目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

下馬太子堂三宿コース 約6.8km

2025-01-29 12:23:26 | 東京都目黒区、世田谷区
気温は前日より上がったものの北風が強く体感温度の低い中でのウォーキングになりました。風のないところではおひさまの温かみも感じることができました。このコースは隣接する世田谷区にちょっと遠征してご近所を見て回る試みです。


五本木児童遊園
祐天寺駅に集合して、近くの公園をお借りしてストレッチをして出発します。


聴力障害者情報文化センター

謡坂
謡坂を下り、蛇崩方面へ。


シダ

サザンカかな?

芦毛塚
芦毛塚は下馬の地名の元となる故事の残る場所です。かつてこのあたりは湿地で頼朝が乗っていた芦毛が足を取られて死んでしまったので、この付近は馬から降りて通行するよう頼朝が命令し「馬引沢」呼ばれるようになったのです。馬から降りた場所が下馬で乗った場所が上馬という説を私は信じていません。馬引沢村が大きかったので蛇崩川に沿って上流から上馬引沢、中馬引沢、下馬引沢と呼ばれていたものが上馬、下馬と短縮された説を支持します。中馬引沢は街道の分岐にあった三軒の茶屋から三軒茶屋と呼ばれるようになりました。


ユズ

ヒメリンゴ

ハクモクレン

キンカン

足毛橋

蛇崩川緑道案内図
三宿通りの橋の名前は足毛橋で芦毛から変化したものと思われます。




駒繋神社
頼朝が参拝した際に馬をつないだ松の木があったということが駒繋神社の名の由来です。


スイセン

ちょっと大きめ、夏みかんかな

西澄寺武家屋敷門


西澄寺
武家屋敷門は蜂須賀家の江戸藩邸から移築し、東京都の有形文化財に指定されています。


青空に煙突

三軒茶屋商店街
ブラックラムズ東京はリコーのラグビーチームです。


三軒茶屋大山道の道標

キャロットタワー

世田谷線

目青不動教学院
目黒不動と並ぶ江戸五色不動の一つ。来月もう一色訪れる予定です。





太子堂八幡神社
太子堂八幡神社略記
  御祭神  誉田別命
  大 祭  十月第二日曜日
  社殿改築 昭和十二年八月十日
  御由緒及此地の沿革
 当社の鎮座年歴不祥なれど、旧当社別当円泉寺開基の縁起によれば、文禄年間(西暦1592~6年)創祀されたとあるが、平安時代後期源義家が父頼義と共に朝廷の命を受け陸奥の阿部氏征討に向かう途中この地を通過するに際し、八幡神社に武運を祈ったと伝えられていることから少なくともこれより(文禄年間)以前に里人により石清水八幡宮のご分霊を勧請し村の守護神として祀ったことは明らかである。
 太子堂の歴史の一頁を開いてきたものに鎌倉道がある。太子堂と若林の村境を通って鎌倉へ通ずる道で鎌倉道と呼ばれ古い時代には行き着く目的地の名を取って付けたようである。
 この鎌倉道の付近に義家は諸将兵に命じ駒を止め同勢を憩わし酒宴を張った、太子堂上本村一二一~二番地のあたりを(五丁目)土器塚と云い酒宴後の土器など此の地に埋めたのでそう呼んだのである。その塚に続く塚を同勢山と呼ぶのは、同勢を憩わした名残である。
 真言宗豊山派円泉寺境内に聖徳太子像を安置し、それより太子の號をとりて部落の村名とした。
 以上は、古老の伝承、武蔵風土記等を参照記したものである。



太子堂弁天


圓泉寺

藤の絡まる灯篭


太子堂

太子像

木のウロの祠
縁起にあったように、太子堂の地名の由来となった太子堂。




三宿の森緑地
三宿の森を育てる会のサイトから引用します。
【緑地の由来】
2004年4月1日に開園した三宿の森緑地は、緑の少ないこの地において8,000㎡という面積を持ち、
樹齢百年に及ぶ大きな樹木と自然を大切に残すように設計された世田谷区立公園です。

1.屋敷の成立――敷根氏の時代
 昭和の初年、雑木林と畑が広がるこの地を屋敷にしたのは敷根氏であるとされている。今の敷地よりずっと広く土地を求めて造園に着手し、二階建ての日本家屋を着工した。家屋は出来上がって昭和51年に5階建ての研修所宿舎建設のために取り壊されるまで、戦前の典型的日本家屋の優美な姿をとどめていた。事情はつまびらかでないが、敷根氏はここに住むことなく、中村氏が後を継いで屋敷としての完成を見る。

2.屋敷の完成――中村氏の時代
 敷根氏から屋敷を引き継いだ中村氏は大陸方面で、日産コンツェルンを作った有名な鮎川義介氏と共同で事業を営んでいたという。当主は事業の地である朝鮮に在って、子息夫妻が三宿に居住し、今に残る樹林や十三重の塔、石灯籠、石像や、日本家屋と共に取り壊された泉水など、屋敷を作り上げた。今は2棟のマンションが建つ一段下がった土地には使用人の住む家があったから、敷地は1倍半くらいはあったであろう。同夫妻はこの地で3人の令嬢に恵まれ、テニスコートを邸内に持ち、揃って乗馬を楽しむという優雅な生活であったという。戦争はこの一家にも過酷な運命をもたらす。朝鮮の事業は烏有に帰し、子息は戦地から帰ることはなかったのである。

3.法務省施設の時代――昭和50年まで
 終戦後はおそらく財産税物納のため国有地となり、法務省の施設となった。日本家屋は寮として使い、住宅不足時代のため職員の官舎が数棟建てられ、後には研修に召集される全国職員のための2階建て寄宿舎が設けられたが、いずれも木造であった。
 樹木は年を経て成長し、隣接の三宿神社と併せて高速道路からも目立つ三宿の森となっていった。なおこの時代のエピソードがある。昭和29年のいわゆる造船疑獄のとき、時の与党幹事長佐藤栄作氏が、約400米の距離にある北沢の自宅から着流し下駄履きで散歩と称して出かけ、張り込む記者の目をくらまし、ここで検察の取り調べを受けた。犬養法務大臣の指揮権発動で難を逃れた佐藤氏は、後に総理大臣となる。その後も重大事件があるたびに記者の張り込みが見られた。

4.法務省研修所大ビルディング建設反対運動
 昭和50年に法務省は突然近隣住民に対して大ビルディングの建設計画を発表した。手狭になった寄宿舎を建て直すと同時に敷地内に研修所自体を設けるため、8階建てのビルなどを建設するというのである。当時は2階建てまでの木造家屋しかない住宅地に巨大なビルをつくり、そのために樹木は多く伐採もしくは移植する、多くの近隣家屋に日照被害を与えるという国による環境破壊のとんでもない計画であった。
 隣接する住民だけでなく近隣の参加を得て、早速法務省三宿ビル建設反対の会を結成して、署名運動から世田谷区への請願、区議会議員への個々の陳情、果ては参議院での質問に取り上げてもらうなど懸命の運動を繰り広げた。だが当時は日照権こそ認められていたが、環境破壊についての一般の認識は今とは格段の差があったので、運動は困難を極め、法務省との協議は時に激しいものとなった。しかし熱心な運動の結果、各方面の関心と協力を得られるようになり、また法務省としても環境保全の重要性について次第に理解を示し、計画建物の規模を縮小して昭和51年春には建設反対の会との協定を結んで、5階建て建物などの建設工事に着工した。
 このときに樹木については一部移植や伐採はあるが、"等価的かつ等量的に保存する"とされたのは特記すべきであろう。建物は昭和53年に完成して、研修所の寄宿舎と若干の講義の場所として使われ、また毎年秋には司法試験の最終面接テスト会場となっていた。
5.法務省施設の完全移転と三宿の森緑地の成立
 法務省が研修所を浦安に新設するので、三宿からは完全移転するらしいとの噂が流れたのは、平成9年のはじめ頃であった。もうこの土地は有力な不動産会社が入手することになっていて、マンション開発になるからと期待している商店もあるというのである。噂は次第に形となり、移転は本決まりとなって、建物と敷地は平成10年3月に法務省から大蔵省へ移る、その後の用途は決まっていないと同年秋に口頭説明があった。建設反対の会のメンバーであった近隣住民は、有志の名前で昭和50-51年のいきさつや協定確認事項を記し、環境と緑、樹林を保存するため特段の配慮を要請する文書を世田谷区や法務省、大蔵省に提出した。
 片や北沢川緑道で大きな貢献をし、環境保全のトヨタ財団賞を獲得したエコアップサークル「環」のメンバーも法務省移転の情報を入手して、世田谷区で最も緑被率の低い三宿の再び得られない樹林や環境を守るべきだと立ち上がり、両者合同して三宿の緑を守る会を結成した。この残された樹林や敷地の環境的価値と、敷根、中村氏の残した石像などの文化的価値を知ってもらおうと、三宿の緑を守る会はセミナーを催して多くの人々の関心をよび、区への請願書にはわずか1週間で2千人を超える署名が集まったのである。
 平成10年10月世田谷区議会はこの請願を、願意に沿うようとの意見を付けて全会一致で採択した。それを受けて区は構想を練り、大蔵省ほかとの折衝を重ね、この法務省跡地を国から買い取って公園として整備することを正式に決定したのは平成12年12月のことであった。以来平成13年度に用地取得、14年度既設建物等の撤去、15年度公園化の工事を経て、16年4月1日に三宿の森緑地として開園の運びとなった。この間世田谷区は区民の要望を聞くべく辛抱強く打合会を持った。
 南側崖の土留め工事をやり直すために年を経た貴重な樹木が数多く移植され、せっかくの樹林がまばらになってしまったなど残念な点はあるが、出来上がった姿には三宿の緑を守る会が当初提案した構想が基本的に生かされている。会の中心メンバーであり、高齢であっても知識、実行力、人格のいずれの面からもみんなの尊敬を集めた柳田友邦氏が、完成を見ずに平成15年5月に逝去されたのは誠に残念なことであった。享年92歳、同氏の徳をたたえ、また公園の実現に関わった方々に感謝するため、近隣と会の有志でサンシュの若木を記念植樹したのは、開園に先立つ内覧会の日、平成16年3月23日であった。この地で幼時を過ごしたかっての中村家令嬢も一人この日に来られ、感慨を深めていたことを記し、三宿の森緑地由来の紹介とする。



三宿神社
こちらの境内をお借りしてストレッチをして解散としました。三宿の地名の由来を世田谷区のサイトから引用します。
三宿村は東を池尻、南を下馬引沢、西を太子堂、北を代田村に囲まれ舌状形をしていて、北側は東西が約600メートル、南側は約200メートルで、南北の長さは900メートルほどのこぢんまりとした村でした。村は字が北宿、本宿、南宿の三つに分かれますが、村の人はこれを上(北宿)、中(本宿)、下(南宿)と呼んでいました。この三宿の名はこの三つの宿名からつけられたものだという説があります。もう一つの説、村の北部を流れる烏山用水によって水利に恵まれていたので、水の宿る所から水宿となり、それが三宿になったという説が有力です。


アートギャラリーのようです

サトイモ?


騎兵第一連隊址
このコースを始めて歩く人向けに階段を上ってきてみました。秋山好古が揮毫した石碑があります。


ボケ
目黒川の緑道を大橋まで歩き、本格的に解散です。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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文化財めぐり上目黒コース 約5.5km

2024-12-30 11:46:27 | 東京都目黒区、世田谷区
このコースは目黒区のサイトで紹介されている「文化財めぐり」を参考にルートを作ってみたコースです。今回は上目黒。このサイトの面白いのは目黒区にとどまらずお隣の区まで行くところなのです。今回は旧村名でいうと上目黒村、下馬引村、碑文谷村をめぐります。
コース概要をサイトから引用します。以降茶色の文字部分は目黒区のサイトからの引用です。
このコースは旧上目黒村大橋(おおはし)から、東山を経由し宿山(しゅくやま)に至り、後半は蛇崩川(じゃくずれがわ)を遡り世田谷観音までを巡ります。

大橋(おおはし)は、大山道(おおやまみち)(現在の玉川通り)が目黒川を渡る所に架けられた橋に地名が由来するように、古くから交通の要衝でした。近代には玉電(たまでん)の名で親しまれた路面電車が通り、その車庫が置かれ、最近では首都高速道路の大橋(おおはし)ジャンクションが設置されるなど、現在でも交通のかなめとなっています。

また、現在の池尻大橋(いけじりおおはし)駅付近、玉川通りをはさんで北側と南側の一帯には、戦前には陸軍輜重兵(しちょうへい)大隊、騎兵連隊などの施設があり、兵隊屋敷と呼ばれていました。

東山地域からは、東山貝塚を始めとして、縄文時代の人々の生活を伝える遺跡があちこちから発見されています。近代には軍の広大な練兵場(れんぺいじょう)として使用され、戦後は公務員住宅、小学校、中学校などが建てられています。

宿山(しゅくやま)は、上目黒地区の中でも古くから集落があった場所で、鎌倉道と呼ばれた中世以来の古道(こどう)が通り、宿山(しゅくやま)の名も宿場があったことに由来するといわれています。この地域には寿福寺(じゅふくじ)、烏森稲荷神社があります。

蛇崩川(じゃくずれがわ)は馬事公苑(ばじこうえん)(世田谷区上用賀二丁目1番1号)付近を源とし、中目黒駅下流で目黒川に合流する目黒川の支流のひとつです。緑道(りょくどう)として整備されている所が多く、川すじをたどることができます。

目黒から世田谷にかけて、川に沿って芦毛塚(あしげづか)、下馬(しもうま)、上馬、駒繋神社(こまつなぎじんじゃ)など、馬にまつわる地名があり、源義家、頼朝の奥州遠征に関わる言い伝えがあります。



上目黒氷川神社

大山道の道標

花手水

ご拝殿

急な階段
大橋氷川神社(おおはしひかわじんじゃ)(目黒区大橋二丁目16番21号)は旧上目黒村の鎮守で上目黒氷川神社とも呼ばれています。天正(てんしょう)年間(1573年から1592年)に上目黒村の旧家である加藤氏がこの地に迎えたと言われています。

祭神(さいじん)はスサノオノミコトです。あわせて天照大神(あまてらすおおみかみ)、菅原道真(すがわらのみちざね)を祭っています。

正面の階段は、文化13年(1816年)に小松石(こまついし)で造られましたが、明治38年(1905年)の大山道(おおやまみち)改修の際に敷地を削られ、現在の急勾配の階段に改修されました。石段の下には、石段の改修記念碑、「武州荏原郡古菅刈庄目黒郷(ぶしゅうえばらぐんこすげかりのしょうめぐろごう)」と刻まれた供養塔、天保13年(1842年)に建てられた大山道(おおやまみち)道標があります。



目黒富士登山口

目黒富士山頂
また境内には、目切坂上(めきりざかうえ)にあった目黒元富士(めぐろもとふじ)から移された浅間神社(せんげんじんじゃ)の石祠、碑があります。

神社に向かって左手の斜面には、「目黒富士(めぐろふじ)」と名付けられた登山道が設けられ、毎年7月1日には山開きが行われています。



東山児童遊園の紅葉

東山貝塚公園
東山貝塚は、北区の西ヶ原貝塚、港区の丸山貝塚とともに都内三大貝塚とよばれた著名な貝塚でしたが、駒沢練兵場や区画整理などで比較的早い時期に消滅したものと考えられていました。

しかし、昭和58年から60年の発掘調査で縄文時代の住居跡が次々と発見され、集落の一部が残っていることがわかりました。現在まで住宅建設などの際に断続的に調査が行われ、旧石器時代の礫(れき)、縄文時代中期から晩期の住居跡、土坑墓(どこうぼ)、落し穴、弥生時代後期・古墳時代の住居跡、駒沢練兵場(れんぺいじょう)跡などが見つかっています。

区立東山貝塚公園(目黒区東山三丁目16番7号)には縄文人の生活を再現したコンクリート製の竪穴(たてあな)住居があります。また、貝塚が出土した公園西側の斜面のあたりから、今も水が湧き出しています。



東山公園

こんな太い枝が
この日は風が強くとても寒い中のウォーキングとなりました。


寿福寺

参道のサザンカ
寿福寺(じゅふくじ)(目黒区上目黒五丁目16番6号)は、元和(げんな)元年(1615年)鳳算大阿闍梨(ほうさんだいあじゃり)の開山と伝えられています。本尊は阿弥陀如来像です。

境内には、区内に伝わるものとしては最古の弘安(こうあん)2年(1279年)の板碑(いたび)があります。

また、相生地蔵(あいおいじぞう)、庚申塔(こうしんとう)など多くの石造物があります。

寿福寺(じゅふくじ)墓地には、川井権兵衛(かわいごんべえ)の墓があります。川井家は、将軍の鷹狩りに備えて獲物を餌付けしておく綱差役(つなさしやく)を代々務めた家です。川井家に伝わる古文書は、鷹狩りや幕府の支配などを知る上で貴重な史料として、目黒区指定文化財に指定されています。



蛇崩川遊歩道とブーゲンビリア

芦毛塚
源頼朝(みなもとのよりとも)が奥州征伐(おうしゅうせいばつ)でこの地を通ったとき、乗っていた馬が沢に脚を取られ転落して死んでしまいました。この馬の供養のために芦毛塚(あしげづか)(五本木1丁目18番先)を建てたという伝説があります。

この伝説から、あたりの地名を馬引沢(うまひきざわ)といい、上(かみ)馬引沢(うまひきざわ)、下(しも)馬引沢(うまひきざわ)に分かれ、さらに上(かみ)馬、下(しも)馬の地名になったという説があります。



ハクモクレン

ナンテンの紅葉

駒繋公園

駒繋神社
駒繋神社(こまつなぎじんじゃ)(世田谷区下馬四丁目27番26号)の祭神(さいじん)は大国主命(おおくにぬしのみこと)です。

平安時代後期の天喜(てんぎ)4年(1056年)、源頼義・義家(みなもとのよりよし・よしいえ)父子が朝廷の命令を受け、奥州安倍氏征伐に向かう際ここに立ち寄り、戦勝祈願(せんしょうきがん)をしたという説があります。

のちの文治(ぶんじ)5年(1189年)、源頼朝が奥州藤原泰衡(おうしゅうふじわらのやすひら)征伐の際、源義家の古事にちなみ戦勝祈願(せんしょうきがん)を行い、社殿脇の松に馬を繋いだという言い伝えがあり、現在の神社名の由来になっています。

参詣後、頼朝は馬に乗って移動しようとしましたが、湿地のため馬を曳いて移動し駒留八幡神社(こまどめはちまんじんじゃ)(世田谷区上馬(かみうま)五丁目35番3号)から馬に乗ったので、下馬(しもうま)、上馬(かみうま)の地名になったという説があります。



ベンツ

駒留中学校

ハクモクレン


世田谷観音
駒留あたりから移転してきたので駒繋小学校の近くに駒留中学校があるという状況のようです。世田谷観音は土日は12時に閉門して見学できません。


サンタさん

東京学芸大学附属高等学校の塀

龍雲寺

龍雲寺の紅葉

斑入りの葉っぱ

タヌキ
目黒区のサイトのコースには入っていませんが、龍雲寺にお参りして寺社巡りは終了。


クロガネモチの大木

造園業

キンカン
龍雲寺がある野沢は造園業が盛んで今でも多くの造園業者があり、庭木とも造園業者のストックともつかない立派な木が目を引きます。
この後碑文谷体育館でストレッチをして今年の活動を終え、こじんまりと納会をして解散しました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
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小さな幸せ

2024-12-05 15:44:25 | 東京都目黒区、世田谷区
「すこやか歩こう会」の11月30日は、呑川、化坂、秋山の森コース7.1㎞
集合場所は都立大学駅付近吞川緑道でした。スタート時間は13時ですが12時45分くらいに到着しました。
まだ誰も来ていない。「あれ、まちがったかな」と思っていたら、三々五々次々と集合。総勢12名になりました。
朝晩は寒いけれど昼間は暖かい。晩秋のこの日は絶好の散歩日和になりました。
集合場所の近くをよく見るときれいな葉っぱが目に留まりました。思わず写真に。

13時になりました。いつものようにみんなで輪になりストレッチ体操。
まずは呑川本流緑道へ。そして八雲氷川神社。誰かが「目黒で一番古い神社だよ」。
「そうなんだ。ところで、八雲神社は何の神様?」
ちょっと調べると、須佐之雄尊(スサノオノミコト)と稲田姫尊(イナダヒメノミコト)、大国主尊(オオクニヌシノミコト)だそうです。
日本の神話の世界そのものですね。
見上げると真っ黄色い銀杏に青い空。コントラストがとてもきれいです。これも写真に。

金蔵院、化坂へ。「昔はきっとこの辺は幽霊が出たんでしょうね」と話ながら、呑川本流緑道へ。
全コースの凡そ半分の深沢神社・三島公園でトイレ休憩。
休憩した時はいつも誰かにアメをいただきます。いつもいただいてばかりですみません。

一人で黙って歩いていると距離が長く感じます。
でも、「実は前に尻もちをついてからちょっとした拍子に腰が痛くなるんです。ただ歩くだけなら問題ないんですが」
「そうなんですか。実は私も8月にひどいぎっくり腰をして、2~3日歩けなかったんです」のような話をしながら歩いていると、
あっという間に目的地に着きます。
家の中にいたのではわかりませんが、紅葉は街中や神社のいたるところにあるんですね。
紅葉も楽しいのですが、誰彼となく気の置けない話をするのも楽しいです。

よそ見をしていて歩道を仕切るポールにちょっとぶつかりました。
後ろからすぐに「ちゃんと前を見て歩かないとダメよ」とやさしい声が飛んできました。
「そうだ、気を付けないと」と思い直しました。

三島公園での10分間の休憩の後、秋山の森から駒沢公園のうま公園まで来ました。
小さな子供連れの若いお母さんが多い。子供は走ったり、自転車に興じています。
お母さんはみんなとてもファッショナブルですね。駒沢公園らしいと感心。

1964年、今から60年前の東京オリンピックの聖火台を横目に見て、衾公園、桜修館中高のお隣を通り、
目黒区民キャンパスに着きました。13時に出発しちょうど15時の到着です。
10分の休憩を入れて7.1㎞を2時間きっちりで歩いたことになります。
そこでみんなでストレッチ体操をして解散。この日の歩数は11,465歩になりました。

「健康のためにもっと歩きましょう」とよく言われます。「1日に何歩、歩いているか」を、意識されることはあるでしょうか。
「健康づくりのための身体活動・運動ガイド2023」の推奨は、成人男女では8,000歩/日、高齢者では6,000歩/日だそうです。
でも「健康になるためにもっと歩きましょう」と言われると、なんだか「試験勉強をがんばりましょう」と言われているような気になります。
「健康になるために歩く」というよりも、「歩くことは楽しい、何となく気持ちがいい、だから歩こう」と思っています。

青い空、街や神社の紅葉、気の置けない話。小さな幸せを感じる11月30日の「すこやか歩こう会」でした。

S.O.記載
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【番外】目黒多摩川ウォーキング

2024-11-12 12:10:01 | 東京都目黒区、世田谷区
「目黒区立砧野球場/砧サッカー場、協栄・目黒体育協会グループ」主催によるウォーキングイベントをお手伝いしました。目黒ウォーキング協会が協力しているイベントです。「オリンピックを歩こう!」~オリンピックの史跡をたどる道のり~とのサブタイトルがつけられています。


碑文谷野球場
碑文谷体育館に集合しストレッチをしてスタート。野球場ではこの日グランドゴルフの大会が開かれていました


泳心一路 古橋廣之進 石碑
碑文谷体育館のすぐわきにプールと学生寮があり、その前にこの碑が設置されています。終戦の混乱で古橋さんはオリンピックには参加していないようです。



駒沢オリンピック公園のメタセコイア

東京オリンピック1964のサブ会場聖火台

東京オリンピック1964の皇居二重橋前集火式聖火台
東京オリンピック1964のサブ会場になった駒沢オリンピック公園。まず聖火についてWikipediaから抜粋引用します。
10月7日から9日にかけて東京都庁に到着した各コースの聖火は、9日の夜に皇居二重橋前で集火式が行われた。オリンピックの開会式が催される翌10日、皇居前から国立競技場まで最終聖火リレーが行われた。

聖火の最終ランナーは、1945年(昭和20年)8月6日に広島県三次市で生まれた19歳の陸上選手・坂井義則(当時早稲田大学競走部所属)であった。原爆投下の日に広島市に程近い場所で生を享けた若者が、青空の下、聖火台への階段を駆け上る姿はまさに日本復興の象徴であった。


つぎに駒沢オリンピック公園総合運動場・バレーボールコートについて日本オリンピック委員会のサイトから引用します。
1964年10月23日、日本中の視線は駒沢のバレーボールコートに集まりました。東京オリンピックバレーボール女子決勝・日本対ソビエトは、日本のスポーツ中継史上最高視聴率66.8%を記録。「東洋の魔女」と呼ばれたバレーボール女子日本代表は3-0でソビエトを下し、悲願の金メダルを獲得しました。コートは現在もバレーボールをはじめ、屋内競技を中心に活用されています。


駒沢オリンピック公園
秋色に変わってきました。


桜新町一丁目緑地(サザエさん公園)
駒沢通りを西へ進み、呑川橋で右折して呑川本流に沿って北へ、玉川通りをまた西へ進み、ちょっと北側の路地に入りサザエさん公園へ。



寶泉山玉眞院(玉川大師)
再び玉川通りを西南へ進み、階段を下りて玉川大師へ。


岡本公園民家園
丸子川沿いを西へ向かい岡本公園。


野川

駒澤大学玉川キャンパス

多摩川の向こうにうっすらと富士山
多摩川の堤防に出て目黒区立砧球技場管理事務所まで西へ向かいました。目黒区立砧野球場/砧サッカー場は台風の影響により使用できない状態で、改修工事に取り掛かるそうです。


リコー 総合グラウンド
多摩川の堤防を折り返し東へ向かい、ゴールの二子玉川を目指します。だいぶ昔になりますが、わきを通った時にグランドの片隅で子豚を丸焼きにしている外国人選手を見たことがあります。

二子玉川に到着し、ストレッチをして解散となりました。最終盤が単調でちょっと疲れましたが、天候に恵まれ暑くもなく寒くもなく、良いウォーキングでした。


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蛇崩川双子の給水塔コース 約5.5km

2024-09-30 12:00:55 | 東京都目黒区、世田谷区
ようやく何の懸念もなく歩ける季節となり22名の参加がありました。


ノウゼンカズラ
集合は中目黒GT。ウォーキング塾期間中はこちらが集合場所になるのですがそれ以外の中目黒集合は目黒川船入場になっています。今回は蛇崩川沿いに歩くので集合は中目黒GT、目黒銀座児童遊園に移動してストレッチをして出発です。ノウゼンカズラの花の時期は長いですね。


ハナツクバネウツギ

フヨウ

アサガオ

アオイ

キバナコスモス

ヒガンバナ

ムラサキシキブ

シモツケソウ

ハギ

カンナ
蛇崩川は暗渠で緑道になっていてさまざまな植物が植えられて、この時期でも多くの花を見ることが出来ます。


駒繋神社

末社の稲荷神社
源頼朝が馬を繋いだ松があったということで駒繋神社。下馬の地名の由来と芦毛塚の記事を神社のサイトから引用します。
源頼朝公が、奥州藤原氏征伐にあたり大軍を率いて多摩川の矢口を渡り、今の目黒区と世田谷区の境の道を渋谷に向って進む途中、乗馬にて沢を渡ったところ、馬が何かに驚いて暴れだし、沢の深みに落ちて死んでしまいました。この場所は、砂利場といわれ赤色の山砂利が出るところでした。そのため、馬を引き上げようとしても砂利が崩れて引き上げられず、馬が死んでしまったので、沢の岸辺近くに葬り塚を作り、馬が芦毛であったため芦毛塚と名付けられました。
その時に源頼朝公が「これから先、この地に来たときは、必ず馬から下りて沢は引いて渡れ」と厳命し、この沢を「馬引きの沢」と名付けました。(この沢は、蛇崩川で砂崩川とも書かれ、現在の蛇崩川緑道になっています。)
出陣にあたって総大将の馬の死は不吉である、程近い「子の明神(当社)」にて祈願をされては、と農家の姥の進言にしたがい「子の明神」で戦勝祈願をして奥州に向いました。
奥州攻めを終えて鎌倉への帰途、再びこの地に立ち寄った源頼朝公は、「子の明神」に額づいて戦勝の報告をし、芦毛塚では、馬の供養をされました。また「子の明神」で祈願することを進めてくれた農家の姥は、すでに亡くなっていると聞き、いたく悲しまれ、この地を姥ケ谷と名付けられました。

この源頼朝公の古事により駒繋神社付近一帯を「下馬引沢村」(馬から下りて沢は引いて渡る村)と呼ぶようになり、大正14年町制がしかれたため、引沢村が取れて下馬になりました。
また、芦毛塚は、もともと祠でしたが昭和44年8月24日に下馬史跡保存会の第一事業として、「芦毛塚の碑」が建設されました。

下馬史跡保存会刊 「しもうま」より一部引用



アオイ

キャロットタワー
蛇崩川緑道をさかのぼってゆくと三軒茶屋で玉川通りと交差します。そのあたりから撮ったキャロットタワー。飛行機で渋谷上空を飛ぶ際にこのビルは良い目印となります。


じんこ製麺所
三軒茶屋でお気に入りの武蔵野うどんの店「じんこ」。ここに製麺所があることに初めて気づきました。


小泉公園

小泉公園のタカトオコヒガン桜
ジュウガツザクラやシキザクラが秋に花をつけることは知っていますが、タカトオコヒガン桜の秋の花は始めて見たように思います。新宿御苑でも咲いているのかなぁ?


弦巻通りの向こうにキャロットタワー
こうやってみても地図で確認しても弦巻通りは三軒茶屋まで一直線です。給水塔からの本管が通る水道道路なんだと思います。


水道管をイメージさせるベンチ



駒沢給水所配水塔(双子の給水塔)

ヒガンバナ
世田谷区のサイトから引用します。
明治末期から大正初期にかけての東京市(当時)周辺は、人口の増加につれて安全な飲料水の確保が必要となり、上水道布設事業が相次ぎました。特に人口増加の著しい豊多摩郡渋谷町(現渋谷区)では早くから具体化が進み、東京市の水道事業推進の重鎮であった東京帝国大学の中島鋭治博士に依頼して、町営上水道布設の計画に着手、大正6年には実地調整を基に、取水地に多摩川河畔の砧村(現鎌田)を、中継の給水所に駒沢を選び、計画を取りまとめて認可を申請、大正9年に内務大臣、大正10年には大蔵大臣の認可を得、ここに世田谷を横断する大規模な水道工事が、国家事業並みの扱いで大正10年5月に着工となりました。

中島博士の計画は、砧村に浄水所を設けて清潔な水を作り、送水ポンプの力で駒沢給水所に設置した給水塔に押し上げた後、自然重力で渋谷町へ送水するという斬新な仕組みでした。工事は順調に進み関東大震災を挟んで大正13年3月に全工事が完了しました。

そして、給水所の中に西欧の中世風の趣きを持ち、独特な意匠を施した2基の巨大塔が姿を現しました。高さ30メートルの塔屋には王冠を連想させる装飾電球が付けられ、軽やかな特徴あるトラス橋で両塔が結ばれているこの独特な設計は二度のヨーロッパ出張で得た中島博士の卓越した土木建築デザイン感覚によるものであります。かつて、江戸川乱歩が怪人二十面相のアジトのモデルにしたというのもうなずけます。同時期砧浄水所(現鎌田)には、緩速ろ過池の横、青い西洋瓦葺き屋根の上に、愛らしい四角錐の小塔を載せたユニークな送水ポンプ室が竣工しています。なお昭和2年、ここ給水所には渋谷町上水道布設記念碑も造られました。

その後、関東大震災後の渋谷町の人口急増により、昭和6~昭和7年にかけて取水場所の作り変えや、ろ過池の増設など大規模な拡張工事が行われました。その際砧の浄水所には取水ポンプ室、駒沢の給水所には送水ポンプ室が新たに建造されましたが、いずれも優れたデザイン性に富み、昭和の名建造物といわれています。昭和7年10月、周辺郡部が東京市に併合されるのに伴い、渋谷町水道も東京市水道局に移管されて、その名は消えました。

戦後、東京都の水道局となってから、水道技術革新により浄水所は高度浄水施設への転換と給水所の地下埋設大型化が進み、大正・昭和初期の水道の姿を留めるものが極めて少なくなりつつある現在、数少ない例外とも言えるのが、駒沢給水塔を頂点とした多摩川河畔と駒沢の渋谷町水道遺産の数々ではないでしょうか。豊かな緑の樹林の中に聳え立つ双塔の偉容は、人々に近代水道文明の歴史を語りかけているよう思えてなりません。

平成14年、都水道局は老朽化の激しい布設記念碑の大掛かりな補修作業と併せ、塔屋の装飾球の復元やトラス橋の全面塗装替えでイメージを一新しました。殊に塔屋の夜間点灯は、復元後今日まで、世田谷区民に貴重な近代化遺産をアピールする恰好の風物詩となっています。平成24年度には、土木学会選奨土木遺産として、駒沢給水所(配水塔・配水ポンプ所)が都内で唯一認定されました。

また、水道の歴史的遺産として、地域の風景と共に給水塔を残していくために「駒沢給水塔風景資産保存会」、通称「コマQ」が平成14年から活動しています。


給水施設隣に立つマンションの公開空地をお借りしてストレッチをして解散。有志は渋谷に出て山家で焼き鳥とビールを楽しみました。桜新町からの田園都市線は満員電車状態。コロナ以降こんなに混んだ電車に乗るのは久しぶりでした。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


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