今回の下見はすこやか歩こう会ではなく、目黒ウォーキング協会の会員交流イベント「バスハイク」向けです。毎年春に行っており、来年度は4月21日(火)に実施の予定です。
がんばれ!! 佐藤優香選手
本番はバスなので下見は車で行います。本来バスから降りて歩く部分も下見をしたいのですが、今回のルートはそうもできないのですべて車で回ります。
最初に訪れたのは情報収集のため佐倉市役所産業振興課。こちらでパンフレットなどをいただき、参加者への情報提供に活用します。市役所入口にあった佐藤選手についてはWikipediaから引用します。
佐藤 優香(さとう ゆか、1992年1月18日 - )は、日本のトライアスロン選手。
千葉県佐倉市出身。日本橋女学館高等学校卒。
トーシンパートナーズ・NTT東日本・NTT西日本・チームケンズ所属。2010年のシンガポールユースオリンピック金メダリスト。記念すべきユースオリンピック金メダリスト第1号である。
リオデジャネイロオリンピックでは日本人最高で15位だったそうです。
旧佐倉順天堂
千葉県指定史跡
旧佐倉順天堂
昭和五十年三月二十八日指定
佐倉順天堂は、長崎に遊学後江戸に蘭医学塾を開いていた蘭医佐藤泰然が佐倉に移り住み、天保十四年(1843)に開いたオランダ医学の塾です。
ここではオランダ医学書の基礎としながら、当時としては最高水準の外科手術を中心とした実戦的な医学教育と治療が行われ、その名声により幕末から明治にかけて全国各地から多くの塾生が参集しました。
泰然の養子佐藤尚中(山口舜海)は、長崎でオランダ軍医ポンペに学んだ後、系統的な医学教育を取り入れ、ここで学んだ塾生の多くが明治医学界において活躍しました。
明治時代になると佐藤尚中は新政府から大学東校(現東京大学医学部)の最高責任者として招かれた後、お茶の水に順天堂医院を開業しました。
一方、佐倉の順天堂は養子佐藤舜海(岡本道庵)が受け継ぎ、佐倉順天堂として医療活動を続けました。
現在残っている建物は、安政五年(1858)に建てられたものと、その後拡充された施設の一部です。
平成五年十二月二十日
千葉県教育委員会
佐倉市教育委員会
入り口と礎石
扁額
手術道具
掛け軸
復元模型
病院旗
扁額には「蘭飛醫」と書いてあるようですが意味は分かりません。掛け軸については文字も読めません。
本番のバスハイクでは最初にこちらを訪れる予定で、三館共通入館券(佐倉順天堂記念館、旧堀田邸・さくら庭園、武家屋敷)を購入し拝観後旧堀田邸へ向け歩き始めます。
旧堀田邸・さくら庭園
旧堀田邸(重要文化財 旧堀田家住宅)・さくら庭園
旧堀田邸・さくら庭園は、最後の佐倉藩主であった堀田正倫が、旧領地に住居を移すために建設した建物と庭園です。
主屋は木造平屋建て一部二階建て、屋根は寄棟造瓦葺の建物5棟で構成され、明治23年(1890)に竣工しました。その後、明治44年(1911)には湯殿が増築されました。主屋や門番所、土蔵はほぼ建築当時のまま良好な状態で残されております。庭園は、芝を中心に赤松やサルスベリなどの樹木と景石や石塔を配し、高崎川と対岸の台地を借景にした眺望が広がっています。
平成9年3月26日佐倉市指定文化財名勝に、平成13年3月30日には千葉県指定文化財名勝にそれぞれ指定され、平成18年7月5日には住居部5棟と門番所、土蔵の合計7棟が国の重要文化財(建造物)に指定されました。更に、平成27年(2015)3月には、庭園を含む一帯が「旧堀田正倫庭園」として国名勝に指定されました。
客座敷
客座敷の掛け軸
襖の柄
庭園
玄関棟
居間からの眺め
玄関からの眺め
門
正倫の父、佐倉藩5代藩主堀田正睦は幕末老中首座として活躍しています。のちに井伊直弼との政争に敗れ失脚するのですが、堀田正睦が活躍した時代をWikipediaから引用します。途中で改名します。
老中首座・幕政主導
天保14年(1843年)閏9月に老中を辞任した後は、佐倉に戻って再び藩政改革に尽力し、一定の治績を挙げた。幕末においては攘夷鎖国が時代錯誤であることを痛感し、一刻も早く諸外国と通商すべきという開国派であった。
安政2年(1855年)10月2日に安政の大地震が起こり、この地震で正篤は江戸上屋敷において負傷した。その1週間後の10月9日、当時の老中首座であった阿部正弘の推挙を受けて再任されて老中になり、正弘から老中首座を譲られた。この時、外国掛老中を兼ねた。この正睦の老中再任に対して徳川斉昭は蘭癖である正睦に好感を持てなかった事から反対し、島津斉彬は静観した。また立花鑑寛や松平慶永らは正篤は招聘された「看板」であって実権は阿部が掌握していると見ていた。確かに阿部は死去する安政4年(1857年)までは実権を握っており、正篤は首座とはいえ飾りに近かった。ただし正篤を立てる事で阿部が矢面に立つのをかわす事、黒船来航から山積していた外交・内政問題などからの激務で阿部の体調が思わしくなかった事、譜代大名の中で正篤は明快なほど開国通商の意見を持っているなどした事が、阿部に推挙された理由であるとも思われる。
安政3年(1856年)、島津家から13代将軍・徳川家定に輿入れした篤姫の名を憚り、正睦と改名する。
安政5年(1858年)、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスが日米修好通商条約の調印を求めて来ると、上洛して孝明天皇から条約調印の勅許を得ようとするが、条約調印に反対する攘夷派公卿たちが廷臣八十八卿列参事件を起こし、さらに天皇自身も強硬な攘夷論者であったため却下され、正睦は手ぶらで江戸へ戻ることとなった。
一方、同年、将軍・家定が病に倒れ、その後継ぎをめぐって徳川慶福(紀伊藩主)を推す南紀派と、徳川慶喜(一橋徳川家当主)を推す一橋派が対立する安政の将軍継嗣問題が起きた。正睦は元々水戸藩の徳川斉昭とは外交問題を巡って意見があわず、従ってその子の慶喜にも好感が持てず、心情的には慶福が14代将軍に相応しいと考えていた節がある。しかし、京都で朝廷の強硬な反対に遭って勅許を得られなかった状況を打開するには、慶喜を将軍に、福井藩主の松平慶永を大老に推挙すれば、一橋贔屓の朝廷も態度を軟化させて条約調印に賛成すると読み、将軍継嗣問題では南紀派から一橋派に路線を変えた。
旧河原家住宅の兜
台所
風呂
手水鉢
縁側
佐倉の武家屋敷は鹿児島知覧などと比べると申し訳ないがいまいちです。しかし関東でこれだけの武家屋敷が残っている場所を私は知りません。見学できる武家屋敷は三棟ですが、旧河原家住宅は比較的上級の大屋敷との位置づけです。
旧但馬家住宅
甲冑
庭
こちらは中屋敷で室内に入ることが出来ました。納戸を含めて六部屋かな。
旧武居家住宅
こちらは小屋敷で三部屋。国登録有形文化財となっています。
佐倉の武家屋敷がいまいちなのは小規模なことに加え、通常の住宅が点在しているところです。通勤圏でもあり致し方ないところでしょうか?見学はできませんが、児玉源太郎の旧居跡もあります。
大聖院
ひよどり坂
本番ではこの坂を下り佐倉城址へ向かいます。佐倉城は珍しく江戸期の築城とのこと。その後帝国陸軍第二歩兵連隊の駐屯地となったことも含め、Wikipediaから概要を引用します。
概要
佐倉城は、鹿島山の西端部に築かれ、西側と南側を囲みこむように鹿島川とそれに合流する高崎川が流れ、北側には印旛沼に至る低湿地が広がっていたとされる。
戦国時代、本佐倉城主千葉親胤が大叔父にあたる鹿島幹胤に命じて築城を開始したが、親胤が暗殺されたために工事は中断、千葉邦胤の代にも工事が試みられたが邦胤の暗殺によって頓挫、いつしか築城予定地には鹿島親幹にちなんで「鹿島台」と呼ばれるようになったとされる。
1610年(慶長15年)に、徳川家康の命を受けた土井利勝によって築城が再開され、佐倉城が完成した。江戸時代は佐倉藩の藩庁が置かれた。城主は江戸幕府の要職に就くことが多く、更に初期は城主の入れ替わりが多く、江戸初期に城主であった堀田正信(後に改易されている)の弟・堀田正俊の孫・堀田正亮が11万石で再入封(後期堀田氏ともいう)してからは、安定した藩の経営を行っている(詳細は佐倉藩を参照のこと)。
城郭は石垣を一切用いず、干拓以前の広大だった印旛沼を外堀の一部にし、三重櫓(御三階櫓)を天守の代用としている。明治維新後に廃城令により建物のほとんどが撤去された。その後帝国陸軍歩兵第2連隊、後に歩兵第57連隊(通称・佐倉連隊)の駐屯地となった。
1962年(昭和37年)3月28日に市の史跡に指定され、現在跡地は佐倉城址公園として整備されている。城の北西端に国立歴史民俗博物館が建っており、東端には出土遺物や明治初期撮影の城門・櫓の古写真、城の模型が展示され、日本100名城スタンプが置かれた佐倉城址公園センター(佐倉城址公園管理センター)がある。
本丸、二の丸、三の丸やさらにその外縁部の椎木曲輪、天神曲輪などの多くの郭の形状が広大かつ良好に残る。また、巨大な馬出空堀や天守跡、銅櫓跡の土塁形状や水堀に守られた西出丸、南出丸の形状なども良好に残っている。佐倉連隊の弾薬庫跡、訓練用施設などの遺構も残存している。
平安期貴族の邸宅模型
第四展示室 民族
東福寺三門模型
佐倉城址にある国立歴史民俗博物館も見学の予定です。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
がんばれ!! 佐藤優香選手
本番はバスなので下見は車で行います。本来バスから降りて歩く部分も下見をしたいのですが、今回のルートはそうもできないのですべて車で回ります。
最初に訪れたのは情報収集のため佐倉市役所産業振興課。こちらでパンフレットなどをいただき、参加者への情報提供に活用します。市役所入口にあった佐藤選手についてはWikipediaから引用します。
佐藤 優香(さとう ゆか、1992年1月18日 - )は、日本のトライアスロン選手。
千葉県佐倉市出身。日本橋女学館高等学校卒。
トーシンパートナーズ・NTT東日本・NTT西日本・チームケンズ所属。2010年のシンガポールユースオリンピック金メダリスト。記念すべきユースオリンピック金メダリスト第1号である。
リオデジャネイロオリンピックでは日本人最高で15位だったそうです。
旧佐倉順天堂
千葉県指定史跡
旧佐倉順天堂
昭和五十年三月二十八日指定
佐倉順天堂は、長崎に遊学後江戸に蘭医学塾を開いていた蘭医佐藤泰然が佐倉に移り住み、天保十四年(1843)に開いたオランダ医学の塾です。
ここではオランダ医学書の基礎としながら、当時としては最高水準の外科手術を中心とした実戦的な医学教育と治療が行われ、その名声により幕末から明治にかけて全国各地から多くの塾生が参集しました。
泰然の養子佐藤尚中(山口舜海)は、長崎でオランダ軍医ポンペに学んだ後、系統的な医学教育を取り入れ、ここで学んだ塾生の多くが明治医学界において活躍しました。
明治時代になると佐藤尚中は新政府から大学東校(現東京大学医学部)の最高責任者として招かれた後、お茶の水に順天堂医院を開業しました。
一方、佐倉の順天堂は養子佐藤舜海(岡本道庵)が受け継ぎ、佐倉順天堂として医療活動を続けました。
現在残っている建物は、安政五年(1858)に建てられたものと、その後拡充された施設の一部です。
平成五年十二月二十日
千葉県教育委員会
佐倉市教育委員会
入り口と礎石
扁額
手術道具
掛け軸
復元模型
病院旗
扁額には「蘭飛醫」と書いてあるようですが意味は分かりません。掛け軸については文字も読めません。
本番のバスハイクでは最初にこちらを訪れる予定で、三館共通入館券(佐倉順天堂記念館、旧堀田邸・さくら庭園、武家屋敷)を購入し拝観後旧堀田邸へ向け歩き始めます。
旧堀田邸・さくら庭園
旧堀田邸(重要文化財 旧堀田家住宅)・さくら庭園
旧堀田邸・さくら庭園は、最後の佐倉藩主であった堀田正倫が、旧領地に住居を移すために建設した建物と庭園です。
主屋は木造平屋建て一部二階建て、屋根は寄棟造瓦葺の建物5棟で構成され、明治23年(1890)に竣工しました。その後、明治44年(1911)には湯殿が増築されました。主屋や門番所、土蔵はほぼ建築当時のまま良好な状態で残されております。庭園は、芝を中心に赤松やサルスベリなどの樹木と景石や石塔を配し、高崎川と対岸の台地を借景にした眺望が広がっています。
平成9年3月26日佐倉市指定文化財名勝に、平成13年3月30日には千葉県指定文化財名勝にそれぞれ指定され、平成18年7月5日には住居部5棟と門番所、土蔵の合計7棟が国の重要文化財(建造物)に指定されました。更に、平成27年(2015)3月には、庭園を含む一帯が「旧堀田正倫庭園」として国名勝に指定されました。
客座敷
客座敷の掛け軸
襖の柄
庭園
玄関棟
居間からの眺め
玄関からの眺め
門
正倫の父、佐倉藩5代藩主堀田正睦は幕末老中首座として活躍しています。のちに井伊直弼との政争に敗れ失脚するのですが、堀田正睦が活躍した時代をWikipediaから引用します。途中で改名します。
老中首座・幕政主導
天保14年(1843年)閏9月に老中を辞任した後は、佐倉に戻って再び藩政改革に尽力し、一定の治績を挙げた。幕末においては攘夷鎖国が時代錯誤であることを痛感し、一刻も早く諸外国と通商すべきという開国派であった。
安政2年(1855年)10月2日に安政の大地震が起こり、この地震で正篤は江戸上屋敷において負傷した。その1週間後の10月9日、当時の老中首座であった阿部正弘の推挙を受けて再任されて老中になり、正弘から老中首座を譲られた。この時、外国掛老中を兼ねた。この正睦の老中再任に対して徳川斉昭は蘭癖である正睦に好感を持てなかった事から反対し、島津斉彬は静観した。また立花鑑寛や松平慶永らは正篤は招聘された「看板」であって実権は阿部が掌握していると見ていた。確かに阿部は死去する安政4年(1857年)までは実権を握っており、正篤は首座とはいえ飾りに近かった。ただし正篤を立てる事で阿部が矢面に立つのをかわす事、黒船来航から山積していた外交・内政問題などからの激務で阿部の体調が思わしくなかった事、譜代大名の中で正篤は明快なほど開国通商の意見を持っているなどした事が、阿部に推挙された理由であるとも思われる。
安政3年(1856年)、島津家から13代将軍・徳川家定に輿入れした篤姫の名を憚り、正睦と改名する。
安政5年(1858年)、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスが日米修好通商条約の調印を求めて来ると、上洛して孝明天皇から条約調印の勅許を得ようとするが、条約調印に反対する攘夷派公卿たちが廷臣八十八卿列参事件を起こし、さらに天皇自身も強硬な攘夷論者であったため却下され、正睦は手ぶらで江戸へ戻ることとなった。
一方、同年、将軍・家定が病に倒れ、その後継ぎをめぐって徳川慶福(紀伊藩主)を推す南紀派と、徳川慶喜(一橋徳川家当主)を推す一橋派が対立する安政の将軍継嗣問題が起きた。正睦は元々水戸藩の徳川斉昭とは外交問題を巡って意見があわず、従ってその子の慶喜にも好感が持てず、心情的には慶福が14代将軍に相応しいと考えていた節がある。しかし、京都で朝廷の強硬な反対に遭って勅許を得られなかった状況を打開するには、慶喜を将軍に、福井藩主の松平慶永を大老に推挙すれば、一橋贔屓の朝廷も態度を軟化させて条約調印に賛成すると読み、将軍継嗣問題では南紀派から一橋派に路線を変えた。
旧河原家住宅の兜
台所
風呂
手水鉢
縁側
佐倉の武家屋敷は鹿児島知覧などと比べると申し訳ないがいまいちです。しかし関東でこれだけの武家屋敷が残っている場所を私は知りません。見学できる武家屋敷は三棟ですが、旧河原家住宅は比較的上級の大屋敷との位置づけです。
旧但馬家住宅
甲冑
庭
こちらは中屋敷で室内に入ることが出来ました。納戸を含めて六部屋かな。
旧武居家住宅
こちらは小屋敷で三部屋。国登録有形文化財となっています。
佐倉の武家屋敷がいまいちなのは小規模なことに加え、通常の住宅が点在しているところです。通勤圏でもあり致し方ないところでしょうか?見学はできませんが、児玉源太郎の旧居跡もあります。
大聖院
ひよどり坂
本番ではこの坂を下り佐倉城址へ向かいます。佐倉城は珍しく江戸期の築城とのこと。その後帝国陸軍第二歩兵連隊の駐屯地となったことも含め、Wikipediaから概要を引用します。
概要
佐倉城は、鹿島山の西端部に築かれ、西側と南側を囲みこむように鹿島川とそれに合流する高崎川が流れ、北側には印旛沼に至る低湿地が広がっていたとされる。
戦国時代、本佐倉城主千葉親胤が大叔父にあたる鹿島幹胤に命じて築城を開始したが、親胤が暗殺されたために工事は中断、千葉邦胤の代にも工事が試みられたが邦胤の暗殺によって頓挫、いつしか築城予定地には鹿島親幹にちなんで「鹿島台」と呼ばれるようになったとされる。
1610年(慶長15年)に、徳川家康の命を受けた土井利勝によって築城が再開され、佐倉城が完成した。江戸時代は佐倉藩の藩庁が置かれた。城主は江戸幕府の要職に就くことが多く、更に初期は城主の入れ替わりが多く、江戸初期に城主であった堀田正信(後に改易されている)の弟・堀田正俊の孫・堀田正亮が11万石で再入封(後期堀田氏ともいう)してからは、安定した藩の経営を行っている(詳細は佐倉藩を参照のこと)。
城郭は石垣を一切用いず、干拓以前の広大だった印旛沼を外堀の一部にし、三重櫓(御三階櫓)を天守の代用としている。明治維新後に廃城令により建物のほとんどが撤去された。その後帝国陸軍歩兵第2連隊、後に歩兵第57連隊(通称・佐倉連隊)の駐屯地となった。
1962年(昭和37年)3月28日に市の史跡に指定され、現在跡地は佐倉城址公園として整備されている。城の北西端に国立歴史民俗博物館が建っており、東端には出土遺物や明治初期撮影の城門・櫓の古写真、城の模型が展示され、日本100名城スタンプが置かれた佐倉城址公園センター(佐倉城址公園管理センター)がある。
本丸、二の丸、三の丸やさらにその外縁部の椎木曲輪、天神曲輪などの多くの郭の形状が広大かつ良好に残る。また、巨大な馬出空堀や天守跡、銅櫓跡の土塁形状や水堀に守られた西出丸、南出丸の形状なども良好に残っている。佐倉連隊の弾薬庫跡、訓練用施設などの遺構も残存している。
平安期貴族の邸宅模型
第四展示室 民族
東福寺三門模型
佐倉城址にある国立歴史民俗博物館も見学の予定です。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
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