目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

すこやか歩こう会 秋の旅行下見 秩父・小川町・寄居

2018-06-28 09:44:40 | ウォーキング
「そろそろ秋の旅行の下見に行きましょう」とかねてから話題となっていたのですが、今回泊りでの下見は難しいとのことで日帰りとなり、とんとん拍子に日程が決まり下見に行ってきました。
候補地はいくつかあったのですが、古くからの会員さんが以前から「かんぽの宿の中では寄居が一番!」とおっしゃっていたので一度は行ってみたいと思っていました。二日目は秩父を歩いてS-TRAINで帰ってこようと思っていたので、一日目にどこを歩くか検討しました。長瀞、寄居、熊谷、行田など。長瀞、寄居は紹介されているのはハイキングコースでした。我々はウォーキングクラブなので、山歩きの様なルートは採用しません。行田はバスハイクの下見で行ったので最後の手段として取っておくとして、中山道の宿場であり秩父往還の始点である熊谷は有力候補でした。検索の結果それほど魅力的なコースは紹介されていませんでした。ふと、「小京都小川町」が目に留まり、紙すきの里小川町を下見することにしました。

東山を出て関越練馬インターまで一般道です。途中律君の住んでいたマンションを見に行きました。ドラマのシーンでやけに高いコンクリートの壁に既視感があり、「神田川と善福寺川の合流点付近では?」と思っていました。Googleマップで確認したので間違いなかったのですが、この目で見たかったので和田見橋を左に曲がってコンクリートの壁と律君とマー君が住んでいたマンションを確認してきました。この場所は以前の職場の近くで、昼食でお世話になっていたアポロンも見に行ったのですが、お店はやっていないようでした。
練馬インターまで一時間弱。富ヶ谷から高速を使うと30分程度で到着しますが、1,310円余計にかかります。外環を使う分だけ高い!首都高を距離別料金にしたのだから、外環も首都高扱いにしてくれればいいのにと思ってしまいます。すこやか歩こう会の負担で自腹じゃないんですけど、無駄なお金は使いたくない。三芳PAでトイレ休憩をして、花園インターで関越を降り、秩父往還から皆野寄居有料道路経由で秩父に到着しました。

秩父のウォーキングで参考にしたのは秩父市産業観光部観光課が発行している「秩父市ハイキングマップ」。「7 江戸巡礼古道コース」は一般向けとあり、歩行:約4時間30分、平面距離:11.0km、標高差計:467mとなっています。旅行の際に歩くコースとしては時間がかかりすぎるので、このコースをベースに短縮する予定です。秩父駅→札所16番西光寺→札所22番童子堂→十三地蔵→札所23番音楽寺→念仏坂くらいかな?





音楽寺
久しぶりにデジイチを手にして撮影失敗しました。4月19日に月(月食かな)を撮影していて、マニュアルモードにしたまま気づかず撮影し、使える写真が数枚しかありません。通常は被写界深度を意識して絞り優先オートで撮影し、手振れの心配があるレベルのシャッタースピードを意識します。バッテリー節約のためモニター画面はすぐ消す癖をつけているのも、撮影失敗の一因です。それ以前にマニュアルで露出を調整して撮影した後、オートに戻しておかないのが最大の敗因でしょうね。

一日で二日分の歩く場所、宿泊場所の寄居を確認しなくてはならないので、ポイントのみを押さえます。秩父のコースのポイントは、「アップダウンがウォーキングと言えるレベルのものかどうか」です。それを確認するため、コースの最高地点になりそうな音楽寺を車で訪れました。かなりの坂を上り訪れた音楽寺は、秩父の街を見渡せる気持ちのいい場所でした。この坂を一気に上るのではなく、設定されたルートに従ってゆっくり上るのであれば何とかなるだろうとの印象で、このルートを採用することにします。
音楽寺について秩父三十四所観音霊場のページから引用します。
秩父札所二十三番 松風山音楽寺(しょうふうざん おんがくじ)
本尊:聖観世音菩薩  宗派:臨済宗南禅寺派

小鹿坂峠の中腹に位置し、観音堂の前庭からは秩父市街が一望できる。音楽寺の名の由来は、秩父札所を開いた十三人権者がこの山の松風の音を菩薩の奏でる音楽と聞いたからと言われている。音楽を志す人たちが訪れることが多い。境内には桜の木が多く、春は花見でにぎわい、秋は紅葉が楽しめる。堂前の梵鐘は、高さ1.2m、108の乳頭、六観音像が鋳出され、その鐘の音は高く美しく響く。

秩父困民党の決起と音楽寺の梵鐘
明治17年(1884年)11月1日、旧吉田村の椋神社に集まった農民3000名が武装蜂起し、翌2日には小鹿坂峠を越えて音楽寺境内に集結、梵鐘を乱打し大宮郷(現秩父市内)へ乱入した。世にいう困民党事件である。境内の鐘楼脇には困民党決起100年を記念して、昭和53年11月2日に「秩父困民党無名戦士の墓」が建てられた。碑面に「われら秩父困民党、暴徒と呼ばれ暴動といわれることを拒否しない」と書かれている。

枝垂桜・ツツジ・紅葉
秩父の桜の名所の一つであり、春にはツツジ、秋には紅葉が楽しめる。荒川をはさんで秩父市街を一望できる山の斜面に位置し眺めがよい。


S-TRAINについてWikipediaから引用します。
2016年6月16日に4社の共同リリースにより運行予定が明らかにされ、2017年1月10日に詳細が発表された。西武鉄道が主体となって運行しており、同社の40000系を専用で用いる。4社のうち東急と横浜高速鉄道では初となる座席指定制の列車となる。
「S-TRAIN」の名称は、2016年11月21日に西武鉄道・東京急行電鉄・東京地下鉄・横浜高速鉄道の4社名義で商標が出願され、2017年4月21日に商標登録された(第5941839号)。列車名は、

通勤・通学・お出かけなど様々なシーン「Scene」に使える
指定席による快適な座席「Seat」
直通運転による乗り換え無し「Seamless」
これらの共通となる頭文字「S」に由来している。ロゴマークの「S」の上部は秩父沿線の緑、下部はみなとみらいの青、「S-TRAIN」のグレーは渋谷と豊洲のアーバンを意味する。
西武と東急は1950年代から1960年代にかけて伊豆半島(伊豆戦争)や箱根(箱根山戦争)で熾烈な観光開発競争を繰り広げていた同士であり、副都心線全線開業以降Fライナーをはじめとする副都心線経由での直通運転は行われていたものの、料金が必要となる列車の共同運行は初めての事例である。これについて、東急横浜駅の岸哲也駅長が運行開始当日の取材に「東急線を西武の列車が走るということは、昔は到底考えられなかった」「過去は過去。壁を乗り越えていかないと鉄道会社も生き残れない」と述べるなど、過去の確執を乗り越えての運行開始となった。
列車種別の位置付けは、西武線内では特急列車(特急レッドアロー)より下位であるが、東急線と横浜高速鉄道線内では特急(通勤型車両を使用、料金不要)より上位となる。

こちらを利用して西武秩父から渋谷へ一直線と思っていたのですが、時間が合わないので、帰路はレッドアローになる予定です。


女郎うなぎ福助のうな丼
小川町への移動は県道秩父小川線を使い定峰峠を越えてゆきました。ちょっと道が細くて、かなりのワインディングロードでしたが、木々の緑を楽しめる良いコースでした。小川町についてWikipediaから引用します。
比企地方及び県南西部の最も北西に位置し、秩父地方のすぐ外側に位置する。江戸から川越を抜けて秩父に向かう往還が町を東西に抜けており、古くはその地理的な優位性から六斎市が立つなど地域の商業中心であった。
外秩父の山に囲まれた小川盆地に市街地があり、その地勢から「武蔵の小京都」の異名を持ち、伝統工芸の和紙で知られる。
名誉町民である元・埼玉県議会議長 小久保太郎 の作詞による「ピッカリ千両節」は、町の歌とも言われ、これによれば「山の町、酒の町、紙の町」である。


町の健康福祉課が紹介している「小川町健康長寿ウォーキングマップ」のルートを車で確認し下見としました。「カタクリとオオムラサキの林」などあり、自然と調和したレトロな街のウォーキングは楽しめそうです。
昼食は有名なうなぎ屋さんにしました。店のページから引用します。
女郎うなぎの由来
今からおよそ160年前、黒船が襲来した天保安政の頃の事です。
当家の先代善兵衛の親友某氏が、宿望の「伊勢神宮」へ行った帰りに後日の思い出にと、江戸は吉原の廊に立ち寄った所、相手の花魁があまりにも気品高く美しいのでたちまち虜となってしまいました。そこで男は大枚を投じて身受けをして小川の町に連れ帰ったまではよかったのですが、我家には妻がおりますので思うにまかせず、思案に余り当家先代の善兵衛の侠気に委せたのでした。 善兵衛は早速我が家に引き取り親身も及ばぬ慈しみといたわりで救いの手を差しのべましたので彼女も又、安住の喜びに一意専心家業の手助けに忠実に働きました。

そして歳月は矢のように過ぎ去り・・・
年を経るにつけ、兎角病床に親しみがちであった彼女がある時、善兵衛を枕頭に招いて終生の恩返しにと花魁の生家に伝わると言う、うなぎの蒲焼の秘法極意を教え、これにまつわる悲願をかなえていただきたいと言いのこして大往生を遂げたとの事です。花魁が伝えた鰻料理だから「女郎うなぎ」と称し先考又心機一転実業を改めてこの元祖となり代々相次いで六代目の現当主に至ったしだいでございます。

田山花袋の訪れた宿
多くの著名人が訪れ、愛した女郎うなぎ
女郎うなぎ福助はかつては割烹旅館で、これまで数多くの著名人の方々にご来店いただいております。「蒲団」や「田舎教師」の作品で知られる明治・大正を代表する文豪田山花袋や、勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称される幕臣山岡鉄舟も滞在されております。
また、現代に入ってからも有名脚本家の方、芸能リポーターなどTVで活躍する数多くの有名人の方から、皇室の方まで女郎うなぎを食していただいております。

明治時代に建てられたお店
ノスタルジックな雰囲気を楽しむ
女郎うなぎ福助は江戸時代安政2年創業。かつては割烹旅館で、その名残りを入口天井の干支の彫刻や、廊下天井の扇張りなど随所に見てとることが出来ます。現在のお店は明治時代に建てられました。店内のいたるところに時代を感じられ、食だけでなく女郎うなぎ福助のそのノスタルジックな雰囲気を楽しむことが出来ます。


こちらのお店で昼の宴会をと考えていたのですが、ちょっとお高いのであきらめました。うな丼ランチは2,650円でした。

この後寄居へ移動し、かんぽの宿で日帰り入浴しました。荒川脇の高台に建ち、景色は最高、温泉のお湯も最高でつるつるになります。秋の旅行は10月20日・21日の予定で、小川町のみの日帰りも受け付ける予定です。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第16回将軍お鷹狩りウォーク ショートコース実踏

2018-06-27 08:52:44 | ウォーキング
繰り返しになりますが、今年も11月3日に「めぐろウォーキングマーチ将軍お鷹狩りウォーク」が開催されます。6月24日に実行委員によるショートコース実踏が行われました。天気予報では曇りだったのですが、あいにくの雨になってしまいました。ショートコースの実踏はいつも雨に降られている印象がありますが、この時期なので仕方がないですね。お鷹狩りウォーク本番はこれまで15回雨で中止になったことはなく、ショートコース実踏のジンクスとともに、本番のジンクスも継続して16回目のお鷹狩りウォークが無事行われることを祈ります。今回は事務局で下見を行った5月12日の写真も交えて掲載します。


ヒマラヤスギの松ぼっくり

明治神宮外苑聖徳記念絵画館
ショートコースのスタートはここ絵画館前となります。コースはロングコースの後半と全く同じにしたので、本番ではショートコースの参加者がすべてこの場所をスタートした後に、ロングコース参加者が休憩場所として利用することになります。
あまり見たことがない光景だったので写真に撮りましたが、「杉の松ぼっくり」はちょっとツッコミたくなるフレーズですね。ヒマラヤスギは杉という名前とは裏腹にマツ科で、松ぼっくりは「シダーローズ」と呼ばれ、11月頃に落果するシダーローズを乾燥させ分解するとバラのような形が現れるようです。お鷹狩り本番で落果したシダーローズを見つけたら、持ち帰って観察したいですね。
ちなみに杉の木はヒノキ科で、ヒノキ科の木にも松ぼっくりのようなものが出来るようですが、日本で見られる種類ではそれほど大きな松ぼっくりはないように思います。ヨセミテ国立公園のマリポサグローブで見たジャイアントセコイアはヒノキ科ですが、大きな松ぼっくりが落ちていました。


建設中の新国立競技場
絵画館前をスタートし、お鷹の松を見て、新国立競技場の工事現場を見ながら歩きます。「御鷹の松」の説明書きには、
御鷹の松(お鷹の松)
大正7年(1918)明治神宮外苑競技場(現国立霞ヶ丘競技場)造成のために買上げた霞岳町の敷地内に境妙寺という古寺があった。昔、徳川3代将軍家光(1603~1651)が鷹狩の途中この寺に休息していたところ、江戸城から飛び去っていた、「遊女」と名づけた愛鷹が飛んで来て、庭前の松の枝に止まったので家光は大へん喜び、この松をその鷹の名をとって「遊女の松」と名づけたと伝えられる。後の世の人々が「お鷹の松」或いは地名をとって「霞の松」とも呼んだ。碑文にある2代目の松(樹齢推定200年 高さ4メートル)は昭和39年(1964)、東京オリンピック開催のための拡張工事の際に取り去られ、碑石は競技場代々木門内に移設されていたが、このたび現在地に移し、新たにこれに黒松を配したものである。
 昭和54年(1979)10月 明治神宮外苑

この場所とは関係がありませんが、目黒不動について書かれた目黒区のページにこのような記述があります。
弘治3年(1557年)に堂塔の修理造営を行ったが、元和元年(1615年)に火災のため、ほとんど焼失してしまった。しかしながら本尊と本尊所持の「天国の宝剣」は奇跡的に難を逃れた。
その後、寛永7年(1630年)に上野護国院の末寺となり、将軍家の保護を受けるようになった。そのきっかけとなったのが、将軍家光が鷹狩りで目黒の辺りに来ていた時、可愛がっていた鷹が行方不明になるということがあり、そこで不動の僧に祈らせたところ無事に戻ってきたという。喜んだ家光は不動を深く尊信し、焼失していた堂塔を再建したという話である。
以来、幕府の保護が厚く、江戸近郊における有数の参詣行楽地となり、門前町もにぎわった。
近くには、行人坂上の夕日が丘などの景観地もあったし、俗に蛸薬師と呼ばれる成就院や、蟠龍寺もある。少し足を延ばせば、名刹祐天寺もある。江戸の三富と呼ばれた富くじが行われたことも、目黒不動繁栄の一因となった。

家光の鷹はいたるところで伝説を残しているようです。


南青山三丁目の裏路地
スタジアム通りを経て青山通りに出て、外苑西通り交差点の次の信号で青山通りを横断しこの裏路地に入ってゆきます。以前このあたりを歩いた時には表参道駅の先まで行って青学会館の前を通ったのですが、今回は初めて通る裏路地を採用してみました。



サニーヒルズ南青山店
裏路地を抜けた角にユニークな外観の建物があります。お店のページから引用します。
東京メトロの表参道駅を降り、おしゃれなデザイナーズショップやカフェ、スイーツのお店が立ち並ぶみゆき通りを南に向かって歩くと、突き当たりには建築家の隈研吾氏が設計した根津美術館があります。その途中にあるガラス細工のようなプラダビルの向かいの一本路地を入ると景色は一変し、真新しい店と緑との間の影に昭和風の民家が見え隠れします。その中でひときわ目を引くヒノキの角材に覆われた建物が微熱山丘の東京支店「SunnyHills at Minami-Aoyama」です。
隈研吾氏が新たに手がけたこの三階建ての建物は、地獄組みと呼ばれる伝統的な組木格子を熟練の職人の手で一本ずつ立体的に組み上げて作られました。店の中に入ると、森の中に迷い込んだかのように細かく交差する木組みの隙間から木漏れ日がお客様を包み込みます。光と、ヒノキの独特の香りが時とともに移ろいます。日が暮れると建物全体が灯篭のように闇の中に浮かび上がります。
台湾の山中に育った私たちには、東京のような都会に来てもやはり木々が必要です。森のような姿をした建物の中で、ご近所と挨拶を交わし、遠来の友人たちと語り合えればと考えました。あの山にいるとき、自分の家にいるときと同じように。

やっぱり隈研吾さんでしたね。


青南小学校

フレンチレストランFiGARO
青南小学校のある場所は渋谷区だとばかり思っていたのですが、先ほど歩いていた青山通りを含めて港区なのですね。住所に「青山」が含まれるのはみな港区ですが、青山学院大学は渋谷区です。神宮外苑も渋谷区だとばかり思っていたら、いちょう並木は港区、絵画館や神宮球場は新宿区でした。明治神宮が渋谷区なので、このあたりもみな渋谷区だと思っていました。
青南小学校についてはWikipediaから概要を引用してみましょう。
明治時代以降、青山は将官や官僚などが居住する地域として大きく変容するのに伴い、隣接する青山小の児童数も急激に膨張、そのため1906年(明治39年)に青山小の一部の児童を引き取る形で創立された。そうした地域柄もあり、進学熱はこの頃より高く、文京区の誠之小などと並び、府立一中(現・日比谷高校)や四中(現・戸山高校)など上級学校への進学率が高い学校として知られていた。この頃より越境入学生も後を絶たず、1921年(大正10年)着任の下川兵次郎校長の時代以降の戦前において、上級学校を目指して進度別授業を展開していた時期もあった。
1931年(昭和6年)、中村草田男が母校の青南小学校を訪ねた折に詠んだ「降る雪や明治は遠くなりにけり」の句碑が、現在、学校正面玄関前に建っている。
戦時中の逸話として、山本五十六が戦死した際、校庭にて海ゆかばの大合唱と共に、その子女らが在学中、またかつて通っていた関係で、他校が著名な将官が亡くなると改称したのに倣い、一時「山本国民学校」と改称する案がでて、真剣に討議されたこともあった。戦後も当校から青山中学校 - 日比谷高校のコースを辿ることが、いわゆる番町小 - 麹町中学校コースと並び、東大へ進学するエリートコースとされたこともあった。かように公立小御三家として「番町・白金・青南」などと謳われたこともあり、港区内では現在でも白金小や赤羽小などと並び、学区外からの越境通学者が多く、また著名人の子弟も見られる。
2006年(平成18年)に創立100周年を、また、2016年には創立110周年を迎え、創立記念日の11月18日に記念式典が行われた。

出身者から知っている名前をピックアップしてみます。岡本太郎、斎藤茂太、北杜夫、松本隆、オノ・ヨーコ、吉本多香美、合原明子など。




岡本太郎記念館
岡本太郎記念館(おかもとたろうきねんかん)は、東京・青山にある美術館である。芸術家・岡本太郎がその父・岡本一平から相続して自宅兼アトリエとして使用していた南青山の資産を記念館としている。

概要
岡本太郎記念館には、多くの彫刻、デッサン、エスキースなどが展示保存されている。1階には岡本が使用した筆や絵具、2階には油絵、彫刻などが展示されている。館内では写真撮影も自由である。
岡本太郎記念館を運営する財団法人岡本太郎記念現代芸術振興財団は岡本太郎が死亡した翌年である1997年(平成9年)の2月に設立され、岡本太郎記念館は1998年(平成10年)5月に開館した。財団法人の理事長は平野暁臣で、理事として川崎市長・阿部孝夫、実業家・糸井重里、構造家・中田捷夫、資生堂会長・福原義春、美術評論家・山下裕二らが名を連ねている。

歴史
岡本太郎は、この場所に1953年(昭和28年)から84歳で没した1996年(平成8年)まで暮らし、創作活動を行っていた。
岡本が初めに住んだ旧居は1945年(昭和20年)5月、アメリカ軍による東京大空襲(山の手大空襲)によって焼失している。この旧居には岡本の両親である一平、かの子も共に長く暮らし、一家はここからヨーロッパに旅立っている。住居表示施行前のこの地の住所は、「青山高樹町三番地」であった。
日本の敗戦後に再建された建物は、岡本の友人でル・コルビュジェの弟子でもあった建築家・坂倉準三の設計により建てられたものである。岡本の要望により、積み上げたブロックの壁の上に凸レンズ形の屋根の乗った独自の形象をしており、壁には岡本の描く顔と「TARO」の赤いサインが入っている。1970年(昭和45年)に行われた大阪万国博の太陽の塔の構想もここで練られた。



日本コカ・コーラ本社
南青山六丁目交差点を通過します。このあたりの通りに名前があると分かりやすいのですが、あえて表現するとすれば根津美術館のみちと、フジフィルムへ向かう道でしょうか。相国寺東京別院前の路地を通り、六本木通りに出て、常盤松交番がある渋谷四丁目交差点で六本木通りを横断し、常陸宮邸の裏を通ります。常陸宮邸は薩摩藩島津家下屋敷の後で、篤姫が花嫁修業をしていた場所ですね。


実践女子学園

國學院大學
本番が行われる11月3日には例年通り國學院大學のご厚意により、トイレ休憩の場所を提供していただけるものと思っています。


渋谷氷川神社

氷川の杜公園の土俵
三島由紀夫最後の長編小説「豊饒の海 第二巻・奔馬」で渋谷氷川神社が舞台となるシーンが描かれています。この小説の第一巻・春の雪の書き出しは目黒区青葉台が描写されているので、目黒・渋谷は物語の中心地です。
土俵については渋谷区のページに詳しい解説がないので、「東京都寺社案内」のページから引用します。
金王相撲
渋谷氷川神社の金王相撲は、大井鹿島神社、世田谷八幡宮とともに江戸郊外三大相撲の一つとされていました。
この氷川神社の創建は、区内でも古く、かつての下渋谷村、下豊沢村の鎮守社でした。そのころの祭日は、9月29日で当日は境内で相撲が行われ、その相撲場は今も残っています。
この行事を金王相撲といい、いつごろから始められたか明らかではありませんが、かなり古くから行われていたらしく、近郷はもちろん、江戸の町からも見物人が集まり、凶年などには休業しようとしても見物人が集まるので、やむなく興行したといいます。
ここで相撲をとったのは、本職の江戸の力士ばかりではなく、近郷の若者も大勢参加し、江戸時代の村のレクリエーションの場となっていました。(渋谷区教育委員会掲示より)




氷川みかん公園

氷川つるかめ公園

お庭のバラ
氷川の杜公園から明治通り沿いに南下するのですが、歩道が狭いので東側に平行した路地をルートとして選択しました。5月12日には小さなみかんを見ることができました。渋谷区東三丁目のバラのきれいなお宅は、昭和の町のお医者さんというたたずまいです。


恵比寿ビール坂
途中から明治通りを歩き、恵比寿橋で渋谷川を渡り、恵比寿通りから始まる上り坂には魅力的なサインがあり「もう十分歩いたじゃないか。ガーデンプレイスで一杯やってゆこうよ!」と誘っているようです。

ガーデンプレイス、アメリカ橋、茶屋坂を通りゴールとなる目黒区民センターに到着する頃には雨がやんで、むしむしとした梅雨の暑い日に変わっていました。

今年もよいコースが出来ました。多くの皆さんのお鷹狩りへのご参加をお待ちしております。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

めぐろウォーキング塾 地区合同ウォーク

2018-06-25 11:09:57 | ウォーキング
週末は目黒ウォーキング協会のイベントがあり、すこやか歩こう会の活動はお休みでしたが、実行委員にとっては忙しい週末となりました。



七夕飾り
今回のめぐろウォーキング塾は主会場を区民センター体育館として行われています。目黒区立の体育館は五つあります。北部地区は駒場野公園内の駒場体育館。中央地区は碑文谷体育館。南部地区は目黒線西小山駅近くの中央体育館。西部地区はめぐろ区民キャンパス内の八雲体育館。
めぐろウォーキング塾は交通の便が悪い北部地区駒場体育館を除く四つの地区の持ち回りで行われてきました。駒場体育館は駒場東大前駅から徒歩5分なので「交通の便が悪い」というのは正確さを欠いているのですが、多くの目黒区民にとっては行きにくい、なじみのない場所なのです。目黒区を南北に走る東横線沿いにある碑文谷体育館、八雲体育館が利便性ではAクラス。目黒線沿いにある区民センター体育館、中央体育館がBクラスでしょうか。バスの便が良い区民センター体育館はA’かもしれませんね。
ウォーキング塾の順番では今回は中央体育館なのですが、建替えのためこちらの体育館はしばらく使用できません。中央体育館の休館について目黒区のページから引用します。
中央体育館は昭和43年に建築され、築50年を迎えます。東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会によって東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会の公式練習会場候補施設とされており、受入態勢の確保や競技環境の整備が必要です。また、東京2020大会終了後も安全で快適に利用でき、区民の誰もが生涯にわたり、年齢やライフスタイルに応じて、健康づくりから各種の競技に至るまで、多様なスポーツ・レクリエーションに親しむことができる施設とするために、大規模改修工事を行います。そのため、平成30年7月1日から平成32年3月31日(予定)まで休館します。
前置きが長くなりましたが、今回は東部地区の区民センター体育館を主会場としているため、地区合同ウォークも区民センターに集合し、東部地区を歩きます。目黒区民センターについて概要を説明するページが見つからないので簡単にまとめてみると、体育館、プール、消費生活センター、中小企業センター、区民センターホール、勤労福祉会館、児童館、児童遊園、図書館、美術館、勤労者サービスセンター、社会教育館を備えた複合施設となっています。

区民センターを出発し、目黒川沿いに下流へ向かい、目黒通りを横断して権之助坂を上ります。坂についてWikipediaから引用します。
権之助坂(ごんのすけざか)は目黒通りの一部で、JR目黒駅から目黒川にかかる目黒新橋に至る400mほどの坂。目黒区目黒1丁目と下目黒1丁目を分ける坂でもある。
権之助坂は元禄時代に開かれ、坂の名は菅沼権之助に由来する。彼の名がついた理由としては、権之助自身が坂を開いたとする説や、重たい年貢に苦しむ農民のために年貢軽減を直訴してそのために処刑された権之助の名を、慕う農民が開かれたばかりの新坂につけたとする説などがある。
権之助坂が開かれるまでは、江戸と目黒を結ぶ主要な道路は行人坂を通っていた。しかし、行人坂は急な坂であったため、荷を運ぶ人々は大変な苦労をしていた。
権之助坂が開かれてのちは、主要交通路が行人坂から権之助坂に移り、特に権之助坂が目黒通りの一部となって以降は拡幅を続けても交通量の増大に追いつかず、ついには権之助坂の途中からバイパスを設け、権之助坂は西に向かう一方通行となった(バイパス路は東=都心に向かう一方通行)。2016年現在、権之助坂はほぼ全体に権之助坂商店街が広がる繁華街となっている。

菅沼権之助についてもWikipediaから引用しましょう。
菅沼権之助(すがぬまごんのすけ)は江戸・元禄時代の江戸近郊中目黒村田道の名主、目黒・権之助坂を開いた人物、または地域の名士で権之助坂の名の由来になった人物といわれる。

概要
元禄時代の江戸近郊・中目黒村田道の名主。荷を運ぶ人が急坂の行人坂で苦労しているを気の毒に思って、緩やかな権之助坂を開いたとも、地域の貧しい百姓が重たい年貢で生活が苦しいのを気の毒に思って、幕府に年貢の軽減を嘆願したともいわれる。
刑死したが、無断で権之助坂を開いたことを幕府に咎められたとも、貧しい小作農のために年貢軽減を嘆願したことが罪に問われたともされる。年貢軽減説では、罪に問われ引き立てられる際に新坂の上から最後の別れと自分の家を望み、そのために権之助を慕う農民が新坂に権之助の名を付けたと言われる
権之助の話には異説もあり、異説では、実は名主などではなく坂を開いたわけでもなく強盗を働き処刑されたともされる。異説では罪人として引き立てられ晒された坂に名がついたとされる。しかし、権之助の墓は現在も目黒区中目黒5-6にある。強盗で刑死したのであれば当時の情勢では墓を作ることが許される可能性は低く、強盗は同名の別人で、おそらく菅沼権之助は人々のために働いて命を落とした義の人であろうとされる


権之助坂の途中を右に折れて、大圓寺の前で行人坂に出ます。大圓寺、行人坂、八百屋お七についてWikipediaから引用します。
大円寺(だいえんじ)は、東京都目黒区下目黒にある天台宗の寺院。山号は松林山。本尊は釈迦如来。大黒天を祀り、元祖山手七福神のひとつとなっている。

歴史
この寺は、寛永年間(1624年 - 1644年)湯殿山修験道の行者大海が創建したのに始まると伝えられる。1772年(明和9年)2月に発生した大火(明和の大火・行人坂火事)の火元となった寺であることから、江戸幕府から再建の許可が得られなかった。江戸時代後期の1848年(嘉永元年)になって薩摩藩主島津斉興の帰依を得て、その菩提寺としてようやく再建された。明治に入り隣接した明王院がこの寺に統合されている。


行人坂(ぎょうにんざか)は目黒区下目黒と品川区上大崎にまたがる坂である。急な勾配や江戸時代の明和の大火の火元になった大円寺、結婚式場などで知られる目黒雅叙園があることで知られる。江戸時代には江戸と目黒を結ぶ交通の要衝でもあり、富士見の名所としても知られ、また、明和の大火ばかりでなく八百屋お七の恋人とされる吉三の墓もあり江戸の大火に縁のある坂でもある。

概要
行人坂は、坂上の一部を品川区上大崎として、坂の大部分は目黒区下目黒1丁目を東西に貫く150mほどの長さの平均勾配が約15.6%になる急峻な坂で、坂はJR目黒駅西口の三井住友銀行目黒支店と同事務センターの間を坂上として始まり、西に向かった坂を左手に大円寺、目黒雅叙園を見ながら下りきると目黒川にかかる太鼓橋に至る。
江戸時代には江戸と目黒不動や目黒大鳥神社、碑文谷円融寺などへの参詣や目黒の農産物を江戸に運ぶ交通の要衝でもあり、行人坂の名の由来は17世紀前半寛永のころに出羽三山の一つ湯殿山の行者の大海法印が大日如来の堂を建て、大円寺の元を開き坂を開いた。以来、行者が多く住み、そのため行人坂と言われるようになったと伝えられている。
行人坂は坂の頂上からおおむね西南西に急勾配で下るため江戸時代には坂上からは富士山がよく見える富士見の名所として富士見茶屋が置かれ、『江戸名所図会』にも坂の全景と富士見茶屋、太鼓橋の三つが描かれている。
行人坂に面する名所や有名な会社としては、明和の大火や五百羅漢で知られる大円寺・目黒雅叙園・太鼓橋・ホリプロ本社などがあり、すぐ近傍には行人坂教会やトンカツの老舗「とんき」などがある。
急峻な坂であり、自動車は上りの一方通行となっている。

江戸の2つの大火事と大円寺
行人坂にある大円寺は見るべきものの多い古刹だが、幅4km長さは24km先まで延焼し、1万5000人が死亡し日本橋が壊滅し上野も焼けた明和の大火(明和9年2月29日(1772年4月1日))の火元になった寺でもある。大円寺は武州熊谷無宿の真秀という僧によって放火されたが、放火された大円寺も責任を問われ、再建が認められたのは70年以上も後のことだった。縁起担ぎの好きな江戸庶民は明和9年を「めいわくの年」と読んでよくないことがおきるのではないかと恐れていたが、それは的中し大惨事が起きてしまうことになった。明和の大火は江戸三大大火の一つで目黒行人坂大火とも呼ばれる。大円寺にあり、行人坂の名所でもある石造五百羅漢像は目黒行人坂火事の犠牲者追悼のために作られたとされている。
また、明和の大火の約90年前の天和の大火(天和2年12月28日(1683年1月25日))で焼け出された八百屋お七が避難先の寺で出会った吉三に恋焦がれて、吉三に再び会いたい一心で放火し、火あぶりとなった事件で、お七の恋人吉三は後に西運上人となりその墓は大円寺にある(お七の恋焦がれた相手の名や素性は諸説ある。吉三=後の西運上人はその1説である)。お七の墓は故郷の千葉県八千代市の長妙寺や文京区白山の円乗寺にあるが、恋焦がれた吉三と墓が別なのは気の毒と1955年には大円寺に吉三とお七の共同の墓(比翼塚)が置かれた。

太鼓橋
行人坂を下りきった最後には目黒川に出て太鼓橋を渡る。江戸時代後期にはアーチ型の石橋で、その形が太鼓の胴を思わせたので太鼓橋の名が付いた。『江戸名所図会』や歌川広重の『名所江戸百景』にも描かれている名所であったが、現在は平らな鉄橋に架け替えられている。

目黒雅叙園
行人坂の下部、左側は結婚式場・ホテル・レストランなどで知られる目黒雅叙園がある。江戸時代には大円寺の下には明王院という寺があった。吉三のちの西運上人は明王院の僧であった。明治に廃寺になり、吉三の墓を含め大円寺に移されている。明王院の敷地は現在の目黒雅叙園の敷地の一部となっている。


八百屋お七(やおやおしち、寛文8年(1668年)? -天和3年3月28日(1683年4月24日)、生年・命日に関して諸説ある)は、江戸時代前期、江戸本郷の八百屋の娘で、恋人に会いたい一心で放火事件を起こし火刑に処されたとされる少女である。井原西鶴の『好色五人女』に取り上げられたことで広く知られるようになり、文学や歌舞伎、文楽など芸能において多様な趣向の凝らされた諸作品の主人公になっている。

概要
お七の生涯については伝記・作品によって諸説あるが、比較的信憑性が高いとされる『天和笑委集』によるとお七の家は天和2年12月28日(1683年1月25日)の大火(天和の大火)で焼け出され、お七は親とともに正仙院に避難した。寺での避難生活のなかでお七は寺小姓生田庄之介と恋仲になる。やがて店が建て直され、お七一家は寺を引き払ったが、お七の庄之介への想いは募るばかり。そこでもう一度自宅が燃えれば、また庄之介がいる寺で暮らすことができると考え、庄之介に会いたい一心で自宅に放火した。火はすぐに消し止められ小火(ぼや)にとどまったが、お七は放火の罪で捕縛されて鈴ヶ森刑場で火あぶりにされた。
お七の恋人の名は、井原西鶴の『好色五人女』や西鶴を参考にした作品では吉三郎とするものが多く、そのほかには山田左兵衛、落語などでは吉三(きっさ、きちざ)などさまざまである。
『天和笑委集』は、お七の処刑(天和3年(1683年))のわずか数年後に出された実録体小説である。相前後してお七処刑の3年後の貞享3年(1686年)には大坂で活動していた井原西鶴が『好色五人女』で八百屋お七の物語を取り上げている。西鶴によって広く知られることになったお七の物語はその後、浄瑠璃や歌舞伎などの芝居の題材となり、さらに後年、浮世絵、文楽(人形浄瑠璃)、日本舞踊、小説、落語や映画、演劇、人形劇、漫画、歌謡曲等さまざまな形で取り上げられている。よく知られているにもかかわらず、お七に関する史実の詳細は不明であり、ほぼ唯一の歴史資料である戸田茂睡の『御当代記』で語られているのは「お七という名前の娘が放火し処刑されたこと」だけである。それだけに後年の作家はさまざまな想像を働かせている。
多数ある八百屋お七の物語では恋人の名や登場人物、寺の名やストーリーなど設定はさまざまであり、ほとんどの作品で共通しているのは「お七という名の八百屋の娘が恋のために大罪を犯す物語」であり、小説などの「読むお七」、落語などの「語るお七」ではお七は恋人に会いたいために放火をするが、歌舞伎や文楽(人形浄瑠璃)、日本舞踊、浮世絵などの「見せるお七」ではお七は放火はせず、代わりに恋人の危機を救うために振袖姿で火の見櫓に登り火事の知らせの半鐘もしくは太鼓を打つストーリーに変更される(火事でないのに火の見櫓の半鐘・太鼓を打つことも重罪である)。歌舞伎や文楽では振袖姿のお七が火の見櫓に登る場面はもっとも重要な見せ場となっていて、現代では喜劇仕立ての松竹梅湯嶋掛額/ 松竹梅雪曙以外には櫓の場面だけを1幕物「櫓のお七」にして上演する事が多い。さまざまある設定の中には月岡芳年の松竹梅湯嶋掛額(八百屋お七)や美内すずえ『ガラスの仮面』などのように放火と火の見櫓に登る場面の両方を取り入れる作品や冤罪とするもの、真山青果の戯曲のように放火とせずに失火とする創作などもある。


引用が多くなりました。坂の名前、寺の名前、八百屋お七などおぼろげに知ってはいるものの、よく知ると面白いのが郷土の歴史で、歴史のつながりを感じながらの散歩も楽しいものです。

合同ウォークは太鼓橋を渡り、電車道を歩きます。電車道については目黒区のページから引用します。
目黒のみち 電車道
権之助坂の下、目黒川に架かる新橋のたもとから、不動前方面へ向けて斜めに走る道がある。歩道を含め、最大幅員18メートルに及ぶ立派な道だが、全長わずかに600メートル足らず。山手通りに交差した途端、こつ然ととぎれる、太く短い道である。
戦前、東京市が天現寺・恵比寿長者丸間の市電路線を延長するために買収した軌道敷用地が、この道の前身。昭和19年に、既存の路線自体が廃止となったため、戦後、新橋から終点予定地までの軌道敷用地が、そのまま道路に生まれ変わった。
柳並木があったため「柳通り」の名もあるが、現在はハナミズキの並木道である。昔を知る人の間では、今も「電車道」と呼ばれる、歴史を刻む道である。


山手通りを横断し、目黒川支流だった羅漢寺川の暗渠を目黒不動まで歩き、石古坂を上り林試の森公園へ入ります。冒頭の写真は林試の森公園で撮ったもので、七夕飾りに短冊をかけることができます。
リツがロボットを発明しますように!!
スズメ
と書いて飾りたいところでしたが、字が汚いのでやめました。

林試の森を一周まわり東口から出て目黒不動へ。本堂にお参りした後、裏手の大日如来坐像を見て、裏口から出て甘藷先生お墓の前で手を合わせます。前回のブログで引用しているのでそちらを参照していただきたいのですが、墓石にかかれた「甘藷先生墓」は青木昆陽の直筆だそうです。

再び山手通り横断し、電車道、目黒新橋、目黒川沿いを歩き、ふれあい橋の上でウォーキング後のストレッチをして区民センターは戻りました。

合同ウォークの後は塾生に30分程度お付き合いいただき、目黒ウォーキング協会を構成する五地区のウォーキングクラブが活動の魅力を伝えるプレゼンテーションを行います。さてさて、ウォーキング塾終了後何名の方々が我々の仲間に加わってくれるでしょうか?


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウォーキング塾地区活動(北部) 南東部公園コース 約7.0km

2018-06-18 13:56:39 | ウォーキング

写真:中目黒GT
ウォーキング塾地区活動三回目は中目黒GTに集合し、目黒川舟入場でストレッチをした後、目黒川沿いを下流へ南下します。


写真:目黒清掃工場緩衝緑地
目黒清掃工場が現在立替工事のための解体作業が行われており、緩衝緑地も半分ほどフェンスで区切られ狭くなっています。大きな煙突の解体が始まるのか、階段のような足場が掛けられています。


写真:大鳥中学校
区民センターでトイレ休憩をとって、大鳥神社で山手通りと目黒通りを横断し、ヤマハ音楽振興会を過ぎて寄生虫館で左へ曲がりました。旧三中は四中と合併し、大鳥中学校になりました。
戦後学制が六三三制となったため、目黒区の中学校は一中から十一中の11校が昭和22年5月5日に開校しました。昭和33年4月に一中の分校が独立して東山中学となり始めて地名がついた新制中学校が誕生し12校体制となりました。平成18年に二中、五中、六中が合併して目黒中央中学校が誕生したことにより10校体制。私はずっと勘違いしていましたが、中央中学が五中の跡地で、十日森神社近くで道路予定地になっているところが六中でした。
平成27年に三中と四中が合併し大鳥中学校が誕生し、現在の9校体制になっています。このあたりの事情は区民でも知らない人が多く、ウォーキング塾からの参加者は興味深そうに聞いていました。


写真:目黒不動龍泉寺
本堂の脇にサツマイモ畑が作られていました。目黒不動とサツマイモの関係は目黒区のページから引用します。
甘藷先生
寒い夜はコタツで、ホクホクの焼きイモなんていうのもいいもの。焼きイモと言えばサツマイモだが、郷愁をそそられるかたも多い反面、戦中、戦後の食糧難を思い出してどうも、というかたもおられるかも知れない。あの香ばしさをふりまきながら売り歩く焼きイモ屋さんを見かけることもとんと少なくなってきた。
そのサツマイモ、名前のとおり、今から390年ほど前、江戸時代のはじめに、琉球を経てわが国に伝わり、鹿児島県坊ノ津で初めて栽培されている。初めのころは、「蕃藷」または「甘藷」と呼ばれていたが、元禄以後「甘藷」として国内に広く知られるようになった。

目黒と青木昆陽
サツマイモの普及に努め、栽培奨励を幕府の政策に乗せたのが甘藷先生として有名な青木昆陽(1698から1769)である。昆陽の墓が、目黒不動瀧泉寺の裏手にあるのをご存じだろうか。樹木に囲まれ、ひっそりとたたずむこの墓は、国の指定文化財(史跡)となっている。
青木昆陽は、江戸日本橋に生まれ、幼い頃からの学問好きであった。享保4年(1719年)に京に上り、儒者伊藤東涯に学んだ。昆陽が甘藷のことを知ったのは、この頃だったといわれている。その後、江戸に帰った昆陽は私塾を開いていたが、町奉行大岡忠相に推挙され、以降、幕府に仕えた。
享保17年(1732年)に「天下飢饉、疫癘行る」と「武江年表」享保17年の項に書かれ、多くの死者を出した大飢饉が起った。昆陽は、甘藷が地味の肥えていない土地でも十分に生育することに目をつけ「蕃薯考」を著し幕府に上書した。これが将軍吉宗にとりあげられ、甘藷の試作を命じられた。昆陽は早速種芋を取寄せ、小石川御薬園(現:文京区白山東京大学附属小石川植物園)で試作を始めた。1度は失敗したものの、2度目に良好な結果を得ることに成功した。ここで採れた芋は種芋として各地に配られ、甘藷栽培が定着するもととなった。この功績から昆陽は甘藷先生と称されるようになったのである。
その後、昆陽は、蘭学研究に打ち込み数々の名書を著し、有数の蘭学者となった。昆陽は、晩年、現在の大鳥神社の付近に別邸を構えた。現存する墓は、遠く富士山を望む景勝の地目黒を好んだ彼が生前から居宅の南に建て、自ら「甘藷先生墓」と記していたものだ。
甘藷まつり
甘藷(かんしょ)先生の遺徳をしのんで開催されている「甘藷(かんしょ)まつり」は、例年10月28日に盛大に催され、墓前には、サツマイモや花が供えられる。境内には、露店が軒を連ねて、懐しい大学イモをほおばりながら歩く若い女性など多くの人出でにぎわう。この「甘藷まつり」、以前は甘藷先生の命日である10月12日に行われていたが、戦後から、目黒不動の縁日に合わせて28日に行われるようになった。
また、境内には甘藷問屋の組合が建立した頌徳碑も残っている。



写真:林試の森公園
お不動様にお参りしたと林試の森公園の中を通り、羅漢寺川プロムナードへ出て、補助26号線を渡ります。タモリ倶楽部で環状6.5号線として紹介されたこの道路について、東京都のページから引用します。
特定整備路線 補助第26号線(大山中央)の事業に着手します
平成27年2月24日
都市整備局

 本日(2月24日)、以下の路線について、国土交通省から都市計画事業の認可を取得し、事業に着手いたしますのでお知らせします。
 補助第26号線は、品川区東大井一丁目から板橋区氷川町に至る延長約22.4キロメートルの都市計画道路です。このうち、板橋区大山町地内における延長375メートルの区間について事業に着手します。
 本区間は、「木密地域不燃化10年プロジェクト」の「特定整備路線」であり、この道路を整備することにより、木造住宅密集地域の整備地域である「大谷口周辺地域」の防災性の向上が図られます。

事業の概要
 本事業は、幅員20~23メートルの道路を新設(一部、拡幅整備)するものです。車道は2車線、その両側に歩道及び自転車走行空間を整備します。また、あわせて電線類の地中化や街路樹の植栽を行います。

事業の効果
 1. 災害時に延焼を防止するほか、避難・救援路としての機能が強化されるなど、地域の防災性が向上します。
 2. 交通の円滑化が図られ、歩行者や自転車の通行の安全性、快適性が向上します。
 3. 電線類の地中化や街路樹の植栽により、良好な都市景観を創出します。



写真:サレジオ教会
都内でも珍しい「釣りができる公園」である清水池公園を横目で見ながら、碑さくら通りを西へ向かいます。今回歩いている南東部公園コースはすこやか歩こう会設立初期からあるコースなのですが、碑文谷村村名の由来がわかる「碑文谷八幡宮」もコースに含めるべきと気づきました。久しぶりにコース マイナーチェンジをすることにします。
サレジオ教会は戦後この地に設置されたそうです。協会のページから引用します。
カトリック碑文谷教会は通称「サレジオ教会」と呼ばれていますように、サレジオ会に委託された教会です。 サレジオ会とはキリスト教・カトリックの男子修道会です。 サレジオ会は19世紀にイタリアの司祭ヨハネ・ボスコによって設立されました。
聖ヨハネ・ボスコ(1815-1888)はドン・ボスコとも呼ばれ、産業革命の急激な進展とイタリア統一運動のさなかに殺伐としていたイタリア国内にあって誰からも相手にされない貧しい青少年の教育の必要性を痛感。 一人で青少年教育への取り組みを始めました。 やがて、ドン・ボスコのもとに教え子たちが集まって修道会が発足。 これがサレジオ会の起源です。
碑文谷教会は「江戸のサンタマリア」に捧げられた教会です。 江戸迫害時代の最後のキリシタン・バテレンであるシドッチ師(後に江戸キリシタン屋敷で殉教)がイタリアから持ってこられた壁画がドルチ作の「指の聖母」だといわれます。 その聖母に因んで「江戸のサンタマリア」に捧げられることになりました。聖母画のレプリカが聖堂横・入口の小祭壇上に掲げられています。 なお、献堂時イタリアの多くの方々のご厚意で、イタリア産の大理石の柱が何本も光沢をたたえています。



写真:すずめのお宿緑地公園

写真:すずめのお宿の竹林




写真:旧栗山家住宅裏
すずめのお宿緑地公園には衾村にあった江戸時代中期建築の旧栗山家主屋が移築展示されています。茅葺の屋根は火災予防のため銅葺きの覆いがされていますが、茅葺を守るため室内では一年中火を焚いて屋根をいぶしています。そのため公園の近くまで来ると焚火のようなにおいがします。
裏に回ってみるとアジサイが目を引いたので撮りに行ったのですが、芝生にモジズリがたくさん出ていました。


写真:碑文谷厳島神社

写真:碑文谷公園バラ花壇

写真:碑文谷公園花壇
碑さくら通りを戻り、サレジオ通りを北へ向かい、目黒通りを渡りマセラティとフェラーリを横目に碑文谷公園に到着しました。公園の特色を目黒区のページから引用します。
碑文谷公園の真ん中にある弁天池は、その昔、荏原郡碑文谷村共有の水田灌漑用ため池で、村人の「命の水」となっていました。現在は「ボート場」があり、有料でボート遊び(土曜日・日曜日及び祝日開業)ができます。ウサギ・モルモット・犬などとのふれあい(無料)ができ、引き馬・ポニー教室(有料)でポニーにふれたり乗ったりできる「こども動物広場」もあります。
また、地域の方々やボランティアの手によって、北側の小公園(愛称:花の公園)やバラ花壇、池脇の花壇などが美しく手入れされ、公園利用者の目を楽しませています。
太鼓橋でつながる池の中の小島には、昔から地域の方々の手で管理されてきた厳島神社があり、神社手前の松の木の冬の風物詩「雪つり」とともに、地域住民や利用者に親しまれています。


北側の体育館では「目黒区夏季農産物品評会・農産物即売市」が行われており、その隣で場所をお借りしてストレッチをして解散となりました。野菜を見ると主婦に戻ってしまうすこやか歩こう会の女性陣は、ストレッチをしながらも目黒区産野菜の直売が気になるようでした。
解散後女性陣を含めた有志で天狗学芸大学店へ。軽くビールを飲みながら、わいわいがやがや楽しい時間を過ごしました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第16回将軍お鷹狩りウォークロングコース実踏

2018-06-14 09:42:04 | ウォーキング
今年も11月3日に「めぐろウォーキングマーチ将軍お鷹狩りウォーク」が開催されます。事務局のコース提案作業は四月から始まり、今回は実行委員がそのコースを確認する作業です。台風の影響により雨が予想されたあいにくの日となってしまいましたが、コース確認作業は延期されることなく実施されます。




写真:日比谷公園健康広場
初回から14回までのスタート会場は桜田門広場でしたが、昨年から11月3日に桜田門が使用できなくなり、こちらの公園内の広場をお借りしており、今年もこの広場からのスタートが決定しています。日比谷公園に自由の鐘や、三笠山と呼ばれる高台があることをほとんどの人は知らないでしょうね。

日比谷公園霞門を出て信号を渡り、弁護士会館の一角にある「大岡越前守忠相屋敷跡」のプレートを確認します。ちなみに南町奉行所は有楽町の交通会館がある場所にありました。直線距離にして1キロ弱です。
さらに西へ向かい、外務省脇の霞ヶ関坂を上りながら、外務省内に建てられた陸奥宗光像を確認します。突き当りの六本木通りを右折し、国土交通省前で六本木通りを横断して国会前庭和式庭園内を歩きます。国会前庭は道路を挟んで北側に洋式庭園、南側に和式庭園があります。これまでのお鷹狩りでは「日本水準原点」がある洋式庭園を歩いてきましたが、和式庭園を歩くのは今回が初めてです。
庭園を出て国会側へ横断します。参議院を見ながら歩くことになるのですがこれまでは道路一本隔てて見ていました。今回は国会議事堂側の歩道をルートに選びました。議事堂を過ぎると参議院議員会館。平河町を左折して参議院議長公邸に続き、衆議院議長公邸を見て、赤坂見附は歩道橋で渡ります。青山通りを西へ向かいますが、マクラーレンやランボルギーニ等、手が届かない車をウィンドウ越しに眺めながら歩くのも面白いものです。お馴染みの「やらと」の暖簾を見ることができませんが、いつからなくなったのでしょう?いちょう並木で青山通りに別れを告げ、神宮外苑へ向かい絵画館前でトイレ休憩しました。

このルートもお鷹狩り16年の歴史の中で初めてとなります。第一回を含め皇居から絵画館を目指す場合は紀尾井町、迎賓館、安鎮坂、権田原を通るルートが採用されました。最近はランナーが増えて鮫川橋坂、安鎮坂が歩きにくくはなりましたが都内を代表する素晴らしいルートです。青山通りを歩いたほうが距離が短くなるかなぁと思ったのですが、距離はどちらも変わりませんでした。お鷹狩りの際将軍一行は現在の青山通りを通って目黒へ向かったという話を聞いたことがあるので、今回は青山通りを採用することにしました。歩道も広くて歩きやすいし。



写真:神宮外苑絵画館前

写真:聖徳記念絵画館
絵画館前では消防団の訓練が行われていました。来週消防団操作大会があるそうで、この時期によく見かける光景です。ここで将軍お鷹狩りについて目黒区のページから引用してみましょう。
目黒の鷹狩り
目黒といえば、さんま・タケノコ・不動尊で広く世間に知られている。これらは徳川歴代将軍の鷹狩りと深いかかわりがある。すなわち、目黒の近世史を語るうえで、将軍家の鷹狩りを見過ごすわけにはいかないのである。

近郊の鷹場を整備
鷹狩りは、飼いならした鷹をこぶしにのせ、山野に放して野鳥を落としたり、捕まえたりする、鍛練と娯楽を兼ねた行事であったが、中世になり武家が政権を執るようになると、政治的なねらいから、領内の民情や敵地の情勢を探る傾向が強くなり、制度として次第に整えられていった。
江戸時代に入ると、幕府は鷹狩りを年中行事に取り入れ、年頭には決まって将軍自らが鷹狩りを行ったといわれる。また、将軍家が鷹狩りを行う場所を御鷹場、拳場、御留場などといい、特に幕府のおひざ元である江戸近郊の鷹場は、江戸を固めるために整備され、鷹の飼養と調練にあたる鷹匠や鳥見などが置かれた。
自給自足のさびれた農村であった目黒の中で、駒場野、碑文谷原、碑文谷池などが、将軍家の格好な鷹場となった。また、鷹場の各所に鷹番を置き、各村に高札を立てて村の連帯責任で見張らせたりしたといわれている。鷹番の地名もこんなところから出たものであろう。

「生類憐みの令」で一時中止
鷹狩りを好んだ三代将軍家光は近郊へ遊猟に出ることが多く、史料によると、寛永から正保年間にかけて、碑文谷原へ1回、目黒辺りへ6回という記録が残されている。特に寛永元年(1624年)、秋の鷹狩りの際に目黒不動に立ち寄ったのが縁で、元和元年(1615年)の火災で焼失した本堂を再建し、仏像なども寄進したといわれている。以来、目黒不動は幕府の厚い保護を受け、江戸近郊の最も有名な参詣行楽地として栄えていった。また、爺ヶ茶屋にまつわる目黒のさんまの話もこのころのものである(話の主は、八代将軍吉宗であるという説もある)。
盛んに行われてきた将軍家の鷹狩りは、貞享4年(1687年)に五代将軍綱吉が出した「生類憐令」により、中止せざるを得なくなり、以後七代将軍家継まで、目黒での鷹狩りの記録はない。

農民泣かせの鷹場復活
八代将軍吉宗の時代を迎えて、享保元年(1716年)に再び鷹狩りは復活し、江戸の鷹場は葛西、岩渕、戸田、中野、品川、目黒の6筋に分けられた。特に目黒筋の鷹場は、江戸からの距離や地形の関係から、従来にも増して活況を呈するようになった。これらの鷹場は単に復活しただけでなく、幕府創設期の緊張した政治への復活を目指すものであった。しかし、この復活によって、付近の村は田畑を踏み荒らされたり、鷹場の整備に駆り出されたりして、農民泣かせの復活でもあった。



写真:新国立競技場
休憩を終えるとお鷹の松を見てから、新国立競技場の建設現場を横目に歩きます。今回このルートを採用した目的の一つがこれ。建設が進んだ競技場を見て、東京オリンピック2020へ盛り上がってゆきましょうということです。
スタジアム通りから青山通りに戻り、外苑西通りを横断します。これまであまり意識していなかったのですが、ここから見る外苑西通りは南北共に下り坂になります。南へ向かって笄川が流れており、北側には穏田川がありました。このあたりが分水嶺になるのか、それとも青山通りを平らにするため土を盛ったか?穏田川は渋谷川と名前を変えて、天現寺橋で笄川と合流すると古川と再度名前を変えます。
ルートは善光寺手前で青山通りを横断し、南青山三丁目の路地へと入ってゆきます。このルートは思案のしどころで、過去には青山五丁目の交差点まで青山通りを歩き、アイビーホール青学会館の前を通るルートを採用しました。今回は根津美術館近くの岡本太郎美術館の前を通ることとして、ウォーキングに最適なルートを選択しました。将軍お鷹狩りウォークはフリーウォークではなく班を作り実行委員が誘導して歩くマーチ形式なので、このようなマニアックなルート設定も可能となります。道を間違えないよう、実行委員の腕の見せ所となります。
六本木通りに出て、渋谷四丁目で通りを渡り常陸宮邸の裏を通り國學院大學。坂を下って左に曲がり氷川神社の境内を通り、氷川の杜公園へ。この渋谷区立の児童公園には土俵があり、江戸時代は盛んに相撲が行われていたそうです。歩道があまり広くない明治通りを避け、裏路地のみかん公園、つるかめ公園の前を通り渋谷橋交差点手前で明治通りに出ます。広尾一丁目で明治通りを横断し、恵比寿橋を渡ってビール坂商店会を抜けサッポロビール本社前へ。ガーデンプレイス、アメリカ橋を通り茶屋坂を下ってゴールの田道ふれあい広場へ到着しました。

今回は11km以内に収める目標を立てていたのですが、結果的に11.4kmのコースとなってしまいました。ゴール後行われた実行委員会でご意見をいただき、結論としては今回実踏をしたルートを採用するという意見で一致をみました。今後理事会での承認を受け、警察など関係各所と調整のうえ、正式にルートが決定します。今回は初めて歩くルートも多く、楽しいお鷹狩りとなりそうです。
お鷹狩りについてもう一つ、目黒区のページから引用しておきます。
駒場野
享保元年(1716年)の鷹狩り復活後、目黒筋の中で最も利用されたのは駒場野であった。現在、その大部分は東京大学教養学部が占めているが、当時の駒場野は人の背丈ほどもある笹が一面に生え、ところどころに松林が茂る広大な原野(約16万坪といわれる)で、キジやウズラなどの野鳥をはじめイノシシ、ウサギなどがたくさん生息していたといわれる。
八代将軍吉宗が駒場野で、初めて鷹狩りを催したのは享保3年(1718年)秋のことである。以後、吉宗の遊猟は15回を数えたという。また、駒場野では鷹狩りが中心であったが、次第にウズラ狩りやイノシシ狩りも行われるようになり、鉄砲を使う大がかりな狩りへと発展していった。

つらかった「ケラの御用」
このあおりを受け、付近の農民は、農事に使う牛馬の飼料である駒場野での秣採りを禁止された。そのうえ、鷹狩りの雑役や野鳥飼育用の大豆畑の仕事までも請け負わされ、鷹狩りが度重なるにつれて大きな負担となった。特に、鳥見が常駐していた上目黒村では、お触れが出ると、鷹の生餌であるケラを納めなければならなかった。
ケラ捕りは夜中に、ちょうちんの灯りで田畑のあぜを捜し回るのだが、なかなか捕まらない。そこで、炒り糠(いりぬか)をまき散らし、そのにおいに誘われ土中から出てくるケラを捕まえた。しかし、命ぜられた数量を確保するのは容易なことではなく、村方は再三、ケラ捕りの延期を願い出たほど、厳しく、そしてつらい御用であった。

各筋に綱差を設置
野鳥がどんなにたくさんいても、将軍は、一面の笹原や林の中を馬上で追うのであるから、そう簡単には捕まらない。狩りの度に一羽の鳥も捕れないようでは、将軍家のご威光にかかわる。しかも野鳥が減少するにつれ、御用役人の心配は一層強くなる。そこで一計を案じ、あらかじめ野鳥を捕まえて飼育しておき、いざというときの御用にと、飼付御用を務める綱差という役が各筋に設けられた。
目黒筋の初代綱差は、武州多摩郡野津田村(現在の町田市)の農民で、キジ捕りの名人といわれた川井権兵衛さん。権兵衛さんは、享保3年(1718年)に下命を受けて駒場野の近くに移り住み、将軍家遊猟の際の陰の演出者として活躍した。以後、目黒筋の綱差は、代々川井家が受け継ぎ、権兵衛を襲名した。

俗謡となった権兵衛さん
初代権兵衛さんのキジ捕りの方法は、まず、笹原を10坪ほど切り開き、キジの大好物の大豆をまいておく。そして、近くの番小屋で様子をうかがい、キジが大豆を食べる瞬間に引き綱を引いて網をかぶせる。しかし、肝心のキジよりも先にカラスがえさを失敬してしまう。こうした毎日を繰り返すので、ほとほと手を焼いた権兵衛さんは、6尺もある木刀(だんびら)を振り回してカラスを追う。
そんな情景をおもしろおかしくうたった、「権兵衛が種まきゃ、カラスがほじくる、三度に一度は追わずばなるまい、ズンベラ、ズンベラ…」という俗謡が生まれたという。しかし、同じ俗謡ぞくようが和歌山、福岡両県をはじめ各地方でもうたわれており、目黒で生まれたという説の真偽のほどは明らかではない。
かくて、徳川歴代将軍による目黒筋での鷹狩りは、綱差や農民の苦労をよそに、幕末まで続けられたのである。


この記事によると今年は吉宗駒場野来訪300周年ということになるようです。青木区長に暴れん坊将軍になってもらいましょうか。。。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする