所から移設されながらも地域を見守ってきました。このたび公園整備をきっかけに再び設置されました。
  令和四年三月  世田谷区教育委員会


駒沢通りの西に五本木と下馬を分ける区界の道があり、散歩道はさらに一本西になります。一方通行が相対していて世田谷観音通りはどちらも一方通行出口になるので裏道にはなりずらく車の通行はほとんどない歩きやすい道です。区界のバス通りも渋滞知らずなので裏道不要といった感じです。
お猿庚申、前回通った時は立ち入り禁止になっておりその後整備されたようです。説明看板の日付が昨年三月になっているので、一年近くこの道を歩いていなかったのかな?いつかルートに組み込みたいと思っている道です。


フクギ?

足毛橋
蛇崩川緑道の再整備が終わり奇麗になっています。世田谷区の公園課は仕事が早い。「あしげばし」とあったので「芦毛橋」だと思って写真に撮り、家に帰って写真を確認したら字が違っていたのでびっくりしています。近くに下馬の字名の由来となった芦毛塚(Googleマップの表記は「葦毛塚」)があるのでこの橋も元は芦毛だったのだと想像します。葦毛塚の真ん中に区界があり、塚の説明看板を設置しているのは世田谷区教育委員会です。すぐわきの公園は「目黒区立芦毛塚街かど公園」なので、目黒区と世田谷区で見解が対立している?ってなわきゃないか!



六畝橋
この橋の名も意外だったので撮っておきました。目黒区南部に羅漢川の支流で六畝川があります。恥ずかしいことにこれを「ろくうねがわ」と説明していたのですが調べてみると「ろくせがわ」が正解です。「畝」は広さの単位で六畝を「ろくせ」と読んでも「むつせ」と読んでもどちらが正解ということはないということでしょうか。
調べたついでなので六畝割について目黒区のサイトから引用します。
目黒の地名 六畝割(ろくせわり)
更新日:2014年2月3日

「目黒の地名」は、「月刊めぐろ」(昭和55年8月号から昭和58年4月号)の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒の地名 六畝割
六畝割(ろくせわり)は、今日の目黒本町一丁目地域をいう。かつては「こなべの」と呼ばれていたというこの地域が、いつから六畝割(ろくせわり)になったのであろうか。
明治21年に碑文谷村戸長役場が編さんした「碑文谷村村誌」に字六畝割という地名が記されている。以後、昭和7年の市郡合併により目黒区となった際に、周辺の字谷頭、池ノ上、東池下を含めた地域が清水町と改称されるまで、六畝割の地名は残っていた。さらに、昭和41年3月施行の住居表示により旧六畝割地域は目黒本町一丁目となったのである。
ところで、畝とは尺貫法でいう田地面積の単位で、一畝は一反(段)の十分の一、これをメートル法で換算すれば約一アール、百平方メートルである。従って、六畝は六百平方メートルの田地ということになる。ちなみに、同町一丁目11番の区立清水東児童遊園の敷地面積が四七六・九三平方メートルだから、それに約百二十平方メートルを加えた広さということになる。
さて、六畝割(ろくせわり)の由来だが、江戸末期まで、この地域付近一帯は樹木で覆われ開墾する者もいなかった。そこで、明治十何年ごろか、時の碑文谷村戸長、角田長広氏が村の共有地であったその一帯を六畝ずつに区切って村の農民に与え、強制的に開墾させたことから、この地域を六畝割(ろくせわり)と呼ぶようになったといわれている。



蛇崩川緑道

ハクモクレンの花芽

違和感がある時計
公園にあるような時計がなぜマンションの敷地にあるのか不明です。時刻は正確なようです。この前のみち、北へ行くと三宿病院南へ行くと下馬通り経由で芦毛塚へ至る区界の道です。かつての鎌倉街道は蛇崩交差点から五本木通り経由芦毛塚ではなく、こちらだったと思います。


蛇崩下橋(じゃくずれしもばし)

小川坂
 かつて、この一帯を「小川」といい、坂下に広がっていた田んぼを「小川田んぼ」と呼んだ。この辺りの旧家小川家が地名の由来といわれる。また、この坂のある道は、鎌倉へ通じる道として中世の頃開かれた鎌倉道であった。
  平成二十一年三月
  目黒区教育委員会



すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
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