「そろそろ秋の旅行の下見に行きましょう」とかねてから話題となっていたのですが、今回泊りでの下見は難しいとのことで日帰りとなり、とんとん拍子に日程が決まり下見に行ってきました。
候補地はいくつかあったのですが、古くからの会員さんが以前から「かんぽの宿の中では寄居が一番!」とおっしゃっていたので一度は行ってみたいと思っていました。二日目は秩父を歩いてS-TRAINで帰ってこようと思っていたので、一日目にどこを歩くか検討しました。長瀞、寄居、熊谷、行田など。長瀞、寄居は紹介されているのはハイキングコースでした。我々はウォーキングクラブなので、山歩きの様なルートは採用しません。行田はバスハイクの下見で行ったので最後の手段として取っておくとして、中山道の宿場であり秩父往還の始点である熊谷は有力候補でした。検索の結果それほど魅力的なコースは紹介されていませんでした。ふと、「小京都小川町」が目に留まり、紙すきの里小川町を下見することにしました。
東山を出て関越練馬インターまで一般道です。途中律君の住んでいたマンションを見に行きました。ドラマのシーンでやけに高いコンクリートの壁に既視感があり、「神田川と善福寺川の合流点付近では?」と思っていました。Googleマップで確認したので間違いなかったのですが、この目で見たかったので和田見橋を左に曲がってコンクリートの壁と律君とマー君が住んでいたマンションを確認してきました。この場所は以前の職場の近くで、昼食でお世話になっていたアポロンも見に行ったのですが、お店はやっていないようでした。
練馬インターまで一時間弱。富ヶ谷から高速を使うと30分程度で到着しますが、1,310円余計にかかります。外環を使う分だけ高い!首都高を距離別料金にしたのだから、外環も首都高扱いにしてくれればいいのにと思ってしまいます。すこやか歩こう会の負担で自腹じゃないんですけど、無駄なお金は使いたくない。三芳PAでトイレ休憩をして、花園インターで関越を降り、秩父往還から皆野寄居有料道路経由で秩父に到着しました。
秩父のウォーキングで参考にしたのは秩父市産業観光部観光課が発行している「秩父市ハイキングマップ」。「7 江戸巡礼古道コース」は一般向けとあり、歩行:約4時間30分、平面距離:11.0km、標高差計:467mとなっています。旅行の際に歩くコースとしては時間がかかりすぎるので、このコースをベースに短縮する予定です。秩父駅→札所16番西光寺→札所22番童子堂→十三地蔵→札所23番音楽寺→念仏坂くらいかな?
音楽寺
久しぶりにデジイチを手にして撮影失敗しました。4月19日に月(月食かな)を撮影していて、マニュアルモードにしたまま気づかず撮影し、使える写真が数枚しかありません。通常は被写界深度を意識して絞り優先オートで撮影し、手振れの心配があるレベルのシャッタースピードを意識します。バッテリー節約のためモニター画面はすぐ消す癖をつけているのも、撮影失敗の一因です。それ以前にマニュアルで露出を調整して撮影した後、オートに戻しておかないのが最大の敗因でしょうね。
一日で二日分の歩く場所、宿泊場所の寄居を確認しなくてはならないので、ポイントのみを押さえます。秩父のコースのポイントは、「アップダウンがウォーキングと言えるレベルのものかどうか」です。それを確認するため、コースの最高地点になりそうな音楽寺を車で訪れました。かなりの坂を上り訪れた音楽寺は、秩父の街を見渡せる気持ちのいい場所でした。この坂を一気に上るのではなく、設定されたルートに従ってゆっくり上るのであれば何とかなるだろうとの印象で、このルートを採用することにします。
音楽寺について秩父三十四所観音霊場のページから引用します。
秩父札所二十三番 松風山音楽寺(しょうふうざん おんがくじ)
本尊:聖観世音菩薩 宗派:臨済宗南禅寺派
小鹿坂峠の中腹に位置し、観音堂の前庭からは秩父市街が一望できる。音楽寺の名の由来は、秩父札所を開いた十三人権者がこの山の松風の音を菩薩の奏でる音楽と聞いたからと言われている。音楽を志す人たちが訪れることが多い。境内には桜の木が多く、春は花見でにぎわい、秋は紅葉が楽しめる。堂前の梵鐘は、高さ1.2m、108の乳頭、六観音像が鋳出され、その鐘の音は高く美しく響く。
秩父困民党の決起と音楽寺の梵鐘
明治17年(1884年)11月1日、旧吉田村の椋神社に集まった農民3000名が武装蜂起し、翌2日には小鹿坂峠を越えて音楽寺境内に集結、梵鐘を乱打し大宮郷(現秩父市内)へ乱入した。世にいう困民党事件である。境内の鐘楼脇には困民党決起100年を記念して、昭和53年11月2日に「秩父困民党無名戦士の墓」が建てられた。碑面に「われら秩父困民党、暴徒と呼ばれ暴動といわれることを拒否しない」と書かれている。
枝垂桜・ツツジ・紅葉
秩父の桜の名所の一つであり、春にはツツジ、秋には紅葉が楽しめる。荒川をはさんで秩父市街を一望できる山の斜面に位置し眺めがよい。
S-TRAINについてWikipediaから引用します。
2016年6月16日に4社の共同リリースにより運行予定が明らかにされ、2017年1月10日に詳細が発表された。西武鉄道が主体となって運行しており、同社の40000系を専用で用いる。4社のうち東急と横浜高速鉄道では初となる座席指定制の列車となる。
「S-TRAIN」の名称は、2016年11月21日に西武鉄道・東京急行電鉄・東京地下鉄・横浜高速鉄道の4社名義で商標が出願され、2017年4月21日に商標登録された(第5941839号)。列車名は、
通勤・通学・お出かけなど様々なシーン「Scene」に使える
指定席による快適な座席「Seat」
直通運転による乗り換え無し「Seamless」
これらの共通となる頭文字「S」に由来している。ロゴマークの「S」の上部は秩父沿線の緑、下部はみなとみらいの青、「S-TRAIN」のグレーは渋谷と豊洲のアーバンを意味する。
西武と東急は1950年代から1960年代にかけて伊豆半島(伊豆戦争)や箱根(箱根山戦争)で熾烈な観光開発競争を繰り広げていた同士であり、副都心線全線開業以降Fライナーをはじめとする副都心線経由での直通運転は行われていたものの、料金が必要となる列車の共同運行は初めての事例である。これについて、東急横浜駅の岸哲也駅長が運行開始当日の取材に「東急線を西武の列車が走るということは、昔は到底考えられなかった」「過去は過去。壁を乗り越えていかないと鉄道会社も生き残れない」と述べるなど、過去の確執を乗り越えての運行開始となった。
列車種別の位置付けは、西武線内では特急列車(特急レッドアロー)より下位であるが、東急線と横浜高速鉄道線内では特急(通勤型車両を使用、料金不要)より上位となる。
こちらを利用して西武秩父から渋谷へ一直線と思っていたのですが、時間が合わないので、帰路はレッドアローになる予定です。
女郎うなぎ福助のうな丼
小川町への移動は県道秩父小川線を使い定峰峠を越えてゆきました。ちょっと道が細くて、かなりのワインディングロードでしたが、木々の緑を楽しめる良いコースでした。小川町についてWikipediaから引用します。
比企地方及び県南西部の最も北西に位置し、秩父地方のすぐ外側に位置する。江戸から川越を抜けて秩父に向かう往還が町を東西に抜けており、古くはその地理的な優位性から六斎市が立つなど地域の商業中心であった。
外秩父の山に囲まれた小川盆地に市街地があり、その地勢から「武蔵の小京都」の異名を持ち、伝統工芸の和紙で知られる。
名誉町民である元・埼玉県議会議長 小久保太郎 の作詞による「ピッカリ千両節」は、町の歌とも言われ、これによれば「山の町、酒の町、紙の町」である。
町の健康福祉課が紹介している「小川町健康長寿ウォーキングマップ」のルートを車で確認し下見としました。「カタクリとオオムラサキの林」などあり、自然と調和したレトロな街のウォーキングは楽しめそうです。
昼食は有名なうなぎ屋さんにしました。店のページから引用します。
女郎うなぎの由来
今からおよそ160年前、黒船が襲来した天保安政の頃の事です。
当家の先代善兵衛の親友某氏が、宿望の「伊勢神宮」へ行った帰りに後日の思い出にと、江戸は吉原の廊に立ち寄った所、相手の花魁があまりにも気品高く美しいのでたちまち虜となってしまいました。そこで男は大枚を投じて身受けをして小川の町に連れ帰ったまではよかったのですが、我家には妻がおりますので思うにまかせず、思案に余り当家先代の善兵衛の侠気に委せたのでした。 善兵衛は早速我が家に引き取り親身も及ばぬ慈しみといたわりで救いの手を差しのべましたので彼女も又、安住の喜びに一意専心家業の手助けに忠実に働きました。
そして歳月は矢のように過ぎ去り・・・
年を経るにつけ、兎角病床に親しみがちであった彼女がある時、善兵衛を枕頭に招いて終生の恩返しにと花魁の生家に伝わると言う、うなぎの蒲焼の秘法極意を教え、これにまつわる悲願をかなえていただきたいと言いのこして大往生を遂げたとの事です。花魁が伝えた鰻料理だから「女郎うなぎ」と称し先考又心機一転実業を改めてこの元祖となり代々相次いで六代目の現当主に至ったしだいでございます。
田山花袋の訪れた宿
多くの著名人が訪れ、愛した女郎うなぎ
女郎うなぎ福助はかつては割烹旅館で、これまで数多くの著名人の方々にご来店いただいております。「蒲団」や「田舎教師」の作品で知られる明治・大正を代表する文豪田山花袋や、勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称される幕臣山岡鉄舟も滞在されております。
また、現代に入ってからも有名脚本家の方、芸能リポーターなどTVで活躍する数多くの有名人の方から、皇室の方まで女郎うなぎを食していただいております。
明治時代に建てられたお店
ノスタルジックな雰囲気を楽しむ
女郎うなぎ福助は江戸時代安政2年創業。かつては割烹旅館で、その名残りを入口天井の干支の彫刻や、廊下天井の扇張りなど随所に見てとることが出来ます。現在のお店は明治時代に建てられました。店内のいたるところに時代を感じられ、食だけでなく女郎うなぎ福助のそのノスタルジックな雰囲気を楽しむことが出来ます。
こちらのお店で昼の宴会をと考えていたのですが、ちょっとお高いのであきらめました。うな丼ランチは2,650円でした。
この後寄居へ移動し、かんぽの宿で日帰り入浴しました。荒川脇の高台に建ち、景色は最高、温泉のお湯も最高でつるつるになります。秋の旅行は10月20日・21日の予定で、小川町のみの日帰りも受け付ける予定です。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
候補地はいくつかあったのですが、古くからの会員さんが以前から「かんぽの宿の中では寄居が一番!」とおっしゃっていたので一度は行ってみたいと思っていました。二日目は秩父を歩いてS-TRAINで帰ってこようと思っていたので、一日目にどこを歩くか検討しました。長瀞、寄居、熊谷、行田など。長瀞、寄居は紹介されているのはハイキングコースでした。我々はウォーキングクラブなので、山歩きの様なルートは採用しません。行田はバスハイクの下見で行ったので最後の手段として取っておくとして、中山道の宿場であり秩父往還の始点である熊谷は有力候補でした。検索の結果それほど魅力的なコースは紹介されていませんでした。ふと、「小京都小川町」が目に留まり、紙すきの里小川町を下見することにしました。
東山を出て関越練馬インターまで一般道です。途中律君の住んでいたマンションを見に行きました。ドラマのシーンでやけに高いコンクリートの壁に既視感があり、「神田川と善福寺川の合流点付近では?」と思っていました。Googleマップで確認したので間違いなかったのですが、この目で見たかったので和田見橋を左に曲がってコンクリートの壁と律君とマー君が住んでいたマンションを確認してきました。この場所は以前の職場の近くで、昼食でお世話になっていたアポロンも見に行ったのですが、お店はやっていないようでした。
練馬インターまで一時間弱。富ヶ谷から高速を使うと30分程度で到着しますが、1,310円余計にかかります。外環を使う分だけ高い!首都高を距離別料金にしたのだから、外環も首都高扱いにしてくれればいいのにと思ってしまいます。すこやか歩こう会の負担で自腹じゃないんですけど、無駄なお金は使いたくない。三芳PAでトイレ休憩をして、花園インターで関越を降り、秩父往還から皆野寄居有料道路経由で秩父に到着しました。
秩父のウォーキングで参考にしたのは秩父市産業観光部観光課が発行している「秩父市ハイキングマップ」。「7 江戸巡礼古道コース」は一般向けとあり、歩行:約4時間30分、平面距離:11.0km、標高差計:467mとなっています。旅行の際に歩くコースとしては時間がかかりすぎるので、このコースをベースに短縮する予定です。秩父駅→札所16番西光寺→札所22番童子堂→十三地蔵→札所23番音楽寺→念仏坂くらいかな?
音楽寺
久しぶりにデジイチを手にして撮影失敗しました。4月19日に月(月食かな)を撮影していて、マニュアルモードにしたまま気づかず撮影し、使える写真が数枚しかありません。通常は被写界深度を意識して絞り優先オートで撮影し、手振れの心配があるレベルのシャッタースピードを意識します。バッテリー節約のためモニター画面はすぐ消す癖をつけているのも、撮影失敗の一因です。それ以前にマニュアルで露出を調整して撮影した後、オートに戻しておかないのが最大の敗因でしょうね。
一日で二日分の歩く場所、宿泊場所の寄居を確認しなくてはならないので、ポイントのみを押さえます。秩父のコースのポイントは、「アップダウンがウォーキングと言えるレベルのものかどうか」です。それを確認するため、コースの最高地点になりそうな音楽寺を車で訪れました。かなりの坂を上り訪れた音楽寺は、秩父の街を見渡せる気持ちのいい場所でした。この坂を一気に上るのではなく、設定されたルートに従ってゆっくり上るのであれば何とかなるだろうとの印象で、このルートを採用することにします。
音楽寺について秩父三十四所観音霊場のページから引用します。
秩父札所二十三番 松風山音楽寺(しょうふうざん おんがくじ)
本尊:聖観世音菩薩 宗派:臨済宗南禅寺派
小鹿坂峠の中腹に位置し、観音堂の前庭からは秩父市街が一望できる。音楽寺の名の由来は、秩父札所を開いた十三人権者がこの山の松風の音を菩薩の奏でる音楽と聞いたからと言われている。音楽を志す人たちが訪れることが多い。境内には桜の木が多く、春は花見でにぎわい、秋は紅葉が楽しめる。堂前の梵鐘は、高さ1.2m、108の乳頭、六観音像が鋳出され、その鐘の音は高く美しく響く。
秩父困民党の決起と音楽寺の梵鐘
明治17年(1884年)11月1日、旧吉田村の椋神社に集まった農民3000名が武装蜂起し、翌2日には小鹿坂峠を越えて音楽寺境内に集結、梵鐘を乱打し大宮郷(現秩父市内)へ乱入した。世にいう困民党事件である。境内の鐘楼脇には困民党決起100年を記念して、昭和53年11月2日に「秩父困民党無名戦士の墓」が建てられた。碑面に「われら秩父困民党、暴徒と呼ばれ暴動といわれることを拒否しない」と書かれている。
枝垂桜・ツツジ・紅葉
秩父の桜の名所の一つであり、春にはツツジ、秋には紅葉が楽しめる。荒川をはさんで秩父市街を一望できる山の斜面に位置し眺めがよい。
S-TRAINについてWikipediaから引用します。
2016年6月16日に4社の共同リリースにより運行予定が明らかにされ、2017年1月10日に詳細が発表された。西武鉄道が主体となって運行しており、同社の40000系を専用で用いる。4社のうち東急と横浜高速鉄道では初となる座席指定制の列車となる。
「S-TRAIN」の名称は、2016年11月21日に西武鉄道・東京急行電鉄・東京地下鉄・横浜高速鉄道の4社名義で商標が出願され、2017年4月21日に商標登録された(第5941839号)。列車名は、
通勤・通学・お出かけなど様々なシーン「Scene」に使える
指定席による快適な座席「Seat」
直通運転による乗り換え無し「Seamless」
これらの共通となる頭文字「S」に由来している。ロゴマークの「S」の上部は秩父沿線の緑、下部はみなとみらいの青、「S-TRAIN」のグレーは渋谷と豊洲のアーバンを意味する。
西武と東急は1950年代から1960年代にかけて伊豆半島(伊豆戦争)や箱根(箱根山戦争)で熾烈な観光開発競争を繰り広げていた同士であり、副都心線全線開業以降Fライナーをはじめとする副都心線経由での直通運転は行われていたものの、料金が必要となる列車の共同運行は初めての事例である。これについて、東急横浜駅の岸哲也駅長が運行開始当日の取材に「東急線を西武の列車が走るということは、昔は到底考えられなかった」「過去は過去。壁を乗り越えていかないと鉄道会社も生き残れない」と述べるなど、過去の確執を乗り越えての運行開始となった。
列車種別の位置付けは、西武線内では特急列車(特急レッドアロー)より下位であるが、東急線と横浜高速鉄道線内では特急(通勤型車両を使用、料金不要)より上位となる。
こちらを利用して西武秩父から渋谷へ一直線と思っていたのですが、時間が合わないので、帰路はレッドアローになる予定です。
女郎うなぎ福助のうな丼
小川町への移動は県道秩父小川線を使い定峰峠を越えてゆきました。ちょっと道が細くて、かなりのワインディングロードでしたが、木々の緑を楽しめる良いコースでした。小川町についてWikipediaから引用します。
比企地方及び県南西部の最も北西に位置し、秩父地方のすぐ外側に位置する。江戸から川越を抜けて秩父に向かう往還が町を東西に抜けており、古くはその地理的な優位性から六斎市が立つなど地域の商業中心であった。
外秩父の山に囲まれた小川盆地に市街地があり、その地勢から「武蔵の小京都」の異名を持ち、伝統工芸の和紙で知られる。
名誉町民である元・埼玉県議会議長 小久保太郎 の作詞による「ピッカリ千両節」は、町の歌とも言われ、これによれば「山の町、酒の町、紙の町」である。
町の健康福祉課が紹介している「小川町健康長寿ウォーキングマップ」のルートを車で確認し下見としました。「カタクリとオオムラサキの林」などあり、自然と調和したレトロな街のウォーキングは楽しめそうです。
昼食は有名なうなぎ屋さんにしました。店のページから引用します。
女郎うなぎの由来
今からおよそ160年前、黒船が襲来した天保安政の頃の事です。
当家の先代善兵衛の親友某氏が、宿望の「伊勢神宮」へ行った帰りに後日の思い出にと、江戸は吉原の廊に立ち寄った所、相手の花魁があまりにも気品高く美しいのでたちまち虜となってしまいました。そこで男は大枚を投じて身受けをして小川の町に連れ帰ったまではよかったのですが、我家には妻がおりますので思うにまかせず、思案に余り当家先代の善兵衛の侠気に委せたのでした。 善兵衛は早速我が家に引き取り親身も及ばぬ慈しみといたわりで救いの手を差しのべましたので彼女も又、安住の喜びに一意専心家業の手助けに忠実に働きました。
そして歳月は矢のように過ぎ去り・・・
年を経るにつけ、兎角病床に親しみがちであった彼女がある時、善兵衛を枕頭に招いて終生の恩返しにと花魁の生家に伝わると言う、うなぎの蒲焼の秘法極意を教え、これにまつわる悲願をかなえていただきたいと言いのこして大往生を遂げたとの事です。花魁が伝えた鰻料理だから「女郎うなぎ」と称し先考又心機一転実業を改めてこの元祖となり代々相次いで六代目の現当主に至ったしだいでございます。
田山花袋の訪れた宿
多くの著名人が訪れ、愛した女郎うなぎ
女郎うなぎ福助はかつては割烹旅館で、これまで数多くの著名人の方々にご来店いただいております。「蒲団」や「田舎教師」の作品で知られる明治・大正を代表する文豪田山花袋や、勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称される幕臣山岡鉄舟も滞在されております。
また、現代に入ってからも有名脚本家の方、芸能リポーターなどTVで活躍する数多くの有名人の方から、皇室の方まで女郎うなぎを食していただいております。
明治時代に建てられたお店
ノスタルジックな雰囲気を楽しむ
女郎うなぎ福助は江戸時代安政2年創業。かつては割烹旅館で、その名残りを入口天井の干支の彫刻や、廊下天井の扇張りなど随所に見てとることが出来ます。現在のお店は明治時代に建てられました。店内のいたるところに時代を感じられ、食だけでなく女郎うなぎ福助のそのノスタルジックな雰囲気を楽しむことが出来ます。
こちらのお店で昼の宴会をと考えていたのですが、ちょっとお高いのであきらめました。うな丼ランチは2,650円でした。
この後寄居へ移動し、かんぽの宿で日帰り入浴しました。荒川脇の高台に建ち、景色は最高、温泉のお湯も最高でつるつるになります。秋の旅行は10月20日・21日の予定で、小川町のみの日帰りも受け付ける予定です。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール