目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

【番外】微力ながら復興応援、勝浦への旅

2019-11-29 08:06:37 | ウォーキング
台風、大雨の被害に遭われた皆さん、心よりお見舞い申し上げます。

泥のかき出しとか、屋根へのブルーシート張りとか、ごみ片付けとか。そんな支援ができればよいのですができないので、千葉県で消費をして微力ながら応援したいという気持ちです。紅葉の時期でもあり、普段走らない県道を行き、行き当たりばったりで地元の食堂で食事をします。


市原市田奴久
市原鶴舞ICで高速を降りて県道171号から81号に入ったところにあったお蕎麦屋さんに入りました。


養老渓谷駅

線路にコスモス
小湊鉄道は台風と大雨の影響により里見、上総中野間で運休しており養老渓谷駅に汽車は来ません。「里山トロッコ」は一見するとSLのようですが「コッペル製蒸気機関車をイメージしたDB4形ディーゼル機関車」とのことです。




足湯
足湯があることはわかっていて訪れたのですが、有料だとは思いませんでした。鉄道利用者は無料とのことなので、利用者を対象としたものなのですね。
営業時間 平日12:00から17:00、土休日 11:00から17:00
鉄道利用の方・養老渓谷駅駐車場利用の方は無料でご利用できます。それ以外の方は、養老渓谷駅で入場券(大人140円、小人70円)を購入後利用下さい。

駐車料金500円を払い、二人で足湯を利用しました。気持ちいいです。このあたりで豊富な天然ガスを利用して沸かしているそうです。そういえば千葉県の天然ガスの話を聞いたことがあるなぁと思って調べて見ました。Wikipediaの「南関東ガス田」の項目から概要を引用します。
千葉県を中心に茨城県・埼玉県・東京都・神奈川県の地域に及び、鉱床面積は 約4,300 km2、埋蔵量は7,360億m3、可採埋蔵量は 3,685億 m3と推定され、日本国内で確認済みの天然ガス埋蔵量の9割を占める。東京での生産も行われていたが、ガス採掘に伴う地下水汲み上げ(揚水)が地盤沈下を招いたことから採掘は規制され、現在は千葉県の茂原地区を中心とする九十九里浜沿岸部が最大の供給地区。地元では「上(うわ)ガス」「野ガス」と呼ばれている。関東天然瓦斯開発は茂原地区を鉱区として持ち、その埋蔵量は 1,000億 m3 と推定される。

ガスは鹹水(かん水)と呼ばれる地下水に含まれている。鹹水は化石海水が起源とされており、海水に似た成分だが、海水の2,000倍ものヨウ素を含んでいる。これだけ高濃度の濃縮ヨウ素が存在する場所は世界的にも珍しく、日本はチリに次いで世界第2位のヨウ素産出国となっている。なお、I129/I127 比で得られたヨウ素の平均的な年代は4900万年前。海底に堆積した海藻由来ではなく、数千万年かけて海底堆積物中に蓄積されたものが、プレートの沈み込みに伴い堆積物中の水分と共に上総層群中に移動・蓄積したと考えられている。

地下の高い圧力下ではメタンは地下水に溶けているが、大気圧では水にほとんど溶けないことから、地下水の汲み上げを行うとメタンガスが自ら分離して発生することとなる。南関東ガス田は他の水溶性ガス田に比べて鹹水に溶けているメタンガス濃度が99%と非常に高いのが特徴で、単なる化石海水ではなくメタンハイドレートを起源とするなどの説もある。

近隣の多くの自治体が条例などで無許可でのガス利用を禁じているため、個人が勝手に燃料として利用できず、地元の都市ガス会社が精製した天然ガスを各家庭が利用している。ただし、千葉県内を中心に旧家等で条例制定以前から天然ガスを利用している家庭(約300世帯)は例外的にガス利用が認められている場合がある。しかし、近年は工業用採掘の影響などにより産出量が減り、利用を止める家庭が増えている。






粟又の滝
養老渓谷は高校生の時に通うことになった英語塾の旅行で来たことがあり、月崎にある国民宿舎月崎荘に泊まりました。粟又の滝もその時に来ていた気になっていたのですが、実際に来てみると今回が初めて。40年前に訪れたのは養老渓谷の別の場所だったようです。
もっと滑りにくい靴を履いてくるべきだったと思いましたが、紅葉がきれいでなかなかのもの。観光バスなども訪れており、紅葉の時期には訪れるだけの価値がある場所だと思います。駐車料金500円といわれて「たっけえなぇ」と思いましたが、復興応援の旅であることを思い出し、笑顔で観光してきました。

県道178号、177号、82号、177号を通過し興津からこの日の宿泊地勝浦へ国道128号で向かいました。



密漁船

ホンビノスガイ

ホンビノスガイとイカの一夜干し
翌朝、前日とは打って変わった寒さで風も強い。そんな中朝市会場まで散歩しましたが、朝市は早々に終了しておりただの散歩に。
昼食は北へ向かい、九十九里白子町の密漁船へ。「名物 焼きはまぐり」と書いてありますが、ほとんどの人ホンビノスガイを食べるようです。連れて行ってくれたMさん曰く、「ホンビノスガイとはまぐりを食べ比べたけどホンビノスガイでいいという結論に達した」とのこと。自分で焼いて食べて自分で片付けて。作法は厳しいけどおいしくてリーズナブルなお店でした。連れて行ってくれたMさんも40年前の養老渓谷旅行に一緒に行っています。
密漁船があるのは大網白里市なのですが、南隣りの長生郡白子町はテニス合宿で訪れたことがあります。その頃写真関係の会社に勤めていました。白子町の温泉はヨウ素、臭素、塩素を含んだ海水のような温泉です。先ほど引用したWikipediaの記事で海水に似た成分だが、海水の2,000倍ものヨウ素を含んでいる。とあり、白子の温泉が南関東ガス田と関連があるのだと気づきました。ヨウ素、臭素、塩素は元素周期表で縦に並んでいるハロゲンと呼ばれる元素で、写真を生業としているものにとってはなじみが深いのです。ハロゲンと銀が結合したハロゲン化銀は光に当たると反応し、写真フィルムに利用されます。デジタル写真と区別するためフィルムを使った写真を「銀塩写真」といったりしますが、銀と塩素を用いた写真という意味になります。塩素だけではなく臭素やヨウ素も組み合わされた使用されます。


蒸しアワビ
夕食では大きなアワビをごちそうになりました。おいしかったぁ~!


七里川温泉
三日目の朝Mさんと別れ、初日の養老川とは違う小櫃川沿いを紅葉を眺めながら走りました。国道128号を東へ向かうと浜行川の先で鴨川市に入ります。浜行川までは勝浦市で勝浦市と鴨川市が隣接しているのですが、平成の大合併で鴨川市と天津小湊町が合併した結果です。安房天津から県道81号を小櫃川沿いに北上すると見事な紅葉を見ることが出来ました。残念ながら雨模様で停まって写真を撮ることはありませんでしたが、今度は晴れの日に訪れたい。ただし相当な山道であることは覚悟しなくてはなりません。
七里川温泉で千葉県ではめずらしい硫黄泉につかり、国道465号、国道410号を走行し、久留里で銘水そば小春食堂で昼食をとり、JAきみつ味楽囲おびつ店で買い物をして帰って来ました。

ウォーキングの下見にはならないけれど、千葉の魅力を再発見できた二泊三日の旅となりました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第4回目黒シティラン 健康マラソン大会

2019-11-28 10:24:44 | ウォーキング

中目黒会場
大会が終了してからバタバタ忙しく、ブログをアップするのが遅くなりました。

四回目にして初めて雨の朝を迎えた目黒シティランでした。想定を超えたことがたくさんあり、会場整備の担当ボランティアの方は大変だったと思います。御覧の通り小学校のグランドはぬかるみ状態。

目黒ウォーキング協会では1kmウォーキングの誘導を担当しています。
中目黒会場から先に出発してゆく2.5kmミニマラソンでは「傘を持ったまま走れない」ことが何度も放送されていました。それはそうですね。ウォーキングは傘をさしても良いのか確認したところ、やはり傘はだめで長い傘は携行も出来ず本部に預けてくださいとのこと。
幸い雨は小降りになり、誘導を担当したボランティアも合羽を着たり着なかったり。誘導中に救急車が来て端によけなければならなかったこと以外、いつも通りに無事終了しました。普段のウォーキングイベントでは見ることの無い小さなお子様たちも、短距離のウォーキングを楽しんでいました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

横須賀開国の地浦賀コース 約12Km

2019-11-19 15:29:12 | ウォーキング
お鷹狩りを含めて今季最長となるコースです。コース地図は京浜急行が主催する「よこすか京急沿線ウォーク」を利用しており、一部コースを変更しているので12kmより長かったかもしれません。歩数計は22,000歩を越えていました。
中目黒→東横線→横浜→京急本線快速特急→堀ノ内→京急本線各駅→浦賀と乗り換えて一時間半、ここからスタートします。京急は三崎口へ行くのが本線だと思っていましたが、浦賀終点のこちらが本線で、堀ノ内から三崎口方面へ向かうのは久里浜線となっています。路線図を確認して初めて気づきました。


住友重機械工業浦賀造船所

浦賀駅構内の顔はめパネル

浦賀中学校美術部の作品
造船所は廃止になっているようですが、華麗な歴史の一部をWikipediaから引用します。
幕府の浦賀造船所
浦賀での造船の歴史は1853年(嘉永6年)のペリー来航までさかのぼる。この時江戸幕府は「大船建造の禁」を解いて浦賀造船所を設置、直ちに軍艦の建造を始め、7か月を掛けて国産初の洋式軍艦「鳳凰丸」を建造した。これは浦賀奉行所与力の中島三郎助らに軍艦の建造を命じたことが始まりである。また1859年(安政6年)には日本初のドライドックが完成し、アメリカへ向かう咸臨丸の整備が行われている。しかし小栗忠順らにより、横須賀港に製鉄所を建設することを決定し(後の横須賀造船所、横須賀海軍工廠)、艦艇建造の中心は横須賀へ移り、浦賀造船所は1876年(明治9年)に閉鎖された。

浦賀船渠
1894年(明治27年)に中島三郎助の意志を継ぎ、荒井郁之助・榎本武揚・塚原周造が中心となり、1897年(明治30年)に浦賀船渠が設立され、かつての浦賀造船所と同じ場所に工場が建設された。同時期に同じ浦賀に建設された東京石川島造船所(現:IHI)の浦賀分工場との間で、艦船建造・修理の受注合戦が繰り広げられたという。この競争はダンピング合戦を生み、両社の経営を悪化させた。ほどなくして石川島の浦賀分工場を浦賀船渠が買収、自社工場とすることで決着した。

艦艇建造
石川島との競争や、フィリピンへの砲艦輸出が不調となるなど、当初は経営が思わしくなく、渋沢栄一や浅野総一郎などが再建に手を差し伸べた。1912年(明治45年)に就任した第5代社長によりようやく経営が安定した。その後の第一次世界大戦による好況(特需景気)もあり経営は立ち直った。
艦艇の建造は、日露戦争時に横須賀工廠から艦載水雷艇を受注したことに始まる。1907年(明治40年)に初めて駆逐艦「長月」を建造した。その後も小艦艇建造を中心的業務としており、特に駆逐艦の建造で有名で、大阪にあった藤永田造船所と共に駆逐艦建造の名門であり、「西の藤永田、東の浦賀」と呼ばれていた(軽巡洋艦 2隻、駆逐艦 44隻、海防艦 11隻+2隻未完)。
また1924年(大正13年)に国内初の旅客兼車両渡船(鉄道連絡船)として青函連絡船「翔鳳丸」、「飛鸞丸」を竣工させた。両船の就航後の成績は良好で、その後も多くの青函連絡船を浦賀で建造することとなった。

戦後
太平洋戦争後も海上自衛隊向けに艦艇建造を続け、米空母ミッドウェイの大規模改修、日本丸建造なども行われた。住友機械工業と合併した際、追浜造船所(現横須賀造船所)を開設、民間船建造はこちらに移った。浦賀地区は工場集約のため2003年(平成15年)に閉鎖された。
現在、浦賀船渠の第1号ドック(通称浦賀ドック)は世界に4か所にしか現存していないレンガ積みドライドックのうちのひとつである。国内でも明治期のものは浦賀ドックと川間ドック跡しかなく、両者とも貴重な文化遺産である。



和菓子店
「虎踊り」について横須賀市のページから引用します。
横須賀市西浦賀にある為朝神社で行われる「虎踊り」は、虎の舞だけでなく、歌舞伎や唐人踊りも取り入れた民俗芸能で、昭和51年(1976年)に神奈川県の重要無形民俗文化財にも指定されています。
踊りは、享保5年(1720年)に奉行所が伊豆下田から浦賀に移転した折に、一緒に伝えられたと言われています。虎は親子二体で、親虎には成人、子虎には青少年が二人ずつ入り、笛や太鼓に合わせて動きます。踊りは近松門左衛門の「国姓爺合戦」を題材に、唐子の踊り、虎の出現、暴れる虎の退治の場面から成ります。

Youtubeで見たところ加藤清正の虎退治がモチーフになっているように思いますが、詳しいことはわかりません。




浦賀造船所
市制施行七十周年期記念  横須賀風物百選 「浦賀造船所」


浦賀湾を囲むこの施設は、住友重機械工場株式会社追浜造船所浦賀工場です。
 創業以来、浦賀船渠株式会社、浦賀重工業株式会社、更には現在の社名と変わりましたが、広く「浦賀ドック」の愛称で呼ばれてきました。

この造船所は、明治二十九年、当時農商務大臣であった榎本武揚などの提唱により、陸軍要さい砲兵幹部練習所の敷地及び民有地を取得して設立準備を進め、翌三十年六月二十一日の会社設立登記をもって発足したものです。資本金は百万円でした。

そのころの日本は、日清戦争などの影響もあって、外国から多くの艦船を買い入れ、世界的な海運国に発展しようとしていました。一方造船界は、技 術面や設備面で大きく立ち遅れていました。その遅れを取り戻すため、外国人技師を雇い入れて国内各地に次々と造船所を造っていきました。この造船所もその なかの一つで、ドイツ人技師ボーケルを月給約百五十円で雇いドックを築きました。

明治三十五年十月十五日、フィリピンの沿岸警備用砲艦ロンブロン号(350排水トン)を進水させました。創業以来手がけてきた船は、いずれも 国内の企業から受注した工事用運搬船のたぐいばかりでしたが、十四隻目に初めて外国から受注した本格派の艦船を世に送り出しました。

しかし、造船所の歩んだ道は、決して楽ではなかったようです。明治四十一年発行の「三浦繁昌記」の浦賀町の項には、「・・・現今は、浦賀船渠 会社を唯一の顧客として商業を営み、此の会社の弛張(しちょう)興廃は町の景気に大なる影響を及ぼしている・・・」とあり、造船所の浮き沈みが、そのまま 町民の一喜一憂につながっていた様子をよく言い表しています。

以後今日まで、様々な歴史の移り変わりにつれて盛衰を繰り返してきました。この間、ここで建造した艦船は約一千隻に達します。



浦賀道


西叶神社
「ボケが咲いている」と撮った一枚目が逆光で使えないかなぁと思って二枚目を撮りました。二枚目いらないかなぁと思ったのですが、トンビが写り込んでいたので載せておきます。


ソテツ

弁財天

稲荷

ボケ

西叶神社
市制施行七十周年期記念  横須賀風物百選 「西叶神社」

「アリャアリャ、ありがたや、叶明神の威徳をもって、虎もやすやす従えたり、皆々いさんでカッピキュー」
これは、享保五年(1720)から当地に伝えられているといわれ、毎年九月の祭礼に奉納される県指定無形民俗文化財「虎踊り」に登場する和藤内のせりふの一節です。
叶明神は、平家の横暴ぶりを憤った文覚上人が、上総国(現在の千葉県)鹿野山(かのうざん)にこもり、はるかに山城国(現在の京都府)石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)に源氏の再興を願って叶(かな)えられたことから、養和元年(1181)にそのみ霊(たま)をこの地に迎えて祭ったことに始まると伝えられています。したがって、この神社の祭神は、石清水八幡宮と同じ応神天皇(第十五代の天皇)です。
現在の社殿は、天保八年(1837)に消失した社殿を天保十三年に再建したものです。再建に要した費用は、約三千両と記録されています。とくに注目に値するのは、内部を飾る精巧な彫刻です。作者は、のちに名工とうたわれた安房国千倉(現在の千葉県)の彫刻師後藤利兵衛橘義光です。当時、二十代の若さであったといわれています。彫刻に要した費用は、総建築費の約七分の一にものぼる四百十一両余でした。奉行所が置かれ、回船問屋が軒を連ねていた隆盛期の浦賀であったからこそできたことと思われます。
社殿の裏山には、文覚畑と呼ばれている所があり、文覚上人の庵室の跡と伝えられています。また、社殿の右手下に「明治天皇駐輦(れん)跡」があります。これは、明治十四年五月十八日に明治天皇が観音崎砲台建設の様子を御覧になられた際、当時この場所にあった浦賀西岸学校の二階の一室に御休息されたのを記念して建てられた碑です。



浦賀道の商店

蛇畠
西浦賀1丁目のこのあたりを蛇畠(じゃばたけ)といいます。昔は、現在の蛇畠の通りに平行して、愛宕山のふもとまでに畠(畑)がありました。幅が狭くて、長く続くその畑の形が蛇のようであったので、それに由来したものです。蛇がたくさん住んでいたという意味ではありません。
この付近には、江戸時代に浦賀奉行所の船番所があり、東西浦賀と下田の廻船問屋100軒余があり、船の荷改めの実務を担当していました。



船番所跡

浦賀の渡し

ヘリコプター

自衛隊機
道を間違えて浦賀の渡しの先まで行ってしまったら船番所跡がありました。この日は防衛大学校の開校祭とのことで、何人か自衛隊機の飛来を待っていました。



渡船

海から西叶神社

海から浦賀造船所

東叶神社


御神木のソテツ



ソテツの実
ソテツのご神木を見て「南国だなぁ」との印象でしたが由来があったのです。さすが三浦の地、源氏色が強い。宮崎でもらったソテツの実のアクセサリーを愛用しているのですが、ソテツの実がこのようにできるとは知りませんでした。


東叶神社
市制施行七十周年期記念 横須賀風物百選 「東叶神社」

祭神は、京都の石清水八幡宮と同じ応神天皇(第十五代の天皇)です。
この神社は、養和元年(1181)八月十五日、高雄山神護寺の僧文覚が、源氏の再興を願って石清水八幡宮の霊を迎えたことに始まるといわれ、その後、源頼朝によって、その願いが叶(かな)ったことから叶大明神の名で呼ばれるようになったと伝えています。また、このほか新編相模国風土記稿や皇国地誌残稿などには、この神社に関する記事が載っています。
神社の裏山を明神山と呼び、標高約五十メートルです。
後北条氏の頃、しばしば房総半島の里見水軍が三浦半島に攻撃をかけてきましたので、それを防ぐために、この明神山に水軍を配置しました。山頂には、この神社の奥宮があり、その左手に「勝海舟断食の場」の標柱が立っています。
明神山の素晴らしさは、よく保全された自然林で、木々の種類も豊富なことです。特にウバメガシの自生は、県内でもこの明神山と城ヶ島だけで、ここが分布の北限とされています。この学術的に貴重な明神山一帯は、「県指定天然記念物・叶神社の社叢林(しゃそうりん)」となっています。



叶神社の社叢林
指定年月日:昭和51年(1976年)12月17日
浦賀湾の東岸丘陵の突端斜面に位置する叶神社の社叢林は、標高53mの山頂まで常緑広葉樹林で、山頂部付近はスダジイ林で占められ、斜面部はタブノキ林(イノデ-タブ群集)で被われている。
高木層は、樹高20~22mのタブノキが優先しており、亜高木層はヤブツバキ、イヌビワ、モチノキが生育している。
低木層には、トベラ、アオキ、シロダモ、ヤツデ、ヤブニッケイ、オオバグミ、ムラサキシキブなどが見られる。
林床の草本層の出現種数も多く、キズタ、ヤブラン、ビナンカズラ、イノデ、ベニシダ、テイカカズラ、オオバノイノモトソウ、キチジョウソウ、ツワブキなどが生育している。
また、叶神社の裏山一帯は浦賀城跡といわれており歴史的にも貴重なところである。



日西墨比貿易港之碑
日西墨比貿易港之碑
Monument of Trade between Spain・Mexico・Manila via Uraga

慶長3年(1598)、徳川家康はスペイン(西)領メキシコ(墨)から新製錬技術を導入するため、スペイン領マニラ(比)からメキシコのアカプリコ港へ向かうスペイン商船(ガレオン船)を浦賀湊に寄港させるよう交渉した。そのため、慶長5年に上陸した英人ウイリアム・アダムス(日本名・三浦按針)を顧問とし、江戸邸のほか三浦郡逸見村の采地と浦賀邸を与えた。三浦按針はマニラにも渡海し浦賀貿易再開のために尽力した。江戸・浦賀・静岡・伏見・大坂にはフランシスコ会修道院が創設され、浦賀洲崎にはスペイン人を保護する高札が立てられた。この浦賀貿易を管轄していたのが船奉行向井将監忠勝である。

浦賀湊には前フィリピン総督ロドリゴ・デ・ビペロ・イ・アベルサやメキシコ国王の使節セバスチャン・ビスカイノが訪れ、三浦按針建造のブエナ・ベントゥーラ号はロドリゴの帰国のために提供され浦賀を出帆し、幕府船として初めて太平洋航路横断を果たした。伊達政宗の遣欧船サン・ファン・バウティスタ号もスペイン国王使節ディエゴ・デ・サンタ・カタリナを乗せ入港している。

三浦按針の母国との通商成立は来日から14年目であり、その3ヶ月後の慶長18年12月全国にバテレン追放令が公布された。元和2年(1616)貿易港は長崎・平戸に限定され、三浦按針が平戸への移住を余儀なくされるまで、浦賀は長崎と並ぶ東国唯一の国際貿易港として重要な役割を果した。

2019年4月吉日

建碑発起人 浦賀湊を世界文化遺産にする会
撰   文 日本海事史学会 鈴木かほる
建碑賛同人 東叶神社氏子会
      寄付者一同(裏面に記載)



マリーナ

以前なら気にならなかった釣り船の看板

漁港


砂浜

トーチカ


たたら浜
観音崎自然博物館前にある浜。小さい浜辺。遠浅の海岸で波は穏やか たたらという地名が製鉄と関係の深い所が多くあります 。木の浜から砂鉄はとれますが製鉄をしていたかどうかは はっきりしません。 また、三浦一族の多々羅家がこの地に住んでいたという説もあります。
たたら浜は自然の砂浜と磯が残り東京湾も中でも外洋と内湾の両方 の要素をもつたいへん貴重な場所です
豊かな照葉樹の森から流れた栄養分を含んだわき水が 海草を育てアマモ場が形成されています。 この周辺は豊富な魚介類の生息地でクサフグの産卵地として も知られる自然の宝庫です。
山側には7~8世紀に作られた20基の横穴墳墓があります。 観音崎一帯は東京湾要塞地帯の最前線として明治14年から 太平洋戦争終了(1945)まで一般人の立ち入りが禁止されていました この海岸では陸海軍の演習も行われていました。 (浦賀探訪くらぶ浦賀)



観音崎公園の地図

あこうの木



カマキリ
アコウの下でトンビに弁当をさらわれないよう注意しながらの昼食で、カマキリがずっと近くにいました。海を見ているカマキリの写真、偶然にもピントが異なる二枚が撮れました。意図して簡単にピントが調整できるといいのですが、コンパクトカメラの限界ですね。


イソギク

ツワブキ

オンブバッタ

黒船

ゴジラの足跡

観音崎灯台

行基上人による観音像の建立と観音崎のいわれ
行基上人による観音像の建立と観音崎のいわれ
 観音像及び観音崎については、次にように言われています。
 天平十三年(741)の春、行基上人がこの地を訪れました。当時、この海蝕洞窟には白い大蛇がすんでおり、山一帯に住む鵜とともに、沖行く船に危害を加えておりました。行基上人は、泣き悲しむ村人のために、大蛇と鵜を退治するとともに、観音像を彫り、これを洞窟のそばに納めたところ、海は平穏になり、以後、漁師たちは安全に漁ができるようになりました。村人たちはこれを観音様のご利益と考え、お堂を建設し観音像を祀るようになりました。
 観音像は地元の村人や漁師だけでなく、浦賀水道を行き交う全ての船舶乗組員にも愛され、いつしか人々は、この地を観音像に守られた岬『観音崎』と呼ぶようになり、その名前は現在まで続いております。

行基上人の功績
 行基上人の功績については、次のように言われています。
 観音像を彫り、観音崎の由来を作った行基上人は、その一方、律令制の下、重い租税や飢饉で苦しむ多くの民衆のために、布施屋と呼ばれる福祉施設を建て、食事や宿泊を提供し、道を拓き、橋を架けるなど、民衆を率いて土木事業を進めました。
 朝廷は、民衆の支持を得た行基上人の活動を認め、これまで公有であった土地制度を改め、土地を開墾した場合、一定期間の雌雄を認めたので、以後、自発的な開墾が促進されるなど、土地制度改革が大きく進みました。
 また、行基上人は、聖武天皇から奈良の大仏建立という一大公共事業の責任者に任じられるなど、行基上人の社会活動は、我が国のインフラ整備の面で大きな功績を残しました。
  令和元年九月二十三日  神奈川県 横須賀土木事務所
  参考文献:「新横須賀市史 資料編 古代・中世 補遺」
       「古老が語るふるさとの歴史 南部編」
       「国土交通白書」




三軒家園地の砲台跡

花の広場
三軒家砲台は明治時代中頃に建設されました。太平洋戦争終了まで軍の施設で一般人が立ち入ることが出来なかったということでよい状態を保っています。関東大震災もあったので、このあたりの地盤がしっかりしているのでしょうか。



破崎緑地から富士山
観音崎公園ぬけて走水へ下りてきました。意外な方向に富士山が見え見た目のイメージは一枚目ですが、ちょっと暗くして富士山がわかるようにしてみました。走水は東京湾側で、富士山は相模湾側だと思っていたのでここから富士山が見えるのは意外でした。




ヴェルニーの水

猿島


うみかぜ回廊
こちらの方がさらにわかりにくい富士山。わかりましたか?




信楽寺(しんぎょうじ)


おりょうの墓
市制施行七十周年期記念  横須賀風物百選 「坂本龍子の墓」

江戸末期の風雲児、坂本龍馬の妻龍子は、「寺田屋騒動」の折、坂本の危急を救った女性として広く知られています。
龍子は、京都の町医師楢崎将作の長女として生まれました。生年月日については、天保十一年説もありますが、本市に残る除籍簿によれば、嘉永三年(1850)六月六日となっています。名は「りょう」とか「とも」と呼ばれ、伏見の寺田屋にいた頃は「お春」と呼ばれていたようですが確かなことは不明です。
坂本龍馬は、慶応三年(1867)十一月十五日、京都のしょうゆ商近江屋で京都守護職の輩下見廻組与力の乱入を受け、斬りつけられて、三十三歳の若さで絶命しました。
未亡人となった龍子は、夫龍馬の実家土佐の坂本家に移り住みましたが、長続きはしませんでした。その後、京都、大阪、東京と明治初年まで流浪の生活が続きました。その原因や生活状況については、いろいろの説があり、現在のところでは定説がありません。ただ、はっきりしていることは、明治八年七月二日、三浦郡豊島村深田二百二十二番地(現在の米が浜通り)の西村松兵衛方に「西村ツル」として入籍し、明治三十九年一月十五日の午後十一時に死亡した事実だけです。いろいろな資料によりますと、龍馬の死後、龍子の生活は波乱の連続であったようです。龍子の葬儀は、知人や隣人の助力で、明治三十九年十月二十日にささやかに営まれました。また、遺骨は当時の信楽寺住職新原了雄師の御好意により、この地に葬られたとのことです。




保久利地蔵
京急大津駅へ戻りストレッチをして解散となりました。結構な長丁場、疲れました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【番外】代々木公園散策

2019-11-14 09:31:09 | ウォーキング
先日代々木公園を通った時にずいぶん紅葉が進んでいることに気づき、出不精になっている知人を誘って散策してきました。



閲兵式の松
大河ドラマ「いだてん」を面白いなぁと思い見ているのですが、先週はワシントンハイツ返還が大きなテーマでしたね。脚色されたフィクションだと思って見ていますが選手村が朝霞じゃなくてよかった。


サザンカ
咲き始めたばかりのサザンカをきれいに撮ろうと思うのだけれど、コンデジでは難しい。ローキーの補正をかければいいのですが、操作も手間だし仕上がりのイメージもつかめないし。一眼レフを持ってくるべきですね。
カメラといえば最近シグマのフルサイズミラーレスが気になっていて記事を読んだりしています。小さいと言ってもフルサイズだしコンデジの代わりにはならないだろうな。45mmの単焦点レンズの使い勝手はどうかななどと考えていますが、近いうちに手に取ってみようかな。



狂い咲きのカワヅザクラ

SO-01Kで撮影
数本のカワヅザクラが植えられているのですが、一本だけ花をつけていました。台風の影響かな。Facebookに載せようとスマホでも撮ってみました。コンデジと比べて見るとスマホの写真は作りすぎている感じが否めません。スマホの薄さでこれだけの写真が撮れることはすごいと思っています。


ネジネジのソメイヨシノ
目黒川ではあまり気にならないのですが代々木公園ではねじれているソメイヨシノをよく見かけます。同じ方向にねじれているので太陽の動きが関係しているのかなぁと思っていたのですが、そうではないようです。わかりやすい明確な説明にはたどり着けませんでした。


色づく木々

SO-01Kで撮影
コンデジとスマホでどちらが元の色に忠実かといえばコンデジなんだと思っています。だけど紅葉を見て感じた「お!」を再現してくれているのはスマホなんですよね。彩度が高いため紅葉のようなちょっとくすんだ色のものには華やかさを加えてくれます。カワヅザクラの花だとちょっとやりすぎ感が出るのでしょう。






バラ園
ちょうど秋バラの季節でしょうか、バラがきれいでした。


キダチダリア
この花も写真にしたときに感動を伝えにくい花です。背が高いことが特徴なので縦位置で撮ってみましたが、花が小さくなっちゃうんですよね。花のアップにすると背が高いことが伝わらないし。


ススキ

紅葉
気持ちの良い代々木公園散策でした。ちょっと歩いただけでもこの後のビール(キルケニー)がおいしくて、日本酒まで行ってしまいました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仙川コース上流端編 約8.6km

2019-11-12 10:22:45 | ウォーキング
今年6月12日に下見したコースの本番です。下見は曇りの日で薄暗かったのですが、この日は快晴。天気でずいぶん気分が変わるもので、歩きやすい気候の中楽しいウォーキングでした。


上之原通り

けやき通り

みかん

東京学芸大学
中目黒→東横線・副都心線→新宿三丁目→徒歩→新宿→中央線快速→武蔵小金井とやってきて、上之原通りを西へ向かい、上の原公園でストレッチをして、一本北のけやき通りでびっくりです。この時期剪定するか?夏の間に日陰を作ってくれたケヤキの葉も落葉すると厄介者ということでしょうか?
東山中学校の剣道部の顧問で恩師、先生は学芸大学を卒業されこわもての体育教師でした。中学二年の時の担任で朝のホームルームににやけ顔で現れ、「なまえ?『花子』だよ」と生まれたばかりのお嬢さんの話をしていました。山川先生が娘に花子という名前を付けるわけがなく、信じた私がばかだと思います。
この娘さんが大学へ進学される際東京学芸大学に合格し、山川先生は自分が卒業した学校へ行ってくれるものと期待していたのですがかないませんでした。娘さん曰く、「西荻窪の駅を通り過ぎてその先の大学通学すると、毎日後悔することになる」と。東京女子大学に入学されました。
東京学芸大学は武蔵小金井駅から歩いて15分くらいかかるでしょうか。いい環境にあると思います。


ウメモドキ

仙川上流端と里芋

公務員住宅の中の仙川

小金井本町住宅の中の仙川
公務員住宅や、公団住宅の中では川沿いのいい雰囲気が保たれています。その他の場所では水の無い用水路のようですが。


山王窪の築樋
築樋は、低い土地に土を盛って突き固めて土手を築き、その上を用水路とした土木工法です。この築樋は、元禄九年(1696)頃、玉川上水から小金井村方面に分水を引くため山王窪と呼ばれる仙川の窪地に築いたものです。
全長五十六間(約102メートル)、高さ一丈八尺(約5.4メートル)あったと記録されています。

平成二十一年三月

小金井市教育委員会



本町四丁目付近

大松木下之稲荷大神
神社についてまろん通信から引用します。
小金井街道が北大通りと交差する北東側角にある稲荷神社で、「歴史散歩」(小金井市教育委員会発行の「小金井市の歴史散歩」以後このシリーズでは「歴史散歩」とのみ記された場合これを指します。)によれば1842年頃上山谷の皆さんが祀ったとのこと、また大きな松の木の下に祠があったのでそのように名付けられたとのことです。
古地図によれば小金井分水から築樋の北側で分流した用水が東進し、この神社の東側を通って仙川に流れ落ちていたようです。その水路跡の大部分は遊歩道北2号線として今でも利用されています。
小金井分水が許可されて水路が出来たのが1696年、そこから延びる枝状の遊歩道北2号線の水路が出来て仙川に落ちるようになったのもほぼ同じ頃と考えると、それから140年後のこの水路際に神社が造られたことになります。稲荷神社をこの地に創ったことはもしかすると水路に、そして水に対する感謝の気持ちもあったのかもしれません。
境内には1792年の庚申塔や1802年の石灯籠など5基の石造物があります。この神社もそうですが昔の小金井街道(志木街道とも呼ばれていました。)沿いにあったものが、道路の拡幅などによって移動させられてこの神社の境内に集められたのではと考えています。境内は恐らく昔はもっと広かったのではないでしょうか。



桜町から緑町にかけて
仙川沿いに人一人通れるくらいの通路があったのでここを歩いてみました。年配の二十人くらいの団体がここを歩いているの見ると、近所の住民には異様に見えるでしょう。




浴恩館
佐賀偉人伝のページから一部引用します。
佐賀県出身の小説家、社会教育家である下村湖人(1884-1955)が青少年教育活動を行い、湖人の小説『次郎物語』第五部の舞台ともなった浴恩館に行ってきました。
小金井には、まだ所々に武蔵野の雰囲気が残っています。個人のお宅や畑に、この辺り一帯が武蔵野だった時代の景観をそのまま切り取ったような緑や黒い土が残っているのです。
特に浴恩館周辺は、ここが浴恩館として青少年の教育活動に使われていた時代の自然をそのまま伝えており、「浴恩館公園」として、整備されています。
浴恩館は、昭和3年(1928)に京都御所で行われた御大典で使われた建物を「日本青年館」が譲り受け移築したものです。



稗倉
稗倉(穀櫃)
 稗倉は、飢饉に備えた稗などの備蓄倉庫で、市内ではこれが唯一のものです。
 この稗倉は、貫井村(現貫井南町)の名主であった大沢家が村人のために作ったもので、建築年代は、内部の柱の墨書きから天明元年(1781)十一月と思われます。昭和六十一年に大沢家から寄贈を受け、ここに移築し復元したものです。
 規模は、間口約3.6メートル、奥行き1.8メートル、高さ2.3メートルで、内部は二つに仕切られています。穀物などは天井の蓋を開けて入れ、下の小さい口からかき出すようになっています。
  平成三年三月
   小金井市教育委員会



浴恩館公園のツツジ群
市天然記念物
浴恩館公園のツツジ群
指定 昭和四十九年二月
 この園内にあるツツジ群は、昭和五年浴恩館開館に際し、豊多摩郡大久保町(現新宿区大久保)にあったツツジ園から移植されたものです。
 いずれも枝葉を茂らせ、なかには高さ三メートルにもおよぶものもあり、近郊まれに見るツツジ群をなしています。
 種類はキリシマツツジを主とし、その他オオムラサキ・シロリュウキュウ等を交えています。
  小金井市教育委員会



下村湖人歌碑
 大いなる道といふもの世にありと
  思ふこゝろはいまだも消えず
              湖人

 教養小説『次郎物語』の作者として知られる下村湖人の本領は教育者であり、同郷の盟友田澤義鋪の招きに応じ浴恩館にて青年教育に尽力しました。湖人は優れた歌人でもあり、千五百首以上の短歌を残しています。
 この歌は、昭和二十九年(1954)十月三日、古希の誕生祝いの席で詠まれた湖人最晩年の一首です。「大いなる道」とは田澤義鋪と共有した理念であり、人類の大道をあらわしています。当時病魔と闘い自由に動かせない手で筆をとったといわれ、翌三十年四月、湖人は七十一年の生涯を閉じました。
 昭和三十二年(1957)、湖人と活動を共にして来た新風土会会員の手により、ゆかりの地「空林荘」の前に、歌碑が建てられました。
  平成三十年六月
   小金井市教育委員会



市史跡 空林荘
市史跡 空林荘
 この空林荘は、全国の青年団活動の中心であった財団法人日本青年館が、昭和五年にその分館として浴恩館(青年団講習所)を開設したとき、講師の宿舎として建てられたものです。
 青年教育の実践家として知られる下村湖人(1884~1955)は、昭和八年から同十二年まで講習所の所長を務めました。
 空林荘は下村湖人が講習生と寝食を共にし、指導にあたったところです。
 そのころ、「次郎物語」の執筆を始めた胡人はここで構想を練り、次郎の少年時代を記述しました。昭和二十九年に発表された第五部に登場する友愛塾と空林庵は、浴恩館と空林荘をモデルにしたものです。
 なお、空林荘は貴重な文学遺跡として市史跡に指定されましたが、平成二十五年二月に焼失しました。
  平成二十六年三月
   小金井市教育委員会




仙川と次郎橋
公園内に仙川が流れているので、仙川下りコースとしては重要なポイントの一つとなります。


サザンカ

ヤマボウシの実

東京電機大学高等学校
サザンカが咲き始めました。寒くなるわけです。この日は快晴で湿度も低くて快適でした。日なたはちょっと暑いけど、日陰に入ると涼しい感じで、日差しも斜めから。紅葉シーズンを楽しんだ後は、すぐに寒い冬が来るのかな。木枯らしの便りも聞こえてきますが、この日は小春日和といっていいのかな。
高校は私の母校ですが、私が通っている頃は文京区後楽にあり、学校帰り後楽園球場に日ハム戦を見に行ったものです。移転し、工業科が無くなり、男女共学になり、中学校もできて、知らないうちに大きく変わってあまり母校という感じがありません。校歌も変わっているらしく、卒業以来一度もクラス会ないし。近年従姉の子供が中学校に入学したと聞き、ちょっとだけ親近感があるかな。


梶野通りの大きな松と庚申塔



梶野分水築樋
 築樋は、窪地や川を越して水を流すために低地に土を盛ってつき固めて土手を築き、その上を用水路としたものです。
 梶野新田の開発にあたり、飲み水や農業用水に困った新田の人々は、玉川上水から水を分けてもらえるよう享保十年(1724)頃から再三幕府に願い出ましたが、享保十七年(1732)に梶野分水が許可され、仙川の谷と立体交差する築樋(長さ約230メートル・高さ約4メートル)が造られました。また、本町五丁目の山王稲穂神社付近にも築樋があります。
 梶野分水は、明治三年(1870)に上流の砂川用水とつながり、下流は深大寺村(現調布市)まで伸び、深大寺用水とも呼ばれました。なお、南に続く分水路は「ほっこ抜き」と呼ばれる暗渠(トンネル)になっています。
  平成十七年三月三十一日
   小金井市教育委員会



公団桜堤団地内の仙川

団地内のビオトープ
公団桜堤団地、現在は建替えられてサンヴァリエ桜堤やパークシティ武蔵野桜堤となっています。かなり大規模な団地ですね。


亜細亜大学

花の通学路
この後仙川は亜細亜大学構内を流れてゆきます。花の通学路途中にある武蔵川公園をお借りしてストレッチしようと思ったのですが、ドッグランや野球場となっていたので断念。


オキナワスズメウリ
アジア大学通り沿いのマンションの公開緑地のような場所をお借りしてストレッチをしました。武蔵境駅へ向かう途中スイカの様な柄のかわいい実があったので撮ってみました。ウォーキング日和の一日でした。


有志は中目黒へ直行しONCEで相撲観戦。アルコール度数の高いビールで酔っ払い続出でした。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする