今シーズンのウォーキングで一番寒かったかもしれません。それでも会員さんに「歩いてよかったです。体が温まりました。」と喜ばれました。
呑川緑道都立大学駅付近
こちらが集合場所でストレッチもここで行います。いかにも寒そうな曇り空。
目黒区みどりの散歩道
線路沿いに自由が丘方面へ向かい、駅に到達する前この看板を右折します。谷畑弁財天を見つけるのはなかなかハードルが高いですよ。
熊野神社北口
寺務所
紅梅
栗山家の寄進
谷畑から少し坂を上り高台にあるのが熊野信仰の熊野神社です。参道は自由が丘駅方面の南側に伸びていますがわれわれは北口から入りお参りしました。栗山家は代々衾村の年寄りを務めた旧家で、すずめのお宿緑地公園にある古民家は栗山家の住居でした。
大きな木
常緑樹ですが木の種類はわかりません。幹が枯れているのかなぁと思いましたがよく見ると、抱き込んでいた別の木が枯れているようです。
セネガル大使館邸
スポーツクラブ
目黒消防署八雲出張所
緑小通りを区界で右折し北へ向かいます。セネガル大使館ではなく公邸でした。大使館は目黒区青葉台。「タンカーの原油流出」と思いつきましたがそれはモーリシャスでした。セネガルは反対側の西アフリカ。パリ・ダカのダカールがセネガルの首都です。
リバティヒルクラブはLibertyとHillの綴りがくっついているのでなんて書いてあるのか改めて見直しましたが、自由が丘を英語にしたということのようです。
ヒイラギ
歴史と文化の散歩道
クリスマスローズ
ロウバイ
消防署の先を右折して呑川本流緑道を歩きます。歴史と文化の散歩道は昭和58年から平成7年にかけて東京都が整備したものですが、整備から20年が経過し撤去されてゆく方向とか。情報を更新して維持してゆくのが難しいということのようです。
八雲給水所
目黒区内の災害時給水所はここ八雲と林試の森公園にあります。どちらも上目黒から遠いなぁと思ってみてみると、渋谷区になりますが都立第一商業高校が近くの給水所となります。水をもらって上村坂を下ればいいので、登ることにならなくてよかったかな。
都立桜修館中等教育学校
目黒区民キャンパス
呑川本流緑道から呑川駒沢支流緑道を歩きコースはやくも文化通りで右折ですが歩道が狭いので一つ手前の十字路を右折し八雲十中通りを経由し桜修館の前に出ました。このあたりは区民キャンパスを含め都立大学の跡地となり、桜修館は都立大学付属高校でしたが、中高一貫の都立学校に変わっています。
東光寺
吉良家菩提所
目黒区は江戸初期二代将軍の正室お江の知行地で、お江の死後芝増上寺に寄進されたため寺社奉行の管理。世田谷区は旗本吉良氏の領地。それゆえ寺社と侍で文化が違うと説明するのですが、衾村は吉良氏の領地が多かったようで東光寺は現在でも多くの土地を持っているようです。衾村についてWikipediaから引用してみます。
目黒区の前史と行政区画の移り変わり
東京都目黒区は、昭和7年(1932年)10月1日、従前の荏原郡目黒町と碑衾町(ひぶすままち)の区域をもって成立した。「碑衾」は旧村名の碑文谷(ひもんや)と衾から1字ずつ取った合成地名である。以下、明治時代初期から目黒区成立までの行政区画の変遷について略述する。
現在の目黒区の区域は、かつては武蔵国荏原郡に属し、三田村、上目黒村、中目黒村、下目黒村、碑文谷村、衾村の6村があった。これらの村は明治2年から4年(1869 - 1871年)までは品川県に属していた(三田村のみ東京府に所属)。荏原郡の区域は、現在の品川区・大田区・目黒区のほぼ全域と世田谷区の一部に相当する。
明治4年7月(1871年8月)、廃藩置県が実施された。同年11月(1872年1月)、従来の東京府、品川県、小菅県が廃止されて、新しい東京府が設置され、荏原郡の区域は東京府に属することとなった。同時に府内は6大区・97小区に分けられた(いわゆる大区小区制)。明治7年(1874年)3月、区割りが見直され、あらためて11大区・103小区が設置された。後に目黒区となる区域は、このうちの第7大区第1・5・6小区に属していた。
その後、郡区町村編制法の施行に伴い、大区小区制は廃止され、明治11年(1878年)11月2日、東京府下に15区6郡(荏原、南豊島、北豊島、東多摩、南足立、南葛飾)が置かれた。後に目黒区となる区域は、このうちの荏原郡に属していた。
明治22年(1889年)、市制・町村制が施行され、東京市(15区からなる)が成立、府下の6郡は、既存の町村が整理統合されて85町村となった。85町村のうち荏原郡に属していたのは1町(品川町)18村で、このうち現在の目黒区の区域に該当するのは目黒村と碑衾村である。目黒村は明治22年に三田村、上目黒村、中目黒村、下目黒村が合併して成立、大正11年(1922年)に町制施行して目黒町となった。碑衾村は同じ明治22年に碑文谷村と衾村が合併して成立、昭和2年(1927年)に町制施行して碑衾町となった。
昭和7年(1932年)10月1日、東京市は周辺の5郡(荏原、北豊島、豊多摩、南足立、南葛飾)に属する82町村を編入し、いわゆる大東京市が成立した。なお、従前の6郡のうち、南豊島郡と東多摩郡が明治29年(1896年)に合併して豊多摩郡となっている。編入された82町村は20区に編成され、東京市は既存の15区と合わせ、35区から構成されることとなった。この時、目黒町と碑衾町の区域をもって目黒区が新設された。
昭和18年(1943年)7月1日、東京府と東京市が廃止されて、新たに東京都が設置された。この時、目黒区を含む35区は東京都直轄の区となった。
吉良氏は足利氏一門の家格が高い氏族だったようで、吉良上野介も同門とのこと。世田谷の領主となったあたりをWikipediaから引用します。
江戸時代以降
徳川家康に従うようになると家格の高さを認められ、高家として取り立てられた。この頃から、蒔田氏として正式に改称している。吉良氏系図によれば、吉良を名乗るのは一人のみという家康の意向があったからであるという。赤穂事件によって三河吉良氏が断絶したことを契機に、1710年に「吉良」への復姓が許された。なお同年に浅野長矩の弟浅野長広が旗本として浅野家を再興している。つまりこの年に「浅野」「吉良」両家が同時に再興する形となった。
なお、豪徳寺は一族の吉良政忠が世田谷城内に叔母を弔うため創建した弘徳院が前身であり、隣接する吉良家の菩提寺である勝光院内には、吉良一族の墓を見ることができる。明治に至り、知行地であった千葉県長生郡寺崎に移っている。
八雲氷川神社
御神木
このウォーキングコースは衾村コースと言ってもよいくらいで、当初は区内で一番古く衾村に開校した八雲小学校の前を通っていたのですが、最近は衾村の総鎮守である氷川神社にお参りすることが多くなりました。
ロウバイ
氷川神社の参道から呑川本流緑道へ戻り、スタートと同じであるゴール地点に到達。ストレッチをして、反省会もなく解散です。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
呑川緑道都立大学駅付近
こちらが集合場所でストレッチもここで行います。いかにも寒そうな曇り空。
目黒区みどりの散歩道
線路沿いに自由が丘方面へ向かい、駅に到達する前この看板を右折します。谷畑弁財天を見つけるのはなかなかハードルが高いですよ。
熊野神社北口
寺務所
紅梅
栗山家の寄進
谷畑から少し坂を上り高台にあるのが熊野信仰の熊野神社です。参道は自由が丘駅方面の南側に伸びていますがわれわれは北口から入りお参りしました。栗山家は代々衾村の年寄りを務めた旧家で、すずめのお宿緑地公園にある古民家は栗山家の住居でした。
大きな木
常緑樹ですが木の種類はわかりません。幹が枯れているのかなぁと思いましたがよく見ると、抱き込んでいた別の木が枯れているようです。
セネガル大使館邸
スポーツクラブ
目黒消防署八雲出張所
緑小通りを区界で右折し北へ向かいます。セネガル大使館ではなく公邸でした。大使館は目黒区青葉台。「タンカーの原油流出」と思いつきましたがそれはモーリシャスでした。セネガルは反対側の西アフリカ。パリ・ダカのダカールがセネガルの首都です。
リバティヒルクラブはLibertyとHillの綴りがくっついているのでなんて書いてあるのか改めて見直しましたが、自由が丘を英語にしたということのようです。
ヒイラギ
歴史と文化の散歩道
クリスマスローズ
ロウバイ
消防署の先を右折して呑川本流緑道を歩きます。歴史と文化の散歩道は昭和58年から平成7年にかけて東京都が整備したものですが、整備から20年が経過し撤去されてゆく方向とか。情報を更新して維持してゆくのが難しいということのようです。
八雲給水所
目黒区内の災害時給水所はここ八雲と林試の森公園にあります。どちらも上目黒から遠いなぁと思ってみてみると、渋谷区になりますが都立第一商業高校が近くの給水所となります。水をもらって上村坂を下ればいいので、登ることにならなくてよかったかな。
都立桜修館中等教育学校
目黒区民キャンパス
呑川本流緑道から呑川駒沢支流緑道を歩きコースはやくも文化通りで右折ですが歩道が狭いので一つ手前の十字路を右折し八雲十中通りを経由し桜修館の前に出ました。このあたりは区民キャンパスを含め都立大学の跡地となり、桜修館は都立大学付属高校でしたが、中高一貫の都立学校に変わっています。
東光寺
吉良家菩提所
目黒区は江戸初期二代将軍の正室お江の知行地で、お江の死後芝増上寺に寄進されたため寺社奉行の管理。世田谷区は旗本吉良氏の領地。それゆえ寺社と侍で文化が違うと説明するのですが、衾村は吉良氏の領地が多かったようで東光寺は現在でも多くの土地を持っているようです。衾村についてWikipediaから引用してみます。
目黒区の前史と行政区画の移り変わり
東京都目黒区は、昭和7年(1932年)10月1日、従前の荏原郡目黒町と碑衾町(ひぶすままち)の区域をもって成立した。「碑衾」は旧村名の碑文谷(ひもんや)と衾から1字ずつ取った合成地名である。以下、明治時代初期から目黒区成立までの行政区画の変遷について略述する。
現在の目黒区の区域は、かつては武蔵国荏原郡に属し、三田村、上目黒村、中目黒村、下目黒村、碑文谷村、衾村の6村があった。これらの村は明治2年から4年(1869 - 1871年)までは品川県に属していた(三田村のみ東京府に所属)。荏原郡の区域は、現在の品川区・大田区・目黒区のほぼ全域と世田谷区の一部に相当する。
明治4年7月(1871年8月)、廃藩置県が実施された。同年11月(1872年1月)、従来の東京府、品川県、小菅県が廃止されて、新しい東京府が設置され、荏原郡の区域は東京府に属することとなった。同時に府内は6大区・97小区に分けられた(いわゆる大区小区制)。明治7年(1874年)3月、区割りが見直され、あらためて11大区・103小区が設置された。後に目黒区となる区域は、このうちの第7大区第1・5・6小区に属していた。
その後、郡区町村編制法の施行に伴い、大区小区制は廃止され、明治11年(1878年)11月2日、東京府下に15区6郡(荏原、南豊島、北豊島、東多摩、南足立、南葛飾)が置かれた。後に目黒区となる区域は、このうちの荏原郡に属していた。
明治22年(1889年)、市制・町村制が施行され、東京市(15区からなる)が成立、府下の6郡は、既存の町村が整理統合されて85町村となった。85町村のうち荏原郡に属していたのは1町(品川町)18村で、このうち現在の目黒区の区域に該当するのは目黒村と碑衾村である。目黒村は明治22年に三田村、上目黒村、中目黒村、下目黒村が合併して成立、大正11年(1922年)に町制施行して目黒町となった。碑衾村は同じ明治22年に碑文谷村と衾村が合併して成立、昭和2年(1927年)に町制施行して碑衾町となった。
昭和7年(1932年)10月1日、東京市は周辺の5郡(荏原、北豊島、豊多摩、南足立、南葛飾)に属する82町村を編入し、いわゆる大東京市が成立した。なお、従前の6郡のうち、南豊島郡と東多摩郡が明治29年(1896年)に合併して豊多摩郡となっている。編入された82町村は20区に編成され、東京市は既存の15区と合わせ、35区から構成されることとなった。この時、目黒町と碑衾町の区域をもって目黒区が新設された。
昭和18年(1943年)7月1日、東京府と東京市が廃止されて、新たに東京都が設置された。この時、目黒区を含む35区は東京都直轄の区となった。
吉良氏は足利氏一門の家格が高い氏族だったようで、吉良上野介も同門とのこと。世田谷の領主となったあたりをWikipediaから引用します。
江戸時代以降
徳川家康に従うようになると家格の高さを認められ、高家として取り立てられた。この頃から、蒔田氏として正式に改称している。吉良氏系図によれば、吉良を名乗るのは一人のみという家康の意向があったからであるという。赤穂事件によって三河吉良氏が断絶したことを契機に、1710年に「吉良」への復姓が許された。なお同年に浅野長矩の弟浅野長広が旗本として浅野家を再興している。つまりこの年に「浅野」「吉良」両家が同時に再興する形となった。
なお、豪徳寺は一族の吉良政忠が世田谷城内に叔母を弔うため創建した弘徳院が前身であり、隣接する吉良家の菩提寺である勝光院内には、吉良一族の墓を見ることができる。明治に至り、知行地であった千葉県長生郡寺崎に移っている。
八雲氷川神社
御神木
このウォーキングコースは衾村コースと言ってもよいくらいで、当初は区内で一番古く衾村に開校した八雲小学校の前を通っていたのですが、最近は衾村の総鎮守である氷川神社にお参りすることが多くなりました。
ロウバイ
氷川神社の参道から呑川本流緑道へ戻り、スタートと同じであるゴール地点に到達。ストレッチをして、反省会もなく解散です。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール