目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

湯島・御茶ノ水・大手町コース(逆) 約4.7km

2022-12-12 13:49:41 | 東京都千代田、文京区
初出のコースです。御徒町をスタートして湯島天神から南下するコースとして下見したのですが、「逆にすれば吉池で忘年会が出来る」と思いつき逆コースで実施しました。



丸の内仲通り



行幸通り

パレスホテル東京
集合を行幸通りとしたので「行幸通りのどこなのか?」と会員さんは不安に思ったそうです。私は日比谷駅から丸の内仲通りを歩いて行幸通りへ向かいました。樹脂製スケートリンクが設置されていてちょうど人通りが遮られるスペースがあったのでそちらを借りてストレッチをしてスタートです。26名と今季最多の参加者数。


箱根駅伝 絆の像


将門塚
日比谷通りを北へ向かい、東に寄り道して絆の像、西に寄り道して将門塚を見たとさらに北上を続けます。


神田橋

豊展観守像と十月桜
象は形状として鉄人28号にも見えるのですが、「こがね虫の擬人化像」だそうです。日比谷通りはここから先、本郷通りと呼ばれるようになります。


小川町交差点
「おがわちょう」かと思っていたら「おがわまち」でした。高校入試の試験会場だった大学に行くのに通ったことがあります。その大学は移転して今は神田スクエアになっています。


三井住友海上前

紅梅坂


ニコライ堂

駿河台の楽器街
本郷通りを紅梅坂で左折してニコライ堂、お茶の水石碑を見学。


聖橋から湯島聖堂

丸の内線

中央線快速と各駅停車

東京医科歯科大学



湯島聖堂
再び本郷通りに戻り、聖橋を渡ります。湯島聖堂について知らなかったことが多いのでWikipediaから長めに引用します。
湯島聖堂(ゆしませいどう)は、東京都文京区湯島一丁目にある史跡。江戸時代の元禄3年(1690年)、江戸幕府5代将軍徳川綱吉によって建てられた孔子廟であり、後に幕府直轄の学問所となった。JR中央線の御茶ノ水駅聖橋口からでて、聖橋を渡り右手の森の中にあり、「日本の学校教育発祥の地」の掲示がある。
湯島天満宮(湯島天神)とともに、年間(特に受験シーズン)を通して合格祈願のために、参拝に来る受験生が訪れる。特に、合格祈願の鉛筆を買っていく受験生の姿が多く見受けられる。国の史跡に指定されている。

歴史
1690年(元禄3年)、林羅山が上野忍が岡(現在の上野恩賜公園)の私邸内に建てた忍岡聖堂「先聖殿」に代わる孔子廟を造営し、将軍綱吉がこれを「大成殿」と改称して自ら額の字を執筆した。またそれに付属する建物を含めて「聖堂」と呼ぶように改めた。翌1691年(元禄4年)2月7日に神位の奉遷が行われて完成した。林家の学問所も当地に移転している。
大成院の建物は、当初朱塗りにして青緑に彩色されていたと言われているが、その後度々の火災によって焼失した上、幕府の実学重視への転換の影響を受けて再建も思うように出来ないままに荒廃していった。その後寛政異学の禁により聖堂の役目も見直され、1797年(寛政9年)林家の私塾が、林家の手を離れて幕府直轄の昌平坂学問所となる。これは「昌平黌(しょうへいこう)」とも呼ばれる。「昌平」とは、孔子が生まれた村の名前で、そこからとって「孔子の諸説、儒学を教える学校」の名前とし、それがこの地の地名にもなった。これ以降、聖堂とは、湯島聖堂の中でも大成殿のみを指すようになる。また、2年後の1799年(寛政11年)には長年荒廃していた湯島聖堂の大改築が完成し、敷地面積は1万2千坪から1万6千坪余りとなり、大成殿の建物も水戸の孔子廟にならい創建時の2.5倍規模の黒塗りの建物に改められた。この大成殿は明治以降も残っていた。
ここには多くの人材が集まったが、維新政府に引き継がれた後、1871年(明治4年)に後進の昌平学校は閉鎖された。教育・研究機関としての昌平坂学問所は、幕府天文方の流れを汲む開成所、種痘所の流れを汲む医学所と併せて、後の東京大学へ連なる系譜上に載せることができる。この間、学制公布以前に維新政府は小学→中学→大学の規則を公示し、そのモデルとして1870年(明治3年)、太政官布告により東京府中学がこの地を仮校舎として設置された。昌平学校閉鎖後、文部省や国立博物館(現在の東京国立博物館及び国立科学博物館の前身)等と共に、東京師範学校(現在の筑波大学)や東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)が構内界隈に設置された。また、敷地としての学問所の跡地は、そのほとんどが現在東京医科歯科大学湯島キャンパスとなっている。
1872年(明治5年)3月10日から、大成殿で東京初の博覧会「湯島聖堂博覧会」(文部省博物局主催)が開催された。これが後の東京国立博物館の始まりである。
1922年には敷地が国の史跡に指定されたが、翌1923年(大正12年)の関東大震災で入徳門と水屋以外の建物が焼失し、現在の大成殿は伊東忠太設計、大林組施工により、1935年(昭和10年)に鉄筋コンクリート造で再建されたものである。これは、寛政年間の旧制をもとに再建したものである。
現在、湯島聖堂構内に飾られている世界最大の孔子像は、1975年(昭和50年)に中華民国台北ライオンズクラブから寄贈されたものである。孔子像の他、孔子の高弟たち、四賢像(顔子-顔回、曾子、思子-子思、孟子)が安置されている。大成殿は現在、土曜日曜、祝日のみ開放されており、見学可能である。











神田明神
平次親分は明神下にお住まいです。


湯島天神

王貞治さん「努力」の碑

湯島天神女坂

湯島天神の紅葉
神田明神からさらに北を目指すのですが、新妻恋坂を下ってしまったので、湯島天神には学問のみちからアプローチすることになりました。


黒門小学校の紅葉
湯島三丁目児童遊園をお借りしてストレッチ後、学問のみちを東へ向かって黒門小学校。黒門町には伝七親分がお住まいです。

この日は三年ぶりに忘年会を吉池食堂で行い25名参加で大いに盛り上がりました。仲御徒町から中目黒に帰り伊勢五本店で一杯やってゆこうと思ったら19時で終わり。オンセの前を通ると店長はいるけどお客さんはいなかったので聞いてみると、連日ワールドカップで朝までにぎわっているもののこの日は試合なし。ワールドカップで感じていた数々の疑問を店長に答えてもらって、有意義のスポーツ談議が出来ました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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小石川植物園コース 約3.7km

2022-12-04 16:02:41 | 東京都千代田、文京区
植物園内を歩くと5キロを超えるコースですが、集合場所の九段下駅から植物園までは約一時間で到着します。


九段会館

北の丸スクエア パブリックスペース
九段会館は震災で都内唯一の死者を出すほど被災しましたが、正面のイメージを残したまま立て替えられました。我々は北の丸スクエアのパブリックスペースでストレッチをしてスタートしました。


グランドパレスホテル跡
跡地のをのように活用するのか、三菱地所を中心とした企業グループにより検討中とのことです。一等地ですからね。グランドパレスと言えばドラフト会議と金大中事件。Wikipediaのグランドパレスの項目には金大中事件はふれられていないので「金大中事件」で調べてみました。1973年に起きた事件だったのですね。事件の詳細を知らなかったので一部Wikipediaから抜粋します。
事件の経緯
1973年(昭和48年)7月、世界でも「民主主義の活動家」として高い名声を得るようになっていた金大中は、日本の自民党左派の宇都宮徳馬らに招待され、講演するため東京を訪問した。当時のことを金は「私が東京に着いたとき、友人達が在日韓国朝鮮人のヤクザたちが私を狙っていると忠告してくれました。在日韓国朝鮮人のヤクザたちは大韓民国居留民団(民団)やKCIAと強い結びつきがあるのです」と後のインタビューで語っている。すぐに亡命者生活に入り、2・3日ごとにホテルを変え、日本人の偽名を使った。
1973年(昭和48年)8月8日午前11時頃、金は東京のホテルグランドパレス2212号室に、病気療養のため宿泊していた梁一東民主統一党(当時)党首に招かれ会談した。前年開業した同ホテル(東京都千代田区飯田橋1-1-1)は、九段下交差点を飯田橋方面に入ってすぐにあり、裏路地からは朝鮮総連本部に至近の場所に位置している。
午後1時19分ごろ、会談を終えた金は2212号室を出たところを6、7人に襲われ、空部屋だった2210号室に押し込まれ、クロロホルムを嗅がされて意識が朦朧となった後、4人により、エレベーターで地下に降ろされ自動車に乗せられた。パレスホテルから自動車で関西方面(神戸市)のアジトに連れて行き、その後、工作船(コードネームは龍金〈ヨングム〉号)で、神戸港から日本を出国したと見られる。朦朧とした意識の中「『こちらが大津、あちらが京都』という案内を聞いた」と金大中は証言している。
金大中は「船に乗るとき、足に重りをつけられた」、「海になげこまれそうになった」と後日語っている。しかし事件を察知した(当時の厚生省高官の通報によるとされる。またアメリカ合衆国連邦政府も、このことを察知していたとされる)海上保安庁のヘリコプターが拉致船を追跡し、照明弾を投下するなどして威嚇したため、日本国政府に拉致の事実が発覚したことを悟った拉致実行犯は、金大中の殺害を断念し釜山まで連行し、ソウル特別市で解放したとされている。金大中自身、日本のマスコミとのインタビューで、甲板に連れ出され、海に投下されることを覚悟したときに、追跡していた日本のヘリコプターが照明弾を投下したと証言している。
拉致から5日後、金大中はソウルの自宅近くのガソリンスタンドで解放され、自力で自宅に戻った。直後に自宅で記者会見を行った際、日本人記者団に対して解放された直後の心境を、「暗闇の中でも尚 明日の日の出を信じ 地獄の中でも尚 神の存在を疑わない」と日本語でメモに記した。



北辰社牧場跡記念碑

飯田橋むかしむかし
北辰社を含む明治時代の牛乳事情について東京牛乳のサイトから長めに引用してみます。
初めは荒廃した武家屋敷跡の開墾、武士の失業対策から
江戸幕府が崩壊して明治になると、江戸幕府を支えてきた幕臣は静岡に移封され、諸大名の江戸屋敷も廃止されたため、新首都東京の中心部では、多くの屋敷跡が廃墟となって残っていた。そうした屋敷は、武士の失業対策もかねて払い下げられ、農業のほかに酪農の牧場として利用され、明治6年には、すでに都心部に7軒の牧場があったという。
てっきり、北海道大学の前身である札幌農学校をルーツとするのかと思っていたが、同校の開校は明治9年だから、東京の酪農はそれに先駆けていたことになる。 また、戊辰戦争で有名な榎本武楊は、明治時代の飯田橋に「北辰社」という牧場を持っていたほか、東京農大の前身である「育英学農業科」の初代学長にもなっているそうだ。これは彼が、江戸末期に酪農の本場オランダに3年間留学していたことと関係しているに違いない。
ではなぜ東京の中心部で酪農が発達していたのだろう?
上に述べたような政府の方針のほかに、牛乳の消費者の中心が外国人や新しもの好きの江戸っ子だったこと、当時は輸送手段が整備されていなかったこと、保存手段が無く毎日配達する必要があったこと、乳牛の飼料である粕の入手が容易だったことなどに関係している。こうした状況は、明治から大正、昭和の初めまで続き、明治32年には、3,000頭が飼育されていたという。その後、酪農の中心は区部から多摩地域へと変わり、戦後、近郊酪農の進行とともに酪農を取り入れた農業が盛んに行われるようになっていく。『東京牛乳』の生産者の方々も、全て多摩地域である。
現在では政治やビジネスの中心地である都心部で、のんびりと乳牛が草を食んでいたと思うと笑えるが、理由を考えると納得だ。
都内で牧場が多かった地区に、文京区も挙げられる。明治の元勲・山県有朋が出資して、明治10年代に雑司が谷村に牧場を開設、清戸坂の道沿いに平田貞次郎に開かせた平田牧場には、売店もあって、「KANSEI USHINOTITI(官製 牛の乳)」というローマ字の旗を掲げて小売も行っていたそうだ。当時の人は、旗ざおの文字を読めたのだろうか、売れ行きはどうだったのだろう?
明治中期の文京区には、20軒近い牧場があったという。現在でも文京区は緑やアップダウンの多い地域なので、牧場を開くのには、最適だったに違いない。
想像の中の明治の姿と変わってしまった現在の姿とを対比させながら東京の酪農に思いを馳せ、都内を散歩してみてはいかがだろうか。

榎本武楊(1836-1908)
江戸御徒町生まれの幕臣。幕府留学生としてオランダへ3年留学。戊辰戦争では、江戸陥落後に徳川残存艦隊を率い蝦夷箱舘へ脱出、蝦夷地を占領し『蝦夷共和国』を樹立して総裁になるが、明治2年、函館戦争で降伏。 その後、北海道開拓使に任官するなど、新政府でも活躍。


現在の目黒区役所は千代田生命本社の建物をそのまま利用していますがそれ以前その場所にはアメリカンスクールがありました。その前は牧場だったと聞いてちょっと意外に思っていましたが、明治時代の東京の事情や牛乳の事情が分かればあの場所が牧場だったことは納得できますね。


徽章業発祥の地

山田吉邦弓具店
弓具店は残っていましたがソーセージのハライコはなくなってしまったようです。


駅前の外堀通り交差点

外堀通り

目白通りと神田川

外堀通り

日中友好会館

小石川後楽園庭園

中央大学
牛天神下交差点に中央大学の建物が出来ていました。もとはJTの社宅だったのかな。


都道434号
この先東京ドーム付近では、自転車専用スペースを避けて車が駐車していました。


特別養護老人ホームを守る鍾馗(しょうき)様
知らなかった風習なのでWikipediaから引用しておきます。
京都市内の民家(京町家)など近畿 - 中部地方では、現在でも大屋根や小屋根の軒先に10 - 20cm大の瓦製の鍾馗の人形が置いてあるのを見かけることができる。これは、昔京都三条の薬屋が立派な鬼瓦を葺いたところ向かいの家の住人が突如原因不明の病に倒れ、これを薬屋の鬼瓦に跳ね返った悪いものが向かいの家に入ったのが原因と考え、鬼より強い鍾馗を作らせて魔除けに据えたところ住人の病が完治したのが謂れとされる。


萩の舎跡
塾主中島歌子(1844~1903)は、幼名を「とせ」といい、武蔵国入間郡森戸村(一説に江戸日本橋)で生まれた。夫である水戸藩士の林忠左衛門が天狗党に加わって獄死したため、えどにあった実家の旅人宿池田屋にもどった。その後歌子は、桂園派の和歌を加藤千浪(ちなみ)に学び、実家の隣に歌塾萩の舎を開いた。
御歌所寄人(よりうど)伊藤佑命(すけのぶ)、小出粲(つばら)の援助で、おもに上・中流層の婦人を教え、門弟1000余人といわれた。歌集に「萩のしづく」などがある。1903(明治36)年歌子の死去と共に萩の舎は廃絶した。
樋口一葉(1872~1896)は、父の知人の紹介で14歳の時、萩の舎に入門した。1892(明治23)年18歳の時、内弟子となり萩の舎に寄宿したこともあった。佐佐木信綱は、姉弟子の田辺龍子(三宅花圃)、伊東夏子と一葉の3人を萩の舎の三才媛と称した。一葉はここで、歌作と歌を作るため必要な古典の読解に励んだ。田辺龍子の「薮の鶯」の刊行に刺激されて近世・近代の小説を読み、半井桃水に師事して、処女作「闇桜」(明治25年)を発表し、小説家の道に進んだ。
近くの牛天神北野神社(春日1-5-2)境内に中島歌子の歌碑がある。
文京区教育委員会 平成23年3月



安藤坂
 この坂は伝通院前から神田川に下る坂である。江戸時代から幅の広い坂道であった。傾斜は急であったが、1909年(明治42年)に路面電車(市電)を通すにあたりゆるやかにされた。
 坂の西側に安藤飛騨守の上屋敷があったことに因んで、戦前は「安藤殿坂」、戦後になって「安藤坂」とよばれるようになった。
 古くは坂下のあたりは入江で、漁をする人が坂上に網を干したことから、また江戸時代に御鷹掛の組屋敷があって鳥網を干したことから「網干坂」ともよばれた。
文京区教育委員会 平成8年3月



学芸大学と都立竹早高校
伝通院前を左折し春日通りを西へ向かいます。


播磨坂桜並木



共同印刷本社
播磨坂を下ると間もなくゴールです。


コダチダリア

イロハモミジ

精子発見のイチョウ

リンゴ?

関東大震災記念碑

ナンテン

センリョウ

シマサルスベリ

カリン



センリョウ

松ぼっくり


水鏡

イチョウ


メタセコイアの気根

メタセコイア

タイミンチク

メタセコイアと飛行機雲
小石川植物園に入場し、ストレッチをして解散。秋の景色を満喫して帰途につきました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
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小石川植物園コース 約3.7km

2021-11-30 10:59:39 | 東京都千代田、文京区
都内で紅葉の季節はここということで二年ぶりのコース設定となりました。集団での公共交通機関利用を避けて、出発地点での集合としました。すこやか歩こう会の会員さんに電車内での会話をご遠慮くださいと言っても、なかなか実行できないので。


北の丸スクエア公開空地
九段下駅から地上に出て、こちらの公開空地を利用させていただきストレッチをしました。この日は北風が強く寒かった!


青海コーヒー

ホテルグランドパレス

東京大神宮

ソーセージのハライコ
二年ぶりだし、コロナ禍で飲食店に逆風が吹く中、街の風景も変わってゆきます。新しいコーヒー屋さんが出来ていたり、グランドパレスが営業を終了していたり。弓道具屋さんはなくなったかな。ハライコ健在でうれしいです。来ようと思って訪れたことないけど。


小石川運動場脇のビル
警視庁の遺失物係がこんなビル特徴的なだったかなぁと思いましたが、隣のビルのようです。


日中友好会館

小石川後楽園

小石川税務署
通っていた高校がかつてこの近くにあったのですが、後楽園庭園へ一度行ったくらいでまわりのことはほとんど知りません。一番興味があったのは後楽園球場だったかな。後楽園駅に「本日のゲーム」の表示があり、土曜日日ハムののデーゲームがあると少ない小遣いをはたいて行っていました。当時の監督は大沢親分。


北野神社

牛天神

御拝殿

狛犬

狛牛?
ルートは安藤坂を上るのですがちょっと変更して天神様をお参りしました。「ぎゅうてんじん」だと思っていたけど「うしてんじん」でした。「牛魔王(ぎゅうまおう)」と混同しているかも。


ねがい牛
道真公は、御生前大変牛を可愛がられた事でも知られております。牛天神境内にある、なで石(自然石)は、源頼朝公が奥州へ東征の途中、此の地に休まれたとき、夢の中に牛に乗られた菅原道真公が現れ、願いが叶うことを告げられました。その後、ここにあった牛に似た石を御神体とされ、大宰府天満宮より御魂を勧請されたと伝えられており、これが撫で岩の発祥で牛天神の始まりです。(牛天神社と呼ばれていました。)
撫でるとねがいが叶うと言われており、今日まで多くの人々に信仰されております。

牛天神北野神社のサイトからの引用です。境内社についても引用します。
太田神社・高木神社
太田神社・高木神社は牛天神の境内にあり、芸能の神・天鈿女命(あめのうずめのみこと)と道の神・猿田彦命(さるたひこのみこと)の御夫婦と宇迦御魂命(うかのみたまのみこと)をお祀りしています。

芸能上達、開運招福のご利益があるとされ、関東では牛天神の御末社、関西では京都と、全国でも二社でのみ祀られています。

もとは、貧乏神と言われた黒闇天女(くろやみてんにょ)(弁財天の姉)をお祀りしていましたが、江戸時代にあったとされる出来事から、人についている貧乏神を追い払い、福の神を招き入れることができると庶民の信仰を集めるようになったそうです。詳細は下記の御由緒を御覧下さい。

人々の信仰厚く、関東大震災のころまでは、祭りの日ともなると、未明から深夜まで参拝の人で賑わい、芸能の神として、歌舞伎、新劇人など芸能人の信者を集め、名のある役者がたびたび参拝に訪れたそうです。

太田神社の御由緒
昔々、小石川の三百坂の処に住んでいた清貧旗本の夢枕に一人の老婆が立ち、「わしはこの家に住みついている貧乏神じゃが、居心地が良く長い間世話になっておる。そこで、お礼をしたいのでわしの言うことを忘れずに行うのじゃ…」と告げた。
正直者の旗本はそのお告げを忘れず、実行した。すると、たちまち運が向き、清貧旗本はお金持ちになる。そのお告げとは─
「毎月、1日と15日と25日に赤飯と油揚げを供え、わしを祭れば福を授けよう…」
以来、この「福の神になった貧乏神」の話は江戸中に広まり、今なお、お告げは守られ、多くの人々が参拝に訪れている。


天神様を訪れようと思ったのは猿田彦命が道の神、旅人の神といわれウォーキングクラブの守護神のように思えたからです。今回太田神社にお参りし損ねましたが、次回は必ずお参りするようにしましょう。


天神脇の坂
天神坂かと思ったら牛坂でした。


西岸寺

富坂署
お寺が多いのは伝通院の塔頭でしょうか。


学芸大学竹早校地
学芸大学付属竹早高校だと思っていたら、高校は都立でした。学芸大学の前身で東京府立第二高等女学校が都立高校になっています。共通一次試験をここで受けました。


播磨坂さくら並木
播磨坂を下って間もなくゴールの小石川植物園。植物園前で解散し希望者のみ植物園を見学します。以下、写真は小石川植物園。


パンパスと青空

ヒマラヤ杉と本館

ヒマラヤ杉

コダチダリア



イロハモミジ(Optiow90)


イロハモミジ(SO-01K)

イチョウ(Optiow90)

イチョウ(SO-01K)
コンパクトデジカメOptiow90の写真は鮮やかさに欠けるんだよなぁと思って、XperiaスマホSO-01Kと撮り比べてみました。スマホの写真はvivid過ぎでコンデジの方がイメージに近いと思います。比べてみると以前もこんなことをしたような。コンデジをミラーレス一眼に代えようか、Xperiaの最高機種を購入しようか考えていましたが、道具に頼らず腕を磨きます。


イチョウ

カイノキ

日本庭園のイロハモミジ

日本庭園

水面に映るイチョウ

ナンキンハゼ

ハゼノキ

ラクウショウ
カイノキとハゼノキはウルシ科なんですね。葉っぱを見るとウルシの仲間だとよくわかります。ウルシ科の紅葉は鮮やかできれい。「ハゼ」がつくけどナンキンハゼは葉の形が違います。トウダイグサ科。ハゼノキの代わりに蝋をとる材料として使われるようになった、中国原産の木ということで「ハゼ」がついているのですね。


フクダ電子
帰りは会の皆さんと別れ共同印刷バス停から文京区のコミュニティバスBーグルに乗り文京シビックセンターへ。共同印刷の前にはお鷹狩りのスポンサーとしてAEDの貸し出しを受けているフクダ電子の事務所がありました。


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