人気の観光地川越を巡るコースです。季節がらお墓参りも兼ねて、東京とは一線を画す雰囲気を持った川越を歩きます。
写真:フクジュソウ
写真:カンヒザクラ
写真:シデコブシ
写真:エゾムラサキ?
写真:クロッカス
写真:お墓参り
写真:川越一中のシモクレン
写真:シダレザクラ
川越工業高校の垂れ幕。写真には撮らなかったけど、横浜にドラフトされた「狩野行寿」内野手の名前があり、日ハムにいる「太田賢吾」内野手と同期くらいかなぁと思って調べてみましたが、狩野選手が二、三年先輩のようです。狩野選手も遊撃手ということで、よい遊撃手が育つ伝統があるのでしょうか?それとも野球センスがあるから遊撃手をやっていて、ドラフトにかかることが多いのでしょうか。半世紀くらい前には夏の甲子園に二度出ているようですが、野球の名門というイメージはありません。代表的な卒業生はハウンドドッグの大友康平さん。
近くにフクジュソウが咲いていました。カンヒザクラは中院。そのほかはお墓参りに行ったお寺に咲いていたものです。川越一中のシモクレンは大きな木です。シダレザクラは運がいい年は咲いていることがあるのだけれど、今年は一輪も咲いていませんでした。木全体が少しピンクがかって見えてはいましたが。
写真:川越八幡宮
写真:民部稲荷神社
川越八幡宮にある民部稲荷神社は全国でも珍しい足腰の健康にご利益がある神社。教えてあげたら皆さん早速拝んでいました。目黒ウォーキング協会の目標は「棺桶まで歩いてはいる」なので、足腰健康の重要性は皆さんにしみわたっています。
写真:中院
中院に咲いている桜がありましたが、エドコヒガンでしょうか。ソメイヨシノのように見えますがちょっと早すぎます。見事なシダレザクラはまだ一輪も咲いていなくて、これが咲くとミモザとのコントラストが見事です。
写真:南院遺跡
写真:仙波東照宮
このあたりの説明はWikipediaから引用します。
平安初期の天長7年(830年)、淳和天皇の命で円仁(慈覚大師)が建立し、当初は無量寿寺と号した。無量寿寺には北院、中院、南院があり、伏見天皇が尊海僧正に命じ関東天台宗の本山とした。後伏見天皇は東国580寺の本山としての勅書を下し、後奈良天皇は星野山の勅額を下した。永禄年間(1558年 - 1570年)頃までは3院が存在していたが、寛永10年(1633年)に中院のあった場所に仙波東照宮が建てられた為、中院はさらに200m南方に移動し、南院は明治の初めに廃院となり、その一角とされる場所には数十基の石の塔婆が残っている。
東照宮の階段は朝ドラつばさのオープニング映像でつばさ(多部未華子)が振り返っているショットが良かったですね。
写真:喜多院
こちらのシダレザクラはわずかに花をつけていました。
写真:成田山川越別院
ご本尊のお不動様のほか、入り口のところに大師堂があり、その周りに八十八カ所巡りができるようになっています。
写真:川越まつりの山車の倉庫
写真:本丸御殿
写真:市役所前の太田道灌像
手前の家と比較して山車の倉庫がいかに大きいかお分かりいただけると思います。川越城を築城したのは江戸城と同じ太田道灌で、当初は江戸城よりもはるかに重要な拠点でした。童謡「とおりゃんせ」は城内にあった三芳野神社を歌ったものだそうです。
写真:菓子屋横丁
蔵の街並みと菓子屋横丁は相変わらずの人出です。いつも気になっていた大きなハクモクレンは幼稚園にある木でした。
写真:川越まつり会館
写真:蔵の街並み
写真:時の鐘
小江戸と呼ばれ江戸情緒が売りの川越ですが、蔵の街並みは明治時代のものです。川越大火のため街の大半を失った川越の商人たちは、耐火性に優れた蔵を建てることにより次の災害に備えました。大きな空襲もなかったので明治時代の蔵が今観光資源になっています。桜の古木が多いのも、江戸時代から比較的裕福な街が戦災に遭わなかったため。蔵の街並みを含めて、川越は小江戸です。
写真:大正ロマン通り
写真:出世稲荷神社
大正ロマン通りにある小川菊さんはおいしいうなぎ屋さんです。出世稲荷神社の境内をお借りしストレッチをしてから、川越市駅へ向かいました。
反省会は渋谷の天狗。たまたま私の誕生日だったので、皆さんにお祝いのお言葉をいただきました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
写真:フクジュソウ
写真:カンヒザクラ
写真:シデコブシ
写真:エゾムラサキ?
写真:クロッカス
写真:お墓参り
写真:川越一中のシモクレン
写真:シダレザクラ
川越工業高校の垂れ幕。写真には撮らなかったけど、横浜にドラフトされた「狩野行寿」内野手の名前があり、日ハムにいる「太田賢吾」内野手と同期くらいかなぁと思って調べてみましたが、狩野選手が二、三年先輩のようです。狩野選手も遊撃手ということで、よい遊撃手が育つ伝統があるのでしょうか?それとも野球センスがあるから遊撃手をやっていて、ドラフトにかかることが多いのでしょうか。半世紀くらい前には夏の甲子園に二度出ているようですが、野球の名門というイメージはありません。代表的な卒業生はハウンドドッグの大友康平さん。
近くにフクジュソウが咲いていました。カンヒザクラは中院。そのほかはお墓参りに行ったお寺に咲いていたものです。川越一中のシモクレンは大きな木です。シダレザクラは運がいい年は咲いていることがあるのだけれど、今年は一輪も咲いていませんでした。木全体が少しピンクがかって見えてはいましたが。
写真:川越八幡宮
写真:民部稲荷神社
川越八幡宮にある民部稲荷神社は全国でも珍しい足腰の健康にご利益がある神社。教えてあげたら皆さん早速拝んでいました。目黒ウォーキング協会の目標は「棺桶まで歩いてはいる」なので、足腰健康の重要性は皆さんにしみわたっています。
写真:中院
中院に咲いている桜がありましたが、エドコヒガンでしょうか。ソメイヨシノのように見えますがちょっと早すぎます。見事なシダレザクラはまだ一輪も咲いていなくて、これが咲くとミモザとのコントラストが見事です。
写真:南院遺跡
写真:仙波東照宮
このあたりの説明はWikipediaから引用します。
平安初期の天長7年(830年)、淳和天皇の命で円仁(慈覚大師)が建立し、当初は無量寿寺と号した。無量寿寺には北院、中院、南院があり、伏見天皇が尊海僧正に命じ関東天台宗の本山とした。後伏見天皇は東国580寺の本山としての勅書を下し、後奈良天皇は星野山の勅額を下した。永禄年間(1558年 - 1570年)頃までは3院が存在していたが、寛永10年(1633年)に中院のあった場所に仙波東照宮が建てられた為、中院はさらに200m南方に移動し、南院は明治の初めに廃院となり、その一角とされる場所には数十基の石の塔婆が残っている。
東照宮の階段は朝ドラつばさのオープニング映像でつばさ(多部未華子)が振り返っているショットが良かったですね。
写真:喜多院
こちらのシダレザクラはわずかに花をつけていました。
写真:成田山川越別院
ご本尊のお不動様のほか、入り口のところに大師堂があり、その周りに八十八カ所巡りができるようになっています。
写真:川越まつりの山車の倉庫
写真:本丸御殿
写真:市役所前の太田道灌像
手前の家と比較して山車の倉庫がいかに大きいかお分かりいただけると思います。川越城を築城したのは江戸城と同じ太田道灌で、当初は江戸城よりもはるかに重要な拠点でした。童謡「とおりゃんせ」は城内にあった三芳野神社を歌ったものだそうです。
写真:菓子屋横丁
蔵の街並みと菓子屋横丁は相変わらずの人出です。いつも気になっていた大きなハクモクレンは幼稚園にある木でした。
写真:川越まつり会館
写真:蔵の街並み
写真:時の鐘
小江戸と呼ばれ江戸情緒が売りの川越ですが、蔵の街並みは明治時代のものです。川越大火のため街の大半を失った川越の商人たちは、耐火性に優れた蔵を建てることにより次の災害に備えました。大きな空襲もなかったので明治時代の蔵が今観光資源になっています。桜の古木が多いのも、江戸時代から比較的裕福な街が戦災に遭わなかったため。蔵の街並みを含めて、川越は小江戸です。
写真:大正ロマン通り
写真:出世稲荷神社
大正ロマン通りにある小川菊さんはおいしいうなぎ屋さんです。出世稲荷神社の境内をお借りしストレッチをしてから、川越市駅へ向かいました。
反省会は渋谷の天狗。たまたま私の誕生日だったので、皆さんにお祝いのお言葉をいただきました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール