目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

ウォーキング塾地区活動(北部) 菅刈、東山、上目黒コース 約5.4km

2019-05-27 09:28:18 | ウォーキング
5月21日(火)~6月25日(火)の予定でめぐろウォーキング塾が行われています。初日の基調講演はプロランニングトレーナー金哲彦氏による講演と実技指導でした。ストレッチから歩き方など、ウォーキングの基本を分かりやすくお話しいただきました。ウォーキング塾は講習5回、実習となる地区ウォーキングが3回、塾生全員で歩く合同ウォーキング1回の計9回の講座となります。


中目黒GTに集合
すこやか歩こう会の地区ウォークは中目黒GT集合が3回と、駒場東大正門前集合が1回の計4回行われ、3回以上の出席をお願いしています。北部すこやか歩こう会以外の東部、中央、南部、西部地区のウォーキングクラブもそれぞれ地区活動を行っていて、塾生はどの地区のウォーキング活動にも参加可能です。
すこやか歩こう会の名称は初代筑紫会長の発案により目黒区北部の四つの住区から一文字ずつもらいました。菅刈住区の「す」、駒場住区の「こ」、東山住区の「や」と烏森住区の「か」です。今回はこの4住区のうち、駒場を除く三つの住区をめぐるコースとなります。


菅刈公園
中目黒GTに集合し、10時になると目黒川舟入場へ移動します。舟入場でストレッチを行い、ウォーキングスタート、目黒川沿いを上流にさかのぼります。各地で五月最高気温を記録したこの日でしたが、葉の茂った桜の木が木陰を作ってくれて気持ちの良いウォーキングです。宿山橋でこの通りが鎌倉街道であることの説明、キンケロ劇場、北野神社を通過し、菅刈公園でトイレ休憩です。菅刈公園で荒城の月で有名な岡藩の下屋敷だったこと。明治時代に西郷従道の屋敷だったこと。和式庭園には三田用水から引き入れた滝が流れていたことなどを説明しました。


三島由紀夫の豊饒の海の主人公「松枝清顕」の父「松枝侯爵」は西郷家をモデル(環境および建築としての邸のモデル)にしています。松枝侯爵の名は荒城の月の歌詞「千代の松が枝」から来ていることに今日気づきました。この話は来週のウォーキング実習で披露しましょう。



センダン
木札の意味がわからないのですが、左から読むのですね。Wikipediaから引用します。
センダン(栴檀、学名: Melia azedarach)は、センダン科センダン属に分類される落葉高木の1種。別名としてオウチ(楝)、アミノキなどがある。
「栴檀は双葉より芳(かんば)し」ということわざが存在するが、これはセンダンではなくビャクダン(白檀)を指す。


センダンは「百年目」という落語の印象もあります。こちらのブログ
https://yarinokoshi.blog.so-net.ne.jp/2012-08-23
から引用させていただきます。
芸者遊びを見つかった大店の番頭に、旦那(主人)が、旦那という言葉の由来が、栴檀と南縁草の関係であったと説くのです。主人は、一軒の主を旦那という訳は、天竺(てんじく)の赤栴檀と南縁草(難延草なんえんそう)の関係から来たと。
素晴らしい赤栴檀の根元に、南縁草という汚い草が生えていた。これを見て、この草を取り去れば、より赤栴檀が、引き立つに違い無いと思い、そうしたところ、一晩のうちに赤栴檀が枯れてしまった。
調べて見ると、栴檀は南縁草を肥やしにし、南縁草は栴檀からの露で育っていた事が分かったのでした。
栴檀が育つと、南縁草も育つ。持ちつ持たれつ。栴檀の「だん」と南縁草の「なん」を取って「だんなん」。そこから、「旦那」になったというのです。
大店の主人は、番頭に、自分とお前も、栴檀と南縁草だ。自分も露を、お前に下している。またお前も私を養ってくれている。そして店では、今度はお前が栴檀で、店の者が南縁草だと。店の南縁草にも少し露を降ろしてやってくれと。



スモークツリー

芝生養生中

ミキモトさんのバラ
装身具のミキモトさんはバラをきれいに咲かせています。UAEと御木本幸吉の関係を披露しようかと思ったのですが、立ち止まる場所がないのでやめましたが、ここで披露しましょう。
「UAE(United Arab Emirates)の老人に真珠の話をしない方がいい」とUAEで仕事をしている人に聞いたことがあります。UAEはかつて天然真珠の産地でとても潤っていましたが、御木本幸吉氏が真珠の養殖に成功してから価格が暴落し、天然真珠の産業が壊滅したため、御木本さんはとても恨まれているとのことです。UAEの若い人はそんなことも知らないそうですが。


東山貝塚公園の竪穴式住居
ミキモトさんから川を挟んだところにある新しいスターバックスに皆さん興味があるようでした。山手通りを渡り目黒川へ戻って大橋方面へ川をさかのぼります。天空庭園については四回目のウォーキング実習で訪れることになるで説明しません。東山貝塚の説明をして、竪穴式住居で暮らす縄文人を見てもらい、水を一口含んで先へ進みます。


カシワバアジサイ
「ホザキアジサイ」とは言わないようです。どちらもありかと思っていたのに。


寿福寺
東山三丁目と池尻の区境の坂を登り、加藤家の墓地も木陰がないので説明しません。現在クロネコヤマトが使用している旧帝国陸軍の馬糧庫の説明をし、国土地理院跡の東山公園を見学します。改築が済んだ東山小学校を正門側から見て、寿福寺へ向かいます。
門前で川井権兵衛さんの話をした後、墓地へ行き権兵衛さんのお墓を見学しました。



宿山の庚申塔群で再び鎌倉街道の話をして、目黒ゴルフ練習場とテニスコートの間にある私道のような道を下ります。この道は地図にも載っているし、目黒区が街灯を設置していることから区道であることがわかります。蛇崩川緑道を中目黒方面に下ってゆくと、たくさん実をつけた梅の木がありました。



上目黒二丁目児童遊園
この児童遊園をお借りしてストレッチをして今回のウォーキングは終了です。木の根元に挟まったサッカーボールは、サッカー禁止への抗議の表れでしょうか

次回は駒場方面へ歩を進めます。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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【下見】第18回目黒ウォーキングマーチ将軍お鷹狩りウォーク

2019-05-23 16:50:37 | ウォーキング
11月3日、目黒ウォーキング協会がかかわる一年で最も重要なイベントです。現在コースの選定を行っており、気になる場所を歩いて確認してきました。伊皿子坂あたりからにしようと思ったのですが、芝公園で一か所気になっている部分があり御成門へ向かいました。


御成門
駅名としてはおなじみでしたが、門が残っているとは知りませんでした。港区のページから引用します。(以下引用元がないものは港区のページからの引用です)
増上寺の裏門としてつくられましたが、将軍が参詣する際にもっぱら用いられたので「御成門」と呼ばれるようになりました。初めこの門は現在の御成門交差点にありましたが、明治25年の東京市区改正計画で、内幸町増上寺三門を経て芝公園に至る道路が新設された際に、この位置に移築されました。
増上寺三門や庫裡門・徳川家墓地の惣門・二天門とともに、関東大震災や太平洋戦争の戦火から何を逃れて今日に及んでいます。



二天門(改修中)
増上寺にある有章院霊廟二天門は重要文化財です。門の左右には神がいます。向かって右が北方を守る多聞天・左が西方を守る広目点です。仏教の護法神。


増上寺築地塀

増上寺
浄土宗大本山。上野寛永寺と並ぶ徳川将軍家の廟所で、6名の将軍、和宮(静寛院宮)、将軍生母らが埋葬されています。



台徳院霊廟惣門
寛永9(1632)年造営の2代将軍徳川秀忠の廟所です。昭和20(1945)年の東京大空襲で、幾つかの門だけが罹災を免れ保存されました。


港区立芝公園のバラ

平和の灯
平成17年8月15日、「港区平和都市宣言」を行ってから20年が経ちました。これを記念し、区立芝公園に設置しました。ここに灯された「火」は広島市の「平和の灯(ともしび)」、福岡県八女市の「平和の火」、長崎市の「ナガサキ誓いの火」をあわせたものです。
この灯(ひ)を通じて、戦争の惨禍と平和の尊さを後世に伝えてまいります。



港区立芝公園から見た東京タワー

芝丸山古墳
5世紀後半の築造と推定される都内最大級の前方後円墳。古墳の麓には縄文後期の裏鬼門に位置し、山中鎮守の重要な地を占める円山稲荷や伊能忠敬側地遺功表があり、自由に登れます。


伊能忠敬側地遺功表
明治22年、東京地学協会が日本地図を作った測量の先駆者・伊能忠敬の功績を顕彰して建てたもの。当時の物は戦災で失われたため、現在の遺功表は昭和40年に再建されました。丸山古墳の頂上にあります。



プリンス芝公園から見た東京タワー

赤羽橋欄干
国道1号で三田から東京タワーへと向かう途中の古川にかけられている赤羽橋。延宝3(1675)年、川を深くし 際に造られました。赤羽の語源は赤埴(あかはに)。埴とは粘土の意味で、付近で赤い粘土がとれたことからこの名前がつけらたといいます。
当時、橋の西側には久留米藩有馬氏の上屋敷が広がり、屋敷内には“江戸一”と称された火の見やぐらが立てられていました。橋の周りには芝浦で捕れた魚の朝市が並び、漁師たちが一寸(ちょっと)商いをすることから、「ちょろ河岸」とも呼ばれていたそうです。
幕末には歴史の舞台にも登場。新撰組結成のきっかけをつくった尊皇攘夷志士の清河八郎は赤羽橋辺りで暗殺されました。
現在の橋は昭和49(1974)年に造られたもの。たもとには、明治、大正期のものと思われる重厚な欄干(らんかん)が残されています。



桜田通りから見た東京タワー

聖坂
古代中世の通行路で、商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開き、その宿所もあったためという。竹芝の坂と呼んだとする説もある。


「蟻鱒鳶ル」(ありますとんびる)

亀塚公園
「亀塚公園」という名のとおり、園内には「亀塚」が保存されています。その名にちなんだ亀のスプリング遊具や園名板なども設置されています。
平成19年に斜面地に階段を整備し、園内を通って三田三丁目と四丁目を行き来することが可能になりました。
また、園内には都心では珍しくなったカントウタンポポを保全しており、毎年4月から5月の開花時期に合わせ、開放しています。1年にこの時期のみ開放しておりますので、みなさまぜひ見に来てください。




幽霊坂
坂の両側に寺院が並び、ものさびしい坂であるためこの名がついたらしいが、有礼坂の説もある。幽霊坂は東京中に多く7か所ほどもある。


御田小学校
港区の三田はもともと「御田」で、天皇家の領地で田圃があったと言われており、目黒区三田もその飛び地だったということです。目黒の地名から引用します。
目黒の地名 三田(みた)
更新日:2014年2月3日

「目黒の地名」は、「月刊めぐろ」(昭和55年8月号から昭和58年4月号)の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒の地名 三田
「三田」は、区内で一、二を争う古い歴史をもつ地名。その由来は、遠く大化の改新以前にまでさかのぼるといわれている。
十世紀初めに編さんされた「倭名類聚抄」によると、古代、武蔵国荏原郡に「御田郷」と呼ばれる土地があり、その名は、大化の改新以前の天皇の直轄領地「屯田(みた)」に由来するものというのが定説。明治半ばまで旧目黒六か村の一つであった三田村の地は、古くは、港区の三田とともに、この「御田郷」に属していたと推定され、その後、十五世紀ごろまでに、港区三田に当たる地域が「三田村」、目黒区三田一帯が「銀(しろがね)三田郷」と、二つの地域に分かれ、さらに江戸時代以降、「銀三田郷」が港区の白金村と目黒区の三田村とに分かれていったものとみられている。
なお、こうした経緯から、港区三田と目黒の三田は、ともに今日まで、現在港区三田にある春日神社の氏子という親しい関係にある。
しかし、江戸時代以降の両者の発展には大きな相違がみられる。港区の三田から白金辺りまでは町奉行支配地となって開けた一方、目黒の三田村は、その大半が幕領や大名・旗本の別邸などで占められたこともあるが、文化・文政の江戸繁盛期でさえ戸数十戸余り。三田用水から引いた滝が落ちる名園など、景勝の地としてのみ知られてきた。
明治以降、山手線の敷設やビール工場の建設など、開発の波に見舞われながらも、鉄道が掘割の中を通り、地勢が急なことから、近年まで、なお昔の面影を残してきた。しかし、平成6年10月に恵比寿ガーデンプレイスが開業し、この地域も大きく様変りした。




高輪皇族邸
Wikipediaから引用します。
高輪皇族邸(たかなわこうぞくてい)とは、東京都港区高輪にある宮内庁管轄の施設。大正時代に東宮御所が置かれ、戦前は「高輪御殿」と通称された。1931年(昭和6年)から2004年(平成16年)まで高松宮宣仁親王(1987年薨去)と宣仁親王妃喜久子の住まいだった。

中略

2019年(平成31年)4月30日に第125代天皇明仁が譲位し上皇となる事に伴い、仙洞御所(従来の東宮御所を新天皇の赤坂御所として使用した後に、改修の上で改められる予定)が整備されるまでの間、仙洞御所の假寓「仙洞仮御所」として、当地が使用される。仙洞御所の整備が終わってからは、これまで赤坂東邸が担ってきた皇族共用の邸宅として使用される方針としている。






大石良雄ほか16人忠烈の跡
東京都文化財めぐりのページから引用します。
 都内には忠臣蔵で有名な赤穂事件にまつわる旧跡がいくつかありますが、この旧跡もその中の一つです。赤穂浪士の中で、大石内蔵助良雄を含む17名が切腹をした場所と伝えられています。
 元禄14年(1701)の江戸城松之廊下の刃傷事件に端を発した赤穂事件は、翌15年12月、吉良邸討ち入りという事件に発展します。吉良上野介を討ち取った大石内蔵助一行46名(四十七士のひとり寺坂吉衛門は、途中で姿を消しています。)は、泉岳寺にある主君浅野内匠頭の墓前に吉良の首を供えた後、幕府の命により細川家を含む4家にそれぞれ預けられました。大石内蔵助ら17名を預かった細川家は、高輪の下屋敷にて彼らを丁重に扱ったと記録に残されています。元禄16年(1703)2月4日、幕府の命が下り、同日中に全員が預けられた先で切腹をしました。切腹の後、46人の遺骸は主君と同じ泉岳寺に送られ、埋葬されました。
 大石内蔵助らが切腹をしたかつての広大な細川家高輪下屋敷の敷地は、現在、高松中学校などになっていますが、細川家の屋敷跡の一部が塀に囲まれて残されており、往時をしのばせます。




旧細川邸のシイ
東京都文化財めぐりのページから引用します。
 かつて熊本藩細川家の下屋敷があった港区高輪地区総合支所裏手の高台に、スダジイの老木があります。主幹は高さ10mあたりで切断され、下部の空洞は樹脂で埋められていますが、幹囲が8m以上ある巨木です。
 スダジイはブナ科に属する常緑広葉樹で、福島県・新潟県以南の山野に自生しています。葉は長さ5~10cm、幅2~3cmで先端は急に細くなり、しっぽ状に突き出ています。初夏に花が咲き、翌年秋には先の尖った卵形の堅果どんぐりが熟します。
 このスダジイは、歴史上の様々な出来事、江戸~東京の街が度重なる火災や震災、戦災を乗り越えて発展を続けてきた姿を、静かに見つめ続けてきたことでしょう。



高輪コミュニティプラザ


絶江坂
承応2年(1654),坂の東側へ赤坂から曹渓寺が移転して来た。初代和尚絶江が名僧で 付近の地名となり 坂名に変った。


白金一丁目
一昨年のお鷹狩りロングコースで歩いたところですが、再開発で道がなくなっていました。




高輪消防署二本榎出張所
東京都文化財めぐりのページから引用します。
 昭和8年(1933)12月8日に完成した消防署庁舎です。海抜25mの尾根道の交差点にそびえ建つ、鉄筋コンクリート造3階建ての建造物で、建築当時は周囲に高い建物がなく、東京湾を眼下に眺望できたそうです。
 1階と2階は街路に沿ったL字型の平面です。その角の玄関を、8本の円柱で囲んだ円形平面にして3階まで立ち上げ、さらに望楼をのせます。伸びやかで魅力的な造形は、警視庁総監会計営繕係(担当者は越智操)の設計、間組の施工によるものです。
 外観全体をタイルで覆い、窓の連続窓台や屋上パラペットで水平線を強調して引き締めます。また、開口部の(擬石)洗出し仕上げも外観上のアクセントとなっています。
 交差点に面した玄関を入り、滑らかな砥ぎ出し仕上げの階段を上ると、柱頂部や天井廻りに繊細なモールディング(蛇腹)が施 されていることに気付きます。3階は広い円形講堂で、外同の8本の円柱から梁が放射状に飛ばされ中心で集まる、力強く躍動感のある意匠が特徴です。講堂の柱には現庁舎が落成した時に設置されたガス燈が、当時のまま保存されています。
 
ひと休み <~二本榎の由来~>
 江戸時代、この辺りにあった寺の門前に榎の木が2本あり、旅人のよき目標になっていたそうです。榎が枯れた後も「二本榎」は地名として残りました。
 現在、地名は変わりましたが、その歴史を残す「二本榎の碑」が、承教寺に建てられています。



明治学院インブリー館
東京都文化財めぐりのページから引用します。
 日本で最初の本格的な和英辞典『和英語林集成』の編纂とヘボン式ローマ字表記法の考案で知られるヘボン博士は、安政6年(1859)に来日した米国人宣教医師で、無償の施療事業、和英辞典の編纂、聖書の翻訳の傍かたわら、文久3年(1863)に夫人と共に英学教育のための「ヘボン塾」を開設しました。明治学院は、この「ヘボン塾」を起源とする、白金の地に明治20 年(1887)に開設された私立学院です。構内には校舎や寄宿舎、宣教師館が設置され、今でも明治22年(1889)頃竣工の宣教師館(インブリー館)1棟、明治23年(1890)竣工の神学部教室兼図書館(記念館)が現存しています。
 旧宣教師館は、住人のうち最も永く住んでいたW.インブリーにちなみインブリー館と命名されました。この建物は、19世紀後半に流行したアメリカ建築様式のひとつ(ゴシックリバイバル)を多く取り入れた本格的洋風住宅建築であり、都内に現存する最古の宣教師館として極めて貴重なものです。壁の外装は、妻壁つまかべの鋸歯模様のシングル葺きと外壁胴部の鱗状シングル葺きが特徴です。内装には、ホールを中心とする開放的な平面計画と各部屋で異なる床の寄木張り、木部のワニス塗りなど、それまでの日本建築にはなかったものが見られます。また、日本人大工の施工を裏付ける手板等が見つかっています。
 宣教師館としての役割を終えた後も様々な用途に供され、昭和39年(1964)に国道1号線の拡幅のため現在地に曳屋されました。平成7年(1995)から2年間かけて行った保存修理工事で、ほぼ創建当初の姿を取り戻しています。




桑原坂
今里村の地名のひとつである。その起源について特別の説は残っていない。






ゆかしの杜(旧公衆衛生院)
平成21年に国から取得した、昭和13年に竣工した公衆衛生院(内田祥三(うちだよしかず)設計)を、耐震補強やバリアフリー化し、歴史的な建物を保存しながら活用するための改修工事を行いました。

内田祥三プロフィル
麻布笄町に在住していた港区ゆかりの人物。
明治18(1885)年2月23日生まれ。東京大学大講堂(通称安田講堂:国の登録文化財)をはじめとした東京大学本郷キャンパス等を設計し、東京大学総長も務めた。






東京大学医科学研究所付属病院
東京大学のページから引用します。
白金の高台にある東京大学医科学研究所のキャンパスは目黒通りと外苑西通りに囲まれている。目黒通りに面する正門から入ってくると、緑に囲まれた公園と赤茶色のレンガつくりの近代医科学記念館がまず目に留まる。緩く曲がっている道を進むと、木々の間から時計台のある3階建てのゴシック様式風の本館が見えてくる。関東大震災のすぐあと、のちに総長となる内田祥三が耐震・耐火建築研究の実績にたって設計したものである。本館の奥には、8階建ての真新しい病院棟と研究棟が並び、その左右には基礎研究と臨床研究のための建物が密集している。ここまで来ると緑がすくなくなっている。約7万平方メートルのこの敷地に、1000人近くの教職員、研究員、ポストドクトラルフェロー、大学院学生らが、医科学研究と先端医療に励んでいる。

東京大学医科学研究所の大きな特徴は、附属病院を持つわが国最大規模の生命科学の研究所であることである。100余年前に北里柴三郎が創立した私立衛生会附属伝染病研究所を前身とし、当初から病院を有し、ベンチからベッドへの精神のもと、伝染病に苦しむ人々の治療に向けた研究と医療が進められた。40~50年前に社会の衛生状態が改善されると、研究所では伝染病のための研究だけでなく、がんや免疫疾患についての研究も行われるようになってきた。現在では、がん、感染症やその他の難治疾患を対象にした最先端の研究と医療が進められている。




日東坂
日糖坂ともいい、日東紡あるいは日本製糖の用地があったからと伝える。大正初年に開かれた坂と推定される。





恵比寿ビール本社

シモツケ
港区、渋谷区、品川区の三区界、目黒区、渋谷区、品川区の三区界を歩いて恵比寿ガーデンプレイスで下見を修了しました。今回港区を中心に下見をしましたが、目黒区と港区は微妙に接しておらず区界はありません。
旧東海道である聖坂を通るコースは久しぶりで、採用できればよいコースとなりそうです。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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すこやか歩こう会春の旅行 日光足尾かじか荘

2019-05-20 17:21:59 | ウォーキング
すこやか歩こう会では年に二回の一泊旅行を企画します。春というよりは初夏ですが、新緑を楽しむにはとても良い季節で、連休疲れかそれほど混んでいないのもこの時期に設定する理由の一つになっています。


アジサイ
2006年(平成18年)に今市市、(旧)日光市、足尾町、藤原町、栗山村が新設合併し、現在の日光市が発足しました。いわゆる日光のイメージは東照宮を中心とするエリアなので、今回訪れる場所は日光のイメージからは遠く、訪れる人もあまり多くない場所です。足尾は田中正三の告発による公害のイメージと銅山跡のはげ山のイメージがあって、よく知らないけど魅力的な観光地のイメージはないといったところでしょうか。すこやか歩こう会の活動とは関係なく「トロッコ列車に乗りたい」と会長がおっしゃるので、2016年11月に訪れたことがありました。その後かじか荘が改装し2017年10月1日リニューアルオープンしたので、そこに宿泊するプランを考え始めました。
予約開始日の2月1日に部屋を確保し、トロッコ列車も団体なので一般より先に予約を入れることができました。会員に募集をかけ人数を確定し、ひと月前に東武特急の予約をして手配完了です。トロッコ列車の乗車時間から逆算し6:50中目黒GT→日比谷線→7:52北千住駅より東武特急りょうもう3号→相老→9:38トロッコわっしー1号→10:41沢入(そうり)駅着のスケジュールを作成しました。
早朝中目黒駅へ向かう途中、アジサイの花が咲いていました。



相老駅
相老駅ではわ鉄とぐんまちゃんのお出迎え。ホームにあったわっしーは撮り損ねました。単線なのでこの駅でトロッコわっしー1号とわ鉄がすれ違います。間藤行(左)がWKT-510形、桐生行(右)がわ89-100形気動車となります。


水沼駅

トロッコの車窓、下り左側

トロッコの車窓、下り右側

地蔵滝
水沼駅は改札内に温泉があります。神戸までの下り線は渡良瀬川の左岸を遡ってゆくので、トロッコ列車も川側の景色が良いのですが、車窓を額縁代わりにしてみる山側の席もいいですよ。地蔵滝はトンネルとトンネルの間にあって案内はしてくれるものの止まってくれるわけではないので、列車からの撮影は難しい。


沢入駅から神戸駅方面

沢入駅の跨線橋

萩尾律が楡野鈴愛にプロポーズした場所

半分、青い。

夏虫駅
このコースをすこやか歩こう会で訪れようと思ったきっかけは朝ドラ半分、青い。の影響が大きかったと思います。ドラマを見て「あの駅と『わ』の記号がついた車両はどこのものだろう」と調べて、わたらせ渓谷鉄道の沢入駅だという情報に簡単にたどり着きました。ドラマの核になるシーンで何度も回想されたので覚えている方は多いと思います。
あのドラマ面白かったなぁ!鈴愛の祖父母が中村雅俊と風吹ジュン。雅俊さんの奥様である五十嵐淳子と風吹ジュンをよく混同していました。律のお母さんが原田知世。私世代にドストライクというキャストでした。ドラマの中とはいえ、原田知世が死んでしまって悲しかったなぁ。朝ドラの原田知世はいつも途中で死んでしまうイメージです。


新緑と渓谷鉄道の鉄橋

草木湖沿いのフジの花

トンネルの間にある鉄橋

鉄橋を走るわ鐵
沢入駅から歩き始めるとウグイスが無き新緑がきれいなコースでした。ヤナギの綿毛がいっぱい飛んでおり、ちょっと幻想的な景色でした。写真でお伝え出来ないのは残念です。


フジの花

フジの花

フジの花

フジの花

ヒメジョオン

セイヨウタンポポの綿毛

草木湖

フジの花びら
フジが花盛りで、ときどき息をのむようなフジを見ることができました。写真に鮮やかさを撮りきることが出来ず残念なのですが、枯草にフジの花びらがかぶさっているシーンなどとても印象的です。


ミズキとフジ

草木橋

昼食場所

昼食場所のミズキ

新緑

ラショウモンカズラ

関東ふれあいの道
草木湖はダム湖で湖西岸は国道(銅山街道)で車の通行が盛んですが、我々が歩いた東岸の道は車もほとんど通らず、ウォーキング向けの道でした。国民宿舎サンレイク草木でランチ休憩をとり、その先はだらだらの上り坂で数名ばてました。


オオデマリ

クリンソウ

草木ダム

草木湖の噴水

草木ダム
草木湖の噴水は水質浄化を目的として運用されているそうです。鬼怒川水系のダムほどなじみのない渡良瀬川水系のダムですが、Wikipediaから沿革を引用します。神戸ダム=草木ダムと理解してください。
沿革
肥沃な穀倉地帯
渡良瀬川流域は古くから穀倉地帯として、鎌倉時代以後は右岸を新田氏、左岸を足利氏が領有して後に雄飛。江戸時代には館林藩を始め多くの藩がこの地を領有して新田開発を盛んに行った。また、明治時代以降は桐生市を中心に絹織物業が発達する一方で源流部での足尾では古河市兵衛により足尾銅山が大拡張され、流域人口は年々増加していった。

洪水や鉱毒の被害拡大
だが渡良瀬川は古くから氾濫を繰り返して流域に多大な被害を与えた。さらに足尾銅山から流出する鉱毒は沿岸農地へ深刻なダメージを与え、洪水による伝播もあって農地への鉱毒被害は更に拡大(足尾鉱毒事件)。渡良瀬川以外の水源に乏しいこともあって水争いも広がった。明治政府はこれを解決すべく田中正造などの反対を意に介さず1905年(明治38年)に当時の谷中村を強制廃村させて渡良瀬遊水地を建設。これにより洪水調節と鉱毒防止を図ろうとした。だがそれ以降も洪水は流域を襲い、特に1947年(昭和22年)のカスリーン台風においては桐生市を中心に甚大な被害が発生した。こうしたことから利根川水系の根本的治水計画が再検討されることとなった。

多目的ダムの建設
経済安定本部は諮問機関である治水調査会の議を経て1949年(昭和24年)、「利根川改訂改修計画」を策定し多目的ダムによる洪水調節を利根川水系でも図ることとした。これに基づき利根川水系に九箇所のダムが計画され、藤原ダム(利根川)・相俣ダム(赤谷川)・薗原ダム(片品川)などが完成した。さらに1951年(昭和26年)には国土総合開発法の制定に伴い利根川流域は首都圏の発展に資するという目的で「利根特定地域総合開発計画」地域に指定され、かんがいや上水道、工業用水道確保を図るための更なる河川整備が計画された。この際に矢木沢ダム(利根川)・下久保ダム(神流川)などと共に計画されたのが神戸ダムで、1958年(昭和33年)より建設省関東地方建設局(現・国土交通省関東地方整備局)の手で予備調査に入った。

この間人口が爆発的に増大した首都圏の逼迫した水需要解消が急務となり、1962年(昭和37年)に「水資源開発促進法」が制定され水資源開発公団(現・水資源機構)が発足。首都圏への効率的かつ確実な水供給を図るために「利根川水系水資源開発基本計画(後に荒川水系が加わる)」(通称フルプラン)が策定された。建設省は計画されていた矢木沢ダム(利根川)と下久保ダム(神流川)を公団に移管したが、その後1965年(昭和40年)6月29日にフルプランを一部変更し水供給の増強を図った。

この中で神戸ダムは支流思川の左支川・南摩川の南摩ダムなどと共に第二次フルプランの中心事業として位置付けられ、事業は公団へと移管された。そして翌1966年(昭和41年)9月に事業の実施方針が示されて具体的なダム建設のために地質・地形などを調べる実施計画調査に入った。



アヤメ

神戸駅舎

レストラン清流

神戸駅跨線橋

神戸駅桐生方面

わ鐵

トロッコわっしー6号
ウォーキングゴールの神戸駅へ戻ってきましたが、いろいろあってストレッチを忘れました。


通洞駅へ向かう線路


第二渡良瀬川橋梁

かじか荘の送迎バス
二度目の宿泊となったかじか荘は改装後、国民宿舎としてはちょっと高いかなという宿泊費設定ですが、食事もおいしく気持ちよかったです。温泉が良かったのか、ぐっすり寝られて疲れが取れました。


かじか荘の朝

ドウダンツツジ

シラカバ

足尾の山々

登山口

標高830m
青空も見える気持ちの良い朝を迎えました。標高の高いこのあたりではヤエザクラが終わる季節でした。


足尾銅山観光

坑道内の休憩所

あかがね資料館

ドコービル式軽便鉄道

精錬した銅

アメジスト

孔雀石

自社工場製の5t電気機関車A形A-1号

観光用トロッコ
午前中は足尾銅山観光です。初めにも書きましたが足尾銅山は公害の負のイメージが強く、積極的に観光をしたい場所ではないかもしれません。しかしこの観光施設を見学したり、かじか荘の方の説明を聞いているとその誤ったイメージを改めなければならないことに気づかされました。最盛期には日本の銅の40%を生産していたこと、最先端の技術が導入されそれらが創意工夫により多くの産業を生み出していること、公害対策の原点である点など、一度この場を訪れることをお勧めします。
以前訪れた時の様子を英語でブログにまとめていました。よろしければこちらもどうぞ。

この観光用トロッコ、初めは機関車にけん引されているのですが途中で機関車を切り離し無人で自走します。動力がついていないものと思っていましたが、回送時には坂を登ってくるので客車にバッテリー式の動力がついているようです。機関車の役割は急こう配をラック式鉄道という仕組みで上ったり下りたりしているようです。


一両分の銭

寛永通宝と足尾銭

アツモリソウ?

通洞駅

鉄道唱歌
通洞とはメイン坑道を意味するそうで地名となっているのは珍しいとのこと。
31
町をめぐれる渡良瀬の
水上深く尋ぬれば
いにしえ勝道上人が
白き猿に案内させ

32
分け入り初めし所とて
その名に因む庚申山
百聞幕の巌石を
ながめてゆけば茸石

33
さきにそばたつ櫓石  
見るもいぶせき女体石
おののきおののき一の門
くぐれば数丈の梵字石

34
谷間にそいて屹立し  
風に傾ぶく風情なり
さらに進めば富士見石
拳に似たるさざえ石

35
ろうそく石は道の果て  
ここに踵をめぐらせば
胎内くぐり二つあり
小なるほうは匍匐いつ

36 
大なるほうは立ちしまま  
くぐりくぐれば奥の院
数えつくせぬ怪石の
奇景は真に別世界

37
山に続きて二里南  
銅鉱出す足尾あり
富田すぐれば佐野の駅
葛生 越名にいたるみち



通洞駅に到着したトロッコわっしー1号



第一渡良瀬川橋梁

神戸駅に到着したトロッコわたらせ渓谷3号
草木ダムの建設に伴いわたらせ渓谷鉄道の付け替えが行われ、全長5,242 mの草木トンネルが作られました。桐生方面へ向かうこの日は沢入駅を出て沢入トンネルを抜け、第一渡良瀬川橋梁を渡るとすぐに草木トンネルに入ります。
わたらせ渓谷鉄道のトロッコ列車には通年営業のわっしー号と季節営業のわたらせ渓谷号があります。2016年11月はわたらせ渓谷号に乗るために大間々駅で乗り換えました。わっしー号はターミナル駅の桐生駅からの出発なのになんでだろうと思っていました。
わたらせ渓谷号はディーゼル機関車DE10形にけん引されるため、終点で機関車を先頭車に入れ替える必要があります。桐生駅ではそれができないため、大間々駅始発となります。トロッコわっしー号は自走式トロッコ気動車で入れ替えの必要がなく、桐生駅から乗車することができるのです。


金善ビル

ほりえの焼きそば
桐生のB級グルメ、ポテト入り焼きそばです。
麺は自家製、ブレンドしたソースを使ったこだわりぬいた焼きそばです。テイクアウトもできます。
麺は毎朝時間をかけ仕込み鮮度バツグンです。トッピングの肉入り焼きそばは、脂身がとてもサッパリして甘みのある群馬県産のもち豚を秘伝のタレで味付けし焼きあげています。



ライオン薬局

矢野本店店舗

有鄰館

藤屋本店

天然染色研究所

青木歯科医院
私がお世話になっている歯科医院と同じ名前だったので撮ってみました。


一の湯
「桐生新町重要伝統的建造物群保存地区」でちょっと時代に取り残された感がいいですね。桐生についても以前訪れた時のブログがありました。


桐生天満宮

天満宮の牛

芭蕉の句碑
「牛石やひかれ手綱に糸さくら」

観光と食事で二時間あったのですが、天満宮まで歩くうちにずいぶん時間がかかってしまい食事が難しくなりました。藤屋本店は40分待ちで食べられなかったそうです。天満宮わきのアリスという居酒屋風の店でひもかわうどんを食べたものの時間がなくなりタクシーで桐生駅へ向かう羽目になりました。ほりえの焼きそばも魅力的だったなぁ。次の機会があったら焼きそばをお持ち帰りにして、駅のベンチでビールを飲みながら焼きそばというのもよさそうです。ひもかわうどんはこしがあっておいしかったです。



B.B.BASE
新宿湘南ラインを待っているときに、目の前に泊まっていた上野東京ラインが発車しその先のホームに見慣れない列車が止まっているのが見えました。まずこのB.B.BASEについて、サンスポのページから引用します。
 B.B.BASEは「BOSO BICYCLE BASE」の略で、自転車を解体することなく、車内の専用ラックに愛車をセットし、そのまま一緒に乗車できる自転車&サイクリスト専用列車だ。普段は千葉県房総エリアで運行されているが、今回は今年4月から開催されている「群馬プレデスティネーションキャンペーン」に合わせて、群馬エリアに初お目見えとなる。

この日の企画もサンスポから。
 群馬を代表する人気のサイクルイベント“ハルヒル”こと「第7回榛名山ヒルクライムin高崎」の開催に合わせて、大会前日の5月18日(土)に都内から移動、翌19日(日)の大会終了後に帰京するという、B.B.BASEによる大会アクセス列車が旅行商品として発売。宿泊あり・なしの2種類のプランが用意され、宿泊ありの場合は高崎駅直結の「ホテルメトロポリタン高崎」(禁煙シングルルーム限定)に宿泊できる。両プランとも高崎駅構内指定のお土産処とレストランで使用可能な1000円分のクーポンが付属する。
とのことでした。

「会員の高齢化」を意識させられた旅行となりましたが、いつも通り楽しい時間を共に過ごして、皆無事に渋谷駅へ戻り、ONCEで会長への報告と反省会をしました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
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鎌倉山越え極楽寺コース 約5.1Km

2019-05-17 11:40:07 | ウォーキング
5月の定番鎌倉山です。近年の観光公害(私の仕事もその一翼を担っているのですが)により、日本人にとって鎌倉はそれほど魅力的な観光地ではなくなってきました。京都ほどではないにしろ、ちょっと人が多すぎます。しかしそんな鎌倉も一歩奥に入ると魅力的な自然が残っています。今回のコースは地元の人に教えていただいた、鎌倉の自然を楽しむコースです。
一昨年は夫婦池公園で雨宿りを強いられるほどの雨。昨年は昼食を割愛して急いで行って、御霊神社で雨に降られました。今回雲が多かったものの、雨に降られず快適でしたね。
今回のブログを書くにあたり昨年のブログを確認すると大作でした。内容がかぶらないようにしようと思っても無理です。内容は昨年のブログを参照していただき、今年は写真を中心にご紹介します。


目黒建設PC製作所
湘南モノレール湘南深沢駅から歩き始めるのですが、近くにストレッチをする場所がありません。少し歩いた場所にあったこちらの建設会社の門前をお借りしてストレッチをします。目黒つながりでいいだろうと勝手な言い訳です。ちなみにPCはパーソナルコンピューターではなく、建築資材の「プレストレスト・コンクリート Prestressed Concrete」の略です。
湘南深沢駅あたりの大字「梶原」についてWikipediaから引用します。
平安時代中期に編纂された倭名類聚抄に鎌倉郡内の七郷の一(梶原郷)として記録がなされており、律令制下の国郡郷制の郷だったと考えられる。現在の梶原よりも広く、深沢地域をほぼ指していたと比定される。
尊卑分脈によると鎌倉景通がここに住み梶原氏を称し、その息子景久が住んだとされ、梶原氏出自の地とされる。景通の玄孫である景時の墓と伝えられるやぐらが深沢中学校の校庭に存在する。一方、新編鎌倉志では鎌倉景正が居住した旧地に同族の梶原氏が居住したと記録されている。
戦国時代には後北条氏の支配下になり、松山衆太田豊後守の知行地となる。小田原衆所領役帳では116貫22文と記される。永禄年間に須崎郷に、新編相模国風土記稿では小松郷に属するとされる。
寛永10年(1633年)より天領となる。
昭和23年(1948年)から鎌倉市の大字となる。昭和58年(1983年)2月7日の住居表示に伴い梶原一丁目-五丁目となった。



笛田川沿いの水田
昨年この水田は代掻き後でした。


ジャーマンアイリスとアヤメ

ハルジオン

カンパニュラ・ポシャルスキアナ
昨年も同じアングルで同じ花を撮っています。


夫婦池

夫婦池公園のシダ



夫婦池公園
ウグイスの声が多く聞かれる気持ちの良い公園です。昨年はビデオに撮ってウグイスの声を紹介していました。

鎌倉山記

鎌倉山からの景色
鎌倉山の歴史をWikipediaから引用します。
鎌倉山という名前がみえる最も古い史料は万葉集に収録された歌とされている。その後も平安時代・鎌倉時代にかけて「鎌倉山」という名称が様々な史料に登場するが、これらの鎌倉山はあくまでも「鎌倉の山」という意味で使われており特定の山を指す物ではない。
この地を限定して「鎌倉山」と呼ぶようになるのは昭和初期、実業家の菅原通濟が深沢村(現:鎌倉市深沢地域)裏の丘陵を「鎌倉山」となづけ別荘地として開拓して以降の事である。1926年(大正15年)に「大船-江の島自動車専用道路」建設が政府から許可されると、菅原らを役員に日本自動車道株式会社が設立され、副業として沿線地の開発が始められた。菅原がドイツ人の貿易商クルト・マイスナーからこの丘陵からの景観がいいことを教えられ、別荘地開発に着手、1929年(昭和4年)に分譲が開始された。当時の大字としては笛田および腰越・津に跨る地域である。
電線の地中化など高価格となるような施設工事は行われること無く、坪単価は安かったが、分譲にあたっては「大船~鎌倉山~江ノ島間を結ぶ自動車専用有料道路による東京への好アクセス」、「上水道・電気・電話完備」など便利さを強調し、さらに最低分譲区画を500坪とし、「高級別荘地」である事をアピールした。
こうした高級感を強調した売り込みが功を奏し、近衛文麿、藤原義江など政財界・芸能界の著名人の一部が別荘を買い求めた。しかし、彼らは別荘地を所有する「鎌倉山住宅株式会社」の株主であり、それ以外の一般の分譲販売はまったく振るわず、ほどなくして同社は倒産、負債整理のため箱根土地株式会社から西武へと転売された。戦後、別荘の多くが進駐軍に接収されてさびれたが、高度成長期以降に住宅地として再開発された。
1985年には笛田、腰越・津から分離し、鎌倉山一~四丁目として住居表示を実施した。






鎌倉山神社

江の島方面の眺望
人間には食べられそうもない筍だけど、子パンダだったら食べるかな?


扇湖山荘
鎌倉神社隣りの扇湖山荘を「田中御殿」と紹介しましたが誤りです。「長尾資料館 わかもと物語 欽弥とよねの”夢の宴”」から一部引用します。面白いの本編もリンクしておきます。
扇湖山荘は長尾欽弥、よね夫妻が鎌倉山に造った別荘で、1931年(昭和6年)より建設に着手し、1934年(昭和9年)に完成しました。 この別荘は鎌倉山の頂上部に位置し、敷地は周囲の山々を含め大凡13万坪で、麓の南と北側の谷戸にはそれぞれ池と茶室を配した庭園があり、 両方の庭はトンネルで結ばれていました。頂上の母屋からは杉木立の間に鎌倉の海が扇形に見えた事から、 長尾欽弥は此処を扇湖山荘と名付けました。
扇湖山荘の造築、造園を担当したのは世田谷の本宅宜雨荘と同一で、建物の設計は数寄屋造りの名手大江新太郎、 作庭は七代目小川治兵衛とその甥岩城亘太郎でした。母屋は、木造2階、地下1階(鉄筋コンクリート造)構造で、 上部構造物は飛騨高山より移築した養蚕農家を再設計したものでした。1階は居間や洋間、座敷で構成され、 南側はテラスとなっており、2階は接待用のサロンと夫婦の寝室兼居間で、地階は収蔵庫でした。 戦後、長尾家は税金対策として財団法人長尾美術館を設立しますが、所蔵美術品の展示場所は改装した地階の収蔵庫でした。
1949年(昭和24年)に長尾欽弥がわかもと製薬から追放され、長尾家は収入の道を閉ざされました。 しかし、夫妻の派手な生活は変わることはなく、以降は所有財産の売却による筍生活となりました。このため、 1960年(昭和35年)頃、扇湖山荘は母屋と主庭園を除く周囲の山や麓の庭園が売却され、その敷地は1万5千坪程度に減少しました。
晩年長尾夫妻は扇湖山荘に籠もりますが、1967年(昭和42年)2月8日に長尾よねが死去すると、 間もなくして山荘は大林組の所有となり、その後料亭「鎌倉園」として営業をしますが数年で閉店しました。 1981年(昭和56年)4月、扇湖山荘は三和銀行が取得し、三菱銀行に引き継がれ研修所として使用されましたが、 幸いなことに、2010年(平成22年)10月に鎌倉市へ寄贈され、終の主を得ることになりました。



極楽寺から鎌倉山への山道

筍とはいえないもはや竹

月影地蔵裏の階段
この道を歩いた田中絹代と歴史学者の服部之総の逸話は昨年引用しているので、そちらを参照してください。



月影地蔵

カキドオシ

極楽寺駅付近の跨線橋

極楽寺坂切通し

星月井
鎌倉の守りのかなめ、切通しです。



御霊神社

江ノ電
原則お寺は音読み、神社は訓読みです。浅草にあるお寺は浅草寺(せんそうじ)で、神社は浅草神社(あさくさじんじゃ)。例外として清水寺(きよみずでら)などが紹介されますが、音読みの神社はあまり思い当たりません。この神社は御霊神社(ごりょうじんじゃ)です。考えてみると明治神宮、伊勢神宮も音読みですね。
境内を電車が走る様子も、鎌倉ではおなじみですね。


長谷寺
令和の長谷寺を撮ってみました。長谷(はせ)になると国語が苦手だった私には音読みなんだか訓読みなんだかわかりません。

この日長谷の観音様にはお参りせず、湘南新宿ラインで恵比寿に出てライオンで一杯。タクシーでONCEに行って、お相撲初日を見ながら数杯。翌日仕事でセーブしていたのに、やっぱり飲みすぎました。


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古代の青龍、野川下りコース岩戸川編 約6.8km

2019-05-06 10:37:19 | ウォーキング
つい先日下見の様子を書いたばかりなので内容がかぶらないようにしたいのですが、やっぱりかぶるかな。
区外に遠征する際でも中目黒GTに集合することが多いです。ただし小田急線沿線を歩くときは中目黒集合にするか、渋谷集合にするか少し迷います。秦野など遠くへ行く際は座ってゆきたいので、中目黒GTに集合し新宿から始発の急行に乗ります。今回は狛江なので、中目黒→東横線・副都心線→明治神宮前→千代田線→代々木上原→小田急線→狛江のルートか、渋谷→井の頭線→下北沢→小田急線→狛江というルートを考えます。PASMOを利用した中目黒からの運賃は前者が453円、後者が413円で所要時間はほぼ変わらず。今回は後者のルートにしました。


揚辻稲荷神社
この神社Google Mapにも載っていなくて調べるのに少し苦労しました。個人所有の神社ということが載っていないことの要因のようです。古墳なうというページから引用します。
 地元では「谷田部稲荷」とも呼ばれているこの神社はなんと個人所有の神社で、現在でも毎年初午の日に一家の当主が集まり、宮司を呼んで祭事を行っているのだそうです。
 社殿の裏側には石垣に囲まれた湧水池が残されています。ここを水源とする小川が、揚辻塚の横を西から東に向かって流れていたと思われます。
 現在この池の水は涸れ果ててしまっていますが、1960年代までは水が溢れていて子どもたちが水浴びをして遊んでいたそうです。池に降りる階段も残されていますが、現代でいうプールのような役割だったのでしょうか。なぜか懐かしいような気持ちになる風景です。



清水川公園

清水川、野川(岩戸川)合流点
野川、清水川、岩戸川(いわどがわ)の使い分けは難しようです。狛江弁財天緑地からの流れが清水川で、野川に合流していたが六郷用水の開削によりその部分は野川と呼ばれなくなり清水川とも岩戸川とも呼ばれていました。この流れは下流に行くとさらに違う名前、宇奈根川、町田川などと呼ばれました。



ハルジオン

シャリンバイ

バラ

ジャーマンアイリス

岩戸川せせらぎ

ドウダンツツジ

ミズキ

サクランボ
一週間前には撮らなかった花を中心に撮ってみました。


喜多見緑地

喜多見公園
狛江市から世田谷区に映ると岩戸川の記述は見られません。喜多見緑地の看板には清水川の下流部で農業用水として縦横に蛇行していたと書かれています。





砧浄水場

鯉のぼり

シロダモの若葉

宇奈根西部地域の歴史

ポピー

宇奈根渡し場道公園

クサフジ

カントウタンポポ
元の野川が多摩川に合流していた宇奈根です。もともと沼地だったということでフラットな宅地が続きます。渡し場公園ではなく「道」がつくところが面白いですね。宇奈根の渡しを含めて道なのでしょう。多摩川は江戸の最後の防衛線ですね。シンゴジラでは戦車を並べてゴジラに対抗したけれど全く歯が立たずに多摩川を越されてしまいました。専門家は関東にあんなに戦車はないと言っていましたが。
確認するとセイヨウタンポポが多いのですが、多摩川で見たのはセイヨウタンポポではありません。カントウタンポポとカンサイタンポポの見分けはつかないので、カントウタンポポとしておきます。

兵庫島公園付近でストレッチをして、渋谷の山家、中目黒タップルームとはしごしました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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